しりとり歴史人物館
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第5回
名君?暗君?天衣無縫の女王様
クリスティナ
Queen Christina
(1626−1689、スウェーデン)
クリスティナ像

◆はじめに


 唐突に「クリスティナ」なんて呼びつけの名前を出して申し訳ない。なんせ姓のつけようもないし「何世」ということもないもんで。一般には「クリスティナ女王」と呼ばれてますが、そうタイトルつけると「う」から始めるケースが多くなっちゃいますね。だから本人には申し訳ないけど呼び捨てにさせていただきます。
 で、どこのクリスティナさんかと言いますと、北欧スウェーデン王国の女王のクリスティナさんです。しかもあの「北方の獅子王」の異名で名高いグスタフ=アドルフの娘なんですね。これだけでも結構話題がある方とも言えますが、それだけにとどまらなかったところが面白くて彼女を取り上げてみたわけです。映画になったこともあるところを見ると、欧米では割と有名な方のようですが、日本ではそれほどでもないですから。


◆父・グスタフ=アドルフ


スウェーデン国王・グスタフ2世アドルフの娘としてクリスティナがこの世に生まれたのは1626年のことでした。その父親のグスタフ=アドルフですが、何といってもあのナポレオンが歴史上の戦略家7傑に数えた英傑です。即位するやデンマーク・ロシア・ポーランドなど周辺諸国と次々に戦って勝利を収め、バルト海周辺に着実に領土を広げて、スウェーデンを一躍ヨーロッパの大国に仕立て上げました。内政も名宰相オクセンシェルナを得て充実し、彼自身もヨーロッパ各国語を話せる秀才で国際性に富み、とまぁとにかく完全無欠な英主です。ちょっと短気で無茶をするところもあったようですが(だからあんな死に方をしたわけで)、まぁスウェーデン史上最高の君主と言って差し支えないでしょう。
 こういう父親を持ったことがクリスティナにどう影響を与えたか、というのも考えてみると面白いです。男の子がいなかったせいか、グスタフ=アドルフは娘を男の子同様に教育させていまして、そのせいか少女時代のクリスティナは人形遊びや手芸は好まず、乗馬や射撃を得意としていたそうです。成人した彼女がしばしば男装を好んだことが知られていますが、そのへんの背景があるのかも知れません。

父アドルフ ただ、クリスティナが父親から、直接大きな影響を受けるほど接触する機会はほとんどなかったように思われますね。なんといっても父親は戦争ばっかりしていますし。さらに1630年にはドイツで延々続いていた新教徒(ルター派)と旧教徒(カトリック)の戦い「三十年戦争」に、グスタフ=アドルフは新教徒の守護者として参戦します。そしてまた例によって大活躍をしちまいまして、慌てた神聖ローマ(ドイツ)皇帝は名将ワレンシュタインを呼び戻し、彼に当たらせました。
 グスタフ=アドルフとワレンシュタインの対決はヨーロッパ戦史のハイライトの一つですが、ここでは本筋ではありませんから詳細は省きます。とにかく1632年11月6日の朝、決戦場リュッツェンに視察に出かけたアドルフは敵兵の狙撃を受けて落馬、その後の混戦の中で雑兵もろともあっけなく死んでしまいました。遺体はどうにか兵士達が回収し、悲報がストックホルムにもたらされます。
 これをうけてグスタフ=アドルフの娘・クリスティナは即位し大国スウェーデンの女王となります。しかしクリスティナはわずか5歳。当然政治なんか出来るわけもなく、五人の摂政団が結成され、名宰相オクセンシェルナが筆頭摂政として実際の政治を仕切ることになります。


◆親政の開始


このオクセンシェルナって人物がまた凄い人だったんですね。先王グスタフ=アドルフのもとで王宮でも戦場でもよく主君を助け、クリスティナの摂政となってからはクリスティナに帝王教育を施す一方、内政に外交に大活躍し、スウェーデンを確固たる大国に仕上げていきます。あるフランスの外交官は「ヨーロッパの政治家が同じ船に乗るとしたら、オクセンシェルナに舵取りを任せるだろう」と言ったそうです。
さて1644年、18歳になったクリスティナは親政を開始します。折から三十年戦争は終盤戦にさしかかり、ドイツ・デンマーク・フランスなどが入り乱れるややこしい状況下にありました。そこは名宰相オクセンシェルナ、たくみに戦略を推し進めてデンマークを封じ込め、有利な条件で講和を取り結ぶことに成功しています。しかし、親政を始めたクリスティナは結構我の強い女性だったようで、早くも恩人とも言えるオクセンシェルナの存在を疎んじ始め、次第に政治の実権を彼から奪っていくようになります。この辺、父親に似たのかも(笑)。ですがクリスティナ自身もやはり政治家としてやり手であったのは事実です。三十年戦争終結に向けて外交官達を指揮し、最終的にスウェーデンにとって非常に有利な講和条約(ウェストファリア条約、1648年)の締結に成功してますから。
 このウェストファリア条約の結果、北ドイツの広大な地域がスウェーデン領となり、そこでの新教徒の信仰も認められ、スウェーデンはバルト海をまたにかけた大国となります。しかしその一方、クリスティナは国内の安定を狙ってか、貴族の数を倍に増やして国土の三分の二を彼らに渡してしまい、結果的に国民を重税に喘がせることとなります。またバルト海の反対側にまで広大な領土を持ってしまったために、その維持費も財政難を招きました。しかし当の本人はそれを知ってか知らずか、金のことには無頓着に優雅な生活を送っております。


◆学芸の女王


 とにかく彼女の優雅な生活ってのは並みのものじゃありません。と言っても単なる贅沢じゃなくて、かなり文化的に高度な絢爛豪華ってやつですけどね。
 彼女自身、ラテン語・フランス語・スペイン語に通じ、文学・芸術への理解も深く、その才女ぶりは早くからヨーロッパに知れ渡っていたそうです。また一度フランスへ旅行しているんですが、その時にフランスの華やかな文化にすっかり参ってしまったようで、工芸家や建築士などが多くフランスからストックホルムに招かれました。
 また芸術作品の蒐集家としても彼女は凄まじいものがあります。とにかく金に糸目を付けずにヨーロッパ中から美術品を集めまくる。とくに1648年の三十年戦争終結の間際に、いきなりスウェーデン軍にプラハを攻撃させ、そこに集められていた敵側の皇帝の美術コレクションをゴッソリ略奪させたことは有名です。この時に絵画(なんと570点に及ぶという)・彫刻・書籍などから皇帝に飼われていたライオン(!)まで、実に多くの財宝が海を越えてストックホルムに持ち運ばれてしまいました。これはまぁ戦争のドサクサにまぎれたかなりひどい例なんでしょうが、クリスティナ女王の蒐集熱はその後も止むことはありませんでした。

 この「欲しいとなったら必ず手に入れる」という彼女の性分の犠牲となった有名人がおります。フランスの偉大な哲学者にして数学者・デカルトその人です。あの「われ思う、ゆえにわれあり」の名セリフで知られ、「近世哲学の祖」などともよばれる大物です。ついでに幾何学に代数学的方法を適用するという数学上にも画期的な業績を残しています。まぁとにかく当時のヨーロッパにおいて最大の学者と言える人でした。
 フランスに旅行した際にこのデカルトに心酔したクリスティナは、積極的に彼をスウェーデンに招きます。デカルトはもう年でしたし(50歳)身体にも自信がなかったので初めは断っているんですが、こうと決めたら引かないクリスティナは1649年、とうとう海軍の軍艦を仕立てて特使をフランスに派遣し、デカルトを招きます。ここまでされてしまっては仕方がない。デカルトは招きを受け入れてこの年の10月にストックホルムへと向かいます。

デカルト大先生  かくしてクリスティナは憧れの大先生デカルト本人を王宮に招き、毎日のように直接講義を受けることとなります。ところでクリスティナは政務も見るかたわら睡眠時間も削って勉学にいそしむというとんでもない模範生(笑)でしたから、学習の時間も早朝に行われました。何と朝5時ですよ!しかも寒い寒い冬のストックホルムの早朝です。こんな中を老齢の哲学者は毎日王宮まで歩いて通い、女王に講義を行ったそうです。見込まれたからにはと熱心に女王に対し自らの最高の講義を行ったデカルトでしたが、この人、それまで住んでいたパリでは午前11時にようやく起きるという生活だったそうで(笑)やはり身体に無理をさせてしまったようです。彼がストックホルムに来て数ヶ月後の翌1650年2月11日、デカルトは風邪から肺炎を併発し、そのままクリスティナに看取られながら亡くなってしまいました。
 なんだかクリスティナに殺されてしまったようにみえなくもないんですが(笑)、デカルトは彼女のために代表作「情念論」を遺しました。そしてまた、彼女のカトリック指向に決定的な影響を与えることとなったのです。


◆王位を捨てて


 どういういきさつだか知りませんが、クリスティナの正式な即位式(戴冠式)はデカルトの亡くなった1650年の10月にようやく行われました。しかしデカルトの死のショックによるものかどうか分かりませんが、次第にあれほど熱心だった政治にも飽き始め、カトリックへの傾斜を深めていきます。周囲の重臣が当然のように彼女に結婚を勧めましたが、彼女は「私は結婚しません」と宣言をし、あろうことか正式即位から一年後に王位を退く意志を示すのです。この時は老臣のオクセンシェルナが必死に諫めてどうにか収まったのですが、結局1653年にウプサラに召集された議会においてクリスティナは正式に退位の意志を公表し、王位を従兄弟のカール=グスタフ(カール10世)に譲る旨を宣言します。ちなみにこのカール=グスタフはクリスティナの結婚相手の最有力候補だった人物です。

 翌1654年6月。クリスティナの盛大な退位式(笑)がウプサラで挙行されます。そして女王ではなくなったクリスティナは、これまでヨーロッパから蒐集した莫大な美術品群をまるごと荷物にまとめると、そのままヨーロッパ周遊の旅に出かけてしまいました。この大荷物に国民がいぶかしんだのも無理はありません。クリスティナは各地をフラフラと1年も物見遊山や買い物にいそしんだあげく、イタリアに入ります。そしてローマで教皇から聖体を授かって正式にカトリックに改宗するのです!父親は新教徒のためにカトリックと戦って命を落としてるんですがネェ・・・。以後、クリスティナはスウェーデン本国にある資産で、三十余年に及ぶ気ままで優雅な生活を送ることとなります。住まいはパルマ侯から提供されたローマ市内のフォルネーゼ宮でした。

クリスティナちゃん もちろんローマに住むようになってからも彼女の天衣無縫ぶりというか横暴ぶり(笑)はとどまるところを知らなかったようで、相変わらず多額の出費を惜しまず美術品・書籍を蒐集し、また各分野の学者・文化人・芸能人とも深く関わり、彼らのパトロンともなっています(ちょっと今回の執筆中海外サイトで文化人の調査をしたんですが、ホントに彼女の名前がよく出てきます)。作曲家のアレッサンドロ=スカルラッティを発掘しオペラ劇場を建てたり、はたまた以前から関心を持っていた錬金術(まぁ当時においてはレッキとした科学。あのニュートンもハマった)というにも入れあげ、化学者達とともに研究に没頭したりしてます(彼女が描いたらしい実験スケッチがどこぞのサイトに載っていました)

 こうした彼女のハデな行動には眉をひそめるローマ人も多かったようで、教皇や市民といくつかトラブルも起こしているようです。また出費も莫大だったために、金を使われているスウェーデン本国も心穏やかではなかったでしょう。だいいち敵とも言えるカトリックに改宗しちゃったんですから。
 ところがクリスティナ、自分の財産を改めて確保しておこうと思ったのか、唐突にスウェーデンに舞い戻り「自分には女王に復位する権利があることを認めなさい」などという妙な要求をしています。まさか本気で女王に戻る気などなかったでしょうから、恐らく財産権の主張をしたのだと考えられます。しかしやはりスウェーデン国民の彼女に対する目は厳しいものがあったようで、彼女が帰国中にミサを行おうとしたら妨害があったそうです。


◆わがまま放題の生涯?

 さて、こんな天衣無縫の彼女ですが、残念ながら恋愛沙汰の影は皆無なようです。噂だけは結構あるんです。例の従兄弟のカール10世とかローマの枢機卿アッツォーリとか、その他何人か噂はあるようです。しかしどうもどれも「噂だけ」だったというのが真相のようです。第一彼女は肖像画からもうかがわれるように不美人で(失礼!)、男装を好んだのもその為だったと言われています(ちなみにグレタ=ガルボ主演の映画「クリスティナ女王」では彼女は男装の麗人で、スペイン大使と官能的な大恋愛をするそうな。それでスウェーデン政府が抗議したとかなんとか) 。案外日常の服装は質素で装身具もつけず、ときおりインクの染みを袖につけたままで気にもしなかった、とも伝えられます。ハデな生活を送っていたとは言われますが、彼女自身を飾ることには関心がなかったようです。その辺が誤解されてあれこれ悪口を言われる原因になったのかも。実際残忍非道な人物として描かれる事が今日でも多いとか。

 結局、クリスティナは生涯を独身で通しました。彼女は1689年4月にその63年に及ぶ自由奔放な生涯を閉じますが、先ほど恋愛相手と噂のあった枢機卿アッツォーリに、自らの蒐集した全ての美術品・書籍を遺言により寄贈しました。彼女のわがまま勝手さに手を焼いていた教皇庁でしたが、さすがに彼女が亡くなるとその死を悼んで特別な扱いで彼女をサン・ピエトロ大聖堂に葬らせました。例の「ピエタ」像のそばに記念墓碑が建てられているそうです。彼女が生涯をかけて蒐集した美術・書籍のコレクションは今はバチカンの博物館に収められています。

 彼女は「北方のミネルヴァ」の異名を奉られています。ミネルヴァとは知と学問の女神(ギリシャ神話だとアテナ)です。

(98/8/16)
次回は「な」から始まる人物です。お楽しみに。


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