倭人襲来絵詞・第二日
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☆さても南京墓参り
どうにか目が覚めたとき、辺りにはなだらかな山が多くなっていた。長江デルタの平野部を抜けたと言うことらしい。南京に近づいているということだ。まんまと途中を寝過ごしてしまったようで、この辺りの風景観察は翌日に持ち越しとなった。いやはや、酒は今も昔も「倭寇」の大敵である。
実は「倭寇」どもも酒では痛い目にあっている。倭寇と戦った明軍がしばしば「毒酒作戦」をやっているのだ。つまり撤退時にわざと酒の入ったかめを置いていって、倭寇どもに奪わせるわけですね。それで倭寇が大喜びでその酒を飲むと、中に入れてあった毒が回ってハイそれまで(汗)。姑息な手段ではあるが、倭寇鎮圧の最高殊勲者とも言える胡宗憲が良く使った手なのである。ちなみに胡宗憲は後に弾劾され獄中で毒を飲んで死んでます。因果はめぐる。
やがて高速道路は「南京」とデカデカと書かれたゲートをくぐる。いちおうここでこの高速道路はおしまいだ。するとすぐに南京城の城壁が見えてくる。よく近づいて調べてみたいところではあったが、見た目にも昔のままの城壁という感じ。わざわざあんなデカいものを再建したとも思えないので本物の城門なんだろう。高速道路の出口からそのままこの城門をくぐって南京入城である。新旧の施設が見事に同居している光景だった。
いったん南京市内に入ったものの、バスはただちにUターンし再び城門をくぐった。いったん市内に入ったのは現地ガイドを乗せるためだったのだ。このツアーでは蘇州の梁さんが五日間同行するが、南京・無錫・杭州・上海の各都市でも現地ガイドが付く。それぞれ梁さん並みに流暢な日本語を操る。
新たな同行者を乗せたバスは、一路郊外の山の中へと潜っていく。目的地は近代中国建国の父・孫文の墓「中山陵」である。倭寇とはまるで関係ないが、南京まで来たからにはやはり見ておきたい所である。バスは決して広くはない曲がりくねったプラタナスだらけの山道を登り、いつの間にやら中山陵の入り口に到着した。さすがにここも中国人観光客で溢れている。バスから降りると小雨が降り始めていた。傘を持参で中山陵に上らねばならない。
参道(?)の入り口には大きな門があり(日本なら「鳥居」と言いたいところ)「博愛」と書いた額が掲げられている。なんでも孫文ご自身の筆とのこと。この門から延々遠くへ続く参道、その向こうに青い瓦の建物が眺められる。ここをバックに各地の旅行者が順番待ちで記念撮影。そしていよいよ中山陵登山の開始だ。途中まで石畳の敷かれたゆるやかな坂道が続く。それから建物を抜け石段を二段階ばかり登ると、ようやく終点らしい建物が見えてくる。ツアー一行、息を切らしながら(どうしてもご老体が多いので)階段を登ってその建物に入る。そこには大きな石碑があり「中国国民党が孫先生をここに葬る」とか書かれている。ガイドの説明を聞きながら、やれやれと思って石碑の後ろに回ると…「げぇぇぇぇっ!」と全員から悲鳴が上がった。
そう、その建物の先にまだまだ長大な石段が待ち受けていたのだ!見上げるほど遠くに今度こそ終点と思しき青い瓦の建物が見える。「登りたい方は登ってきてください。いったんここで解散です」とのことで、登る人登らない人に分かれていく。ここまで来て撤退するわけにもいくまい。それに年配の方々が結構登っていくので若造としても後ろを見せるわけにはいかぬ。さっそく登り始める。
健康体ならどうということはないのだが、今回の旅の直前、持病の喘息が起きていたこともあって急な上り階段はちと辛い。途中の平地で小休止を入れながらゆっくりと登ってみる。悪戦苦闘(ってほどでもないが)の末、ようやく待望の頂上に到達。なるほどねぇ、これほどデカけりゃ「陵」の名に値しますね。近代史に登場する人でこれほどデカい墓に入っている人も珍しいんじゃないかな。
頂上には孫文を祭る巨大な記念堂が建ってた。予想通りというか、三つの入り口の上には「民族」「民生」「民主」のご存じ三民主義の言葉が掲げられている。中に入ると暗がりの中に孫文の座像。周囲の壁には憲法条文なのかな、ズラッと文章が彫られている。「撮影禁止」の表示があり軍人っぽい警備員もいるのだが、これほどの大物の墓の割にはルーズな雰囲気。みんな平気でフラッシュたいて撮っている。
記念堂にはさらに奥がある。そこは円形のドーム状になっていて、中央の一段低くした地下の真ん中に棺が一つ置かれている。棺のフタには孫文の等身大の彫刻が横たわっている。どうもこの棺の中に孫文が直接入れられているわけではないようだが、少なくともこの下に孫文の遺体があるのは確かだ。うーむ、さすがに厳粛な気分になる。掲示通り撮影は控えてじっくりと孫文像を眺めてみる。ドーム状の天井には中華民国の青天白日のマークが。共産党政権になった現中国でも孫文は大切な「建国の父」として崇められているわけである。
いったん外に出る。ここから下界を眺めると、登ってきた参道全体が見え、その長さが改めて分かる。さらに周辺に目をやれば、南京周辺を一望できる。南京は中華民国の首都だった。孫文は北京で死んだが、遺言によりこの紫金山に葬るよう指示したという。こうして眺めるとその意図が分かるような気がする。彼は死してなお新中国の行く末を見守るつもりだったのだろう。その後の中国は大変な激動をくぐりぬけ現在があるわけだが、いま孫文は何を思うのだろう…月並みだけど、こういうところに立つとそういうことを考えちゃいますね。
ということもあって、僕はもういっぺん記念堂に入ってみた。またドームの棺のそばにやってくる。そしてしばらくして…ふと気が付くとあれほどいた観光客が周囲に全くいなくなったのだ。ほんの一分ほどだったと思うが、静まり返ったドームの中に、僕と孫文が一対一で対峙する恰好となってしまった。なんとも不思議な瞬間である。じっと孫文の顔(といっても彫刻ですが)をみつめてみる。何やら「歴史的対談」といった雰囲気。なに勝手なこと言ってるんでしょうね(笑)。
そんな余計なことをしていたものだから、ツアー一行の中でバスへの乗車が見事にビリとなってしまった。僕は時間通り動いていただけなのだが…うーん、みなさん登ったらすぐ下りちゃったんですね。少しは感慨にふけりましょうよ(^^;)。
さて中山陵を離れた大型バスは山道を巧みに切り抜けながら次の目的地「明孝陵」へ。中山陵と同じ紫金山にあるが、こちらは明の初代皇帝・朱元璋(洪武帝)のお墓である。こちらも建国の父。孫文同様、南から革命を起こして南京に都を置いたわけで、両者が同じ山に隣り合って葬られているというのはなかなか意味深なのである。僕は中国史ではいちおう「明代専攻」という肩書きでもあるから、この明朝初代皇帝の墓参りは大変楽しみにしていたのだ。
そもそもこの皇帝が私貿易を一切禁止する「海禁政策」をとったのが「嘉靖倭寇」発生の遠因の一つではあるのだよね。初代皇帝が出したこの政策のために、約200年間、中国では私貿易は基本的に認められなかった。もちろん民間貿易は勝手におこなわれていたが、それらは全て「密貿易」である。16世紀になると明は巨大な世界経済の一環に組み込まれていくが、そこで建前の海禁政策と現実の密貿易との葛藤が起こるようになる。「嘉靖大倭寇」はそうした葛藤の一つの現れとみることも出来るのだ。まぁ言ってみれば朱元璋のおかげで僕の研究テーマが出来たようなモンである(笑)。墓参りの一つもしておかないとね。
行く途中、バスの中で現地のガイドさんから明孝陵についての説明を受ける。僕もニュースで聞いたが、この陵の秘密の墓室の位置が判明したとのこと。ひょっとしたら財宝がザクザクなんてことも考えられるそうだ。「今度いらっしゃる時はそれが見られるかも知れませんよ」とのこと。
明孝陵の秘密の財宝については面白い話がある。16世紀の「嘉靖倭寇時代」を生きたポルトガルの冒険商人メンデス=ピントが自著「東洋遍歴記」の中でこの事に触れているのだ。この本によると、ピント等は長江を遡った所にある明朝皇帝の陵墓に財宝を掘りに行こうと中国人海賊に誘われて、仲間と共に冒険の旅に出る。ところがこの中国人は途中で失踪し、結局ピント達も財宝を手に入れるどころか船が難破、さらに明の官憲によって逮捕されてしまうという運命をたどる。もちろんほとんどフィクションとしか思えないが(「嘘つき」では定評のある著書ですからね)、当時からそんな話があったことをうかがわせるエピソードだ。少なくとも都は北京にあるのに初代皇帝の陵墓が長江沿岸にあることを知っていて書いているわけだから。
明孝陵に墓参り、と言っても今回は参道をただゾロゾロと歩いてみただけである。おまけに小雨が降り寒い中での見学でコンディションもはなはだ悪い。参道の両側には写真でも見たような文官や武将の石人、馬やら象やら麒麟や亀といった動物達の石像が並んでいる。同様の光景は北京の郊外「十三陵」でも見られる。
明朝歴代皇帝の墓はその「十三陵」であるが、初代の洪武帝だけ一人ポツンと南京に眠っている。それもこれも洪武帝の息子永楽帝が皇位を奪って北京に遷都しちゃったからなのだ。しかしその後も初代皇帝の墓地として南京は「留都」と呼ばれ重視され続けた。嘉靖期の倭寇対策の意見書にも「留都を守らねば」といった文章が良く出てくる。
さてでは実際に倭寇による南京攻略というのはあったのだろうか。何と、あったのだ。1555年の7月から8月、杭州から上陸したわずか七、八十人の「倭寇」集団が、そのまま内陸に突入。遮る官軍を撃破しつつ徽州・太平などを経由して北上し、ついに南京城下に至ってしまったのである!さすがに南京入城とはいかず、かすめるように今度は東へ。その後蘇州付近にいたり、一枝も通った滸塹で官軍の攻撃を受け全滅している。
中国の学者の本を見てたら「世界戦争史上の奇蹟」とまで書いていた(笑)。しかし確かに凄いことではあるのだが、いったい何をしに来たものかよく分からない。掠奪というよりもこれでは単なる暴走族である。こんな内陸まで少人数で何をしに来たものやら。どうも日本人を中心とした集団であったようなのだが…
その後の歴史で南京を攻略した「倭寇」と言えば鄭成功と日中戦争時の日本軍ですね。さすがに今回のツアーのコースに「南京大虐殺」関係は入っていなかったな。
二つの墓参りが終わると今度はバスに乗ったままの長江大橋見学。橋ももちろんだが、やはり長江は見ておきたいところだ。南京市街はさすがに中国の首都だった歴史を持つ都市だけあって大変なもの。近代的なビルが建ち並び(と言ってもホテルと官庁、それと銀行が妙に多い)、商品の広告がひしめき合う一方で、明代のものらしい城壁の一部や、もと宮殿の跡地なども目に入る。街の中心にはやはり孫文の銅像が建っている。人も自転車も自動車もやたら多く、交通整理が大変そうだった。そうそう、雨だったもので自転車利用者はみんな手元からカゴまですっぽりかぶせるカッパを着けて走っていた(自転車じゃなくてカッパが車つけて走っている感じなのである)。日本でもあれは便利そうである。よほど気に入ったのかツアーのおばさん達が最終日におみやげに購入していた。
やがて市街地を抜けていよいよ長江大橋へ。話には聞いていたが、確かにデカい。日本の瀬戸大橋と同じく下を鉄道、上を車が走る二重構造。なんでも建設当初はソ連の技術者を招いていたが、「中ソ対立」のためにソ連技術者が緊急帰国。やむなく中国側の技術だけで作ったという経緯がある。橋の入り口にはそんな歴史を連想させる、いかにも「社会主義リアリズム」っぽい労働者像のモニュメントが飾られている。社会主義中国建設の象徴ってことなんだろうな。
橋に取りかかる頃、グッドタイミングで列車が走ってきた。「おおっ!」鉄道ファンの血が騒ぐ。さすが中国鉄道、貨物列車の編成が異様に長大。その上を走る形の自動車もやたら多い。ちょうどラッシュアワーに当たったらしくかなりの混雑ぶりだった。この辺は我が近所の大利根橋と変わらない(笑)。
しかし…やはり長江はデカかった。僕はこれでも日本最大の川のほとりで生まれ育った人間だから、ちょっとやそっとの川ではビックリしない。長江でも実際驚きはしなかったのだが(警戒水位時の利根川の三倍はあるなぁ)などと感心はしていた。ま、この辺りの長江はそう広い方とは言えないようで、所によっては向こう岸が見えないぐらいだ。考えてみればそう広くないところだから橋を架けたんだよな。バスは長江大橋を渡って北岸に着くと、ただちにUターンしてもう一度長江大橋を渡って市街に戻った。慌ただしいものである。
その後ようやく夕食となる。場所は南京の中日友好会館みたいなところで、食堂はやたら広くて天井が高いホールだった。なんか小学校の体育館みたいなところだったが、もともと何か別の施設だったのかも知れない。食事の間、ここの職員が必死になって紹興酒を燗する鉄瓶みたいなやつをお土産に売りつけていた。食事中ぐらい商売はやめてくれ〜(汗)。食後もバッチリお買い物タイムが取られ、会館内の売店めぐりとなってしまった。ここでも掛け軸やら木や玉の置物などどこ行っても売ってるようなお土産品を売っていた。
ようやく解放されて今夜泊まるホテルへ。例によって僕は一人部屋だし今夜は早く宿に入れたので初めてくつろぎの時を得た。とりあえず日本に国際電話を入れてみる。しかし説明通りにやっているのになかなかかからない。何度かすったもんだをやっているうちに突然「ニイハオ?」の声。どういう訳かフロントにかかってしまった。一瞬うろたえたが(中国語は北京語もロクにできゃしないので)、察したか「どうしました?」の日本語モードに切り替えてくれた。聞いたら丁寧に国際電話のかけ方を教えてくれたのだが、僕がさっきやったのと全然変わりがないんだよな(笑)。ともかくお礼を言って改めてかけ直すと今度はストレートに日本の我が家につながった。どういうことやら。
そんなこんなで自宅にかけると、父親が出た。「地図で見たけど、杭州って紹興のすぐそばだなぁ、行ったら本場の紹興酒買ってきてくれ」とのこと。千葉に出かけた人に水戸納豆を頼むような感覚ではあるが(笑)、まぁ実際どこでも売ってるんだよな。
例によって試行錯誤でひとっ風呂浴び、あとはテレビなど見て時間を過ごす。なぜかここはチャンネルが多く、いろいろと番組が楽しめた。英語の映画に中国語の吹き替えが入っているのを観るのはなかなか新鮮。また香港映画には漢字の字幕が出ているためほとんど不自由なく楽しめる。たまたま放映していたのがあの「川島芳子(ラストエンペラーにも出てきましたね)」の映画だったもので、これまた楽しめた。
当然ながら、英語の輸入番組もあり中国語字幕で楽しめるのだが、こう聞くとやはり自分は英語の方がなじみがあると実感。それに中国は必然的に欧米の固有名詞も全て漢字で書かざるを得ないので、字幕を見ているとその苦労が忍ばれる。例えばこの旅行中、世界の大ニュースはNATOによるユーゴ空爆だったが、中国のニュースではNATO軍は「北約軍(北大西洋条約機構だもんね)」、ユーゴは「南連邦(ユーゴスラビアは南スラブという意味だ)」と表記されていた。ちょうど「南北対決」という構図になっちゃったのである。
さて、ここでクイズ。僕が観ていたある番組で、以下のような二つの固有名詞が出ていた。それぞれ何の事か、当てて欲しい。
「莎翁情史」
「搶救雷恩大兵」
さてここは漢字を産んだ国、ぐるりと辺りを見渡せば、全部漢字でいい感じ、というところ。上の文字はいったい何を意味するのか。それは次回で。
次へ進む。三日目は太湖遊覧だ!