倭人襲来絵詞・第三日
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☆火車に揺られて歴史談議

 いきなり時代は450年ばかり遡る。その事件というのは嘉靖33年(1554)年4月に起こった。
 いわゆる「嘉靖大倭寇」は前年の4月から始まっており、ちょうど一年が経過していたわけだ。この「大倭寇」は当時の東アジア海上交易の覇者である王直が、官軍によって攻撃を受け日本へ逃走するハメになったことをキッカケに開始される。この「大倭寇」の指揮を王直が執っていたとよく書かれるが、ちょっとその辺は疑問・議論があるところだ。まぁ今語る本筋には余り関係ないので省くことにしよう。

 嘉靖33年4月13日、倭寇集団がこの地に襲来した。しかしそのまま三日間、城郭に攻撃をかけてこない。人々が不審に思っていた同16日早朝、早起きした諸生(学生)が馬鞍山の方を眺めたところ、白衣を着た男が二人見えた。この二人が白扇を振って何やら合図をしているようだったので、この諸生はこれが「奸細(スパイ)」ではないかと思って通報した。県で人をやって捜索し、洞の中で彼らを捕まえ、尋問を行ったところ次のように白状した。「ここへ(倭寇本隊が)来る前に先発で十人を城内に潜り込ませた。15日に火を放ち混乱に乗じて攻め込むつもりだったが、雨が降ったので計画を変えたんだ。白は我々の暗号さ」

 これを聞いて慌てた知県(県知事)の祝乾寿は命令を下し、城内にいる身元不明の人間を手当たり次第捕まえて獄に繋ぎ、防衛のために城内に厳命を下した。ところがこの夕に奸細による放火が発生し、その下手人として八人が逮捕された。つまり先に獄に繋いだ人間の中に真の奸細はいなかったわけだ。奸細たちはあるいは橋の下に伏せ、あるいは木の上に棲み、あるいは古寺に隠れ、あるいは墓地に潜み、夜に集合して夜明け前に解散しており、その活動を追うのは容易ではなかった。やがてまた一人の劇賊を捕まえて知県の祝みずから尋問したが、一言も話さなかったのでついにこの男を処刑してバラバラにしてしまった。

 やがて城から放たれた賊の流れ矢が手に入った。その矢には密書が隠されており、「陸成はすでに殺された。阿荒記す」と書かれていた。そこでまた城内で大捜索を行ったところ、数日後に濠の中で阿荒という男を捕まえた。彼は県城のかたわらで犬を殺して生活していた者で、すでにこの県に来てから三年も経っていた…。


 上記は『江南経略』という本の「崑山県倭患事跡」という所に出てくるエピソードをほぼ全訳で紹介したもの。「倭寇」の手先となった地元民「奸細」の活動を生々しく伝えてくれる史料だ。ほとんど同時代のルポルタージュに近い資料なので、ほぼ事実を伝えていると思って良い。
 「倭寇」という活動の中にはこんな一面が含まれている、ということに僕は初めてこの資料を見たとき大いに驚いたものだ。「倭寇」が実際にはほとんど中国人を構成員としていたことはすでに常識だが、その主力は密貿易にかかわる海商・海賊と考えられていた。だがこのエピソードに登場する、まるで忍者を連想させる神出鬼没の「奸細」たち、陸成や阿荒という男達はどう考えてもそれとは違う。阿荒に至っては三年も前から犬の屠殺人として崑山に住み着いてるが、三年前にはまだ「倭寇」による侵略は始まっていないのだ。
 彼らにはむしろ「盗賊」「無頼」の匂いがする。平たく言うと「水滸伝」的世界と言おうか?こうした事例は他にも見られ、どうも彼らのような在地の「あぶれ者」たちが数多く倭寇と関わっていたらしいと分かってくる。総督・胡宗憲に命じられて、王直説得のために日本に渡った蒋洲陳可願といった人物にも一様に「無頼」「任侠の徒」を匂わせるエピソードが残っている。この辺りのことがどう説明できるのか?これが今僕が一番頭を痛め…というより楽しんじゃっているテーマなのですね。
 そんなわけで崑山通過は非常に感慨深かったわけだ。見渡してみると、確かに山が一つある。あれが二人の「奸細」が白扇を振ったという馬鞍山なのだろうか…思いは尽きない。

 列車はやがて上海に入る。空港に降りて以来、二度目の上海だ。列車は上海で機関車を連結し直してスイッチバックの要領で今度は杭州へ向けて西走することになる。
上海駅構内 上海駅では結構停車時間があったので乗客のほとんどが下車して構内を出歩いていた。僕も下車して辺りをウロウロしてみる。ホントは列車の先頭に行って機関車を正面からカメラに収めたいところだったが、なにぶん列車の編成が長い。先頭まで走る気力も失せ、適当にそこらの客車を撮ってみる。鉄道ファンを名乗る割には情けない限り(笑)。さすがにSLは見かけず、これはかなり残念。
 発車時刻になり、西子号は再び西へ向けて出発。しかし今度は線路を変えて杭州へのルートをとる。所要時間は約二時間ばかり。

 ここで僕が一人で退屈だろうと思ったか、ツアーのコンダクターと梁さんが自分達の席へ呼んでくれた。もう一人、お一人でツアーに参加していた小学校の先生も加わる。梁さん、この人と初めて話をしたのだが開口一番に「先生でしょ?」と一発で職業を当ててしまった。おおっ、シャーロック=ホームズか!?聞いたところでは梁さんの母上も教師なんだそうな。雰囲気で分かったらしい(そういえば分からなくもないかも)。
 ここで僕も初めて梁さんと直に会話を交わした。僕の中国語はまるでダメなので、全て日本語の会話である。梁さんは大学の四年間で日本語を修得したそうで、その特技を生かしてこのガイドの仕事をしているわけである。聞いたところでは梁さんが勤める蘇州の観光公司ではこういう外国語が出来るスタッフを大勢抱えているそうで、やはり4割を日本語勢が占めるという。ちなみに梁さんは職場で同僚となった大学の後輩の女性と結婚されている(大学の時は何とも思わなかったそうな)。

 僕が「この辺りの歴史の研究をやってるんだ。倭寇の研究なんですよ」と言うと、「ああ、戚継光とか…」と応じてくれた。ふむふむ、やはり戚継光が来るか。やはり知名度では明代武将ナンバーワンという噂は本当だったな。この人、倭寇だけでなく長城でモンゴル相手にも戦っているという忙しいお方である。当時の明軍が余りにも情けない状態に陥っていたので(そもそも軍戸という固定徴兵制に無理があったのだが)自ら「戚家軍」という精鋭私兵を編成したり、多くの軍事理論の著書でも有名になった。まぁ明代武将の常で晩年はホされましたけどね。
 倭寇討滅に活躍した武将(軍事専門家)というとこの戚継光、兪大猷劉顕なんてのが代表として挙げられる。兪大猷は王直とは多くの因縁のある武将で僕も日頃の資料でなじみが深い。劉顕は二刀流を使う文字通りの猛将で、行動もハチャメチャな男だ(笑)。この二人に比べると個人的には戚継光ってそうなじみがないんですね。僕は「倭寇」の側に研究の主眼を置いているから戚継光みたいな正統派の将軍って相手にしづらいんですな。
 ちなみにいくつかの中国史本で「戚継光が王直を捕まえた」って書いてあるけど、あれは事実誤認。王直を捕まえた最大功労者はやはり先述の胡宗憲で、戚継光はその指揮下の包囲軍の中にたまたまいたってだけなんだよな。胡宗憲は文官だし今ひとつ人気がないから、戚継光に奪われた形になっちゃったんだと思う。

 ところで梁さんはベラベラに日本語を話すが、もちろん北京語も話せる。だが、基本的にこのあたりは上海方言地域。また違った「中国語」を話す地域である。しかし、この中にもさらに地域差があり(だって九州より広い範囲だぜ)、梁さん曰く「蘇州は古い町だから、ここの言葉は雅(みやび)ですよ。寧波なんかは乱暴な言葉で、まるでケンカしているみたいです」とのこと。なんか今でも呉と越の確執の伝統でもあるのだろうか(笑)。確か南京の言葉も荒っぽいとか何とか言っていたな(笑)。

 とか何とか話しているうちに日も暮れ、あたりは闇に包まれていった。この鉄道沿線も僕にとっては思い出深い(?)土地のオンパレードなのであるが、こう闇に包まれてしまっては仕方がない。おしゃべりしたり眠ったりしているうちに杭州到着の時がやってきた。
杭州東駅 実はこの時、本物の「杭州駅」は改装工事中で使用不可能となっており、杭州行きの列車は臨時的に「杭州東駅」に入ることになっていた。列車を降りると辺りはまたしても雨。ツアー一行は大急ぎでホテルから来たバスに乗り込む。ここでまた新たな現地ガイドが登場した。ここからレストランで夕食、そしてホテルへ向かうことになる。
 レストランでの今夜のメニューは「こじき鶏」というやつだった。事前にもらっていたツアーの日程表にも書いてあって「なんだこりゃ?」と思っていたものだ。「こじき」と「鶏」がどうしても結びつかない。だいたい「こじき」は放送禁止用語だから料理番組に出てくることはなさそうだし(笑)。いったい何が出てくるものやら。総じて食い物には淡泊な僕にしては、こればかりは気になっていた。今回の中国旅行、これといったゲテモノもなくごく普通の中華料理ばっかりだったからなぁ…。
 あれこれ出てきて食い進むうちに、ついに問題の「こじき鶏」が運ばれてきた!
「こ、これはっ!!」

 さて杭州のクイは食い倒れのクイ、駅の名前に涙をそそぎ、鶏(とり)にも心を驚かす、というところ。いったいどんな料理が出たのか。それは次回で。

次へ進む。いよいよ杭州歴史紀行だ!