倭人襲来絵詞・第四日
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☆新旧入り乱れる杭州

 さて運ばれてきた「こじき鶏」とは何であったか。実は葉っぱにくるんでまるごと蒸し焼きにした鶏肉のことなのであった。なんで「こじき」なのか?説明によると「乞食は貧乏で葉っぱで身をくるんで寒さをしのいだから」なんだそうだ。ふうん。味の方はまぁまぁというところだった(別段印象には残らなかったのだが)。
 晩飯も食って部屋に入り、例によって風呂で苦悩したりテレビをゴロゴロと眺めて時間を潰す。このへんは別段「事件」もなかったので先を急ごう。

 翌朝はけっこう早朝から活動開始。なにしろ今日一日で見所の多い杭州市内観光を済ませて上海まで行かなければならない(なんと夜の上海市内観光もつく)。とっとと朝食(またもバイキング)を済ませ、バスに乗り込む。通勤ラッシュ状態の杭州市内を抜けて郊外の「霊隠寺」へと向かうのだ。
杭州市内の連結トロリーバス 早朝の杭州市内を走る。これまで回った町同様ちょうど通勤・通学ラッシュの時間帯にあたり、車と自転車軍団の群れの中を縫うようにバスは走った。道路を眺めていると、トロリーバスが目に入ってきた。おお、中国ではトロリーバスがバリバリの現役で活躍しているのであった。日本でもかつては大都市でよく見られたものだそうだが、なんといっても架線をひかねばならないし普通のバスほど自由度が聞く乗り物ではないから交通量の増加と共にジャマ者扱いされ、そのほとんど全てが廃止されてしまった(立山アルペンルートにのみ残存)。実を言えば僕も実物を見るのは初めてだ。しかも写真にみるごとく連結バスである。この後上海でも走っているのを見かけることが出来たが、考えてみれば排気ガスも出さないし環境には良い乗り物だとも言えるのだ。

 そのまま我々の乗るバスは杭州の名刹・霊隠寺へ到着…と言いたいところだが、実はいったんかなり手前の駐車場でバスを降ろされた。大型車では寺の近くまでは入り込めないので、そこから小型バスに分乗して霊隠寺の門前まで行くことになる。まだ早朝ということもあって寺の中はまだまだ閑散。
 この寺の参道(?)を上っていくとすぐわきを谷川が流れている。その壁にあれこれと仏像などが彫り込まれていて、中でも写真にある弥勒仏は有名なものらしく、その前で説明+撮影タイムがとられた。ここだけあまりの混雑で良いポジションが取れずこんな写真となっている。このだらしなく笑うデブの坊主(笑)が中国では豊かさの象徴であり、しばしば白蓮教などの崇拝するシンボルとなった。まぁ日本の大黒さんみたいなもんだろう。
 しばらく歩くと赤と黄色の派手な建物が見えてくる。側に近づくとこれがいずれもデカい!。東大寺大仏殿には及ばないもののその高さはかなりの圧迫感がある。それにしてもさすがに名刹クラスとなると中国の寺はハデである。先日見た蘇州の寒山寺なんてずいぶん地味なもんだったのだ。建物の中にはこれまたどデカい仏像・神像(確か十二神将とかの像だろう)が参拝者を威圧するように配置されている。
 ふと見るとそうした仏像の前にはだいたい赤く塗られた、跳び箱の踏み台みたいな低い台が置かれている。なんだろう、と考えていると、中国人の参拝客がその台にひざをつき、仏像を拝み始めたのだ。そう、これ礼拝するための台なのである。中国人の参拝者たちはいずれもこうした台にひざをつき、「五体倒地」みたいに全身を投げ出して仏像を拝む(もっとも統一性はないようでやり方は人それぞれという印象だった)。どこかイスラム教徒のモスクでの礼拝をほうふつとさせる光景だ。案外そんなところからこういう拝み方が出来たのかも。我々日本人観光客はせいぜい手を合わせる程度。

霊元寺本堂 寺の中をあちこちまわっているうちに時間が過ぎ、周囲の参拝客の数がやたらに増加してきた。そう、本当にやたらにウジャウジャ増加してくるのだ。確かこの日は平日だと思ったのだが・・・どうも見ていると地元民だけでなく中国全土レベルから参拝客が来ているらしい。なるほどこれではやたらに増えるわけである。我々の見学スケジュールがやたらに早かったのもこのせいだったのだ。寺の入り口まで戻ってみると、まさにそこは人の洪水!中国全土のあちこちから来た新旧入り乱れる観光バスがひしめき、日本の門前町とそっくりな土産物屋が軒を連ねて客を呼んでいる。つくづく蘇州の寒山寺が「日本人の観光地」に過ぎなかったことを思い知らされる。近ごろは中国も「内需拡大」とばかりに休日をドンドン増やし、観光ブームを推し進めようという政策が行われているそうで…この辺は日本と一緒だな。

 人の波をかき分けるようにしてどうにかバスまで戻った我々は、次なる目的地にして杭州の名所(そんなのがやたらある町なのだが)西湖へと向かう。西湖とは杭州の町の西部にある大きな湖で、古来からの観光地。その眺めは古くから多くの詩人によって歌われ、画家の題材ともされてきた。我々はその湖を遊覧船に乗って一回りするわけである。
 バスを降りるとまず「蘇堤」をゾロゾロと歩かされる。なんとあの蘇東波がこの地の知事だった時代に作った堤防なんだそうだ。文学関係にはまるで造詣のない海賊研究屋にはさしたる有り難みはなかったが(笑)。まぁ杭州という町はこんなのがごろごろしている町なんだよな(行く機会がなかったが名将岳飛の廟もある)
ここでガイドさんから「写真撮りますよ、なんて言ってくる人がいっぱい来ますが、無視してください」とのご注意が。なるほど歩いているうちに怪しげな日本語を操るにわかカメラマンが次々とからんでくる。これらを無視して通り抜けると、「蘇堤」と書かれた碑の前で全員で記念撮影。この写真を撮るのはこの観光公司と契約しているカメラマンだったのだが、この写真、希望者のみの有料配布なんだよね。さきほどの怪しげな方々との違いは正直言ってよくわかりません(笑)。

 そしていよいよ遊覧船へ。ちょっと中国っぽく仕立てたお洒落な舟である(いささか派手な気もしたが)。 ツアー一行は船の先頭の甲板席に集まりガイドの案内に耳を傾ける。しかし僕はと言えば説明も聞かずにキョロキョロと辺りの山々を眺めていた。この眺めに近いものを倭寇最大の賊首・徐海が少年時代に眺めていたのではないかと思うからだ。
 杭州の観光地図を現地ガイドさんから渡されていたのだが(ガイドさんご本人の作成による日本語観光地図!詳細な案内有り。日本語も正確!)、その中で僕が「おっ」と思わず言った地名があった。「虎ホウ[足包]泉」という観光地があったのだ。これはこれで由緒ある泉で名所らしいのだが「虎ホウ」という地名そのものに僕は覚えがあった。倭寇の大頭目・徐海は少年時代「杭州虎ホウ寺」の僧としてすごしたのだ。

 徐海について詳しいことはこのサイトの海賊人名録の彼の項目などを参照して欲しいのだが、彼は倭寇王・王直の腹心だった徐銓という男の甥にあたる。徐銓は王直と同郷であり、もともと王直と共に塩商をやっていて、これに失敗すると王直と共に密貿易の道を入り、王直が密貿易界の大物となる過程を常に共に歩んでいる。
 徐海はこういう人物の甥にあたるわけなのだが、いろいろと事情があったようで幼いときからこの杭州虎ホウ寺に入って僧となっていた。しかし成長するにつれグレてしまったようで、町に繰り出して無頼者とケンカをしたり、馴染みの芸妓の所へ顔を出して、後に係わりを持つことになる役人の羅文竜と鉢合わせしたなどとというエピソードが地方志に残っている。こんな徐海であるから当然坊主生活を続けられるわけもなく、やがておじを頼って密貿易の世界に身を投じるのは必然の流れであったかもしれない。そして海の世界に入った徐海は、やがて王直をも凌ぎかねない大勢力を率い、明沿岸を震撼させることになるのだが…
 実は僕は数多い「倭寇世界」の登場人物の中でも、この徐海に異様に思い入れがあるのだ。王直が端正な正統派の大スターならば、徐海はダークでアウトローな魅力を振り回すヤンチャ坊主の趣がある(実際坊主だし)。王直が三船敏郎なら徐海は勝信太郎だろうなぁ…(笑)。少々性格的にひねくれている僕には徐海の方が性に合っているのだろう。ただし、それこそ問題児なので実際に側に来られるのは御免こうむりたいが(笑)。

 そんなことを考えながら、遊覧船から西湖周辺の景色を見ていた。そう、その徐海が若き日にこのあたりをうろついていたはずなのだ。もちろん当時と同じなのは湖と山々ぐらいで、周囲の光景はかなり様変わりしているが…。杭州は観光都市であると同時に地方の中心都市。東の方の町の中心部を見れば近代的なビルが林立している。
西湖からみえる杭州市街 この光景を眺めながら、そばにいたツアー参加者の女性が話しかけてきた。
「いい景色だけど、あのビルがあるのは興ざめねぇ。そう思いません?」
 いきなり同意を求められちゃったわけだが、僕はこの手の意見には完全に違和感をもつところがあった。
「いえ、別に何とも思いませんが…ここは地方の中心都市なわけですし」
 こう答えると、その人は、こう言ったものだ。
「そう…やっぱり若い人ねぇ。感覚が違うわねぇ…」
 そういう事じゃないんだけどな、と思ったが、ここでこの話題はこれでおしまいになった。
 この女性は「ビルが興ざめ」と言ったわけだが、この台詞が出た背景として、西湖の周辺が完全に観光地化しており、雰囲気を出すために中国の水墨画から抜け出てきたような建物ばかりが並んでいることを念頭に置いておいてもらいたい。そこに異質とも言える近代的なビルが垣間見えることにこの人は観光客として「興ざめ」を感じたわけだ。
 そんなこと言ったって杭州は現在でもこの地方の中心都市であり、観光ばかりが産業ではない。「あのビルが中国風の風景に合わなくて邪魔だ」と言われても杭州市としては困っちゃうところだろう。僕などはむしろ現在の中国の状況を象徴的に表した見事な風景だと感心していたぐらいだったが。
 それにそもそも、極端に表現すればこの西湖周辺自体がすでに「中国時代物風のテーマパーク」と化している。よく見ればデザインが時代物風になっているだけで、案外最近になって建てられた建物が多いのだ。この時乗り込んだ遊覧船だって同じ事が言える。

西湖の眺め さて、西湖遊覧も終わり、上陸した我々は西湖を一望できる高台に向かった。なるほど、ここからの眺めだとほぼ西湖全体を一望することが出来る。遊覧船で回るよりは少なくとも眺めに関しては見事かも知れない。まさに水墨画から抜けだしてきたような光景だ。恐らく徐海もこんな眺めをみたことがあるのだろう。
 この高台から降りてくるとき、制服姿の中国人男性二人が談笑しながら登ってきて僕らとすれ違った。ツアー一行の人達はヒソヒソと彼らを見ながら「お巡りさんかしら」「軍人じゃないかなあ」などと言い合っている。道行く観光客にそんな詮索されているとは彼らも思いも寄らないだろうなぁ、などと僕が見ていると、一人のお爺さんが彼らを呼び止めて聞いたものだ。
「アー・ユー・ポリス・オア・アーミー?」

 さて歴史と現在入り乱れ、行き交う人も入り乱れ、通りすがりの中国人に、英語でもの聞く日本人、というところ。この人達はいったいどちらであったのか、それは次回で。

次へ進む。君は杭州に歴史の涙を見る!