しりとり歴史人物館
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第4回
強烈な独裁者か、天才的革命家か?
ケマル=アタチュルク
(1881−1938、トルコ)
ケマル像


◆はじめに


 日本人のほとんどにはなじみの無い人ですね。「トルコ」っていう国や民族についても詳しく知ってる人はほとんどいないし。いや、この文書いている私ですら良く知りませんでした。「ケマル=アタチュルク」だってたまたま名前を知っていので「乃木希典」の次にしてみただけです。それから色々調べたんですが、いやぁ、なかなか凄い人であります。
 「奇しき因縁」という奴でしょうか、前回の主人公・乃木希典は実はトルコを訪問し、そこで熱烈な歓迎を受けています。なぜか?彼が日露戦争の「英雄」だったからにほかなりません(実態がどうだったかは前回をご覧下さい)。なんせトルコはロシアと国境を接し、長年に渡って苦戦を続けていましたから、反ロシア感情がもの凄かったんですね。そんな折り、東洋の端にある小国・日本が大国ロシアをうち破ってしまった(まぁ厳密に言えば「引き分け」に近いんだけど)。親日感情が盛り上がったのは当然でありました。
 で、「我々も日本に倣って近代国家になろう!」という動きがトルコに起こってきます。そして革命と戦争の嵐が吹き荒れることになるのですが・・・その時代にまさに天から下されたように現れたのが、「独裁者にして革命家」ケマル=アタチュルクその人なのであります!
では、このなじみの薄い巨人の伝記を始めてみましょうか。


◆少年期

 トルコ近代化の父とも呼ばれるケマルですが、正確な彼の出生年月日は不明です。1881年のいつかだろうと言う程度だそうで。一応現在のトルコ政府は公式に決めているそうですが、ケマルの生まれた当時、あまり誕生日なんて気にしなかったらしいんですね。
 「ケマル」と書きましたが、実は彼は生まれたときからこの名前だったわけではありません。親には「ムスタファ」というイスラム圏ではごくありふれた名前をつけられています。ちなみにイスラム諸国の多くがそうであるように、彼にも「姓」というものはありませんでした。「アタチュルク」という「姓」ははるか後につけられることになります。それも・・・あ、それはずっと先の話ですね。

 さてこの少年ムスタファですが、子供の時分からなかなか異彩を放っていたようです。普通の子供同様、公立小学校に入学しますが、コーランの暗唱ばかりさせられる授業に反発し、いきなり登校拒否。やむなく両親は西洋流教育の私立学校に通わせますが、ここでも教師や同級生とケンカばかりしていたそうで、まるで勉強に励んでいた様子はありません。ただ「歴史」と「数学」だけ異様に強かったそうです(実はナポレオンもそうだったらしい。うーん、筆者は「歴史」はともかく「数学」はちょっとねぇ)。その後父親が急死したため経済的理由からここも退学するハメになります。

 さてムスタファ少年はその後伯母の支援で再び小学校に入れさせられますが、またしても退学します。その経緯が凄い。なんとムスタファは親に無断で陸軍幼年学校の入試を勝手に受け、合格してしまったのです!当時彼はまだ11才(推定)。実は年齢条件を満たしていなかったのですが、本人が年齢をごまかしたことと(前述のように戸籍なんていい加減な時代です)、数学が満点であったこととで(!)見事「合格」となってしまったのでした。なんで陸軍幼年学校に入ろうとしたかという理由も凄い。後年の本人曰く「制服にあこがれた」のだそうな。動機はともあれ、以後彼は軍人の道を進むことになります。

 さてこの陸軍幼年学校に同じ「ムスタファ」という名前の数学の教師がいました。彼はこの異様な少年の才能に感心し、低学年への補習教師の仕事を任せるのですが、この時自分と区別するため「ケマル(完全な)」という第二の名前を彼に与えます。これがトルコ史上最大の名前になるとはムスタファ先生も思いも寄らなかったでしょうなぁ。


◆「青年トルコ党」革命

 時代が人を生むのか、人が時代を作るのか。昔から言われてて決着のつかない議論ですが、まぁ両方なんでしょうかねぇ。ケマルが子供っぽい動機から軍人の道を進み始めたあたりから、トルコは革命の時代へと突入していきます。

 当時のトルコは現在と違い「オスマン・トルコ帝国」という巨大な領土を有する「アジアの世界帝国」の一つでした。しかしかつての栄光はどこへやら。この時期になりますと西欧列強に浸食され「瀕死の病人」などと呼ばれるまでに衰退していました。「こりゃいかん」ということで西欧的な立憲国家を目指した改革も何度か行われますが、やはり「宗教」と「帝政」という壁があり、なかなかうまくいきません。しかし改革の必要は誰もが危機感をもって認識するところで、特に当時の士官学校、ひいては若手将校たちの間で「革命熱」が盛り上がりつつありました。ケマルもまさにそんな中にあって人並みに革命熱にとりつかれたようですが、いささか他の若者達とは感覚が違ったようです。ケマルはルソーやらモンテスキューといった西欧の啓蒙思想に影響されており、さらに当時アジアで珍しく近代化を成し遂げつつあった日本の研究もしていたと言われています。

 その後軍人となったケマルでしたが、その思想から政府ににらまれ、ダマスカスに飛ばされます。そんなとき、ギリシアのテッサロニキ(当時はトルコ帝国領)に「青年トルコ党(正式には「統一と進歩のための委員会」)」 という軍人による革命組織が結成されたことをケマルは耳にします。すぐにもテッサロニキに行きたくなったケマルは、現地のゲリラ鎮圧に功績を挙げることでその才能を示し、軍部に自分をバルカン半島へ配属させることに成功します。そして「青年トルコ党」に関わりを持つことになるのです。
 この「青年トルコ党」の事実上の指導者はエンヴェルというエリート青年将校でした。このエンヴェルは確かに大物の「革命家」だったのですが、ケマルとはかなり違ったスタンスを持っておりました。彼の理想は「汎トルコ主義」と言う奴で、中央アジア(トルクメニスタンって国があるでしょ)から小アジア(現在のトルコ共和国)に広がる全「トルコ民族」の統一を目指すものでした。そして当然オスマン・トルコ帝国を全盛時に復活させようというわけです。

 ケマルは正直なところ、こうしたエンヴェルのいわば「夢想」には付き合いきれなかったようで、しばしば意見の対立をみました。ケマルの考えはトルコを小アジアのトルコ民族による「国民国家」にしようといういわば「現実路線」で、当然そこにオスマン・トルコ帝国はおろか「汎トルコ主義」もありません。しかしどこの国でもそうなんですが、冷静な「現実路線」は誇大な「夢想」にしばしば黙殺されます。「青年トルコ党」内でもケマルは結局のけ者扱いでした。

 さて1908年、この「青年トルコ党」のメンバーがついに一か八かのクーデターを決行、これがどういうわけかトントン拍子に成功して、あっという間にエンヴェル達はトルコ帝国の権力を握ってしまうのです。まぁそれだけオスマン・トルコ帝国の力も衰えていたんでしょうが、このクーデターにケマルは一切関わりませんでした。

 この混乱に乗じ、以前からオスマン帝国の領土を狙っていた周辺諸国が次々と戦争をしかけてきます。まずイタリアが、続いてそれまでオスマン帝国の支配下にあったバルカン諸国が。相次ぐ戦争にケマルもその軍事的才能を認められて何度か戦線に立ちます。しかし結局エンヴェル自身がケマルを快く思っていなかったことが災いしてなかなか実力を発揮するには至りませんでした。この二人の革命家は最後までこの調子の関係なんですね。


◆決戦!ゲリボルの戦い

 1914年6月28日。サラエボでオーストリア皇太子がセルビアの青年により暗殺され、これをきっかけにヨーロッパ諸国を巻き込む「第一次世界大戦」 が勃発します。トルコも無縁ではなく、というかドイツに誘われる形でこの戦争に「同盟国側」で参戦することになります。大きな理由としてはエンヴェル以下「青年トルコ党」の面々がいずれも大の「ドイツびいき」だったことがあるようです。オスマン帝国の政府自体は慎重だったのですが、エンヴェル等軍部は独断の暴走を始め、連合国側のロシアを攻撃、さらに英仏にも宣戦布告を一方的にすることになります。

 エンヴェルとしては「汎トルコ主義」の実現のために一刻も早くロシアと戦いたかったのでしょう。しかし戦況は一気に不利となり防戦一方となります。この間、英仏両国はトルコを一気に屈服させる大作戦を案出、実行に移します。すなわち「ダーダネルス海峡突破作戦」 。トルコあたりの地図を見て欲しいんですが、地中海から黒海へ抜ける細い海峡があります。この入り口に当たるのがダーダネルス海峡。まさにトルコの軍事的な死命を制する海峡なわけですが、英仏両国は艦隊をもってここを突破し、トルコの首都イスタンブールを一気に陥れ、降伏させようと考えた訳です。ちなみにこの作戦の最高責任者は、後にイギリスの宰相となるチャーチル海軍大臣でした。

 この動きを知ったエンヴェルは、一応ケマルの才能は認めていましたから彼をその防衛に当たらせます。しかしそれでもシッカリと横槍を入れて総指揮をとらせるような事はせず、ダーダネルス海峡のヨーロッパ側にある「ゲリボル半島」の一軍団のみを指揮させます。ところがケマルは文句も言わずこれに従いました。なぜか?ケマルは敵の主力がここに来るであろうことを予知していたのです!

 1915年4月25日。ダーダネルス海峡に殺到した英仏連合軍は作戦を開始します。地形を見定めた彼らは「ゲリボル半島(英語だとガリポリ)のジョンクバユル高地」を攻撃目標に定めます。ここを占領すれば海峡を見渡せ、戦闘の主導権を握れると見たからです。しかしそれはケマルも予期していたことで、英仏軍がゲリボル半島上陸を開始すると、これを水際でくい止めます。それから約一ヶ月の死闘の末、予想外の損害を被った英仏軍はいったん撤退します。

 やむなく英仏軍は艦隊による海峡強行突破を図りますが、これも失敗。そこで8月9日に再び十万の大軍を投入した上陸作戦を展開します。この第2回の総攻撃にあたって当時トルコ軍の総指揮者だったドイツ人ザンデルス将軍はケマルに軍の全権を任せました。後に「正直言って勝つ自信は無かった・・・勝つよりも負けない作戦を立てるしかなかった」とケマルは述懐しています。英仏軍が砲撃を雨あられと打ち込んでくる時はひたすら塹壕にこもって耐えに耐え、上陸してくると白兵戦でこれを撃退する。この繰り返しであります。ケマルは自ら危険を冒して前線に立ち、兵士達を鼓舞します(敵の銃弾が腕時計に命中したそうである)。そしてついに8月10日、 「ダーダネルスの203高地」ジョンクバユル高地をトルコ軍が占領。ほぼこの「海峡戦争」の天王山を制します。
 結局、翌年一月に英仏両軍は撤退。12万の兵士と30隻の艦を失っていました。英軍の参謀はこう言ったそうです。「我々は艦隊や砲数、兵数を全て計算し、完全な自信のもとに作戦を開始した。しかしケマル・パシャ(将軍)という人物を計算に入れるのを忘れていた。それが失敗の最大の原因だった」


◆救国戦争


 ゲリボルの戦いでパシャ(将軍)となり一躍「英雄」となったケマルでしたが、その後も各戦線で活躍を続けます。しかし顧問にあたるドイツ将校と意見が合わなかったりトラブルメーカーぶりも相変わらずで、一時戦線を離れて皇帝の随員としてドイツを訪問したりしています。この訪問先でもドイツの大元帥ヒンデンブルグの作戦を面前で罵倒するという騒ぎをやらかしています。その後無茶がたたったか病に伏してドイツで療養というハメにもなっています。

 やがて1918年10月30日。じりじりと戦況を有利に進めていた連合国軍は、ギリシアに新政権をうち立て、そこからイスタンブールへと迫ります。この事態にオスマン皇帝メフメット6世 は連合国に降伏してしまいます。お決まりのパターンですが「降伏すれば皇帝の地位・財産は保証する」という密約があったようです。それまでトルコの実権を掌握していたエンヴェルは国外へ逃亡。その後「汎トルコ主義」の夢を追い求めてロシアへと潜入し、トルコ系少数民族を率いてソ連軍と戦い続けます。そんな最中いつのまにか戦死したようで、1920年の春に解けだした雪の中から射殺体で発見されました。「夢想」を追い求めた末の哀れな末路ではあります。

 さて「現実」を追求しているケマルの方は、連合国側が敗戦後のトルコ帝国を分割しようとしていることに気づき、救国の戦いを開始しようとしていました。敗戦後の新政府に全く無視されたケマルのもとには密かに同志が足繁く通い、人脈を築きつつありました。
 そんな折り、トルコ東部のゲリラ活動に手を焼いた連合国占領軍は、トルコ人に人望がある軍人を派遣してこれを鎮圧しようと考えます。そしてその白羽の矢を事もあろうに「ケマル・パシャ」に立てたのです。連合国側はどうも軍人としてのケマルを認めながらも、彼を政治的は扱いやすい人物だと「勘違い」していたようであります(まぁエンヴェルほど「夢想家」でないのは確かだけど)

 まさに「虎を野に放つ」と言う奴。トルコ東部に堂々と派遣されたケマルは1919年5月16日、黒海沿岸の町サムスン市に上陸します(現在この日は「青少年の日」という祝日になっとるそうな)。そして同志達と共にトルコ東部に新政権(シワス国民会議)を作り上げ、「救国戦争」を開始するのです。
 あわてた皇帝メフメット6世はケマルを反乱者として討伐を命じる一方、「帝国議会を開く」と宣言し、ケマル一派の切り崩しを狙います。実際に皇帝の誘いに乗ってケマルのもとを去ったシワス国民会議議員も出て、彼らによって「国民誓約」が発表され連合国への挑戦が行われますが、これは全くの逆効果で、連合国軍はこれを口実にイスタンブールを完全占領。議員達を逮捕してしまいます。これに皇帝は謝意を表したっていうから始末に負えない。

 ケマルはトルコ中部のアンカラに入り、選挙を行って「トルコ大国民議会」を開催、「アンカラ政府」がトルコの正統政府であることを宣言します。これに対し、スルタンにして同時にカリフ(教主)という立場である皇帝は彼らを「神の敵」と宣言(日本で言うところの「朝敵」ですかね)、カリフ軍を結成してアンカラ政府と戦わせます。さすがに「カリフ」の権威は凄いものがあり、多くの国民がこれに従ってしまい、ケマルは窮地に陥ります。

 しかし、皇帝はここでヘマをしました。この時英仏が「セーブル条約」というのを出すんですが、これはトルコ領土をギリシア・イギリス・イタリア・フランス・アルメニアなど周辺諸国で事実上分割してしまおうという内容でした。
 これにはトルコ国民も激昂したのですが、事もあろうに皇帝はこれを認めるのです!しかも進撃してくるギリシア軍を「味方であるから阻んではならぬ」と言い出します。さすがに国民も目が覚めました。真の「敵」は皇帝だということに気づき、ケマルの「アンカラ政府」支持へと世論が動くのです。

 これを受ける形で、ケマル率いる「トルコ国民軍」は各地を転戦します。まず東部のアルメニア軍と戦いますが、外交作戦でソ連の協力をとりつけることに成功、ソ連軍との挟み撃ちでアルメニア軍を撃破する事に成功します。続いてフランス・イタリアの占領地域を相次いで急襲。あまりやる気もなかったフランス・イタリアはあっさり撤兵します。
 問題はこの機会に一気にかつての「ビザンティン帝国」(古い!)の復活を図り、怒濤の東進を開始していたギリシア軍でした。1921年1月と3月、進撃してきたギリシア軍をケマルらはイノニュ高原で撃退します。この反撃をうけてギリシアは自軍を再編成し、イギリスの援助も仰いで大攻勢の準備を始めます。そして7月、万全の用意をしたギリシアは国王コンスタンティヌス 自らが十万の大軍を率いてトルコへの大遠征を開始するのです。この勢いは凄まじいもので、トルコ軍は相次いで敗北していきます。ケマルはやむなく重要都市エスキシェヒールの放棄を決断、ギリシア軍を内部へと誘い込んで、こちらの有利な地形で決戦を行うこととします。決戦の場はサカイア川。

 1921年8月14日、「サカイア川の戦い」が始まります。これはもうとんでもない激戦だったようで、最初の一週間で双方の師団長が20人も戦死する有様(しかも「白兵戦」で!)。結局2週間戦ってもなかなか勝負がつかなかったのですが、劣勢のはずのトルコ軍は善戦し、これが8月29日の奇跡を生むことになります。
 その日、ギリシア軍はトルコ軍の切り崩しを狙って開いてトルコ軍右翼に攻撃を集中していました。これを見ていたケマル、何を思ったか自軍の中央の部隊の大半を左翼に移動させ、逆にギリシア軍右翼を突破しようとする動きをみせます。ハッキリ言って無茶な戦術で、それでなくても少ないトルコ軍の中央の防御陣が薄くなり、事実上「がら空き」の状態になってしまう作戦です。ところがギリシア軍は大きく展開したトルコ軍を見て「敵が我々を包囲しようとしている!」と勘違いしたらしく、突出していた自軍左翼に「一時退却」を命じ、突出してきたトルコ軍に当たらせようとします。この「一時退却」命令が大混乱をもたらします。このところの激戦でギリシア軍もトルコ軍の実数を誇大に考えていたらしく、各部隊が一気に恐慌状態に陥ってしまい、命令を一斉に勘違い(あるいはわざと誤解して)して「全軍退却」してしまうのです!
 かくしてサカイア川の決戦は思わぬところから勝機が開け、一気に勝負がついてしまいました。この展開は日露戦争の「奉天会戦」によく似ている、と言われますが(前回カットしたけど乃木も出てますよ。例によって味方に迷惑ばっかかけてるけど)、ケマルがその故事にならったかどうかは不明です。

ともあれ、この一戦を機に「救国戦争」は一気にトルコ=アンカラ政府の勝利へと傾いていきます。やがてギリシャもイギリスもアンカラ政府を承認せざるを得ないこととなります。


◆「近代化」への邁進


 さてついに戦争に勝利し、トルコの最高権力者に上りつめたケマルでしたが、またまた新たな戦いへと身を投じていきます。ただしそれは武力による戦いではなく、トルコの旧体制そのものとの戦いでした。

 まずケマルが標的としたのは「スルタンにしてカリフ」である皇帝制度でした。1922年11月、すでにすっかり「国民の敵」となっていたメフメット6世を退位させ、600年の歴史を持つオスマン王朝を滅亡させます。いちおうイスラム教の教主である「カリフ」制は残しますが、これも後に難癖をつけて廃しています。
 その一方、トルコの近代化改革を断行するために、自らの絶対的な独裁権を手に入れます。その方法がまた凄い。自ら「トルコ人民党」 という政党をつくり党首となり、選挙で多数派を占めて内閣を作るのですが、いきなり総辞職するのです。そしてケマル自身は全く議会に出てこなくなります。困ったのは国会議員達。ケマルがいないと混乱するだけで政治が一向に進展しない。そこてケマルのもとへ議員団が赴き「頼むから出てきて下さい」と泣きつくのです。それに対しケマルは「よし、議会に行こう。ただし条件がある。私の提案に対しては討議無しに採決すること。その提案は修正の余地がないということも忘れないでもらいたい」と言ったうえで自らを大統領とする憲法草案を提案したのです。要するに自分の「独裁」を合法的に認めろ、ということなのでありますが、他に手の打ちようのない議員達はこの提案を飲みました。しかしまぁ意地の悪いやり方と思えなくもないですな。

 かくして「トルコ共和国」が成立します。合法的(?)に独裁権を手に入れたケマルは次々と改革を断行していきます。カリフ制度を廃止して「宗教」と「政治」の分離を実現したのを皮切りに、「国家企業主義」を採って軽工業から産業革命を起こし、ヨーロッパに留学生を派遣して人材を育成し、ヨーロッパ各国を手本に近代的法律を作成させ、全国民に初等教育を義務づけます。何だか日本の「明治維新」とやってることがウリ二つでありますが、やはり偶然ではないようです。しかしケマルの凄いところはこれを推進するために自ら国中を走り回ったこと。特に義務教育の推進には彼自ら地方を回って説得しなければなりませんでした。

 当然のように反動もありました。かつて彼の同志だった人々の中にもケマルのあまりにも急激な改革に不満を抱き始め、ひそかにケマル暗殺の陰謀を進める者が現れます。結局これは未然に阻止され、首謀者は処刑されました。話によればケマルは「いやな日だ・・・」とつぶやき死刑命令書にサインしたと言います。処刑の翌日、ケマルは議会で大演説を行います。そして次のような言葉で締めくくりました。 「私は私の生きがいである唯一のもの、すなわちトルコ国民を進歩へ向かって導かねばならない。我が国民が進歩への道をしっかりと方向を間違えずに歩けるようになったとき、私は全ての権力を手放すつもりだ。だが、我が国民の歩みは始まったばかりなのだ。すなわち、私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことだ。もっとはっきり言おう!現在の時点においては私がトルコだ!」

ケマルくん
◆「トルコの父」


 ケマルの大改革はとどまるところを知りません。メートル法の導入、西欧流の太陽暦の採用、そして「服装改革」。
 イスラム圏の女性でよく真っ黒な服で身を包んで顔や体を見せない、というのを良く見かけますが、ケマルはこれをやめさせます。イスラム聖職者たちが教義にそむく、と猛反発しましたが、ケマルは「コーランのどこにそんなことが書いてある?」と反論したそうです(実は顔まで隠せ、とは書いてないんだとさ)。また男にも伝統的トルコ帽を禁止し、西欧風のツバのついた帽子を義務づけます。とにかく徹底しています。
 そして1934年、とうとうケマルは「男女同権」を実行に移します。彼によれば「イスラム諸国が衰退した原因は女性を家庭に閉じこめたからだ」というわけだそうで、女性に参政権を認め、女性国会議員や女性官僚を生み出すこととなります。これは当時としては西欧ですら画期的なことでした。

 次に彼は文字を改革します。それまでトルコはイスラム諸国に倣ってアラビア文字で表記を行っていたのですが、もともと違う言語なだけに無理があり、それが識字率を低くしている原因となっていました。そこでケマルはなんと自らアルファベットを手本に「トルコ文字」を製作、これをまたしても自ら地方を回って国民に教えて回ります。よく教科書なんかに田舎の青空教室で文字を教えるケマルの写真が載ってたりしますね。これにより識字率は一気に上がり、教育機関も充実していくこととなります。
 文字だけでなくケマルは言語も改革しました。ナショナリズム高揚のためなんでしょうが、外来語を極力廃し、トルコ語による新しい「単語」を作らせたのです。これがいかに凄いことかは日本で「漢語」「外来語」を使えなかったら、と考えると分かります。そしてケマルは全国民にヨーロッパ風に「姓」を名乗ることを義務づけます。初めのほうに書いたように本来イスラム教徒に「姓」はないんですね(親の名前を入れたりする)。それを義務づけたわけだからさぁ大変。全国民が頭をひねって自分の「姓」を考えたわけです。まぁ日本でも明治の時にやったわけですが。
 そしてケマル自身には「アタチュルク」という姓が議会から奉られます。「トルコの父」という意味です。まさにピッタリと言わざるを得ません。

 しかし、この「父」はハッキリ言って「働き過ぎ」でした。なんでもかんでも自分一人でやってるようなもんですから。なんでもケマルの睡眠時間は一日4,5時間。朝はコーヒー一杯、昼は豆料理、夜はオードブルという食生活だったそうで、しかも大の酒好きで「ラク」という強烈なトルコの酒を毎晩2本空けていたといいます。これでは体が保つはずがありません。
 1938年十月、イスタンブールに入って臨時大統領官邸で執務していたケマルは、突然脳卒中で倒れました。酒の害は明らかだったのですが医者に「ラクが原因でないと診断せよ」と減らず口を叩いたそうです。そしてそのまま、11月10日に息を引き取りました。推定の享年57才。この2年前「トルコは着実に成長している。あと十年たてば引退できるだろう」と言っていたそうです。まだ道半ばの死ではありましたが、トルコは以後しっかりと自立してイスラム圏における「近代的国家」としての道を歩んでいきます。


◆その他のことなど


 ここまで長々とケマルの一代記を、しかも大幅ダイジェストでやって参りましたが、何となく彼の私生活のことなども付け加えておきましょう。
 ケマルは生涯に一度だけ結婚しています。ギリシアとの戦いの最中、たまたま出会った西欧帰りの才女ラティフェ と唐突に恋に落ち、いきなり結婚したのです。しかし2年後に離婚。どうも才人どうしで結局付き合いきれなかったということのようです。ただ愛人遍歴だけは相当なもののようで、これはもう実態がつかめません。しかしついに子供には恵まれませんでした。その代わり戦災孤児などを引き取って男1、女6人を養子にしていました。

 今日でもケマル=アタチュルクは文字通り「トルコ建国の父」として敬愛されています。今でもトルコでは毎年11月10日9時5分になると一分間の黙祷が行われます。ケマルが死去した宮殿の全ての時計は9時5分で止められているそうです。

 ケマルについて「正しい独裁者」という呼び方があります。確かに彼は「独裁者」です。しかしまぁその多方面な改革とそれに対する実行力には感心せざるを得ません。日本の明治維新も世界史上の奇跡と言われますが、こちらトルコはそれに匹敵する(あるいは超える)事業を、ほとんど一人の指導者の手でやっちゃったワケです。つくづく歴史には時々「突然変異体」みたいな人物が登場するもんだ、と感じ入らせてくれました。

(98/6/21)
次回は「く」から始まる人物です。お楽しみに。



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