しりとり歴史人物館
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第3回
世紀の軍神か、稀代の愚将か?
乃木希典
のぎ まれすけ(1849−1912、日本)
乃木像


◆はじめに


 さて、第三回は日本の軍人さんの登場です。
「乃木希典」、この名前は戦前にはほとんど神格化され、ホントに神様にされちゃった(乃木神社)ぐらいの有名人ですが、今は教科書にも載ってませんから知らない方もいるかも知れません。例によって簡単に紹介しちゃいましょう。「日露戦争で旅順を陥落させる功績を挙げ、明治天皇の死に際し殉死しちゃった将軍」です。勇ましい戦争マニアは大喜びで読むかもしれませんが、乃木希典という人の戦歴を調べますと・・・・知る人ぞ知る、です。知らない方は以後をよーくお読み下さい。では、はじまり、はじまり・・・・。


◆生い立ち〜西南戦争まで


 乃木希典は明治の人脈分類から言いますと、完全な「長州閥」なのですが、生まれは江戸です。彼の家は長府毛利藩(本場の長州藩の親戚筋で支藩にあたります)の藩士でして、希典はその藩の江戸屋敷内の長屋で誕生しました。その後は長府に行き、そちらで育ったようです。

 希典が十一歳の時、親戚筋の一人の若者が、その過激な思想のために幕府に捕らわれ、処刑されました。そう、あの吉田松陰です。希典と松陰に直接の面識があったかどうか定かではありませんが、身近にこういう人が存在していたことは、希典の精神構造に大きく影響を与えていると思われます。
 もっと決定的だったのは松陰の叔父、玉木文之進に十六歳で弟子入りしたことでしょう。玉木文之進という人はあの「松下村塾」の本来の設立者であり、松陰に徹底的な教育を叩き込んだ(文字通り「叩き込んだ」らしい。あまりのスパルタぶりに松陰の母は松陰に「もうお死に」と言ったそうな)張本人であります。こんな人に教育されたのですから、幼い希典もけっこう地獄を見たかも知れません。ちなみにこの玉木文之進は明治に入ってから「萩の乱」に関与し、見事に切腹を遂げています。何やらこのあたりも希典の精神構造に大きく影響を与えているようです。

 さて希典の成長期、日本は激動のまっただ中であります。希典が十八歳の時、幕府と長州藩が全面戦争に入り、支藩の藩士である希典も九州方面へ出陣しました。これが彼の最初の戦歴ということになるのですが、見事「負傷退場」に終わっています。で、藩に戻って明倫館文学寮で詩文の才能を発揮したりしているうちに戊辰戦争は終了してしまいました。

 さて世は明治となり、希典はいとこの御堀耕助のすすめもあって軍人になることにします(これが彼の人生最大の失敗のような気がするんですが) 。それで少しばかり西洋式軍事教育なんかも受けてみましたが、同期の者が次々と東京に呼ばれて士官になる中、一人乃木だけには声がかからなかったそうです。この頃から「乃木は軍人に不向き」という評価があったらしいんですね。希典は悶々として長府にこもっていましたが、チャンスが唐突にきます。かねて希典の面倒を見ていた御堀が死の床につき、希典がこれを見舞います。ところがこれと同時に薩摩の大物・黒田清隆 が御堀を見舞いに来たのです。御堀は希典を黒田に紹介し、陸軍に入れてくれるよう頼みます。黒田は承諾し、御堀の死後、希典を東京に呼び出して彼をいきなり「陸軍少佐」に任命しちゃいます。おかげで軍人・乃木希典の軍歴はいきなり「少佐」から始まる、という妙な具合になったわけです。時に明治四年十一月。希典は大はしゃぎで軍服を着て記念写真を撮ったり、友人に料理屋でおごったりしています。

 単に藩閥のコネで軍人になったとしか思えない希典でありますが、その真価が問われる事態がやってきます。明治十年、西郷隆盛をかついだ不満士族が挙兵し、「西南戦争」 が勃発したのです。この時希典は熊本鎮台に赴任しており、まさに最前線で薩摩軍と正面衝突しなければならなくなりました。熊本城をめぐる攻防戦のさなか、乃木率いる四百余人の部隊はほぼ同数の薩摩軍と遭遇、大激戦となります。昼間は良かったんですが夜に入ると薩摩軍の抜刀突撃のため乃木隊は崩壊、退却を余儀なくされます。この辺は資料により色々混乱があるようで正確な事は分からないんですが、とにかく軍旗を持っていた兵士が戦死し、軍旗が奪われてしまったという事だけは事実です。軍旗は敵の手に渡ってさらしものとなり、笑いのタネにされちまいます。

 もちろん希典は深く反省し、死を願って戦場でしばしば危険をものともせず戦いました。しかし逆にこれが軍内の評判を呼び、また同郷の親友・児玉源太郎「乃木は自殺しかねない」と恐れ、監視しやすいようにと希典を司令部の参謀に推薦したこともあり、希典はめでたく中佐に昇進します。もちろん軍旗を奪われた罪は不問に付されます。

 何かすこし意地悪な言い方をしましたが、希典自身が深く傷ついていたことは確かです。薩摩軍が去った後、希典が突然行方不明になるという珍事が起こり、捜索の結果、三日後に山中で断食しているのが発見されました。乃木の自殺癖はこのころから芽生えているようです。


◆結婚、家庭生活


 その後、希典は人脈上の都合から薩摩系の士族の娘を妻に迎え(静子。もとは「お七」といったが希典が江戸時代の放火犯「八百屋お七」と同名なのを嫌い、改名させた)ていますが、この時期ものすごい遊び人と化します。毎日のように料亭で宴会を開いて「乃木の豪遊」として有名になり、たまりかねた静子夫人が一時子供を連れて別居したほどです。なんでそうなったかはよく分からないんですが(もともとそれほど遊び人の性格じゃないと思われますし) 、軍旗事件のストレスを発散しようとしていたのかも知れません。また乃木の母親が嫁の静子夫人をいびりまくった事実もあるようです。おまけに乃木が大の母親思いで母親の言うことだけは聞くんですよね。有名な話で、寒い日に妻が乃木に羽織を着せようとすると、乃木は「いらぬ」と断りますが、母から「着なさい」と言われたらすぐに着たとか。やんなりますわな、そりゃ。

 明治十九年、三十八歳の時、希典はドイツへ留学します。当時日本陸軍はその軍事面をとくにドイツから学んでおり、希典もその流れでドイツへ行った訳です。ここで希典はドイツの軍人根性にいたく感銘を受けたようで、以後自らに徹底した軍人精神の具現を課すことになります。帰国後、あるところで「我が国の宴会なるものに至っては嘆息すべきこと、また言うに忍びざること、多々なり」とか勝手なことを言っています。この辺で性格が固まったらしいですね。


◆日清・日露戦争、そして旅順攻撃


 ドイツからの帰国後、乃木は突然休職して那須にこもっています。理由は色々言われてるんですが、中でも面白いのが部下の前で入れ歯を落として笑われたから、というもの。真偽はともかくこの時期の乃木は休職と復職を繰り返します。そんなところへ明治27年に日清戦争が勃発。乃木は第一旅団を率いて遼東半島へ上陸、旅順要塞を一日で落とす功績を挙げます(たぶん乃木がまともに勝利した唯一の戦闘)。あとから考えるとこれがまずかったのでありますが・・・。

 戦争終結後、乃木は獲得地の台湾総督になったりもしてますが、軍人としてはまたもホサれます。そうこうしているうちに今度は日露戦争が勃発。どう考えても力が足りない日本軍は再び乃木を引っぱり出し、「第三軍」を構成して乃木にその指揮を任せます(この過程もどう見ても派閥人事だったわけですが) 。その攻撃目標はまたしても旅順要塞でした。前回たった一日で落とした実績を買われ、また乃木も甘く見ていた部分があるようです。しかし、ロシアが東洋の拠点として築いた旅順要塞は前回とは全く異なる近代要塞。分厚いコンクリートで固められ、新発明品の機関銃が装備されていました。
 で、乃木軍はこれに「銃剣突撃」をかけるわけです。まぁ当時の戦い方ってこれが基本だったわけですが(日本軍はこの調子で太平洋戦争までやってしまった)、この方法で近代要塞へ突撃しようというのは無茶でした。乃木は「死傷一万で落とせる」と本人としてはかなり厳しい予想を立てていましたが、第一回総攻撃はそれを軽く超える死傷一万五千八百人という犠牲を出し、なおかつ要塞にかすり傷一つ付けられないという惨憺たる結果に終わります。

 しかし第三軍による旅順攻撃はこれからが悲惨なのです。一度目の失敗に懲りず、全く同じ戦法で第二回総攻撃が行われます。結果は死傷四千九百人。これと前後して海軍から「203高地(旅順郊外の高地)を攻撃せよ」とか東京から「28サンチ砲を送ってやるから」といった提案がなされますが、乃木軍参謀達はこれを無視。いちおうその後「203高地」の重要性を認めて攻撃にとりかかりますが、その時にはロシア側も万全の用意を固めており、またいたずらに犠牲者を増やす結果になります。第三回総攻撃(数え方により第四回)では決死の「白襷隊」三千人まで繰り出して攻撃をかけますが、ほとんど要塞にかすりもしないうちに全滅。そうこうしているうちに死傷者は五万六千人を超えてしまい、その乃木軍の無謀さに世論も非難ゴウゴウ、大本営も乃木更迭を一時決意します。しかし「やめさせたら乃木は生きてはおるまい」という明治天皇の一言で更迭は流れます。乃木はこれでいて不思議と人に好かれるところがあったようで、明治天皇もお気に入りだったようです。まぁあと乃木を弁護するとしたら参謀長の伊地知幸介を始めとする参謀連中の頭が悪すぎたんですけどね(凄まじいのがきっちり毎月26日に攻撃したというエピソード。26日に南山攻撃が成功したので「縁起がいい日」ということ、さらに「26は偶数で割り切れるから要塞を割れる」という意味不明の理由。伊地知はマジでこう答えている)

 さて、ここで同じ長州人で友人の児玉源太郎が再登場します。彼は当時満州にあって参謀として日本軍を切り回していたわけですが、「旅順が落ちなければ国が滅びる」と思い詰め、ついに持ち場を離れて旅順に向かいます。そして旅順につくやいなや乃木に面会、そしてその第三軍の指揮権を「一時預かる」ことになります。よく考えると軍規を無視したもの凄い乱暴な話なんですが、それだけ日本軍がせっぱつまっていたわけです。
 で、第三軍の指揮権を奪った児玉は203高地へ攻撃の主力を集中、東京から持ってきた28サンチ砲で砲撃して敵の反撃を封じつつ総攻撃をかけることになります。この案に乃木軍参謀達は猛反発しますが、児玉に一喝されやむなく実行。そしたら死闘12時間の末、203高地はあっさり陥落するのです。占領した203高地から旅順は丸裸となり、まもなく旅順要塞自体が陥落することとなります。使命を果たした児玉はただちに元の職務に戻り、旅順開城の瞬間には立ち会っていません。

 旅順に入城した乃木は敵将ステッセルと水師営で面会。この時の乃木の武士らしい敵将を思いやる態度が世界に報道され、絶大な賞賛を浴びることになります。乃木にはどこか神秘的で人を魅了するところがあったのは確かなようで、明治天皇ばかりでなく従軍外国記者にも熱烈なファンを生みます。それもあってか乃木は日本海海戦の東郷平八郎と共に日露戦争の名将として世界的な有名人となってしまうわけです。しかしその彼の功績とされた旅順攻略が、実は飛び入りの児玉の手によるものであったことは、後々まで公にされませんでした。なお、この日露戦争では乃木は二人の息子を両方とも死なせています。

まれすけ君
◆衝撃の殉死


 日露戦争後、乃木は名将として称えられ、国民の絶大な人気を得ました(旅順攻略中はクソミソに言ってたくせに)。当時の新聞が行った各界著名人人気投票でも二位の東郷平八郎を大差で押さえてトップに立っています。また、前々から明治天皇に気に入られていた乃木は明治40年には学習院院長に任命され、後の昭和天皇を始めとする皇族の子弟の教育にあたったりしています。

 しかし、その乃木を愛してやまなかった明治天皇が明治45年8月に危篤に陥ります。この事が国民に知らされ大騒ぎになっている時、乃木はたまたま子弟を引き連れて東京から出かけていました。横浜駅で異様な顔で居並ぶ兵士達を見て、「何かあったんですか?」と聞いたという話が残っています。聞かれた方も相手が相手だけにビックリしたらしい。

 そしてついに明治天皇が亡くなり(特例として乃木には直後に伝えられた)、年号は大正となります。そして大喪が行われた9月13日、乃木は明治天皇の葬列が宮城を出たその時に妻の静子とともに自殺し、明治天皇に殉じました。まず妻が先に自らを刺し、乃木がこれにトドメを指した上で、今度は乃木自身が見事に作法通りの切腹(十字に切り、自ら首を刺してトドメとする)したのです。その早朝に夫婦そろって写真を正装で撮り、遺書や辞世の歌まで残す周到さでした。あまりの周到さのために当時から絶賛の一方で「カッコつけやがって」という批判があるんですがね。

 一応遺書によると西南戦争の際の軍旗喪失事件がずっと尾を引いていて、いつか死のうと思っていたという趣旨であります。また遺書には一緒に死んだハズの夫人あての内容もあるため、どうやら夫婦一緒の殉死は当日急に決まったことのようです。どうも乃木が直前にうち明けたら妻が「一緒に」と言いだし、「じゃあすぐ死のう」という展開になったらしい(司馬遼太郎の『殉死』)。夫人の「今日ばかりは」という声を聞いた、という家人の証言もあるそうで真相はそんなところかも知れません。ともあれ、乃木の殉死は世界中に報道され、乃木の神格化の道は決定的となります。実際「乃木神社」などという彼を神として祭る神社も出来ることになります。


◆その後の評価など


 戦前において、「乃木将軍」の神格化は凄まじいものがありました。その戦争のやり方から私生活のあり方まで全てが神格化され、実はてんで戦争下手だったとか家庭内はかなり不和であったという事実はいっさい抹殺されます。別に乃木個人が悪いことをした、というつもりは毛頭ありませんが(人間的には周囲の人に対してかなりのカリスマを有していたとは思う)、粉飾・宣伝された乃木の生涯はそのまま日本人の精神支柱となっていきます。また日露戦争じたいがアジア人に希望を与えたのも事実で、乃木の名は彼らの間でも知られるようになります(張学良が乃木の漢詩をそらんじていて「尊敬している」と言ったのには正直驚いた。もっとも彼は日中戦争時の日本は憎悪してるけどね)

 その後の日本軍は苦労してやっと勝った日露戦争の反省点を全く考慮しませんでした。というか、そのまんまマニュアル化していくのです(日本人の得意技だな)。だから太平洋戦争のあちこちで「銃剣による機関銃への肉弾突撃」という旅順攻撃そのまんまの作戦が展開され、いたずらに犠牲者を増やしたことは否定できません。どうも「根性入れてやればどうにかなる」というのは日本人の悪い癖のようです。乃木にもその非合理的な傾向があるのは確認しておかなければなりません。

 そして戦後、乃木の名は教科書から一切抹殺されました。東郷平八郎に関しては文部省が「覚えるべき著名人」にあげたりして物議を醸しましたが、乃木は戦前アレルギーをそのまんま引き継ぐキャラクターのようで、話にも出てきません。
ですが、抹殺するのではなくとりあえず変なこと考えずに虚心に生涯を見てあげるというのも必要なんじゃないですかね。こうしてみればなかなか面白いわけだし、日本人に反省を迫る部分もちゃんと出てくる。とりあえず「歴史」を学ぶ入り口としては「伝記」なんかも良いとは思うんですけどね(もっとも絶賛モノはやめた方が良いが)

1998/5/16
次回は「け」から始まる人物です。今度こそ早く更新しますので(涙)、よろしく。


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