海上史事件簿その三
寧波の乱
史劇的な物見櫓のトップへ/俺たちゃ海賊!のトップページへ

日本の輸出品
 今度はポルトガル人と共に「嘉靖大倭寇」のお膳立てというか参加者となる日本人勢力の貿易事情についての話をしてみましょう。

 歴史の教科書でも出てくるように、室町時代の日明貿易は一般に「勘合貿易」と呼ばれます。明側から支給される合い札型証明書「勘合」を用いて貿易を行うためこの名があります。勘合は明の皇帝の代替わりごと、明は皇帝一代は年号が変わりませんから年号ごとに100通発行され、「日本国王=室町将軍」に支給されます。「日本国王」は使節にこの「勘合」を持たせて渡航させ、まず入国時に浙江布政司で明側のもつ「底簿」と照合させ、さらに北京の礼部で別の「底簿」と照合させるという手順で「日本国王」の正式使節である事を証明するわけです。もちろん勘合を持っていないものは入国も認められず、逆に「私貿易船=海賊」と見なされて追い返されます。

 上記のようなわけですから「勘合」は貿易許可証ではなく「国王使節の証明書」という性格のものです。海禁政策をしく明は基本的に国王と皇帝の間でしか「国交」を認めません。したがって明に入国してくる外国人は全て「国王の使節」であることが前提なわけです。

 じゃあ「貿易」はどうやって行うのか?これもあくまで「国交」の一環として行われます。室町将軍は明から「日本国王」として承認(冊封)され、そのお礼として貢ぎ物をもって北京まで皇帝に挨拶(朝貢)にやってきます。これに対し明側は恩恵的返礼(回賜)として物品を使節に与えます。これがいわゆる「朝貢貿易」というやつです。日本の教科書では「勘合貿易」と書いてますけど、実態は「朝貢貿易」そのものです(おそらく後世の日本でこういう外交が「卑屈」と批判されたのがこの名称の原因でしょう)。ここまで述べた貿易はあくまで表向きの部分でありまして、このほかに入港地である寧波の市舶司と北京において、明政府の許可を得た商人たちと、使節に同行してきた日本の商人達との間で私的な交易が行われます。

 とまぁ、なかなか窮屈な枠内での貿易であるわけですが、こんな形態でも日本側にとっては大変な利益が上がる取引であったようです。室町幕府は将軍を「日本国王」として国際的に承認しもらえるだけでなく、ついでに莫大な利益をもたらすこの「勘合貿易」に味をしめ、永楽帝の時代(15世紀初)のころなどにはほぼ毎年のように遣明船を送り出しています。なんせ一応は明に敬意を表する外交使節。入国後の旅費・接待費は明側の負担ですから。おまけに明の皇帝のメンツにかけて日本への「回賜」の品物は貢ぎ物よりも高額な物にしなければなりませんし(笑)。来てくれるのは明の国威発揚という点では意味があるのですが、正直なところ明側としてはやたらに来られるのは迷惑だったようです。

「本字一号」勘合の一例 やがて明側は財政難を理由に(もちろん口が裂けても表向きには言いませんが)日本の使節派遣に制限をかけるようになります。時期によりいささか変化があるんですが、おおむね「十年一貢」「船三艘」「定員百五十人」といった具合です。これを受けて日本側もだいたい十年に一回の派遣にとどめるようになり、その状態を15世紀を通じて維持してゆきます。ちなみに現在の沖縄である琉球王国は特例としてほぼ毎年交易船を明に派遣し(原則としては二年一貢)、この時期の東アジア・東南アジアの各国と明を中継貿易で結びつけて繁栄しています。

 15世紀も末になりますと、ごぞんじ「応仁の乱」が起こりまして室町将軍の権威は失墜、あとは下克上の戦国時代を日本は迎えることになります。その間貿易権を握る「日本国王」はどうなっていたかと言いますと、なんせ将軍自体の権威が失墜していますからメチャクチャな状態となってきます。結局、畿内にあって商人都市・堺を握る管領家・細川氏と、山口にあってこれまた一方の商人都市・博多を握る有力守護大名・大内氏が、この「日本国王」の貿易権を争うことになります。めいめいが勝手に私設使節団(笑)を作るわけですが、やはり勘合は無くちゃいけない。そこで勘合の奪い合いやら、年号が変わってもう使用禁止のはずの前年号勘合の使用(「実は無くしちゃいまして」という下手な嘘を明につくのです!)など、思いつく限りの無茶をやるようになってきます。明側もさぞ混乱したことでしょうな。

 そんなムチャクチャな状態がもたらしたのが嘉靖2年(1523)に発生した「寧波の乱」です。なぜか教科書ではあまり登場しない事件なんですが、「後期倭寇はここから始まる」と見なされるほど画期的な事件なのです。以下にその展開を述べてみましょう。

 この年の4月、寧波に日本からの遣明船が入港しました。船は三隻、正使は謙道宗設、派遣したスポンサーは大内氏でした。この使節団は先に細川氏から奪取した「正徳勘合」を明側に示し、入港します(「正徳」は「嘉靖」の前の年号)。ところがわずか数日のタイムラグでもう一つの「日本使節」が寧波に入港してきちゃったのであります!こちらは船一隻に百余人が乗り込んでおり、正使は鸞岡端佐、スポンサーは細川氏でした。この使節団は「正徳」の前の「弘治勘合」を示し、承認を求めました。

 見事にライバル同士がかち合ってしまったわけですが、普通に考えるとこれは大幅に細川側の分が悪い。だって後からきている上に持ってる勘合が使用不能のはずの前年号のものですから。ところがドッコイ、意外にも事態は細川側に有利に展開してゆくのです。その原因は細川使節団に副使として入っていた宋素卿なる人物にありました。この人物が市舶司(寧波の入国管理・外交事務所)に賄賂を贈って細川側の使節の積み荷を先に検査させ、さらに歓迎の宴会の席でも細川側を大内側の上座に座らせ、さらにさらに細川使節を市舶司内に宿泊させながら、大内使節は近くの寺に泊まらせるということになったわけです。

 さて、この「宋素卿」なる人物は何者か?これがなかなか面白い人物なのでありますね。本人は日本人のフリをしていたようですが、実は彼は寧波出身の中国人でした。もともとは借金の質として日本に連れていかれたもののようなんですが、日本で才覚を認められて外交・通商関係に関わるようになったらしい。それで細川氏の使節団に随行して細川側が有利になるように便宜を図ったというわけです。

 この事態に大内氏が怒ったのは無理もありません。こっちが正式使節のはずなのに明らかに差別待遇を受けてしまった。過去の例からいっても下手すると「お前は正式使節じゃない」と追い返される可能性もある。それじゃ海を渡ってはるばる来たのに手ぶらで帰ることになりかねない。「細川はきたない!やっちまえ!」とブチ切れてしまったわけです。戦国ニッポンの武士達が怒るとこれほど怖いものはない。大内側は武装蜂起し、細川使節団を襲撃、正使の鸞岡端佐以下、細川使節団の多くを殺害します。宋素卿は命からがら寧波を脱出、慈谿・紹興方面へ逃れますが、宋素卿に恨み骨髄の大内勢は彼を追って紹興まで進撃、その途中で近辺を放火・略奪して回ります。結局気の済むまで暴れ回った彼らは寧波の指揮・袁シン[王進]を捕虜にして船を奪って海上に逃走、後を追った明の官軍も撃破して(強い、強すぎる!)まんまと海のかなたへ消えてしまいました。

 その後この時逃走した大内使節の一部が朝鮮沿海に現れ、「中林望古多羅ら二名(「中林」と「望古多羅」の二人とも言われる)」が朝鮮政府に捕らえられて明に送られています。宋素卿は投獄され事情聴取をされましたが、やがて獄中で病死。事件に関わって逮捕された日本人の多くは処刑されたようですが、そもそも贈賄を受けて事件のきっかけを作った市舶司の長官は責任を問われることはありませんでした。まぁなんかうまく言い逃れたんでしょうねぇ。

 その後この事件の処理は外交問題となりました。明は日本とストレートに交渉せず、琉球を通じて日本に事件の「主犯」といえる謙道宗設と捕虜になった指揮・袁シンの引き渡しを要求します。日本側も明との交易が閉ざされると困りますから、琉球や朝鮮を通じて事件の釈明に努め、すったもんだの末(この辺、細川・大内の駆け引きがあってややこしいので省く)に謙道宗設の送致と袁シンの送還が実現して事件は一応の決着を見ることになります。しかし面白いことにその後日本側は「宋素卿の返還」と「没収された宗設の資産返還」をしつこく要求し続けたそうです。あれだけのことやっておいてずいぶん虫のいい態度のような気がしますが、明はおおらかなもので別に日本使節の渡航を禁じた様子はありません。

 この乱の後、遣明使節は完全に大内氏が独占する形となり、嘉靖17年(1538)、嘉靖26年(1548)と遣明船が送り込まれることになります。ところが1551年に大内義隆が陶晴賢の謀反で殺害されてしまい、遣明船は中断されることとなります。その再開計画については別の項目で。

遣明船右図「当時の遣明船の図」
遣唐使船を描いた室町期の絵巻物ですけど、当時の遣明船をモデルに描いています。中国型ではなくかなり日本風の船になってますね。こんな貧弱なので行ってますが昔の遣唐使に比べればかなり渡航成功率は高かったようです。


次章「海へ向かって大脱走!」へ