しりとり歴史人物館
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第2回
早すぎた天才か、それともただの変人か?
ジョルダーノ=ブルーノ
Giordano Buruno(1548−1600、イタリア)
ブルーノ像

◆はじめに

いやあ、長かった。前回掲載から2ヶ月以上が経過しちまいました。ほんと、情けない。当初毎週更新とか言っていたのに。
まあ、言い訳がましいことを言いますと、今回取り上げるこのお方がなかなか難敵だったんですね。実は「尊氏」書いた時点で次はこの人、と決めていたのです。ところが生半可な知識じゃ、この人に立ち向かえないんですよ。とんでもない勉強になりました。
「ジョルダーノ=ブルーノ」という名前をご存じの方は案外少ないんじゃないかな?長いお話を読むのが苦痛だという方のために、ごくごく一般的な紹介をしちゃいましょう。「コペルニクスの地動説に賛成して、説を撤回しなかったために火あぶりにされちゃった人」です。こう書くと「ああ、あの!」とか言う人いるでしょうね。「なーんだ、つまんなそうな偉人伝だな」とか思ってよそのページへ出かける人もいるかも知れません。
でもね、このブルーノと言う人、なかなかそう簡単に割り切れる人じゃないんですよ。そこが面白いんで、私が興味を持っていたわけです。さて、では「ブルーノ噺」のはじまり、はじまり・・・・


◆生い立ち〜逃亡へ

 ジョルダーノ=ブルーノは名前で何となく見当がつくようにイタリアの人間です。南イタリアにナポリという有名な都市がありますが、彼はその近くのノラという町に1548年に生まれました。この町、なんでもコロコロと支配者が変わる中、なんとか兵士の勇敢さだけで独立を保っているような自由都市だったそうで、ジョルダーノの父親もその兵士だったと言われています。成長するとジョルダーノはナポリに遊学し、数年後17歳の時にサント・ドメニコ修道院に入り、宗教者としての人生を始めます。ここで「ジョルダーノ」という名に改めました(おいっ、じゃここまで「ジョルダーノ」と平気で書くな!って言われそうですが、それ以前の名前が分からなかったもんで)

 兵士のせがれが何で唐突に宗教者になったかについては、色々言われてるようですが、結局のところ判明していません。もっとも彼のその後の人生を見ていると、どうも物事をトコトンまでつきつめて考えちゃう性格だったと思われるので、その辺が宗教者になった最大の原因でしょう。なかなか模範的修道士だったようで、1571年(23歳)の時にローマ法王から讃辞をいただいてるそうです。その後のことを考えるとなかなか皮肉な話であります。

 さて、ブルーノが修道生活を送った当時のナポリがどんな状況だったかと言いますと、一言で言うと「混沌」でした。世界史の教科書で必ず覚えさせられる「宗教改革」というのがありますね。何かすんなり改革しちゃったような印象を教科書からは受けますけど、実際はとんでもない。特にイタリアでは対抗する「反宗教改革」の嵐が吹き荒れていました。具体的に何をするのかというと「異端審問所」というのを作って、宗教の正当から外れた思想を持つ「異端」の疑いのある人物を調べ上げるんですね。それでめでたく「異端」と認定されますと、即刻「火あぶり」です。「火あぶり」はかのジャンヌ=ダルクもそうでしたが、反宗教的な人物に課せられる最も残酷な処刑です。だって生きたまま焼き殺されるんですよ、なかなか死なない上に思いっきり熱い。一応処刑前に悔い改めて反省の意を示すと、首を絞めて楽に殺してくれたらしいですが(助けてはくれないんです)。物の本によると、ブルーノが修道院で勉強していた十年間に、そのナポリのメルカート広場で30人以上が「異端」と認定されて火あぶりになったそうです。

 ところがそんな状況の中でも、ナポリという町は港町特有の自由さが残っていたんですね。錬金術師として知られるデッラ=ポルタ が堂々とナポリを代表する文化人をやってましたし、カトリックの大国スペインから「異端」とされた人々がゾロゾロとこの町に亡命してきていました。そんな状況ですから、双方の文化的せめぎ合いは大変なものだったでしょうし、ジョルダーノ君の学究生活も落ち着かないものだったと思われます。

 ちょっと前にも書きましたが、ブルーノは何かを分からないまま放っておく、ということに耐えられない性格だったんじゃないかなぁ、と思うわけです。何やら周囲でゴチャゴチャ騒いでいる、時々町の広場で人が丸焼きにされている、いったい何がそうさせてるんだ?好奇心も強かったんでしょうね。自分はレッキとした正統派の宗教者のハズなのに、敵対する側であるはずの「異端」の考えてる事に興味を持ってしまうのです。そこでブルーノは禁書とされているエラスムスなんかの著作を自室でこっそり読み始めます。やがてブルーノの言動は、周囲からもハッキリ分かるほど「異端」的なものとなっていきます。

 そして1576年、ブルーノはついに異端審問所の呼び出しを受けてしまいます。こりゃヤバい、ってんでブルーノは愛読書も自室にほったらかしにして修道院を逃げ出します。時にブルーノ28歳。長い逃亡生活の始まりでした。


◆逃亡の中で

 さて修道院を飛び出したブルーノでしたが、まずはローマに隠れます。ところが追っ手が迫った事を知り脱出、その後二年間北イタリア各地を転々とします。やがてジュネーブに逃げたブルーノはフランスにしばらく滞在しています。この逃亡の間、ブルーノはどうやって食っていたのだろう、と素朴な疑問も感じますね。詳しいことは分からないんですが、その高い学識をフル活用した事は間違いないようです。あちこちの大学の臨時教師になったり貴族の客分なんかで暮らしていたようです。

 さて、この間にヨーロッパ人の世界観にすくなからぬ衝撃を与える天体ショーが起こります。1577年、一つの彗星が夜空に出現しました。天文学者ティコ=ブラーエがこの彗星の運行を詳細に観測し、「彗星」という天体現象について衝撃的な発見をします。「彗星は月より遠くにあるに違いない」というものです。あ、今ズッコけたあなた、当時のヨーロッパの宇宙観を知っとかなきゃいけませんね。

 まず知っておかなければならないのは、中世ヨーロッパの宇宙観を支配していたのは古代ギリシャの学者アリストテレスによる宇宙観でした。とにかくこれは万物の全ての運動法則から宇宙構造まで徹底的に体系化しているもので、とてもじゃないがこれに疑問をとなえることなど出来なかったわけです(その影響は現代まで続いています。最近「フィフス・エレメント」って映画があったけど、あれもモロにアリストテレスなんです)。アリストテレスの宇宙観によりますと(凄く難しいので簡単に)、宇宙の中心にある地球の周囲を「天蓋」といういくつもの透明な球体(ガラス製のボールを考えると分かりやすい) が覆っていると考えてました。この「天蓋」の上に太陽や星、月や惑星がそれぞれに乗っかっていて、それぞれの天蓋が運動することで地球の周りを回っている、とみなします。これによって一緒に動かない天体の運動を説明しちゃうわけです。この地球とそれを包む天蓋を含めた世界を「元素圏」と呼びます。彗星はこの元素圏の上部で発生する燃焼だと考えられていました。

 これで一応天体現象は説明がつくようにみえるんですが、実際に観測すると色々と矛盾が起こります。むしろ「地球は中心ではなく太陽の回りを回ってるんと違うか?」と考えた方が観測結果と矛盾しない。この事はすでに古代ギリシャでも気が付いた人がいるにはいたようですが引き継がれず、アリストテレス学派はこうした観測上の矛盾は「天蓋」の数を増やすことで解決しちゃったりしてます。これに対しようやく「地動説」を唱えたのが、あのコペルニクスです。ブルーノの生まれる少し前なんですが、コペルニクス(そういやこの人も修道士だ)は観測の結果から「地動説」の方が説明が付きやすいことを「再発見」したわけです。ただ、彼の研究はあくまで「数学的にこの方が説明しやすい」という学説にとどめられ、すぐに宗教界に衝撃を起こすものではありませんでした(だいいち、コペルニクスの著作は法王に献じられています)

 長々と書きましたが、とにかくこんな状況の中、ブラーエの観測結果が発表されたのです。要するに「彗星はどうも月の向こう側にあるとしか思えない。つまり、彗星は「元素圏」の外にあることになる」 という結果でした。早い話が、アリストテレスの宇宙観は正しくなかったことが判明したわけです。この観測結果はコペルニクスの説を裏付けたばかりでなく、それまで支配的であった教会の教える世界観に打撃を与えるものでした。「異端」とされ、従来の権威に追われる身となっていたブルーノにとっても、この事実はかなり関心を引くテーマであったようです。「なーんだ、人のこと異端よばわりしておいて、自分が間違ってんじゃねーか」という心境だったんでしょう。以後、ブルーノはコペルニクスの地動説を学び、自らの宇宙論、哲学論を築き上げていきます。もっとも天文学は本来彼の専門じゃなかったんですが。

 1583年、どういう訳かフランス王アンリ三世の紹介状をもらったブルーノは、イギリスに渡り、オックスフォード大学にもぐりこんでいます。この時のブルーノの印象を当時ジョージ=アボットという人が書いているのですが、なかなか面白いので現代風に抄訳してみましょう。
「イタリアの渡り鳥、あの魔術にとりつかれた神学博士、自称フィロテウス・ヨルダーヌス・ブルーヌス・ノラーヌスという体よりも長い名前を持った男は(要するに身長が低いと言いたいらしい) 、大学で開かれたポーランド公歓迎の宴席で、自慢の腕を見せて名前を売り込もうと躍起になっていやがった。その後大学にやって来て手品師さながらに袖をフラフラさせながら、宇宙論をお国訛り丸出しでクドク講義しやがった。中身と言えばもうコペルニクスの地動説をかじって紹介しているだけ。回っているのは地球じゃなくて、あいつの脳味噌の方なんじゃねーか?」
 いやはや、さんざんなもんです。アボット氏の悪意もないとは言えませんが、どうもブルーノ自身の性格も災いしていたようですね。そんなこんなで大学全体からひんしゅくを買ったブルーノは、学長に怒りの抗議文を叩きつけて、ロンドンへと去るのであります。

 ロンドンに入ったブルーノはロンドンの印象を「ごみごみして、汚くて、水たまりだらけ」と記しています。イギリス人についても「残念ながらイギリス人には何一つ美点を見いだせない。まるでオオカミとクマの集まりのようで、その敵意に満ちた目ときたら、餌をとりあげられたブタのようだ」とこれまたさんざんな評価をしています。まぁオックスフォードの直後ですから気もすさんでたんでしょうが、こんな事をズケズケ言うあたりが敵を多くするゆえんでしょう。ロンドンではフランス駐英大使の屋敷にやっかいとなり、あのエリザベス一世にも謁見しています。なぜかここでブルーノはあの女王を大絶賛し「英雄的狂気」という著作で女王を女神とまで称えています。後にこれが彼の罪状の一つに挙げられたほどです。

 ブルーノは比較的落ち着いていたこの時期に多くの著作をものしています。彼の代表作「無限、宇宙および諸世界について」 はまさにこの時期に書かれています。この中でブルーノは自らの構想する宇宙観を体系化していきます。ブルーノはアリストテレスの宇宙像の矛盾と誤りを追求し、従来の宇宙観を完全にブチ壊す論を展開するのです。これはコペルニクスやブラーエでも追いつけない、突拍子もない宇宙観でした。

 要するに、ブルーノは「無限の宇宙」という概念を初めて提示します。太陽があり、それを回る地球や惑星、月(彼はなぜか月を惑星の一種と見なしていた。当時としても明らかな誤解で、この辺が彼が科学者と呼ばれぬゆえん)がある。そしてその外には?また別の太陽が存在し、それを回る惑星があるはずだ。それらがどこまでもこの宇宙に広がり、それは無限である。この中で、万物は変化し、生成を繰り返すだろう。従来の閉じられた宇宙観をうち砕き、現代にも通じる宇宙観(さすがに銀河系だの膨張論だのはないけどね)を示した、これがブルーノの最大の功績と言われます。ただ、月の件でも言えるんですが、ブルーノの論は哲学的な論証によって導き出すもので、科学的とは言い難い部分が多々あります。魔術や記憶術にまで著作の手を伸ばしているのもそのあらわれです。

ジョルダーノくん
◆帰国、そして死

 さて大使の帰国と共にロンドンを去ったブルーノはドイツに行き、さらにいくつもの書物を執筆しました。そしてドイツ各地を転々をしたブルーノはついに1591年(43歳)に帰国を決意します。ヴェネチアの有力者モチェニーゴの熱心な勧誘があったためでした。

 イタリアに入ったブルーノはいきなりヴェネチアには赴かず、数ヶ月パドヴァに滞在し、ヴェネチアとここをコロコロと往復しています。この間何をしていたかについては明確な説はないようですが、パドヴァ大学の数学教授の席がたまたま空いており、これにありつこうと運動していたとも言われます。しかし運動は失敗に終わったようで、翌年この数学教授の席は別人に取られてしまいました。ブルーノを出し抜いて数学教授におさまった人物の名は、ガリレオ=ガリレイと言います。

 運命とは残酷なもので、就職に失敗したこの年の五月、ブルーノはカトリック教会の手に捕らわれます。モチェニーゴが彼を裏切って売り渡したのです。原因はいまいち分かりませんが、教授就任失敗も何らかのかかわりがあったかも知れません。ヴェネチアで審問を受けたブルーノはローマへ連行され、サン・タンジェロ城の石牢に、何と八年間も幽閉されました。審問の中で、彼への非難がもっとも集中し、なおかつ彼がガンとして撤回しなかったのが「宇宙の無限性」「万物は輪廻する」という二点だったそうです。後に同じく審問を受けたガリレオ=ガリレイは地動説の撤回を認めて死罪を免れてますから(それでいて後で「それでも地球は回る」とか未練がましくつぶやいたそうですが)、ブルーノだって助かる可能性がゼロであったとは言えません。しかしブルーノは科学者ではなく、哲学的な論理によって宇宙観を構成していました。このためにブルーノは撤回せず、また教会側も許さなかったのだと思われます。

 1600年2月17日、カムポ・デ・フィオーリ(花の広場)で、ジョルダーノ=ブルーノは裸のまま柱に縛り付けられ、火あぶりに処されました。悔い改めるよう十字架が差し出されると、ブルーノは顔をそむけ、こう言ったそうです。
「裁かれている私よりも、裁いているあなた方の方が、真理の前におののいているではないか?」
凄い決めゼリフですね。こうして一代の奇人・ジョルダーノ=ブルーノは炎の中で52歳の生涯を終えるのです。


◆後世の評価

 ブルーノの死後、「異端」である彼の著作は当然のように禁書のブラックリストに並べられ、長いこと顧みられることがありませんでした。彼が再評価されるようになったのは何と19世紀に入ってからで、ドイツのロマン主義者シェリングにより一躍世界史の有名人の仲間入りをさせてもらえました。母国イタリアでは国土の統一運動の中で「新時代開拓の殉教者」として称えられ、多くの研究がなされるようになりました。

 ブルーノはよくコペルニクス、ガリレイと並んで地動説を唱えて教会に弾圧された科学者、みたいなイメージをよく持たれているようです。しかし本文中でさんざん書きましたが、彼は科学者ではありません。純粋に哲学者、宗教者なんですね、あくまで。最近ローマ法王が「ガリレイ裁判は誤りであった」と公式に認めましたが、ブルーノに何か謝ったという話は一応私は聞いていません。その理由もその辺にあるのかもしれません。
 まあそれと、彼を見ていると「時代の先駆者」と言われる方々は、どうも同時代人から冷たく扱われる事が多いようですね。理解されないって部分もあるけど、本人が実際に奇人変人という事も大きな理由のようです。人と違う部分が多いからこそ、人と違う発想が出来る、ということなのかもしれませんね。

1997/11/17
次回は「の」から始まる人物です。今度は早く更新しますので、よろしく。
 
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