倭人襲来絵詞・第四日
歴史のトップページに戻る/旅のトップページに戻る
☆銭塘江に涙をそそぎ…

 完璧なジャパニーズイングリッシュによる問いかけは案外あっさりと向こうにも理解された。答えは「ポリス」だったのだ。警官二人はそのまま笑って立ち去っていったが、あれは職務中だったのか?

 この展望台の下の方にこの地の名物らしい印鑑作りの資料館があり、ここも訪問。何のことはない、例によっておみやげに印鑑を買っていけということなのだ。この場で注文しておくと後で自分の名前の入ったハンコが届けられると言う仕掛けだ。ハンコといっても石造りの立派なもので、石の素材によりお値段はピンからキリまである。最高級なのは石全体に血のような赤い色素がしみこんでいるもの。僕も注文しようかしまいか迷ったが、それほど予算に余裕が無かったことと、面倒くさくなったこともあり結局注文しなかった。僕の本名の姓はかなり変わったものなので、ハンコについては日本国内でもわざわざ頼まなきゃいけないんだけどね。

 このあと昼食をとり、再びバスに乗り込んで杭州郊外の六和塔に向かう。歴史的名物の多い古都・杭州だが、この「六和塔」も相当なもの。六和塔の手前の駐車場にはこれまた各地からの観光バスがゾロゾロと並んでいた。面白かったのが韓国の旅行ツアーのバスが駐車していたことだ。運転席の上にバッチリハングルで書かれた団体名が掲げられていた。少しばかりハングルをかじったことのある僕だったが、残念ながら意味までは分からず。このあと六和塔周辺で韓国人らしい一団もみかけたが、話してる内容までは分からなかったなぁ。ともあれ、韓国人も中国旅行を楽しむ時代になったんだなという感慨はあった。
 さて駐車場から石段をあがると、そこには「おおっ」と誰もが目を見張ってしまう巨大な塔が出現する。これが名高い六和塔なのだ。建造されたのは宋代だというから結構古い話である。この巨大な塔は最上階まで登れるのだが、老人の多いこの団体ではちと辛いものがあるのと、入場料を別途払わねばならないことなどで塔に上がるか上がらないかは各自の自由と言うことになった。もちろん僕は登ったのだが…その前に手持ちの使い捨てカメラのフィルム残量が底を突いてしまっていて、なんとか新しいのを買わなけりゃと考えていたのだ。この塔のてっぺんからの眺めを写真に撮らない手はないもんね。
 六和塔周辺にはたくさんの屋台が並んでいて、観光客向けにおみやげやお菓子、雑貨などを売っている。まぁ普通に考えれば使い捨てカメラの一つや二つ売っているはず、と僕はそんな店の一つに近づいた。近づいてお店のオバチャンに声をかけてからハタと気づいたのだが、中国語でどう聞けば良いのか全く分からないんだよな(笑)。しかしそこは人間同士、ジェスチャーと怪しげな英語で何とか会話成立。無事に僕は中国タイプの「写るんです」を購入することに成功した(まぁお店の人も商売上だいたい用件は分かるんだろう)
六和塔バックに記念撮影 お金を払ってカメラを受け取ろうとしたら、くだんのオバチャン、カメラを渡さずに僕に指さす方向へ動けと指示する。「?」と思いながら僕が移動すると、オバチャンは六和塔をバックに僕を撮影してくれたのだった。左がその時の写真(もちろん修正済み)。さすがにアングルもバッチリだった。ひょっとして頼んでもいない撮影料を別途とられるのかとも思ったが、これはあくまでサービスであった。もっともカメラ代と思って渡した金額に撮影料が含まれていた可能性はあるけどね。思えばこの旅行で通訳やガイドさんを通さずに中国の人と個人的にコミュニケーションとったのはこれが最初だったような。

 さてカメラも手に入れたことだし、入場料を入口で払って六和塔攻略にとりかかる。内部は真っ暗でかなり複雑で急な階段を延々と登らされる。時折回廊の方に出てみてどのくらい登ったかを確かめながらの上昇を続けていく。途中、この塔ゆかりの人物らしい坊さんの像なんかと出会いながら、ヒイヒイ言いつつ最上階へ。僕はカメラのために一人あとから登り始めたのだが、途中で休んでいるツアー一行をドンドン抜き去って(さすがに若いので)、ようやく最上階に登り詰めた。
 最上階から周囲を眺め降ろすと、銭塘江の雄大な流れが目に入ってくる。銭塘江の位置については地図でも見てもらうとして、この川は年に一度、満潮となった海から川の上流に向かって水が逆流する現象で良く知られている。これを見物するために多くの観光客がここを訪れ、日本のTVでもほぼ毎年その模様がニュースで流されている。で、毎年その見物客の何人かが溺れ死んじゃったりするんだけどさ。

 この銭塘江の雄大な眺めに、僕には倭寇絡みのある女性をめぐる哀話を思い起こしていた。その女性の名は王翠翹(おうすいぎょう)という。前の所で触れた倭寇の大頭目・徐海の愛人となった女性だ。いま「愛人」と書いたが中国語では「配偶者」を意味する。僕がここで使っている「愛人」という表現は日中双方のニュアンスをごちゃ混ぜに含めていると考えてもらいたい。どうもこの王翠翹についてはそう書くのがピッタリという気がするのだ。
 彼女の生涯については「史劇的な物見櫓」の「俺たちゃ海賊!」コーナーに詳しく書いたのでそちらも見ておいてもらいたいが、一応こちらでも簡単に書こう。王翠翹はもともと山東地方出身の妓女で、嘉靖倭寇まっさかりの時期に江南にやって来て、嘉靖34年(1555)に大挙襲来した徐海が崇徳という町を攻略した際に徐海によって捕らえられた。そのまま徐海の愛人とされるのだが、徐海にはそうした女性が7人ぐらいいた中で、特に翠翹は愛され徐海から内密の仕事を任されるほどの信用も受けるようになった。恐らく美貌だけでなく頭も切れる女性だったのではないだろうか。

六和塔からの銭塘江の眺め しかし彼女は官軍の指揮官・胡宗憲からの内通を受けて密かに徐海を裏切り、彼を追いつめる謀略に手を貸していく。徐海をそそのかして仲間だった陳東葉麻ら頭目を捕らえさせ、徐海に胡宗憲への降伏を勧めていく。一部には翠翹が密かに徐海に毒を盛っていたなんて話まである。ともかく徐海は1556年に沈荘で官軍の攻撃を受け、水に身を投げて死んだ。官軍の兵士達が徐海の姿を探していると、翠翹が泣きながら徐海が沈んだ水面を指さしていたという。
 徐海を滅ぼした胡宗憲は祝宴を開き、王翠翹に歌を歌わせる。その歌は諸将を感動させたが、酔った胡宗憲は戯れに翠翹を抱いてしまう。翌朝大いに悔いた胡宗憲は翠翹を従軍していた少数民族(チワン族らしい)の族長に与えてしまった。悲しんだ翠翹は銭塘江を渡る船の上から身を投げてしまう。

 この王翠翹の物語は彼女が死んで間もなく伝説化が始まっており、どこまでが史実なのかもう分からない状態だ。やがて彼女の哀話は明末には小説の形をとったが、聞くところではヴェトナムのチュノム文学にまでなって教科書に載ってしまっているという。それだけ強烈な印象を与える哀話なんだよね。そしてまた彼女と愛憎を繰り広げる徐海という男も、また劇的な人生を送っているわけで…まさに倭寇史上を彩る最強のカップル(?)と言えるだろう。

 そんな嘉靖倭寇のメロドラマに思いを馳せていると、僕の頭に重大な事が思い出されてきた。
(そうだ、考えてみりゃ杭州は王直最期の地じゃないか)
 そうなのだ。高校時代以来王直を追いかけてきた僕として不覚にも、この六和塔のてっぺんに登るまでこの事実に思い当たらなかった。「倭寇王」とも呼ばれる嘉靖倭寇時代最大の大物・王直はこの杭州で処刑されその生涯を終えているのだ。
 王直という人物について詳細はやはりこのサイトの「俺たちゃ海賊!」コーナーを参考にしていただくことにしたいが、要するに後期倭寇最大のスターと呼んでいい大物だ。彼のことを「倭寇王」と呼ぶ人もいるぐらい。「鉄砲伝来」に関与したとも言われ、この辺の話に詳しい人には知る人ぞ知る、というよりはこの時代の東アジア史を語る上で、この人物をはずすことはできない。最近あの「信長の野望」にも登場してしまったそうだから、一般的知名度も上がってきたということかな。この大スターの最期の地がこの杭州だったのである。
 王直が先ほど徐海の話でも出てきた胡宗賢の招諭を受けて根拠地としていた平戸から明に帰ったのは嘉靖36年(1557)のこと。胡宗賢は王直と同郷(隣の県出身)で、一説には以前から知り合いであったとも言われる。胡宗賢が王直を招いたのはよく「だまし討ち」などと書く本も多いが、実際には胡宗賢は海禁政策中止論者であったようで、私貿易の公認を視野に入れ、海上の覇者である王直に海上の治安管理を任せるつもりであったようだ。王直だってノコノコと帰国したわけではなく、胡宗賢を信用して帰国に踏み切ったとみるべきだろう。ま、この辺についての議論はそのうち(いつだ?)「海上史事件簿」に書くつもりなので、よろしく。
 「だまし討ち」ではなかった一つの証拠として王直は身柄は拘束されたものの獄内では丁重に扱われ、実際の処刑まで二年以上の歳月が流れていたという事実がある。結果的に処刑されてしまったのはたぶんに胡宗賢をめぐる政治的状況が変化したため、胡宗賢が自らを守るために王直を見捨てざるをえないはめに陥ったからだ。僕が目を通した一部の史料では処刑直前に胡宗賢が王直に謝った場面を描いているものまであった。史実かどうかはちょっと疑わしいが、当時そういう世間の目があったことの裏づけにはなるだろう。
 王直処刑の地は彼が獄中生活(優雅なものではあったようだが)をおくった杭州の刑場であったという。刑場に引き出されて初めて彼は自らの最期を悟った。そしてなぜか息子が見に来ていたようで、王直はこの息子に髪に挿す串を渡し涙を流したという(「倭変事略」)。この記録を見ていても王直に対して同情的な目で見る人が少なからず存在していた事がうかがえるだろう。

 高校時代にひょっこり王直の事跡を読み、短い文章ながらその激動の生涯に感動してしまい、とうとう専門研究にまで首を突っ込んでしまった僕は、その王直の「最期の地」に足を踏み入れていたことに塔のてっぺんでようやく気づいてしばし呆然…というか感慨というか、はたまた「杭州」と聞いてまるで気がつかなかった自分の勘の悪さを恥じるというか、まぁそんな気分だった。つくづく思う、のめりこんだ歴史人物のゆかりの地に立つときに感じる深い感動を。そんな瞬間、歴史というものが現在の自分と確実につながるものであるということを実感するのだ。

 さてこれは後日談になるのだが、この六和塔を訪れながら他にもう一つ僕が完全に失念してしまっていた物語があった。この六和塔という名前を見ていながらなぜ忘れてしまったのか、僕は帰国後に気がついて愕然とすることになる。

 ここは天下の銭塘江、川の流れに歴史を眺め、記憶と一緒に大逆流というところ。僕が失念していたいったい物語とは何なのか。それは次回で。

次へ進む。「あの物語」のお土産もあるぞ!