ニュースな
史劇的な物見櫓のトップページへ戻る

2023/7/7の記事/2023/12/18の記事/2024/2/20の記事/2024/3/31の記事/2024/4/1の記事/

◆今週の記事

◆こっちでも火の手が上がり

 さてさて。
 実に五か月以上も更新をサボってしまった。「史点」だけでなくサイト全体でも僕自身の更新はすっかり止まっていた。これはこの間、僕の仕事の状況が急変してえらく多忙になってしまったためで…まぁそれでも世間一般の人よりは暇なんだろうけど、とにかく物書きをする気力がわきにくかった。しかしそれでも書きたくなってきてしまうのが恐ろしいサガで。

 このサボりの間に、ロシアで「反乱」を起こしたプリコジン氏はスパイ映画を地で行くような謎の事故死を遂げ、ウクライナでの戦線は膠着状態が続き、アゼルバイジャンとアルメニアがごちゃごちゃとまた軽くやりあい、日本ではジャニーズ事務所や日大アメフト部が大騒動となり、阪神タイガースが実に38年ぶりの日本一に輝いた。ああ、思い返せばその昔、「近鉄が日本一になったら史点ネタにする」と公約したこともあったっけな。その近鉄の後継球団という面もあるオリックス・バファローズが日本一になっても史点ネタにはしないだろうなぁ。

  もう二か月以上前の10月7日。ユダヤ教の祝日であるこの日、パレスチナ・ガザ地区を実効支配するイスラム組織「ハマス」がイスラエル領内に過去にないほど大規模な奇襲攻撃を仕掛けた。陸から海から空からの大人数による侵攻、数千発といわれるロケット弾の発射とで、イスラエル側は死者1300人を出し、数百人の人質を連れ去られるという、甚大な被害を被った。
 イスラエルといえば建国以来「周囲はみな的」状態であったため、名高い諜報機関モサドをはじめとして自国に害をなしそうな動きに常に目を光らせてきた。どっかが核武装しそうだとなればその施設を空爆するわ、科学者を暗殺するわ、自国の核保有が暴露されるとその暴露者を誘拐拉致するわ…とそれこそテロ組織並みの実行力を見せてきた歴史がある。それだけに今回のハマスの大規模奇襲を事前に察知できずまんまとしてやられたことに世界が驚いた。

 このことについてはいろいろ推測もされてきたが、三か月近くたったつい先日、ニューヨーク・タイムズが「イスラエル側は計画を知っていたが現実味がないと判断してみのがした」というスクープを発した。そこはイスラエルの諜報網、今回の奇襲計画と思われる40ページほどの情報をしっかりつかんではいた。しかしその大胆なやり口や規模に「ありえない」と判断しちゃったらしいのだ。
 イスラエル側はこの計画に「イェリコの壁」というコードネームを与えていたという話も何やら因果めいている。「イェリコの壁」とは旧約聖書に出てくるエピソードで、モーセに率いられたイスラエルの民が「出エジプト」を行った後、モーセの後継者ヨシュアに率いられてパレスチナの征服を進める中、難攻不落のイェリコ城塞の攻略に苦しんでいたら神のお告げがあり、それに従って城の周囲を七日間続けて回り、角笛を鳴らしたらイェリコの城壁がみずから崩れ、ヨシュアたちが勝利した、というお話。つまりイスラエルが大昔からパレスチナ侵略をやってたんだな、という事実を思い起こしてしまう話であり、同時に「そんなことあるわきゃない」と多くの人が思う奇跡ばなしで、今度の計画にイスラエルの情報網が「イェリコの壁」と名づけたのも「ありえない」と思ったからではないか。そして逆にイスラエル側の鉄壁がイェリコの城壁のごとく崩れてしまったわけだ。

 ともかく、イスラエルとしては完全に不意打ちをくらって多くの犠牲を出してしまったわけで、もともと対パレスチナでは強硬なネタニヤフ首相は「戦争状態」と宣言し、戦時内閣を束ねてハマスに対する猛烈な報復攻撃を開始した。ネタニヤフ首相は「ハマスを全滅させる」と宣言、結局のところガザ地区に対する無差別攻撃といっていい状態になり、同地区の建物が半数も破壊する大爆撃を行い、すでに一万数千の犠牲者がパレスチナ側に出ている。このコーナーでも過去に何度かやってるイスラエルの猛攻撃だが、今回は自身がくらった犠牲が大きかったこともあって、なおさらの猛攻に見える。イスラエルの閣僚の右派政治家の誰だかは核兵器による攻撃まで視野に入れてるとか口にしていたが、イスラエルは伝統的に核兵器を持ってるとも持ってないとも言わない態度を通して「核抑止」をやってきたので、ネタニヤフ首相に即刻否定されていた。

 それにしても、ハマスだって、これだけのことをやっちゃえばイスラエルがその何倍もの報復をしてくることは過去の経緯から百も承知だったはず。そもそもハマス自体、パレスチナ自治政府とは違ってイスラエルとの共存を断固拒否する集団であり、いずれはイスラエルに対する大規模攻撃をかけていたろうとは思う。一方でハマスは単なる戦闘組織ではなくガザ地区においてパレスチナ人たちの生活を様々に支援する存在で、そのために市民の広い支持がある。その市民に多大な犠牲を強いることが確実なことをやるのは…という気もいくらかはあるんじゃないかと。

 諸説あって明確ではないんだが、今回のタイミングでハマスが攻撃に踏み切った理由は、サウジアラビアがイスラエルと国交正常化しそうな気配があったから…というのが挙がっている。
 そもそもイスラエルの建国を受けて周囲のアラブ諸国は全てその存在を認めず、四度にわたる「中東戦争」を繰り広げた。そのうちにエジプトやヨルダンがイスラエルを承認し、国交を結ぶようになった。イスラエルと戦い続けたPLO(パレスチナ解放戦線)も1990年代にはイスラエルとの共存に舵を切った。それでも中東から北アフリカのイスラム諸国の多くはイスラエルと国交を持っていないのだが、その中でも聖地メッカを抱え、イスラム圏に影響力の大きいサウジアラビアがイスラエルと国交を、ということになるとハマスをはじめとする対イスラエル強硬派は心穏やかではないはずだ。
 サウジは長らくイスラム圏でも保守的傾向の強い国とされてきたが、イスラム教シーア派の大国でイスラエルと不倶戴天の関係にあるイランとの対抗事情もあって、以前からアメリカ寄りの姿勢でイスラエルとの仲もここんとこはそれほど悪くない。最近は欧米からの批判をかわすかのように、女性の権利など人権状況を変えてきてもいる。確かにイスラエルと国交正常化、という動きは現実味を持ってきていたのだろう。

 ハマスが行った大規模な奇襲攻撃は、その犠牲の多さもあって「大規模テロ」と認識され、はじめはイスラエルへの同情とハマスへの非難が世界を覆ったように見えた。だがハマスとイスラエルの紛争は今に始まったことではなく、そこまでにいたる経緯もあるから、アラブ諸国、イスラム圏では直後から思いのほかハマス側に賛同賛美はしないまでも同情的な世論は出ていた。そしてサウジアラビア政府もイスラエルとの国交交渉は打ち切りにしたと言われていて、結果的にハマス側の奇襲の狙いは当たってしまったことになる。

 その後のイスラエルの猛烈な反撃は実質一方的な虐殺状態になってしまい、世界ではイスラエルへの同情の声は影を潜め、非難の声のほうが高まってきた。アメリカのバイデン政権も基本的にイスラエルに寄り添う態度ではあるが(国連での停戦案に拒否権も発動した)、イスラエルに「世界の支持を失っている」と忠告したり、イスラエル人でパレスチナ自治区のヨルダン川西岸に勝手に「入植」を展開する者に入国ビザを出さないようにするといった動きを見せてイスラエルの引き留めを図って入る。だが現時点ではそれにもネタニヤフ政権は耳を貸さない状況だ。
 ネタニヤフ政権としては「ハマスの全滅」を実現するまでは作戦をやめないとして、「数ヵ月」はかかるとの見方を示している。だがフランスのマクロン大統領が「そんなの十年はかかる」と批判してるし、そもそも十年でも終わるかどうかわからない。こんな作戦を続けていれば一時的にハマスを戦闘不能にしたとしても、イスラエルへの憎悪をまき散らして新たなハマス戦闘員をせっせと作ってるようにさえ見える。実際、最近の調査でもガザ地区住民の七割はハマスの行動を支持しているという。

 一度は停戦して人質交換(イスラエル側もささいな「容疑」でパレスチナ人を多く収監していて、それが交換に使われた)も実現したのだが、結局は戦闘再開でより事態は悪化してる。イスラエル軍が自国民の人質を射殺してしまったり、そもそも人質の命よりハマス壊滅が優先という政府の姿勢に批判があがったりはしてるけどこちらもウクライナ情勢並みにズルズルと続いてしまうのだろうか。



◆はるばる来たぜ函館〜♪

 もう三か月近く前の話だが、今年の9月24日、アメリカはイリノイ州の老人ホームで、一人のロシア人が亡くなった。ほとんど忘れられていたからなのだろう、その訃報がメディアに流れたのは11月21日のことだった。そのロシア人の名はヴィクトル=ベレンコ。47年前の1976年9月6日に当時のソ連のミグ25戦闘機を操縦したまま亡命、函館空港に強行着陸して世界を驚かせた人物だ。

 ヴィクトル=ベレンコは1947年生まれ。つまり76歳の生涯だった。軍人の家に生まれたが両親が離婚、父についていって継母に露骨にいじめられたりといった辛い少年時代を送ったという。その辛さを乗り越えるためにもと軍人の道に進み、空軍の戦闘機乗りとなったが、エリートパイロットのはずなのに劣悪な待遇と環境に苦しみ、軍内部の不正の横行に怒って告発に踏み切ったらかえって身柄を拘束されるという目にもあい、こうした経験が「自由がほしい」とソ連からの亡命を考えるようになったという。ソ連の社会・組織への不満だけでなく、浪費癖のある妻との関係にも絶望していて(そりゃひどい待遇の上に浪費されちゃ)、これもまた亡命に踏み切る一因にもなったみたい(まぁ愛する家族がいると亡命は難しいよな)

 1976年9月6日、ソ連極東沿海州のチュグエフカ基地に配属されていたベレンコは、飛行訓練の最中に亡命作戦を実行に移した。編隊での飛行中に墜落を装って急降下、編隊を離脱し、まっすぐ日本の北海道目指して飛び去った。当然ソ連の、そして日本の自衛隊の防空レーダーがあるわけなんだけど、彼はそれをたくみに低空飛行でくぐりぬけ(自衛隊の戦闘機もスクランブル発進したがまかれてしまった)、まんまと北海道に到達してしまった。当初は千歳空港への着陸を目指したが現地の天候がよくなかったこと、燃料が残り少なかったことなどから函館空港に強行着陸した。
 当然函館空港職員、さらには日本政府も仰天したが、ベレンコはすぐに敵意はなく亡命を希望していることを表明、日本側に身柄を預けた。ソ連側もすぐにベレンコ本人
に面会するなどして翻意を迫ったがベレンコの意志は固かった。このときソ連側はベレンコの妻からの手紙を持参したそうだが、ベレンコは手に取ることすらしなかったという(逆効果だった可能性もあるな)。9月9日に、ベレンコは羽田空港からアメリカへと飛び去ってしまった。

 ベレンコが手土産にしたミグ25も、ソ連は返還を要求。日本政府も当初はそれを受け入れるつもりだったが、アメリカからの要請もあり、ソ連に返却することなく茨城の百里基地に運んで徹底した性能分析を行った。この行為は国際慣習的に認められているものなので、ソ連もそれ以上は強く言えず、北方海域で日本漁船を多数拿捕するといった「報復」をした程度だった。
 で、このミグ25は当時のソ連の最新鋭戦闘機で、大変な高性能なのではと西側から観られていたりもしたが、この時の調査でそれほど大した能力じゃないとバレてしまい、ベレンコが思ったのとは別の方向で手土産になった形だ。なお、当時のソ連幹部たちはこの事件をきっかけに軍の劣悪な状況を調べ、「これじゃ亡命しちゃうわ」と思ったようで少しは改善の方向に行ったらしい。一方で同様の事件が起こることを警戒して戦闘機に外国まで飛べるほどの燃料を積ませないようにもなったそうで。
 日本側の防衛関係者にもこの事件は大きなショックを与えた。亡命だったからよかったようなものの、仮想敵国の戦闘機の領土内の空港まで侵入を許してしまったわけで、防空体制の見直しが大急ぎで進められることにもなった。

 アメリカに亡命したベレンコは1980年にアメリカ市民権を獲得、1983年のソ連による大韓機撃墜事件の際にはアメリカ政府の要請でその分析に協力している。また今回初めて知ったが、トム=クランシーの小説「レッド・オクトーバーを追え!」(ソ連原潜が攻撃なのか亡命なのかと騒ぎになる内容)にもアドバイザーとして協力していたんだそうな。
 ベレンコ氏はソ連崩壊後に一度ロシアに帰国も果たしているが、自身が交通事故死したとかデマ報道を現地でされたりもしてロシアに幻滅し、アメリカに戻っている。


 さて、このベレンコ亡命事件にヒントを得て作られたと思われる漫画がある。
 と書くとピンと来る人も多いだろう。手塚治虫の代表作であり、先日AIを利用した「新作」が発表されたり実写ドラマ化が決まったりと話題になった、「ブラック・ジャック」「空から来た子ども」という一編がある。この話ではソ連を思わせる「ウラン連邦」の軍人が最新鋭の垂直離着陸可能な戦闘機に妻子を乗せて日本へ脱出、海辺にあるブラック・ジャックの自宅の目の前に着陸してくる(なお、韓国からの亡命難民を描いた「パク船長」からもブラック・ジャックの家は日本海に面している可能性が高い。まぁアバウト設定だけど)。この軍b人の子どもが難病を抱えていて、その治療をブラック・ジャックに頼むために亡命を実行した、というストーリーだ。
 
 未読の方のためにそれ以上書くのはやめるが、結末は大きく異なるとはいえ戦闘機一機でいきなり亡命してくるという状況自体が、ベレンコ事件によく似ている――というよりそんな事件でもないと思いつかなそうな話だ。「ブラック・ジャック」では雫石事故など当時の事件や流行などを敏感に取り入れた話があり、毎週毎週新たなストーリーを作るために最新の話題を取り入れていたということだろう。
 調べてみると「空から来た子ども」が掲載されたのは週刊少年チャンピオンの1976年10月18日号。9月6日に事件が起きてるから直後に書き出せば間に合うのかもしれないが、こういう雑誌の発行日付って実際の発売日より遅くなってることが多く、下手すると一か月くらい開きがある。原稿の締め切りや掲載までの時間を考えるとかなりきわどい、あるいは無理とも思えてしまうが、当時は発行日はもっと発売日に近かったのかな?



◆戦後宗教界の大物逝く

 ちょいと個人的な思い出話を枕に。
 大学時代、僕の指導教官は中国の秘密結社を専門とする方だった。中国の秘密結社というのは、特に清代から近現代に広がったもので「天地会」とか「哥老会」といろいろあり、反清活動を掲げていたこともあって革命運動家にもこれらに加わっていた人が多く、民国期の混乱から共産党による中華人民共和国成立まで、影に日向にこれら秘密結社の人脈が歴史動向に影響を与えていた。まぁ共産党だって秘密結社みたいなもんだが。

 「秘密結社」というと何やら地下活動をする悪の組織みたいなイメージを抱きがちだが、実のところ中国におけるそれらは人と人との兄弟的結合、同じ結社の会員同士なら絶大な相互扶助関係を得られる、というものだ。例えば広い中国、親族も知人もいない土地へ行くとする。そんな土地で秘密結社会員だけが理解できる「サイン」をさりげなく出すと、その土地の同結社会員が「おお、兄弟!」と話しかけてきてあれこれ世話してくれる、というものだった。「秘密」というけど実のところ周囲はどこの誰がどの結社に入ってるかだいたい知られてて、秘密でもなんでもなかったという話も聞いた。
 こうした秘密結社として欧米では「フリーメーソン」が有名だ。これも今でも何かと陰謀論者に人気のある存在だが、近現代の多くの著名人が会員だったことが分かってるし、やってることは世界支配でもなんでもなく、やや上級な人たちの「お友達付き合い」だと言われている。入会にあたってちょっとした秘密の宗教的儀式があるといわれてるが(余談だがトルストイ「戦争と平和」の主人公もフリーメーソンに入会する描写がある)、これも先述の中国における秘密結社と似ていて、「秘密」な部分はあるとはいえあくまで形式的なもののようだ。

 欧米ではフリーメーソン以外でも秘密結社のたぐいはいろいろあり(KKKもそんなもんだよな)、実は結構ありふれた存在だという。世界的に見ると、そういうのがない社会のほうが特殊なのではないか、という話を僕の恩師は口にしていた。そうなると我らが住む日本にこうした秘密結社があるようには見えず、やっぱ日本社会って特殊なんじゃないの、ってな話になったのだが、その時僕が口にしたのが、「日本における『秘密結社』の役割を担ってるのは、創価学会とか、近現代以降の新宗教勢力なのかも」というものだった。ここまでの文脈を読めばお分かりだろうが、僕は「秘密結社」というのを別に悪い意味で使っているわけではなく、宗教を媒体とした相互扶助組織という点では似てるんじゃないの、とむしろ肯定的に評価して言っている。まぁ正直こうした宗教団体ってのは個人的に好きじゃないんだが。


 さて前フリが長くなったが、要は創価学会の話をしようというわけで。その名誉会長であり、同団体に長らく君臨し続け、日本の宗教界のみならず政界にまで影響を及ぼしていた池田大作氏が去る11月15日、ついに死去したのだ。95歳とまぁ長寿全うと言っていいだろうが、ここ十年以上その音沙汰がほとんどなくなっていて、「とっくに死んでいるが隠されている」という陰謀論まで広まっていた。いくら影響力大の人でも武田信玄じゃないんだから「喪を秘す」なんてのは無意味だろうと僕は思っていたが。実際の死去から公表まで数日の間はあったけど、これは最近普通になった「身内での葬儀が済んでからの公表」のパターンだ。この人の死にしては拍子抜けするほど普通な、と僕などは思ったものだ。

 池田大作は1928年(昭和3)に東京で生まれている。本来の名前は「太作」でのちに「大作」に改名している。
 彼が創価学会に入信したのは1947年、19歳の時だったという。ここでそもそも創価学会っていつできたの?という話をすると、牧口常三郎戸田城聖らにより1930年11月に「創価教育学会」として発足したのが始まり。詳細は省くが、この団体は日蓮の流れをくむ「日蓮正宗」という宗派の信者団体で、創設者で初代会長の牧口が小学校の校長をつとめる教育者であったことから初期の名前に「教育」が入っている。日蓮という人物が非常に政治的であったせいで日蓮宗系列の団体は政治的傾向を強く持つ例が多く、1932年に政治家や企業人への暗殺テロを実行した「血盟団」もそうだったし、戦前戦中に右翼的・国粋的主張をする団体や個人に日蓮宗信者が目につく。だが僕の知る限りでは戦中の創価学会はそうした流れには乗っておらず、逆に国家神道に批判的であるとして1943年に特高警察の弾圧を受けている。初代会長の牧口は獄死し、敗戦後に戸田を第二代会長として「創価学会」に改名して復活、そこへ池田が入信することとなる。
 こうした創価学会の「公式の歴史」は戸田および池田自身の著した小説(ま、ゴーストライターがいる説も根強いけど)『人間革命』で描かれていて、僕はその映画版(1973年公開)の方は見たことがある。牧口を芦田伸介、戸田を丹波哲郎が演じ、脚本が橋本忍で監督が舛田利雄という布陣。池田大作は変名で続編の方に登場していて、あおい輝彦が演じているそうだが、そっちは未見だ。
 

 さて戦後に復活した創価学会は1950年代から60年代にかけて、その信徒数を急拡大させてゆく。日本が敗戦直後の混乱期から高度成長に向かっていった時期で、そんな社会の大きな変動の中で成長の波に乗れない低所得者層をすくいあげたものじゃないかと僕は考えていて、それが上記の「秘密結社」の機能と通ずるところがあるんじゃないかという発想につながっている。
 その発想の是非はともかく、この創価学会急拡大の時期に台頭してくるのが池田大作だ。この時期、まだ二十代の彼がどう教団内で実力者となっていったのか詳細は知らないが、相当な「やり手」であったのは間違いない。創価学会の勢力拡大にもかなりの力をふるったはずだ。1958年に戸田城聖が死去した時点で有力な後継候補となっており、1960年に池田が正式に創価学会三代目会長に就任する。このとき、まだ32歳の若さである。

 池田時代に入って創価学会はますます勢いをつける。1950年代から進めていた政界進出も1964年の「公明党」結成で本格化する。当時の彼らの凄まじい選挙活動の有様を聞いたことがあるが、散歩道に10m置きに学会員が立って「お願いします!」をやってたんだとか。そもそも「公明」って名前もそれまで不正のない選挙の意味で「公明選挙」という言葉があったのをパクったようなものだ。
 ともあれ公明党は間もなく国会内で一定程度の議席を確保し、今日にいたるまで日本の有力政党の一角を占めている。あのオウム真理教や幸福の科学(そういや今年はここの教祖も亡くなってたな)が真似しようとして全然成果が挙がらなかったのを見ても、創価学会の集票力がいかに凄かったかがわかる。
 公明党はどうみても創価学会と一体の関係なんだけど、さすがに政界に一定の地位を占めるようになってくるとその「政教一致」の姿勢が問題になる。また、自分たちへの批判を徹底的につぶそうとする傾向も強く、言論弾圧事件も起こして問題になっている。そのため創価学会と公明党は一応「支持団体と政党」の関係に分離し、公明党も「政教分離」を建前とするようになった。
 そして池田自身も1979年に会長職を持して「名誉会長」の地位に移る。これも彼が創価学会において絶大な権勢をふるい、ほとんど個人崇拝レベルになっていて、そのことで国会に呼び出されそうになるケースが出てきて、それをかわすためだったと思われる。

 名誉会長に「退いた」といても池田大作が学会の最高権威だったのは明らかで、もはや「個人崇拝」のレベルになったその存在の大きさから、日蓮正宗側との対立も起こり、1991年には日蓮正宗側が池田と創価学会を「破門」するという事態になり、そこそこの騒ぎになった。当時、電車の中づり広告でよく見かけた創価学会系雑誌で日蓮正宗側を口汚く書き立てたり、偽造写真まで使って日蓮正宗の法主を攻撃したりしていたが、今にして思うと双方それほどダメージになった様子はなく、創価学会の分裂とか衰退といった事態はまるで起こらなかった。では池田大作を教祖とする新宗教団体になるのかといえば、それもさすがになかった。

 1993年に非自民・共産の細川護熙政権が誕生、公明党はその連立の一角を占めてついに政権入りする。このとき組閣発表前に池田が「みなさんの仲間からデエジン(大臣)が出る」と発言して問題になっている(このとき公明党から労働大臣が出た)。その後、公明党は大政党「新進党」に合流していったん消滅するが、間もなく分裂して公明党に逆戻り、そして1999年に自民党と連立を組んで、以後四半世紀、今日にいたるまで公明党はデエジンを出し続け(国土交通大臣が実質専用ポストになっている)日本の政権にずっと参画し、一定の影響力を持ち続けている。中でも2008年の福田康夫首相の退陣、麻生太郎首相就任の背景には公明党の強い意向がはたらいたとされ、総理大臣のすげ替えまで実現する力を持ってしまったことになる(もっともそのせいで自公の下野という結果を招くんだが)

 その当時言われていたが、公明党・創価学会の集票力というのはまだまだ強力で、その票は公明党だけでなく自民党へも流れているため、自民党の公明への依存を高め、結果的に公明党の発言力が増していく。その後政権を奪還してからも公明党は自民党内の有力派閥といっていいくらいの存在になっている。安倍政権の安保法制の際に公明党がそれに結局賛成した時には創価学会員の一部から批判が出たりもしていたが、党としてはなんとしても与党にくらいついていこうという姿勢が感じられた。理念とかなんとかよりも創価学会および「池田先生」を守るためには与党でなきゃいけない、ということだったんだと思う。

 その「池田先生」について、ノーベル平和賞をとらせようとする動きもずっとあった。特に晩年に入った21世紀初頭に「ガンジー・キング・イケダ」と三人の名前を並べて非暴力の指導者とブチあげたキャンペーンを世界で展開、あとの二人の母国であるアメリカやインドでまでイベントをやっていたのには…正直、世界に恥をさらしているような、と当時思ったものだ。結局まったくの不発に終わったこのキャンペーン、あとの二人と同様に暗殺でもされないと可能性はなかった…いや、そもそも死者は受賞できないな(笑)。
 これも電車中づり広告でよく見かけたが、池田大作は外国の要人と会談したり、どっかの大学の名誉博士号を授与されたり、どっかの町の名誉市民になったり、というのをよくやっていた。そのいずれもが、言い立てるほど権威があるようにも見えず、かえって彼個人のコンプレックスをむき出しにしてうような感じだった。
またそういった広告で、日蓮正宗や、二十年も公明党委員長をつとめた竹入義勝(まだご存命で驚いた)、あるいは週刊誌のたぐいなど自分たちに敵対するとみなした相手に罵詈雑言といっていいほどの激しい見出しをつけていたのも、この団体、ひいてはその最高指導者の性格が出ているように思えたものだ。

 そんな広告も最近はほとんど見かけなくなっていた。ここ10年以上、池田大作のあれこれの世界的活動の宣伝もみなくなり、表立った言動もとんと聞かれなくなっていた(一応ウクライナ情勢についてのアピールを出したとされてるけど)。だから死亡説まで流れたんだけど、実のところ「生ける屍」状態だったんじゃないかと。それだけに、その死が何か急激な変化とか影響を与えることはないようにも思える。長い目でみて創価学会の影響力はジワジワ低下してるみたいだし。
 なお偶然にも、池田の死に先立つ10月16日には、やはり日蓮正宗の信者団体の一つで創価学会と激しく対立してきた「冨士大石寺顕正会」の会長である浅井昭衛が91歳で亡くなっている。ほぼ池田と同じ時代を生きて91歳で亡くなったのだが、勢力は圧倒的差がありながらも同時期にこの世を去るとは仏教的に因縁を感じてしまう。今年は幸福の科学の教祖・大川隆法も亡くなってるし、日本の新興宗教史においてエポックな年なのかも。隆法さん、「池田大作の霊言」を出せなくて悔しがってそうだなぁ…と思っていたら、ググってみるとどうも2010年に「守護霊インタビュー」という形でやっちゃっていた模様(笑)。そういやあれは相手が生きてようが死んでようがお構いなしだった。

 戦後日本史には「闇将軍」あるいは「フィクサー」な人物が何人かいるが、池田大作は宗教界におけるその一人だったと僕は位置づけてきた。そしてもしかすると、そういった「昭和の闇」を抱えた最後の一人が世を去ったということかもしれない。



◆秘密御大キッシンジャー

 当初、11月のうちに更新しようと考えていたのだが、その11月末にまた大物の訃報が飛び込んできてしまい、さらに更新が遅れることになってしまった。気が付けば12月も半ばを過ぎる始末。それにしても今回は訃報ネタばかりになっちゃったな。
 かつて米ニクソン・フォード両政権の補佐官および国務長官をつとめ、アメリカの外向性K策に多大な影響を与えてきたヘンリー=キッシンジャーがついに亡くなった。御年実に100歳。長生きだったし、つい数か月前に中国を訪問して大歓迎されるなど、ギリギリ最後まで現役の外交官みたいな人だったのだ。

 ヘンリー=キッシンジャーはちょうど一世紀むかしの1923年5月27日にドイツバイエルン州のヒュルトという町の「ゲットー」に生まれた。「ゲットー」とはユダヤ人居住区のことで、キッシンジャー家(ドイツ語では「キーシンガー」)もユダヤ系だった。父親は歴史や地理の教師だったという話には僕も同業のようなもので親近感を覚えたが、その息子さんのその後の人生を考えると、父親からの影響は大きかったんじゃないだろうか。
 ヘンリー少年(ドイツ語ではハインリッヒかと思ったらハインツだそうで)が10歳の時にドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握った。次第にユダヤ人に対する迫害がひどくなるなか、1938年にキッシンジャー一家はアメリカへの亡命に踏み切った。おかげで彼の両親と本人そして弟の一家四人は生き延びられたが、彼の祖父母を含めた親族の多くがナチスの迫害の犠牲になったと言われている。
アメリカに移住後、ヘンリー少年は当然ながら英語もろくにできなかったが、昼間は働き夜間に高校に通う苦労を重ねて大学に進学。在学中にアメリカが第二次世界大戦に参戦したため学業を切り上げて陸軍に入り、ドイツ語の能力を生かして対ドイツの諜報活動に参加していたという。

 大戦終結後、キッシンジャーはハーバード大学に入り、政治・外交研究の道に進む。ハーバード大を最優秀の成績で卒業すると大学院に進み、1954年に博士号を取得。この博士論文の研究テーマが「ウィーン体制」(ナポレオン没落後のヨーロッパの国際秩序)であったというのも、その後のことを思い合わせると興味深い。
 「キッシンジャー博士」となった彼は学問の世界にとどまらず、現実の政治外交分野での活躍を始め、その優秀ぶりが注目されるようになる。ケネディ政権でも一年ほど大統領補佐官をつとめたが以後は共和党候補との結びつきが強くなり、1968年に大統領となったニクソンから直接請われて外交担当の補佐官となり、「ニクソン外交」の中心人物となっていく。

 キッシンジャーといえば、1971年に中国に自ら「密使」として乗り込み、唐突なニクソン訪中、米中接近を発表して世界をあっと言わせた活躍が一番有名だ。
 それまでの「冷戦」構造では、アメリカは朝鮮戦争で中国と戦ったこともあり、ソ連と同じ共産党政権である中国政府の存在自体を認めず、台湾の蒋介石国民党政権を支持し続けてきた。しかしソ連と中国が社会主義路線の対立から領土紛争まで起こす事態になると、キッシンジャーとニクソンはこれは中国と接近した方が得策と考える用になる。当時、中国は毛沢東による文化大革命の暴走中で、むしろソ連の対米姿勢が軟化したと非難していたぐらいなので一見突飛にみえるが、実際には中国は首相の周恩来が対米接近を意図してあれこれとサインを送っていて、それをキッシンジャーたちが受け止めたものだと言われている。
 ニクソンの意を受けたキッシンジャーは1971年7月9日、アメリカ国務省やCIAなど自国の外交関係者にすら気づかれぬよう仮病を使って偽装入院したりルーマニアやパキスタンを経由して極秘のうちに北京に入り、周恩来と交渉、話がまとまって帰国した直後の7月15日に「ニクソンが来年訪中」との電撃発表が行われた。これに世界がひくりかえったわけだが、日本政府には「貴国との関係から事前に教えとくね」と発表の三分前に通告され、かえって佐藤栄作首相を激怒させている。

 翌年にアメリカを後追いする形で田中角栄首相が訪中、日中国交正常化となるのだが、それを知ったキッシンジャーが日本を「裏切者」呼ばわりして怒った、という秘話が近年明らかにされている。自分は人に相談もなくやっておいて、と言いたくなる話であるが、こういうところにキッシンジャーの外交姿勢、「大国間現実的外交」がよく表れている。なお、キッシンジャーは周恩来との会談のなかで「在日米軍が日本の軍国主義化を抑止している」という趣旨の発言もしたとされていて、日本に対しては「小国のうちは軽視、大国になるようなら抑止」ってな考えで、正直いい印象を持ってなかったのではなかろうか。
 後年、「日高義樹のワシントン・リポート」という番組で毎年正月にキッシンジャーが日高氏と対談するのが恒例になったが、あれで内心日高氏や日本をバカにしてたんじゃなかろうか、などと思ってしまう。たまたま僕が見た回では、日高氏がキッシンジャーから中国崩壊とか暴走とかいった言葉を引き出そうとするも彼が全然それに答えてくれないので露骨につまんなそうな表情をしているのを目撃したことがあるが、キッシンジャー当人は最晩年まで中国重視だったし、中国からも大歓迎されていたんだよな。

 1973年には、キッシンジャーがアメリカ交渉団代表となって北ベトナムと停戦に合意、「パリ協定」を結んで、ベトナム戦争をひとまず終結させた。これが評価されてその年のノーベル平和賞を受賞している。この手の和平実現での平和賞受賞は交渉した双方が受賞するのだが北ベトナム側の代表は受賞を辞退している。この二年後にはキッシンジャーが怒らせた佐藤栄作も同平和賞を受賞しているし、この賞の選考にはときどきヘンなものがあると改めて思ってしまう。
 同年9月にキッシンジャーは大統領補佐官を兼任したまま国務長官に就任。直後に勃発した第四次中東戦争では中東情勢の安定化をめざして調停役に走り回る。同時期ニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」のために辞任にお追い込まれる寸前で、ホワイトハウスで酒に溺れて政務などとれる状況になく、キッシンジャーが大統領並みにスタッフを仕切って対応にあたっていたという。
 アメリカは現在でも中東情勢ではイスラエルの肩を持つくらいだから、この時も基本そうだったのだけど、ユダヤ系であるキッシンジャーは事態が悪化して米ソ直接対決みたいなことにならぬようイスラエル首相をなだめたりおどしたりして暴走を防ぎ、同時にエジプトやサウジなどアラブ諸国をソ連の影響から切り離し、現在にいたる中東の国際秩序への流れも作っている。

 キッシンジャーはニクソン退任後のフォード政権でも国務長官をつとめ、1977年のフォード退陣とともにアメリカ外交の中心からは去った。年数でいえばそれほど長期間やってたわけでもないんだけど、その影響力は亡くなるまでずっとあったと言っていい。本人がかなりの個性のせいか、同じ共和党政治家、外交官関係者とあれこれ対立・軋轢があったという話もある。また、「アメリカの利益になるならどんな相手とでも」という外交姿勢で、とくに「人権を守らない強権国家でも秩序が維持できるなら評価する」というパターンで特に南米チリの右派クーデタを支援、独裁者ピノチェトを後押ししたことなど悪い評判も多い。今度の訃報を受けてアメリカでもいろいろ論評が出ていたが、「功罪半ば」とする意見が目についた気がする。

 2001年の9.11テロの直後、アメリカ国民を勇気づけようというCMが制作され、そこで当時78歳のキッシンジャーが野球のホームベースに滑り込む、というアクションを見せる場面があり、年なのに元気だなぁ、と思ったものだが(「特撮」も使われたみたいだけどね)、それから100歳まで元気を保ってしまったことには恐れ入る。
 2016年に訪中して大歓迎されていたが、今年7月にも訪中、またも中国政府要人がこぞって面会するなど大歓迎されていた。トップである習近平主席も面会し、「100歳にして百回以上の訪中」をしたことをたたえていて、そんなに行ってたかと驚かされた。この時の訪中も、ここ最近米中の軋轢がいろいろあったので、それを和らげてAPECの際の米中首脳会談につなげる役割を担っていたと言われ、100歳にしてバリバリ現役の「密使」(まぁ秘密じゃないけど)をつとめていたわけだ。

 そんなことがあったので、7月に次の史点ネタ候補にいれていたんだけど、ずるずると書けないうちにご本人が亡くなってしまった。つい先日まで現役ぶりを見せつけられていたので100歳という御年ながらその訃報に驚かされた。もちろん中国では大々的に報じられ、中国政府高官が追悼の意をあらわした。ロシアのプーチン大統領までがキッシンジャー遺族に弔意を送ったと報じられていて、キッシンジャーが最近のプーチンをどう評していたか知らないが、案外「好みのタイプ」だったかなぁ、とも思ってしまった。


2023/12/18の記事

史激的な物見櫓のトップに戻る