しりとり歴史人物館
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第7回
「多趣味」で「不幸」な大経済学者
ケインズ
John Maynard Keynes
(1883−1946、イギリス)
ケインズ像

◆はじめに


 今回の担当は私、管理人の弟、K・E・Nであります。高校野球が始まるまで自分のページは更新するネタがないもので、こちらを手伝うことにしました。今後も時間が空いたら書くかもしれませんからよろしく。

 今回は「け」で始まる人と言うことで、イギリスの経済学者、ジョン=メイナード=ケインズ を取り上げることにしました。「け」じゃないだろこら、と言う声が聞こえてきそうですが、必ずフルネームにするとは誰も決めていません。それを言ったら「クリスティナ」からして反則ですからね。この人については、教科書や参考書なども「ケインズ」で扱いますから、ここでも「ケインズ」として扱い、次は「ず」で始まる人を取り上げることにします。

 現代マクロ経済学の基礎を築き、多くの専門家が「20世紀最大の経済学者」と呼ぶこの人、現場の「泥臭い」経済活動にも目を向けた実務家でもあり、文芸にも目を向け、さらには時事評論の面でも優れた業績を残したあたり、いわゆる「象牙の塔」にこもる学者とはひと味違ったところがありました。まあ今まで兄が扱った人達のようなハチャメチャさはないんですが、このページのように「多趣味」なところがあり、取り上げる価値はあると思います。


◆絵に描いたようなエリート


 ジョン=メイナード=ケインズは1883年6月5日にイギリスの大学町、ケンブリッジ市で生まれています。この1883年は2月8日に20世紀、ケインズと並び称されることになる経済学者、ジョセフ=シュンペーターが生まれ、3月14日には、かの有名なカール=マルクスが亡くなっています。まさに経済学史のターニングポイントになった年でした。

 父親のジョン=ネヴィル=ケインズは、ケンブリッジ大学で論理学と経済学を講義していた人で、「形式論理学」や「経済学の範囲と方法」といった有名な著書を残したなかなかの学者でした(結局この人も、『君の経済学に対する最大の功績はメイナードを作ったことだ』と言われるはめになるんですが)。母親のフローレンス=エイダは社会事業家として地域の人達に貢献し、後年ケンブリッジ市初の女性市長になっていますし、妹のマーガレットは社会事業に貢献して老人ホーム設立の先駆者となり、弟のジョフリーは外科医兼伝記作家として活躍、と言った具合に典型的なインテリ一家でした。

 このような環境で育ったメイナード=ケインズは、早くからその才能を示し始めます。4歳の時「利子とは何か」と父親に聞かれた際、「僕がお父さんに半ペニー渡し、お父さんが非常に長い間それを持っていたとすると、お父さんはその半ペニーと、その他にいくらかを加えて僕に返さなければならないでしょう。それが利子です」と答えることができたと言います。また学校にも行かないうちから「誰が時間を発明したか」とか「ものに名前が付いたのはなぜか」と言った質問をして家政婦や家庭教師を言い負かしたという話も残っています。

 14歳の時彼はパブリックスクールの名門、イートン校に入学します。そこをトップの成績で卒業、ケンブリッジ大学のキングズ−カレッジに入学、と言う典型的なエリートコースを歩んでいきます。

 ただ、彼のこうした突出した素質は、「第三者に対して自分を特権者と見なし、自分の知性にうぬぼれているという印象を与える」とイートン校の教師に批判される、自信過剰とも言うべき性質を作り上げていくことになります(エリートが得てして陥りやすいんですよね) 。実際この時期、彼は母親に宛てた手紙の中で、試験官や教師などの人達がとにかく愚かで退屈だと鋭く批判していたそうです。その後も彼は生涯にわたって有能無能で人を区別し、愚かだ、退屈だと見なした人達を情け容赦なく非難していくことになります。だからこそ多大な業績を残せたとも言えますが。


◆経済学者への(まわり)道


 ケンブリッジに入ったケインズはここで、「ザ・ソサエティ」と呼ばれる知的グループに所属します。後に「ブルームズベリ・グループ」と呼ばれ、ヴァージニア=ウルフやリットン=ストレイチーなど、20世紀のイギリス文芸に多大な貢献をした人が集まったこの集団は倫理学者ジョージ=エドワード=ムーア の影響の元、生活における至高の価値を人間関係と美の鑑賞に求め、エリートとしての自分達を信じ、慣習や既存の道徳を無視して何やっても良いんだという発想をする連中でした。こんなわけでよく日本の「白樺派」に例えられるというこのグループ、エリート意識の強いケインズとはウマがあったようです。彼らとのつき合いは後年、彼を単なる学者に止めなかった要因となりました。ただ、人付き合いや文芸、芸術に没入して勉強時間が無くなり、「俺は優秀だ」と試験勉強の努力を怠ったこともあって、大学での成績は芳しくなく、1年間留年するハメになります。

 この留年した年次にケインズは当時経済学の権威であり、いわゆる「新古典学派」(『ケンブリッジ学派』とも言う)の祖とされるアルフレッド=マーシャルの講義に出席し、ようやく本格的な経済学の勉強を始めます。父ネヴィルの同僚でもあるマーシャルは、ケインズの才能を認め、彼が将来この道に進むよう熱望し、マーシャルの高弟で後に「厚生経済学」という新たな概念を生み出すことになるアーサー=セシル=ピグーはケインズを週1回朝食に招き、直接指導をしています。

 こうして経済学に深い興味を持っていったケインズでしたが、研究に没頭する学者の姿というのが退屈に見えたらしく、「将来鉄道を管理したり、トラストを組織したい」などと、経済を研究するよりも、実際に動かす立場になりたい、と考えるようになります。その自信もあったんでしょう。まずは官界に入ろうと1906年、文官試験を受けたケインズは2位で合格します。しかし希望する大蔵省の空席は1つしかなく、1位の人が入ったためにインド省へ配属されてしまいます。なぜトップでなかったかというと、得意だったはずの経済学が、600点満点中256点とボロボロだったためだそうです。これについて自信家のケインズは「試験官は僕より経済学を知らなかったに違いない」などと言ったそうな。

 インド省はとにかく暇な職場で、さらに官僚機構やそこで働く「お役人」達の下劣さを見て、社会を動かしたい、と言う自負の強かったケインズはたちまち嫌気が差してしまいます。そんなおり、恩師であるマーシャルから、経済学講座担当者(学業の奨励金としてマーシャルがその給料を払っていた)に空席が出来たから戻らないか、という誘いを受けたケインズは役所よりマシと思ったか、1908年6月、2年間勤めたインド省を辞め、ケンブリッジで教鞭を取り始めます。大学に入って以来、紆余曲折を経ての「経済学者ケインズ」の誕生でした。


◆「不幸の予言者」


 ケンブリッジに戻ったケインズはマーシャルの理論に沿って、貨幣や金融の問題を研究し、それに関する講義を行い、多くの人材を輩出します。さらには多忙な講義の合間を縫って、著名な経済理論誌、「エコノミックジャーナル」の編集に携わったり、「インドの通貨と金融」という著書を出版したりと様々な活躍をします。

 第一次世界大戦勃発後の1915年、ケインズはケンブリッジでの業績を買われ、大蔵省に入ります。そこで彼は連合国間の金融問題に対処し、優れた行政能力を発揮します。そして終戦後の1919年、36歳という若さで大蔵省首席代表となり、パリ講和会議に出席します。

 会議は敗戦国ドイツが支払うべき賠償金の額をめぐって紛糾します。終戦前からケインズとそのスタッフは、適正かつドイツが支払い可能な金額を試算していました。彼らが出した数字は慎重に見積もって20億ポンド、せいぜい頑張って30億ポンド、というものでした。これでも普仏戦争でフランスがドイツに支払った額に比べれば、かなり多いんです。ところがフランスは宿敵ドイツを再起不能にしようという魂胆でしたし、イギリスのロイド=ジョージ首相にしても、戦時中膨大になった対外債務を賠償金で処理してやろうと考えてましたから、どかっと請求してやろうと目論んでいました。

 ケインズはドイツ経済の破綻が全ヨーロッパに波及することを恐れ、ロイド=ジョージ 首相に直訴したり、連合国間の戦争債務を帳消しにするという提案を行うなど、必死で抵抗しましたが、結局額の決定を先送りするのが精一杯でした。そして最終的に、賠償額は1,320億マルク、イギリス貨幣の換算で66億ポンド、ケインズが「可能」とした金額の2〜3倍という無茶苦茶なものになってしまいます。

 この結果を見たケインズはバカらしくてやってられんと、ロイド=ジョージ首相に辞表を叩きつけて本国イギリスに帰ってしまいました。そしてこの年の12月、「平和の経済的帰結」という本をマクミラン社から出版します。この中で彼は、「過剰な賠償金によるドイツ経済の破綻によってヨーロッパ経済全体が破綻し、さらにヨーロッパ経済のアメリカ経済に対する、相対的な地位の低下をもたらすだろう」と警告を発しています。そして1922年、その続編と言える「条約の改正」を出版し、講和条約(いわゆるヴェルサイユ条約)に定められた賠償金額がいかに無謀であるかを様々なデータから論証し、「このままではヨーロッパの復興に重大な障害が残るだろう」と主張しています。

 これらの本は会議に出席した各国首脳に対し、辛辣な人物描写(アメリカのウィルソン大統領が、いかにヨーロッパの政治家に翻弄されたか描いたのが特に有名) を行ったこともあって、「タイムズ」などには非難され、ケインズ自身しばらくの間政界や官界から総スカンを喰うことになります。その一方で大衆向けにはバカウケし、一大ベストセラーとなり、10ヶ国語に翻訳され、ジョン=メイナード=ケインズの名を世界中に知らしめることになります。遠く日本にまで知られたくらいです。

 ただ大衆レベルに受け入れられたのが戦勝の興奮が冷めた後で、政治レベルの状況を変えるには至りませんでした。このため結局ケインズが行った予測通り、ヨーロッパ経済は不幸な状況に陥っていきます。そして本人の名声は上がるという皮肉なことになるわけです。

 こんな「不幸」はその後も続きます。ケインズは1925年に保守党政権が行ったデフレ政策や金本位制復帰に強く反対したのをはじめとして、政府や中央銀行が行う政策に反対し、そしたらこういう不幸を招くぞ、という警告をそのつどするんですが、受け入れられず、その警告通りに不幸な結果が生じてしまうのであります。それを阻止できなきゃしょうがないんですけどね。

 こうした自分を嘆いたケインズは1931年(浅野栄一氏の本では33年になっている。どっちなんだろう?)、こういった時期に発表した諸論文を集めた「説得論集」という本の序文の中で「ここに収めたのは12年間にわたる不吉な叫びーかつて一度も事態の成り行きに対して時宜に適った影響を与えることが出来ないままに終わった、かのカサンドラ(ギリシャ神話で有名なトロイアの王女。予知能力があったが、不吉なことばかり言うので信じてもらえなかった)にも似た一予言者の凶事を告げる叫びである。(中略)不幸なことだが、より多くの成功を収めたのは説得ではなく、予言の方だった。しかし本書の大部分の基調をなすのは、説得の精神である」などと書いています。


◆多趣味人、ケインズ


 第一次大戦後のケインズはケンブリッジに戻りましたが、世論形成に強い使命感を持った彼にとって、大学で単調な学究生活に没頭することは耐え難かったようで、戦前ほどの仕事はやらずに、講義を週1回に限定します。ケンブリッジには週の半分だけ滞在し、わずかな講義と、自ら主催するクラブにおける経済学の指導を熱心におこないます。そして残り半分はロンドンに滞在し、多方面にわたった趣味に関する活動に没頭していきます。

 まず一つは「金儲け」でした。学生時代から投機活動に手を染めていたケインズは、本格的に外国通貨の先物売買を中心とする投機に手を出していきます。1920年、うっかり予測を誤り、破産してしまった彼は、父親に負債を弁償してもらい、「二度と同じ過ちを繰り返さないように」と説教されたんですが、そのあと凝りもせず、大蔵省時代の同僚などと一緒に投資会社を設立し、より大規模な投機を行います。これについてある友人に詰問されると彼は、「父は同じ失敗をするなと言ったのであって、投機をするなと言うことではない」と減らず口を叩いたそうです。実際その後は失敗を繰り返さず、大きな利益を得ていきます。

 彼は世論の形成、説得のために多くの著作を残しましたが、これらもまた、彼の収入源でした。例えば既に触れた「平和の経済的帰結」ですが、ケインズは執筆中から「これは売れる」、と自信を持ち、初版を5000部刷るようマクミラン社に要求します。これに難色を示すマクミラン社に対し、彼はそれならと危険を負担する形で彼自身が出版費用を払い、そのかわり利益の9割を彼が受け取ると言うことで合意を取り付けます。この作戦が大当たりし、ボロ儲けした彼は以後の著作で全てこの方式を採り、その都度さらなる利益を得ていきます(前回の中江兆民とは大違い!)

 ただ、ケインズは決して「金の亡者」ではありませんでした。彼は晩年、経済学者を「文明の可能性の受託者」と位置づけたように、人の豊かさを心の豊かさであると考え、経済学をあくまでも、心の豊かさと余裕を得るための手段の一つと捉えていました。そして得た資金の多くを友人との交際や文芸活動につぎ込んでいます。

 1918年、ドイツ軍の進撃でパリが砲火にさらされようとしたとき、パリにすっ飛んでいって、美術品を買い集めたのを始めとして次々と買い足しを続け、ついには辛口の批評で専門家が煙たがるほどに鑑識眼と知識を深めています。また、思想史を中心とする古書の収集にもつとめています。

ケインズ夫妻 彼は演劇やバレーにも関心を持っています。ロシアのバレー団、「バレーリュッス」の公演に友人達とともに熱狂し、特に1921年の公演でプリマを演じたバレリーナ、リディア=ロポコヴァ にすっかり入れ込み、交際を始めます。彼女には夫が既にあり、おまけに家庭も仕事も放り出してロシア軍将校と駆け落ちした過去もあるなど問題がありましたが、ケインズは法律上の問題を慎重に片づけ、1925年8月に彼女と結婚しています。時にケインズ42歳、リディアは34歳でした。この結婚、上流階級には概ね不評で、特に「ブルームズベリ=グループ」との関係は以後疎遠になるんですが、この結婚生活は破綻せず、リディアは後年病気がちになったケインズを献身的に支えていきます。

 さらに彼は芸術を自分で楽しむだけではなく、人々にその機会を提供することにも熱心でした。1936年にはケンブリッジにアートシアターを作って市民に映画や演劇を楽しむ機会を提供し、晩年には芸術奨励会会長になって、戦争で衰退していた演劇やバレーなどの復興に尽力しています。

 こうしたケインズの「多趣味」は明らかに、彼を「象牙の塔」の理論から離脱させ、「本業」の経済学において大きな業績を残す要因となりました。


◆「一般理論」への道


 1930年、ケインズは「貨幣論」という大著を出版しています。この中で彼は貨幣の定義、分類、歴史など、経済学を学び初めて以来研究してきた内容を総合しました。そして物価水準が貨幣供給量に比例するという過去の理論を批判し、物価水準は財に対する需給関係で動くという主張をします。そのうえで独自の景気循環理論を提示し、これを鎮めるための金融政策を提案します。そして経済安定のための国際協力が必要であるとして、これを実行する超国家的銀行の設立を提案します。ケインズはこれによってこんどこそ景気を安定させ、不幸を未然に防ごうとします。

 ところがさすがは「不幸の予言者」(笑)、書いてるときはよかったんですが、今度は出版されたとき、現実の方が彼の予想を超える不幸な状況に見舞われていました。

 1929年10月24日、ニューヨーク、ウォール街の株価が大暴落を起こし(いわゆる『暗黒の木曜日』、倒産が続出、アメリカだけで1500万人もの失業者を出す事態に発展します。そしてこの大不況はイギリスを含めて世界中に広がり、いわゆる「世界恐慌」になっていきます。

 この前後からケインズは「金融及び産業に対する調査委員会」、通称「マクミラン委員会」 の委員となり、積極的な公共投資で雇用を創出し、不況を克服すべきだという主張を繰り返します。そして1933年に不況対策を話し合う国際会議が開かれることが決まると、自分の政策案を述べた「繁栄の道」というパンフレットを出版し、その実現を世界各国首脳に向け訴えます。

 しかしこれらの提案は兄弟子ピグーをはじめとする、他の経済学者の反対に遭います。当時の経済学においては、国家は資本を守る「夜警国家」であればいいというのが長きにわたって常識となっており、これが介入すれば市場のシステムを壊してしまうと考えられてきました。乱暴な言い方をすれば、「ほっとけばそのうち何とかなる」と考え、何の対策も講じようとはしなかったわけです。

 ところが一般市民は生活苦に直面し、「ほっといたらどうにもならん」と思っていました。ケインズは他の学者と違い、実際に投資を行う実業家でしたから、考え方は市民レベルに近いものがありました。そこで今の不況は既存の経済学の無力さが原因だと主張し、ピグー達と対立するんですが『こいつは間違っている』と思ったら最後、世話になった兄弟子だろうと容赦しません)、なぜ市場にテコ入れをする必要があるのか、という根拠が今ひとつ不足しており、その為経済学者や政策担当者を説得できませんでした。

 このため、ケインズは新たな経済理論を組み立て、自らの主張を強化する必要に迫られます。そして数年にわたる試行錯誤の末、それを完成させました。かくして経済学の常識を覆すことになった彼の主著、「雇用・利子及び貨幣の一般理論」が1936年2月4日、マクミラン社から出版されるのであります。


◆「ケインズ革命」


 この本はタイトルからして挑発的でした。「一般理論」(General Theory)とは、いかなる状況にも当てはまる理論である、という意味らしいのですが、これは裏を返すと、「あんたらの理論は、完全雇用が成立した時しか通用しない特殊な理論なんだよ」という、ピグーはじめ他の経済学者に対する物凄い嫌味が込められていたようなんです。

 ケインズはまずこの本の中で、それまで資本主義世界における経済学者が誰一人考えなかった、世界の常識を根底から覆す定義を示します。それはズバリ、「失業とは、働けなくなることである」というものでした。…「当たり前だろ!」という声が飛んできそうですが、本当にこれは今からたかだか60数年前にケインズが初めて示した定義なんです。(まあ厳密に言うと、『働く意思と能力があるのに、働けない状態』なんですけどね)これを説明するために、ケインズが「古典派」と呼んで攻撃した、それまでの経済学をざっと解説します。

19世紀初頭、フランスの経済学者セーは、何か買うには金が要る、金を得るには何かを売る必要がある、だから人はものを供給することによってものを買うのであり、売買とは貨幣を媒介とした物々交換である、と考え、何かを売ることはいろんな人をめぐりめぐって、同じ人が何かを買うことにつながる、だから供給は自らの需要を創造し、作ったものは必ず売り切れるんだ、と主張しました。これは提唱者の名を取って「セーの法則」と呼ばれ、ジョン=スチュアート=ミルなどその後の経済学者が理論の中心に据え、マーシャルやピグーなども、この考えに乗っ取って理論を展開していました。

 従って資本家は物品を、労働者は労働力を供給することで収入を得て、需要を創出する、人はみんな生活したい、得をしたいのだから、誰かに損得が偏れば他の人が損をして結果として最初に得した人につけが回る、だから自然とみんなバランスがとれるように資本家が需要を創出するための供給代金=物価と、労働者が労働を供給することで得て、需要に回すための金=賃金は適正なラインに落ち着く、と考え、結果として資本家は雇いたいだけ人を雇い、労働者は雇われたいだけ雇われるから、世界は常に完全雇用を実現するのである、としたわけです。

 だから職を持たない人というのは、より大きな利潤を求めて他の職を探している人=自発的失業者と、個人的関係がうまくいかなくなって失職した人=摩擦的失業者の2種類しかない、すなわち失業とは「働かない」 状態のことだと定義していました。従って世界恐慌による失業も、本人が満足と思う収入が得られないことによる「自発的失業」だとして、職のない人が何千万人いようが完全雇用状態なのだと考えたわけです。そして労働組合による賃上げ要求を抑え、労働者が賃下げを認めれば失業はなくなると主張していました。

 これに対しケインズは、企業が一定の人件費で人を雇い、ものを売って利益を得ようとすれば、雇用数は企業の雇用需要によって決まるわけですが、これは必ずしも働こうとする人の数とイコールではない、と主張します。彼は自分が投機で儲けてましたから、貨幣というものは単なる媒介手段ではなく、投機などを目的として貯蓄されることが多いと指摘します。つまり払った金はめぐったとしても同じだけ戻るとは限らない、というわけです。

 すなわち、貯蓄に回った分だけ世間に出回る金の量は減るわけで、そうなると財に対する貨幣支出を伴った需要=有効需要が減り、企業に入る金が減ります。すると企業は人件費を減らすことになり、その分だけ雇用数を減らすことになり、それが働きたい人口よりも少ないと、非自発的失業者=「働きたいのに働けない」人を生み出すのだ、ということになります。

 では給料を減らして雇う人数を増やせばいい、と「古典派」は言ってきたんですが、そうはいかない、とケインズは主張します。労働者には賃金の額を決める権限はあっても、自分が買うものの値段を直接決める力はない、と主張し、賃金と物価の割合、すなわち実質賃金率を決める権限がないと指摘します(例えば物価が2倍になっても給料が上がらなければ、収入は事実上半減する) 。物価というものは契約が長期になった状態ではそう変動はしません、その上で賃金が下がれば供給した労働力への見返りが大きく減るわけで、大変な損になる、だからどうしてもある程度の収入は維持しなければなりません。従って賃下げにはなかなか応じられないわけです。それに全企業が賃金をを減らせば、社会全体の購買力が下がり、有効需要は結局減ってしまいます。

 結局のところケインズの結論は、完全雇用を実現するためには原則としてじゅうぶんな有効需要が必要であり、そのためには民間企業や個人の支出を国が管理することは出来ない以上、国や中央金融当局による有効需要を創出することで、足りない分を埋め合わせるしかない、というものでした。市場に任せていたら、消費が落ち込み、さらに不安から貯蓄が増えて有効需要が減り、ますます失業者を増やしてしまうことになる、というわけです。

 このケインズの理論は既存の経済学者からは反発を受け、ピグーはケインズの死後、ケインズ学派をケンブリッジから閉め出していきます(ピグー達を疎外したケインズも悪いんですが) 。しかし彼の理論は若手の経済学者や世界各国の政治家の心を捉え、ニューディール政策や、イギリス労働党の基本政策と結びつき、その思想的後ろ盾となっていきます。ケインズの理論は戦後根幹部分において経済学界の主流となり、各国政府はそれまでの自由放任主義、「小さな政府」であることを捨て、完全雇用を実現する介入を行い、概ね雇用を維持するなど、フリードマンらの理論に取って代わられるまで、資本主義社会を支える理論的基礎となっていきます。

 経済学、政治などあらゆる分野を一変させた、彼の理論による大変革は後年アメリカのクラインによって「ケインズ革命」と命名されることになます。

ケインズくん◆第二次大戦期=晩年

 第二次世界大戦が始まると、対独強硬論者、ウィンストン=チャーチル が首相となります。この人は蔵相時代、金本位制復帰などを推進し、ケインズにさんざん名指しで批判された張本人でしたが、もはやこれまでケインズを排除してきたイギリス政府も、彼の頭脳を無視できなくなっていました。ケインズは大蔵大臣経済顧問、イングランド銀行理事として戦時経済の運営に当たります。そして6回にわたって訪米して武器援助や借款を引き出し、イギリスを経済面から支えました。さらには、アメリカ側への譲歩を余儀なくされながらも、戦後景気を安定させるための国際通貨基金(IMF)創立に貢献し、かつて「貨幣論」などで主張した「超国家的銀行」や「国際通貨」といった構想を実現させるなど、その後の世界経済の方向を決定づける大活躍を見せました。

 ただこの「大活躍」は同時にこの時期を彼の「晩年」とする結果になりました。ケインズは1937年あたりから心臓を病み始めていましたが、度重なる疲労から病状が進行し、この時期会議に出席して演説や討論を行った際、言葉を急に中断して胸を押さえる場面が多く見られたと言います。そして1946年3月、アメリカはジョージア州サヴァナで行われたIMF設立総会に出席し、その後列車でワシントンに向かっていたケインズは、重症の発作を起こし、倒れてしまいます。何とか用事を済ませ、帰国して静養しましたが程なく容態が悪化し、4月21日朝、イングランド南部、ティルトンの別荘で息を引き取ります。享年62歳でした。実力のない権威を嫌い、死後の自分が祭り上げられるのを嫌ってそう遺言したのか、墓はどこにも建てられていないそうです。

 過剰なまでの自信で常に言いたいことを言い、やりたいことをやって数多くの業績と論敵を作り続けたケインズでしたが、実力以外で人を差別することがほとんど無く、スラッファーのようなイタリア人や、ジョーン=ロビンソンのような女性も含めた多くの優れた研究者を育成しました。また、婦人参政権運動を裏方として支えたことでも知られています。

 「不幸の予言者」だった彼でしたが、その予言を的中させていたことによって認められ、時代が彼を受け入れるようになって、ついには現実を変える「説得者」となって自らの構想を概ね現実のものとしました。そういう意味では、終わってみると「功成り、名を遂げ」た幸運な生涯だったかもしれません。晩年、ある友人に「何かやり残した事があるか?」と聞かれたケインズは「もっとシャンペンが飲めたらそれで良い」と答えたそうです。(了 1999/6/14/K・E・N) 

次回は「ず」から始まる人物です。お楽しみに。


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