しりとり歴史人物館
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第6回
明治を駆け抜けた奇人変人!
中江篤介
なかえ・とくすけ
(1847−1901、日本)
兆民像

◆はじめに


「なかえ・とくすけ」という名前を見て「誰やねん?」と思った方は多いかも。しかし肖像画を見て「あ、あいつか」とお分かりになったかも知れません。そう、彼の一般に知られている名称は「中江兆民」。これは「億兆の民」からとった彼の号です。歴史の教科書の明治時代の部分では必ず出てくる人物で、「東洋のルソー」などという称号まで奉られた大物の思想家です。
「思想家」とか聞くと、例によってかったるそうな偉人伝が展開されそうですが、このシリーズで取り上げた以上、ただ者であるわけがない(笑)。とにかく「中江篤介」氏は知る人ぞ知る奇人変人。そのハチャメチャ人生に迫ってみたいと思います。


◆生い立ち、そして激動の時代へ


 中江篤介は四国は土佐藩の、足軽の子として1847年に生まれています。要するに武士階級の末端の出身ですね。同じ藩の坂本龍馬や薩摩の西郷隆盛なんかもそうですが、幕末の風雲期に活躍する人物の多くが、こうした下級武士層の出身です。こうした下級武士層が日本をひっくり返す大転換をやらかすわけなんですが、篤介もまたこうした層の出身であったことは無視できないことです。
 少年時代のある時、こんなことがあったそうです。家の近所で町民のガキ大将が弱いものいじめをしているのを篤介は目撃し、これを注意しました。ところがこのガキ大将が「足軽の子のくせに」という感じで篤介をバカにした。怒りに我を忘れた篤介は思わず刀を抜き、相手に傷を負わせてしまったのです。この事件ののち父親は篤介が二度と刀を抜かないよう、彼の刀の鯉口をひもで縛って抜けなくしたと言います。そして篤介自身もこの事件以後、剣術には無関心でもっぱら読書・学問に明け暮れるようになり、成人後発揮する奇人ぶりなど全く予想もさせないほど大人しい少年だったそうです(後に彼の母親は「人は変われば変わるもんだ」とか言っております)

 十四歳の時、篤介の父親が亡くなり、彼はこの年で家名を継ぎます。そして翌年に藩の学校である文武館に入学。この「文武館」は面白いことに全国で初めて「蕃書」すなわちオランダ語や英語といった外国語を教えるコースがあったんですね。
なぜ土佐藩に外国語学科があったのか?それは、この土佐になんとアメリカ帰りの男がいたからです。あの「ジョン万次郎」 その人です。万次郎は漂流からアメリカに渡り、ちょうど激動期に帰ってきたせいもあって、あちこちでその英語力を求められました。土佐藩の文武館にも彼に英語を教わった先生がいたのです。入学した篤介はさっそくオランダ語、英語を学ぶようになります。おりしも黒船来航による開国で、欧米の人間や文化が怒濤のように日本に押し寄せている時代でありました。

さて、当時の土佐と言えば武市半平太に指導された「土佐勤王党」があったように、全国の諸藩の中でもいわゆる「尊王攘夷」が盛んだった土地です。世を憂う血気溢れる若者達はこぞってこの運動に飛び込んだ時代でした。こんな時に中江篤介君は何をしていたかというと・・・
 なんと家の庭の井戸の中にカゴを吊し、その中に乗って読書にふけっていたそうです。井戸の中なら涼しいし周りの騒音も聞こえないから勉強に都合が良い、ということらしい。彼は周りの若者達が尊王だ、攘夷だと大騒ぎしているのに同調する気はなかったらしんですね。もちろん無関心というわけではなかったでしょうけど、少々「へそ曲がり」な彼の性格を語る逸話ではあります。そうこうしているうちに武市半平太らも処刑され、土佐勤王党も潰されてしまいました。


◆売り込みの達人


さて、篤介が十八歳になった時に大きな転機が訪れます。漢文と外国語に優秀な成績を収めていた彼は、推薦で藩の留学生として長崎に派遣されることとなったのです。篤介にとって初めての土佐脱出でした。
 長崎についた篤介は当然土佐藩の寮に入ります。ところが、ここにいつもヨレヨレの服を着けた妙な男がゴロゴロしていたのです。誰あろう、同じ土佐藩の人間の坂本龍馬その人でした。このころ龍馬は長崎を拠点に商社(例の「海援隊」)をつくり、さらには薩長同盟を実現させようと奔走しているところでした。篤介は「なんとなくエライ人だ」とこの妙な男にかなりの親近感を抱き、また龍馬もこの篤介をかわいがってくれたようです。
「”オーイ、中江の兄さん。煙草を買うてきてオーセ”と言われて、わしは喜んで買いに走ったもんさ」
とは後年、篤介が弟子の幸徳秋水に懐かしがりながら語った言葉です。とにかく他人に敬意を表すことなどほとんどない彼が(あとを読むと分かります)、生涯唯一尊敬した人物が坂本龍馬だったそうです。過激派系でないところとヘソ曲がりなところは両者確かによく似てますね(笑)。実際、龍馬が篤介に志士への道を進めた形跡はありません。

ところで篤介がこの長崎に来た目的はオランダ語、英語の習得にあったはずでした。ところがこの町で篤介は新しい言語に手を出してしまいます。たまたま長崎の町で平井義十郎という人物がフランス語教授の塾を開いていたのを見つけて入門してしまうのです。どうも彼はフランス語とは妙に気が合ったようでたちまち熱中し、やがて師と同レベルの語学力に達してしまいます。このフランス語との出会いも彼の人生を決定的にしたものとなります。
さて平井師の所で学べることは学んでしまったし、篤介は当時外国語研究の中心地となっていた江戸に出ようと考えるようになります。しかし個人ではとても金が工面できない。そこでまず長崎で土佐藩の金庫番をやっていた岩崎弥太郎(もちろん後に三菱を創る人)に「旅費に25両出さないか」ともちかけます。もちろん岩崎は「一介の書生に25両も出せるものか」と拒絶しました。すると篤介は「よし、俺に25両の価値がないか良く見ておけ」と捨てぜりふを吐いて、次に土佐の重役である後藤象二郎に矛先を向けます。後藤が長崎の丸山遊郭で遊んでいる所へ乱入し、書生が志を得られないことを訴えた漢詩を送りつけます。後藤は藩の金で遊んでいる所を見られた後ろめたさもあったし、平井が「変人ですが、優秀な男ですよ」と妙な太鼓判を押した(さすが師匠。よく見てらっしゃる)こともあって、岩崎に命じて25両を篤介に与え、江戸に出させてやります。

 で、江戸に出た篤介でしたが、まず失望します。だって結局フランス語に関しては大した先生がいなかったんですね。一度ある先生に弟子入りするんですが、自分より明らかにレベルが低い。バカにしてサボって遊郭通いなんかしてるうちに破門されてしまいます(自業自得ですが) 。そこで横浜のフランス人から直接教わるようになるんですが、そこからのつてでフランス公使ロッシュの通訳に雇われることになります。そして公使について京都・大阪を駆け回り、大政奉還・戊辰戦争という時代の大転換を「通訳」という立場で目の当たりに見たと思われます。しかしこの辺の事情について彼自身はほとんど語っていません。「維新の傍観者だった」というような事は言っているようですが。

 さて世は「明治」となってしまいました。篤介は相変わらずフランス語の塾に通ったり自分で塾を開いたりして生活していましたが、明治4年(1871)に岩倉使節団が欧米視察にでかける事を知ります。これに多くの留学生が加わるらしい。篤介もぜひ参加したいと思ったのですが、つてがない。そこで何を思ったか、あの大久保利通の家を訪ねます。もちろん素性も知れぬ変人が唐突に現れたもんですから、ただちに門番に追い返されます。すると篤介、今度は大久保の馬車の馬丁と友達になり、その馬丁のはからいで大久保に面会することになるのです。
 大久保が役所から帰宅し、自宅の門前で馬車を降りると、そこへこっそり馬丁の横に隠れていた篤介が飛び出します。
「大久保公、私はもう日本にいてもつくべき師がいない。日本にあるフランス語の本もみんな読んでしまった。あとはフランスに留学するしかない。この私をヨーロッパに留学させないと日本にとっての損失ですよ」
と、いつものパターンで攻撃です。大久保はこの大ボラぶりが気に入ったようで(こういうあたり「明治」だなぁ)、彼を自宅に招きます。そして篤介が土佐人と知ると「なんで同郷の板垣や後藤に頼まない?」と尋ねます。すると篤介は「私は同郷や情実を利用するのを潔しとしない」と大見得を切ったそうです(後藤に金を出してもらった過去を忘れているような)。大久保は気に入って、篤介をヨーロッパ留学生に加えるのです。


◆「東洋のルソー」へ


 さてさて、めでたくヨーロッパ留学生に潜り込むことに成功した篤介は、使節団と共にアメリカを経由してフランスへと向かいます。この途中、大陸横断鉄道の列車が大雪のためにソルトレークで立ち往生してしまい、篤介が仲間の制止を振り切って4q離れた村まで食料を取りに行き指と耳を凍傷でやられた、などという勇ましいエピソードが残っています。
 1872年、篤介はフランスに到着しました。折しもヨーロッパは普仏戦争、パリ=コミューン、ドイツ帝国成立となかなか賑やかな時代でした。こうした世相を敏感に感じとってか、篤介は語学勉強よりもより深い部分、ヨーロッパの歴史と思想に関心を向けていく事になるのです。そしてヨーロッパ人を知るためにパリやリヨンの場末の酒場に顔を出して労働者達と交流し、さらには何と小学校に入学までしちゃうのです。もっとも小学校の方は「児童の喧噪に耐えられず」間もなく退学するんですが(笑)。

 そんな中で、篤介は一冊の本と運命的な出会いをします。その本とはジャン=ジャック=ルソーの著作「社会契約論」 でした。人民主権を唱え、フランス革命に多大な影響を与えた、あの啓蒙書です。これを読んだ篤介もまた大きな衝撃を受けることになるのです。彼はこの本を読んで日本の明治維新を考え直します。果たして「革命」を起こした日本に「民衆が国の主人公」という発想があるだろうか?そして「近代化」を目指している日本に本当の「自由」があるだろうか?
 ルソーの思想に心酔した篤介は当時、急進的思想家とみなされていたエミール=アコラスという学者に弟子入りします。ここでまた多大な感化を受けるんですが、政府の方から予算削減のため留学生らに帰国命令が降ってしまい、やむなく篤介は日本へと帰国することになります。篤介がフランスにいたのはわずか二年間のことでした。

 さて、帰国した篤介は「フランス学舎」 という私塾を作ります。しかし、ここは単なるフランス語の授業を行う場所ではありませんでした。授業はルソーの「社会契約論」の翻訳作業そのものだったのです!篤介は「民約論(篤介のつけた訳題)」の翻訳を授業で行いながら、塾に通う若者達にルソーの唱える人民主権、民主主義の思想を伝えていったのです。
 ところで篤介は結局「民約論」の翻訳を出版することはありませんでした。単に授業で使用するノートとして翻訳を公表していったのです。しかしこのノートの写しが大変な勢いで全国の若者達に広がっていきました。しかもこの翻訳、実は漢文なんですね。篤介は少年時代からかなりの漢文の素養があったので、見事な名文で漢文訳が出来たのです。そのため、この「民約論」は中国・朝鮮の思想家にも読まれ、ルソーの思想を広めることになります。彼が「日本の」ではなく「東洋のルソー」と呼ばれるのはこのためです。

 もともと自分が見込んで世話した人物だっただけに、大久保利通も篤介の扱いには困ったみたいですね。こういう扱いづらい奴は宮仕えさせるに限る、とでも考えたんでしょうか、この間に篤介は外国語学校の校長に任じられています。ところが彼は「まず学生には漢文を学ばせろ」と騒ぎだし、他の教授達と大喧嘩した挙げ句、退職してしまいます。その後も元老院で翻訳の仕事を命じられますが、浮浪者同様の汚い服装で出勤し(当然初日は門番に追い返されかけたという)、周囲を面食らわせました。しかも仕事中にポケットから豆を取り出してボリボリかじっている。見かねた陸奥宗光が「ちゃんとした服を着てこい」と注意しますと、「服装で給料もらうわけじゃないだろ」と言い返したそうです。結局ここも陸奥と大喧嘩の末、退職です。


◆自由民権運動の中で


 その後、篤介は私塾の経営と翻訳業に専念するわけですが、折りも折り、国会開設の建白書が出されたことがきっかけとなって、士族を中心とした「自由民権運動」が開始されつつありました。そこでは篤介の翻訳した「民約論」が広く読まれ、篤介は次第にこの運動の思想的中心と見なされるようになってきます。
 こうした情勢の中で、大久保利通率いる政府はこうした運動に次々と弾圧を加えていきます。特に民権運動の火付け役である新聞に対してはハッキリと言論封殺を狙った政策を打ち出していきます。篤介は当然これには怒りました。そこで、一時本気で大久保政府を倒そうと奔走していたようで、勝海舟の家に出入りして西郷隆盛・島津久光らによるクーデターの計画まで練っていたと言われています。まぁこれは結局未遂にとどまるわけですが。
だいたいそうこうしているうちに西郷が鹿児島で挙兵、いわゆる西南戦争が勃発してしまいました。篤介の塾の生徒の中からも、この挙兵に参加する者が現れます。篤介はこれを止めはしませんでしたが、自ら行動を起こすことはしませんでした。あくまでも自分は「思想家」だと位置づけていたようです。しかし後に彼は西郷の反乱を「反動」ではなく「抵抗」として肯定的に評価しています。

 さて、西南戦争が西郷の死によって終結し、その直後に大久保利通も暗殺されてしまいました。幕末から維新への激動期の主人公達はこの世を去り、伊藤博文ら新しい世代が政治の舞台に登場してきます。そして「自由民権運動」も新たな段階に入り、大きな民衆運動へと拡大していくのです。

 こうした動きの中で、篤介は「東洋自由新聞」なる新聞を発行し、自由民権の思想を全国の人々に広めていきます。当然、伊藤博文らの政府はこの新聞の弾圧を図りましたが、そこは篤介も考えてありました。新聞のパトロンにフランス留学中に親友となっていた公家の西園寺公望 を引っぱり出し、容易に手出しが出来ないようにしたのです。なんだかんだでこの新聞は34号まで発行されたのですが、結局、政府は「天皇の命令」であるとして西園寺を「東洋自由新聞」の社長から退かせます。さすがに西園寺も「天皇」の名前を持ち出されては抵抗できず、彼が社長を退いた時点で「東洋自由新聞」の命運は尽きました。篤介は新聞の最終号に「これは「天命」である」と書いて、暗にこれが天皇の名の下に行われたことを示しています。「東洋自由新聞」の廃刊は明治14年4月のことです。

 そのわずか三ヶ月後、いわゆる「開拓使払い下げ事件」が発生、激昂した世論をおさえるために政府は十年後の国会開設の約束を発表します。もうちょっとこれが早ければ「東洋自由新聞」の命運も延びたはずなんですが・・・。ともあれ国会開設が現実のものとなったのです。民権運動家はこぞって勝利に酔い、お祭り騒ぎになりました。しかし篤介は「十年後」となったことに政府の意図を敏感に感じとって非常に冷めていたと言います。実際にこの十年の間に民権運動内で国会開設後をにらんだ権力闘争が起こり、板垣退助を初めとしてみんな骨抜きにされていくのです。そんな中でも篤介は自由党の板垣と立憲改進党の大隈重信を連合させようとアレコレ画策したりもしたようです。
秋水像 この時期に篤介は面白い文章を発表しています。タイトルは「三酔人経綸問答」。年中大酒飲んで酔っぱらっている南海先生(幸徳秋水に言わせるとその描写は兆民先生そのままだという)のもとへ「紳士君」「豪傑君」 の二人がやってくる。紳士君は軍備廃止・死刑廃止・完全民主制など理想論を唱え、豪傑君は帝国主義の時代は弱肉強食だと述べて軍事力増強・大陸進出を唱えます。南海先生はその両方の長所・短所を指摘するんですが、ハッキリとした結論は出さずにごまかしてしまう…そんな感じに酔っぱらいどもの議論に仕立てた見事な政治論となっていました。この時期の民権派の政治論争にテキストとして使ってもらうことを意図した読み物だったようで、今読んでも新鮮なユーモアたっぷりでなおかつ真面目な政治入門書となっています。ちなみにこの中に登場する三人の「酔人」はいずれも篤介の多面な性格をそれぞれに人格化させた、いわば分身であったと考えられています。
 その後、条約改正案をめぐって政府への批判が強まったとき、篤介らはこれを機に一挙に「薩長藩閥政府」を倒そうと画策します。しかし首相・伊藤博文は「保安条例」を出して反政府活動家を一斉に東京から追放するという強攻策に打って出てしまい、篤介らも二年間の東京退去を命じられてしまいました。やむなく篤介は大阪に住み着き、そっちで活動を続けます。15才の幸徳伝次郎(後の秋水)が彼の家に住み込むようになったのはこの時期のことです。


◆国会議員から実業家へ


 秋水の回想によると、この時期の中江家には日夜若者が転がり込み、大変な賑やかさだったようです。議論をしにくる連中もいて篤介も相手をしてやったようですが、中にはただ昼飯を食いに来たり本の序文や題字を書いてくれと来る連中もいて、ついには篤介も音を上げて大きな板に「題字序文ならびに寄書の類一切お断り、金銭の合力食客のご依頼一切お断り」などと書いて玄関に掲げていたそうです。
 そうこうしているうちに「大日本帝国憲法」が発布されました。日本中が「立憲国家成立」だと一斉に祝賀ムード一色となり、民権運動家の多くも祝賀気分に巻きこまれる中、篤介はやはり冷めていました。「まだ中身を見もしないうちに喜んでやがる」と国民意識の低さを嘆き、実際に憲法条文を目にしてもその内容に苦笑するばかりだったといいます。
 ともあれ憲法が出来た、議会も開かれる、というわけで篤介はその状況下での藩閥政府打倒を目指します。そのために野党勢力(当時は民党と呼ばれた)の結集が必要だと彼らの大同団結を訴えます。そしてとうとう自ら衆議院議員に立候補するのです。それも彼の地元の土佐でなく大阪4区から。もっとも彼自身の意志と言うよりも彼の支援者達が彼を国会に送り込むべく運動していたのですが。当時立候補するには15円以上の税金を納めている必要がありましたが、貧乏の篤介にそんな金があるわけない。そこで支援者達は自らの財産を篤介名義にしてしまい(!)、とうとう篤介の資産を立候補可能ラインまで押し上げてしまうのです。その熱意に押される形で選挙に出た篤介はこの選挙区で見事トップ当選をはたします。ちなみに彼の選挙運動には当時「新平民」と呼ばれた非差別部落民が数多く協力したといわれています。

 さてめでたく国会議員となった篤介ですが、案の定その実態に幻滅してゆきます。議長選挙の際にも「笑うべしこの議長、悲しむべしこの議場、おそるべし将来の会」とだけ投票用紙に書いて議長名を書きません。その後の予算審議で与党・野党の対立が激化、一時は政府打倒という瀬戸際までいくのですが、野党のうちの土佐派(篤介とは同郷ということもあって近い存在だった)の議員達が政府に買収されてしまい、あっさり妥協案を通してしまうのです。
 これには篤介もショックを受け、彼の政治への幻滅を決定的にしてしまいます。篤介は国会を「無血虫の陳列場」と罵倒し、あげくに「小生事、近日亜爾格爾中毒症相発シ、行歩艱難」と理由を書いた辞表を議会に提出します。「亜爾格爾」とは「アルコール」のこと。要するに「アル中のため歩行も困難だ、辞任させてくれ」と人を食った辞意を表明したわけ。これをめぐっても議会は紛糾し(笑)、結局1票差で中江篤介議員の辞職が承認されています。

 こうした政治への絶望を感じる中、篤介は「やはり金がなけりゃダメだ」との結論に達します。彼が信頼していた土佐派が裏切ったのも彼らに資金が無かったが為でした。ここから篤介は一挙に実業の世界へと身を投じることになります。
 手始めに当時まだ開拓途上だった北海道にのりこみ、製紙・木材事業に手を付けます。何せ開拓開始時期の北海道でしたから初めはそこそこ成功しますが、その後もっとやり手のライバル業者が出現したため、篤介の事業はあえなく失敗に終わります。篤介はそれにも懲りずに清掃業、鉄道などなど次々に事業に手を出しますが、本人も自嘲しているように「理想的経営」を掲げてしまうクセがあったようで、ことごとく失敗し借金ばかりがたまっていくという悪循環に陥ってしまいます(大隈重信に泣きついて借金したこともあるという)。しまいには「理想の遊郭を作ってやる」とまで言いだし、それを諫めた幸徳秋水に「わしは儲けるためには詐欺と強盗以外なら何でもやるぞ」 とまで言い放ったといいます。ちなみに日清戦争が勃発した際に経営に参加していた鉄道の株が高騰し珍しく大儲けできる機会があったのですが、この時も「事業の発起人が株を売るべきではない」とか理想論を言って売らず、結局大損したという話も残っています。どうも政治家だけでなく事業者向きでもないですな、この人は。
 で、政治活動の方はどうしたかといいますと、「国民党」という国権主義的政党を旗揚げしたり、「国民同盟会」なる大陸進出・反ロシア政治団体に参加して気勢を上げたりしています。篤介のなかの「三酔人」の一人「豪傑君」の主張の部分が出てしまったわけです。ここでも秋水が忠告をしましたが、「ロシアと戦って勝てば大陸に飛躍できて大いに結構、負けてもそれによって国民が目覚めて藩閥政府が倒せるのだからそれも結構だ」とか答えたそうです。


◆一年有半


 明治33年の秋頃から、篤介は自分のノドに異常を感じるようになっていました。ノドがしめつけられて窒息するような感覚を覚えるのです。そのまま放置しておいたのですが、翌34年春になっていよいよ状況は悪化し、吐血まで起こすようになり、ついに篤介は堀内という医者の診察を受けます。堀内医師は気管切開の必要があると篤介に伝えます。それを聞いた篤介は「ガンじゃないのかな、どうもそんな気がするんだ」と言い、ごまかそうとする医師に「隠さんでもいい、あとどのくらい生きられるか知りたい。さもないと予定の立てようがない」と余命の宣告を求めます。堀内医師は篤介の願いに負け、彼が咽頭ガン(実際は食道ガンだった)であること、余命は一年半だと宣告します。聞いた篤介は「ほう、そんなに生きられますか。こりゃ寿命の豊作だ」と嬉しそうに答えています。

 篤介はガンの切除はせずに、窒息を防ぐため気管切開の手術を受けます。声帯の下で気管に穴を空けそこに銀製の管を通すというもので、以後彼は声を発することが出来なくなります。会話は全て石版による筆談で行われました。そして彼は残された余命そのままの題名「一年有半」 と名付けた文を病床で書き上げます。原稿は秋水に渡され彼の生存中に出版されました。内容は彼独特の感性と毒舌に満ちた政治・哲学・文学論集ともいうべきもので、その衝撃的なタイトルのせいもあってか、大変なベストセラーとなり、世間に「中江兆民」の名を思い出させただけでなく、多額の印税を瀕死の彼にもたらすこととなりました。これに気をよく(?)したのか篤介は悪化する病状をおして「続一年有半」をわずか十日間で執筆、ここでは持論の「無神無霊魂論」を展開します。
 ここで篤介らしい珍騒動が勃発します。彼の無神無霊魂論に恐れを抱いた知人の河野広中の夫人が「彼が地獄へ落ちるのを救おう」と余計なお世話の親切心を発揮し、祈祷師を彼の病室へ送り込んで加持祈祷を行わせたのです!瀕死状態の篤介は当然激怒し、起きあがって「早くやめよ!」と枕や痰壺ををつかんで祈祷師どもを撃退しています。彼の最後を飾る彼らしい騒動だったと言えるでしょう。

とくすけ君  明治34年(1901)12月13日午後7時半。篤介はついに息を引き取りました。享年55歳。遺体は彼の遺言にしたがって翌14日に東京帝国大学医科大学病院で解剖されました。解剖には愛弟子の秋水が立ち会っています。その後これまた遺言に従って無宗教形式で告別式が行われ、青山墓地に埋葬、墓碑すら建てられることはありませんでした。篤介自身、日ごろから「私は生きている人間を愛するのであって白骨は愛さない」と言って友人の葬式に一切出なかったほど徹底した唯物主義をとっており、自らの死に際してもそれを貫かせたわけです。

◆明治の奇人

  さてここまで大幅ダイジェストで中江篤介氏のハチャメチャ生涯をたどってみたわけですが、実際のところ分量の都合で泣く泣くカットした爆笑エピソードも多数あったことをお断りしておきます。その辺は参考文献などをお読みください。以下にちょこっと人間・中江篤介について付け加えておきたいと思います。

 彼にもちゃんと妻子はいました。世間では破天荒な篤介も家に帰ればなかなか「良き父」であったようです。妻は「ちの」といい、二人の間には娘「千美(チビ)」と息子「丑吉(ウシキチ)」が生まれました。いくらなんでも我が子に「チビ」って名前はひどいもんで、後に彼女は改名しています。息子の「丑吉」の名も丑年の生まれだからという安直な理由でして、反対する妻に篤介は「おちぶれて車夫なんかになっても相応なように名付けたんだ」とか言ったそうで(笑)。ちなみに自分の弟の娘にも「猿吉」と名付けたそうで(!)さすがにこちらも後に改名しています。
 ところで息子の中江丑吉は後に北京に在住し中国古代政治学の研究者となり、多くの教え子達に強烈な印象を残したそうです。彼は日中戦争以前に亡くなりますが、日中戦争・太平洋戦争の勃発と大日本帝国の滅亡を予言していたと言われ、どこか言動に父・篤介の面影を残していたようです。

 篤介の人間的魅力については弟子の幸徳秋水が追悼文「兆民先生」 で生き生きと語っています。民権思想の理想に燃える思想家、行動的な革命の鼓吹者、漢文・仏文・和文に精通した学者・読書家・文章家、それでいてどこか冷めて世間を眺めるユーモアたっぷりの皮肉屋、失敗ばかり繰りかえす落第事業家…とにかく多くの側面と矛盾に満ちた複雑な人物でした。しかし決して節を曲げることのない信念の人であったことは事実です。その強烈な個性は明治という個性派がやたら乱立した時代にあっても一際目立つ光を放っていたように思えます。

次回は「け」から始まる人物です。お楽しみに。


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