海上史事件簿その二
西洋人の来航
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大航海時代
 さて、ここでは「嘉靖倭寇時代」のお膳立てを整えた勢力の一つであるヨーロッパ人の登場について述べてみましょう。

 西洋人にとってのいわゆる「大航海時代」のトップランナーは、ご存じのようにヨーロッパの西端に位置するポルトガルイスパニア(スペイン)でありました。特に早かったのはポルトガルで、15世紀に「航海王子」と呼ばれたエンリケの指示のもとに大西洋からアフリカ西岸を南下する探険が行われ、これが後のポルトガル海洋発展のきっかけとなったわけです。1488年にはバルトロメウ=ディアズの船団がアフリカ南端の「喜望峰」に到達、そして1498年にバスコ=ダ=ガマの艦隊がインドのカリカットにたどり着きます。一方のイスパニアはと言いますと、この間1492年にコロンブスを大西洋横断に派遣してインド諸島に到達させ、後の中南米支配の基礎を固めていきます。1494年にはトリデシリャス条約によって地球を真っ二つに分割し、それぞれをポルトガル・イスパニアの二国の「縄張り」とすることが決定されます。

 そんなこんなでポルトガルはインド、さらには東南アジアを自分の「縄張り」として進出してくるわけですけど…彼らの最大の目標は、後の時代のような植民地獲得などではなく、まず交易の利益をあげることでした。特にその最大の商品が香料(ナツメグ・胡椒など)であったことは有名ですね。ポルトガルは直接インドへの到達に成功したことで、それまでイスラム商人およびベネチア商人から購入するほかなかった香料の直接入手に成功するわけです。この香料が当時どれほどの利益を挙げたかと言いますと、インドで1キンタル(50.8kg)当たり3クルザードで購入した胡椒がヨーロッパで80クルザードで売れたというデータがあります。二十数倍ですよ。まさにボロ儲け。

 こんな莫大な利益を上げる香料貿易ですが、ポルトガルが来る以前から、原産地である東南アジアからインド・イスラム諸国に至る巨大な交易ネットワーク(イスラム商人が主力)がすでに存在していました。ポルトガルが香料貿易の利益を独占するためには、この既存の交易ネットワークにねじ込んでいく必要があったわけです。そこでポルトガルが採った方法は武力によってこれら交易ネットワークの重要拠点を占領していくといういささか荒っぽいやり方でした。

アルブケルケ像 ここにアフォンソ=ド=アルブケルケ(1453〜1515)という提督が登場します。彼は「四つの要塞と三千人のポルトガル人が乗り組んだ武装艦隊があればインド洋を支配できる」と豪語していたそうですが、彼とその艦隊はこれを物凄いスピードでこれを現実のものとしていきます。まず1510年にインド西岸のゴアを占領、以後ポルトガルの東洋貿易の拠点となります。そして翌1511年、東南アジアにおける中継貿易の基地となっていたマラッカを攻撃、占領。そこから胡椒・ナツメグの産地であるモルッカ諸島を翌年手中に収めます。1515年にはペルシャ湾のホルムズを占領して中東・地中海ルートに睨みをきかせ、さらにアラビア半島のアデンも攻撃してみましたが、これはさすがに果たせませんでした。この時点でアルブケルケ提督が死にポルトガルの武力活動はひとまず終了しますが、ともかくこの短期間にインド洋を股にかけたポルトガル海洋帝国が出現したわけです。

 ここでなんでそんなことが可能だったのか考えてみましょう。一つには、アルブケルケの豪語にも見られるように彼らが実際軍事的に優れていたことが一応挙げられます。当時としては高性能の火器(鉄砲・大砲)を所持していましたし、艦隊という純軍事的な組織の力も大きかったろうと思われます。しかし考えてみると「ポルトガル海洋帝国」と言ったって所詮インド洋沿岸の「点と線」を結んだだけのもので、重要となるいくつかの拠点をしっかり押さえているだけのことなんですよね。ガマのインド到達にイスラム商人の手引きがあったことはよく知られていますが、マラッカ占領に関しても実は現地の華僑系商人達がポルトガル勢力を手引きしたという背景があったようです。ポルトガルも遮二無二軍事的に制圧していったというよりは「ちょっと乱暴な形で既存の交易業界に参加してきた」ととらえる方が正確であるようです。

 ここまでの話でお分かりでしょうが、基本的にポルトガルの海洋発展は王室直営の貿易事業の展開という形を取っています。やがて王室直営によって築かれた地盤に乗る形で、一獲千金を狙う個人冒険商人たちが参加してくるという次第です。こうした冒険商人達が中国や日本へと到達し「倭寇世界」に新たな展開をもたらすことになるわけですが…

ポルトガル進出図 中国に初めて「ヨーロッパ人」であるポルトガル艦隊が到達したのは1517年(明の正徳12年)のことです。レッキとした国王の使者としてトメ=ピレスなる人物が乗り込んでいて、広州に入港し、明に国交を求めたのです。さすがに大国・明を相手にいきなり武力行使するのは避けたんでしょう。ピレスは1520年にようやく北京に入りますが、交渉は難航します。そもそも明側には「対等外交」という観念がないので、まずしょっぱなから話がズレてる。おまけに滅ぼされたマラッカ王国の使節がちょうど北京にやってきてポルトガルの無法を訴えます。マラッカは明と正式に国交を結び臣下の礼を取る「朝貢国」でしたから、当然明としてはポルトガルの無法を許すわけにはいきません。さらに悪いことに交渉の難航にいらだったポルトガル艦隊がいつもの悪い癖を出して広東沿海に武力による示威行動を開始してしまいました。さすがに大国・明は甘くはなくポルトガル艦隊は明軍に撃退され、ピレスは広州で投獄されることになります。その後の彼の消息は全く不明です(「大ボラ吹き」のメンデス=ピントが自著の中で明国内に住む彼の娘に会ったとしていますが、はなはだ怪しいです)。ついでに言いますと、このピレスは「東洋諸国記」という著作の中で当時東南アジアで活躍していた琉球人を詳しく紹介し、おまけとして日本の情報をチラッと載せていたりします。
 かくして正式の交易を許されない存在となったポルトガル勢力は、やむなく中国沿海の密貿易の世界へと参入してゆくことになるわけです。

 この新参の勢力ポルトガル人たちを明では「仏郎機=フランキ」と呼びました。イスラム教徒がヨーロッパ人を「フランク」と呼んだことに由来します(もちろん元ネタはあのフランク王国)。広東でポルトガル船を拿捕した際、明軍はポルトガル人の使う高性能の大砲を手に入れてますが、これも「仏郎機砲」と呼ぶようになります。この仏郎機砲はのちに倭寇や北方民族との戦いに多大な貢献をすることになります。

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