嘉永元年(1848)の年も押し迫った12月19日(一説に18日)。今回取り上げる人物はこの世を去りました。享年73歳。
死因・死に場所についてはその直後から情報の混乱が見られます。例えばこの人物が仕える主人にあたる島津斉彬(なりあきら)は日記に「吐血」「胃血」と記し、場所について「大円寺と言う話があるが、そうではなく宿だ」といささか迷った書き方をしています。この場合の「宿」というのも「江戸・芝の薩摩藩宿舎」か「目黒の橋和屋」かと特定できない有様。さらに死因については「服毒自殺」「切腹」という穏やかでない話まで周辺では噂されていたようです。年齢が年齢なので当時の感覚で言えばいつ死んでもおかしくないわけですが、その死をめぐって不確かな情報が出回り、多くの憶測がなされていた、それだけこの人物の存在は大きいものだったとはいえます。
この人物の名は「調所広郷」。通称「笑左衛門」。幕末薩摩藩の財政改革の中心人物であります。この人物がなぜこんな謎めいた死を遂げることになったのか…?彼の生涯を以下に追っかけてみましょう。
◆スタートラインは茶坊主から
広郷が鹿児島に産声を上げたのは安永5年(1776)2月5日のこと。父親は川崎主右衛門基明(もとあき)といい、「御小姓組」という薩摩藩の武士の最下層ともいえる家格の人間でした。幼名を良八といった後の調所広郷は、その後幕末の風雲をリードしていく志士たち同様、下層武士の出身だったわけですな。
12歳になったとき(なんも話がないので一気にこの歳)父親が亡くなります。その翌年の天明8年(1788)、良八は彼の家と同様最下層の藩士である調所清悦に請われてその養子となります。当時は跡継ぎがいないと家が断絶しちゃいますから、子がなく先の短い清悦が頼み込んだものでしょう。良八は川崎家の次男(下手すると家族も持てない飼い殺し状態ってやつですね)でしたからちょうどいい話だったはずです。翌年には早くも清悦が亡くなり、広郷(まだこの名じゃないんだけど)は早くも一家の長となってしまうわけです。
ところでこの「調所家」は代々藩主のそばにいて茶道全般から雑用を務める(まぁ社長秘書の軽い奴みたいなもんかな)
、いわゆる「茶坊主」を務めている家だったんですね。「清悦(せいえつ)」って名前も「坊主」としての法名です。こういう家ですから15歳の広郷も頭を剃って「茶坊主」とならねばなりません。しかし若い広郷は坊主頭になることにかなり抵抗したようです。その大きな理由が実家の姉の存在だった…という話もあります。仕事ですからやむなく坊主頭になった広郷のもとに、この姉が「お前は一生茶坊主で終わる男ではない」と励ますべく本結い(チョンマゲを根元で結うひも)を毎月(!)送りつけていたというエピソードがあるそうです。広郷はこれを全部ちゃんと保管しておいたそうな。広郷が後に藩政を牛耳るほどの異例の出世を成し遂げる原動力は案外「シスターコンプレックス」にあったのかも!?
鹿児島といえばこれ、桜島。2004年8月に鹿児島駅付近から撮影。 |
彼の青年茶坊主時代についてはいくつかのエピソードが伝えられています。大変な勉強家で夜まで書き付けをしていたとか、大工のことは大工に、商売のことは商人に、農耕のことは農民に日ごろから話を聞いて情報に精通し、藩主の質問に直ちに答えられたなど。面白いのが手紙の代筆のアルバイトをしていたようなのですが、彼が書く手紙は依頼人その人よりその心を相手に届けてくれると老婆達の間で評判になったという逸話。この程度の逸話なのですが、まだ将来大物になるなんて予想もされていない青年茶坊主の話題が記録されたというのは、それだけその働きぶりが目立ったと言うことなのかも知れません。
この誠実な働きぶりが評価されたんでしょう、寛政十年(1798)広郷こと清悦は江戸出府を命じられ、そのまま高輪藩邸に住む隠居・島津重豪(しげひで)付きの奥茶道に任じられます。そしてこの時に彼は「清悦」から「笑悦」と改名し、以後ずっとこの「笑」の文字を名乗ることとなります。
かなり先のことではありますが、ここで重豪のそばに仕えたことが後に調所が藩政の中枢に関わるキッカケと言うことになります。またこの隠居の重豪ってのが大変なお方なんですよね。
重豪は宝暦5年(1755)に藩主となり、それから33年の長きにわたって薩摩藩を治めてます。その政策は概ね「名君」「英君」と呼ばれるにふさわしいもにでしょう。まず彼はよく言えば純朴で勇猛な、悪く言えば粗野で世間知らずの薩摩藩士の再教育をめざし、造士館・演武館といった教育施設をつくり、医学院や薬園といった厚生施設も充実させます。また薩摩藩をあげて文化事業に着手し「島津国史」なんて薩摩藩正史やら農業百科「成形図説」はたまた鳥類百科「鳥名便覧」まで編纂、さらになんと中国語辞典「南山俗語考」なんてものまで編集してしまい藩主の重豪みずから中国語を学んでしまう。中国語だけでなく長崎でオランダ人と接触して蘭学にのめりこみ、さらにあのシーボルトと江戸で会見して「蘭癖大名」とまで世間で呼ばれる…まぁ何といいますかとにかく学問好きな藩主であったようです。その一方、薩摩藩士たちに「少しは遊びを覚えろ」と遊郭まで藩費で建設し(!)薩摩藩士の気風を一変させるという大技までかましています(笑)。
こうした諸改革やら文化事業は確かに素晴らしいものなのでありますが、やたらに金がかかるのも事実。さらに重豪は藩の地位向上のためにやたらと大大名と婚姻関係を結んだもんですから親戚つき合いで金のかかること、かかること。最たるものは重豪の娘・茂姫を将軍徳川家斉に嫁がせていたことで、将軍の外戚になって地位が向上したことは確かなんですが、これもまたさらなる出費を藩に強いることになります(たとえば将軍が薩摩藩邸に訪問なんてした日にゃ大変なんです)。
で、そんなこんなで重豪の治世33年は開明的改革期と言えば確かにそうなんですが薩摩藩の財政を破滅的状況(誇張ではない)に追い込んだことも事実。何てったって重豪が藩主となった時すでに薩摩藩の借金は90万両に達していたんですが、彼が一応の引退をした時期には借金は約120万両に膨れ上がり、さらなる拡大の様相をみせていたのでありますね。
重豪が一応の引退をしたのち、新藩主斉宣は人事を一新してさっそく藩の財政改革にとりかかります。しかしこの際の人事一新が重豪時代の全否定の様相を見せたため(そりゃそうなると思うんだけど)隠居のはずの重豪が激怒。なんと重豪が藩政に介入して新首脳メンバーを切腹に追い込み、藩主斉宣を隠居させその子斉興を藩主にします(史上これを「近思録崩れ」と呼ぶ)。そして再び重豪が藩政をみることになるわけですが、ここでまたムチャをやってしまうんですな。だいたい薩摩藩は大阪の商人から借金をしているわけですが、重豪自ら大阪に出向いて120万両の借金をいきなりチャラにするという暴挙(いわゆる徳政令みたいなもんです)をやってしまい、大阪の商人達の猛反発を受け(そりゃそうだろ)以後金の貸し手が無くなってしまうわけです。かくてますます悪化する藩財政(笑)。
調所広郷が茶坊主として重豪の側に仕えている間にはこのような事態が進行していたわけです。広郷は結局20年以上を茶坊主として過ごしていますが、この間はさすがに目立ったエピソードは残っていません。結婚して子供が産まれ、その後妻が亡くなり再婚したということが分かる程度。
◆財政改革に着手
文化十年(1812)七月、茶道頭となっていた調所笑悦は「小納戸」に役替えとなり、ついに茶坊主生活から脱出、めでたく頭に髪を蓄えることを許され(もう38歳だけどね) 名も「笑左衛門」と改めます。これは「古来まれなること」と周囲で噂されたそうで、さらに文化12年には「小納戸頭取・御用御取次見習」に任じられます。これは事実上の上級職で藩政の中枢に関わることを意味していました。この大抜擢は茶坊主時代にみせた才能が重豪の目に付いたんでしょうね。このあと「使番」という要するに使者役に転じますが、このときちょっとしたエピソードがあります。茶坊主時代の知人で町人の重久佐次右衛門という人物がいるんですが、彼は調所にゾッコンで「いずれこいつは必ず出世する」と見込み、使番への出世祝いに訪れる来客をもてなす酒食もない調所家にいっさいの酒食を提供してあげたんだそうです。これを恩に着た調所は後にこの重久佐次右衛門を町奉行に抜擢しています(もちろん町人出身の町奉行なんてほとんど例がない)。
文政5年(1822年)、47歳の調所は町奉行に昇進。さらに文政7年には御側用人役・両御隠居様御続料掛(りょうごいんきょさま・おつづけりょうがかり)に抜擢され江戸常勤となります。実はこのうち両御隠居様御続料掛という早口言葉みたいな役職とは、表向きこの時期の薩摩藩の二人のご隠居(重豪・斉宣)の財政担当ということになっていますが、実はその費用捻出のために「唐物方(とうぶつほう)」
というものをやるんですね。「唐物」ってのはもちろん中国製品。薩摩藩は琉球つまり現在の沖縄を支配下に置いていましたからここを経由して中国(清)との貿易を行うわけです。当然鎖国が行われていた時代のことですから密貿易です。まぁいちおう江戸幕府も分かってて黙認していたんですが…それでもおおっぴらにやれる物ではなかったのも事実。しかし密貿易という奴があげる利益は莫大なもので(古今東西そういうもの)、うまくやれば薩摩藩の大きな収入となるものでした。調所はこの「唐物方」つまり密貿易担当に任ぜられたわけです。
なんぶん事が密貿易なもので詳細は分からないんですが、とにかく調所はこの仕事を見事にやり遂げ、大きな成果をあげたものらしく、調所が何度か藩から褒賞を受けていることが文書から確認できます。こうした活躍から隠居・重豪の信頼を受け次第に薩摩藩財政改革のブレーンとして調所の存在は重きを増していきます。文政8年には同僚の菊池東原とともに変名で大阪に潜入視察、経済事情の調査なんかも行っています。
さて薩摩藩としては財政改革のためにはまず出資者が必要なわけですね。しかし何しろ以前のような「踏み倒し」がありますから大阪の商人たちは恐れをなして大金をおいそれと貸してはくれない。おかげで財政改革は何度もとん挫していました。重豪はついに最後の切り札として長年目をかけてきた「切れ者」調所笑左衛門に財政改革主任への登板を命じるのです。
茶坊主からここまで出世しただけでも大変なことなんですが、なんと今度は重豪の「眼代(がんだい)」つまり代理人として藩政改革の指揮を命じられたわけです。当然というべきか調所は「私は財政についてはよく知りませんので」と何度も断ります(これは別に謙遜ではなかったらしい。後述)。しかし重豪は腰の刀に手をかけて近づき「お前は豊後(藩主・斉興)の側役だろう!」と詰め寄ります。調所が「ふつつかながら勤めさせていただいております」と答えると「側役というものは主人と存亡を共にする職である!このような国家存亡の時だから命じているのに、それを断るとは何事か!」と重豪は一喝。刀持って膝元まで近づいてきてこのセリフ、ほとんど脅迫です(笑)。やむなく調所は改革主任の大役を引き受けるハメとなります。
薩摩藩の財政改革にはまず資金が要る。それは商人から借りてくるしかないわけですが、先程書いたように頼みの綱の大阪の商人達はなかなか貸してくれません。調所は大阪に乗り込み、あちこちの商人に借金の相談を持ちかけますが、ハナから相手にされない、あるいはバカにされることが多かったそうで、一時は調所も腹を切る決心までしたようです。しかし調所が重豪に見込まれた取り柄の一つが「誠実さ」なんですね。罵倒されてもジッと我慢し刀の柄に手をたびたびかけるという調所の必死の場面を何度か見た出雲屋孫兵衛という商人(いちおうその直前に薩摩藩と関係が出来てはいた。のち浜村の姓をもらう)が奔走してくれ、どうにかこうにか五人の銀主(出資者)がそろいます。しかし保証は調所の「人柄」だけですからそれではさすがに話にならず、江戸へ出向いて重豪に拝謁しようということになります。
調所や孫兵衛らが江戸に着き進上物を差し出すと、重豪が「明日会おう」と言ってきます。ところが夜中になって「あんな進上物しか出せないのに銀主など勤まるものか。明日の拝謁は中止だ」と唐突に重豪が伝えてきます。ビックリした調所ですが、翌日重豪に会って「それではせっかく持ってきた金が無駄になります」と言ったところ、重豪は「金を持ってきたのなら会おう」とケロッと言って拝謁を許します。どうも分からんやりとりですが、以前の経験で重豪も用心深くなり、また銀主たちになめられまいとする意図もうかがえるエピソードです。
孫兵衛たちがどうにか重豪に拝謁すると、重豪は「世間では路頭に立つということわざがあるが、わしは路頭に寝ている状態じゃ。窮状を察してくれ」と本音をうち明けます。これに対し銀主たちは「改革が片付くまで調所様を主任から外さないでくださいませ」と要求しています。銀主たちにとって調所個人との約束だけが唯一の保証だったわけです。重豪はこの要求にウンとは言いませんでしたが「無断で担当を変えるようなことはしないから」と言って一応納得させています。重豪が退出した後、孫兵衛たち銀主は「これまでの事ができなかったはずじゃ。殿様がご家老さまで、ご家老様が殿様だもんな」と言って嘆息したそうです。
とにかくこれで改革着手の目途は付いた。というわけで重豪は調所に三ヶ条の命令を書いた朱印状を与えます。三ヶ条とは
○天保二年からの十年間で50万両の積立金をつくること
○そのほかに平時ならびに非常時の手当をなるべく貯えること
○古い借金の証文を取り返すこと
の三つでした。かなり大胆な構想というか下手すると無茶な命令なのですが、調所は「大変ですけどなんとかしましょう」という調子で引き受け、その代わりこの命令の実行のためにほとんど独裁的な権限を重豪から与えられます。天保3年(1832)、調所はとうとう薩摩藩の家老格に登りつめたのです。
◆史上最大の借金踏み倒し!
翌天保4年に島津重豪はこの世を去ります(それでも89歳)。しかし重豪の意向は孫の斉興にそのまま受け継がれ、調所笑左衛門は正式に家老職に就任、いよいよ薩摩藩財政改革の大業にとりかかります。しかし、先ほど調所自身が重豪に言っていたように調所自身は財政関係はズブの素人。これをサポートしたのが出資者の一人でもある浜村(出雲屋)孫兵衛でした。調所の大阪での金策に多大な功績のあった孫兵衛は薩摩藩から「浜村」の姓を与えられて士分に取り立てられ、重豪からも直々に調所改革のサポートを命じられていました。この孫兵衛の言うところによれば「大阪で初めて会った頃の調所さんは経済のことは何もご存じなかった」そうで、改革の実質的参謀は彼自身だったことを認めていますが、のちの「しかし今となっては私は調所さまの足下にも及ばない。本当に奇妙なほどできたお方じゃ」と調所の才能を絶賛しています。
ところで先ほど重豪が調所に与えた3ヶ条に「古い借金の証文を取り返す」というのがあります。薩摩藩が京・大阪の商人達から多額の借金をしていたことは前の部分でも触れましたが、その後さらに事情は悪化していて、調所が財政改革の指揮をとりはじめたこの時期、薩摩藩の借金は実に500万両 に膨れ上がっていました。これがいかにすさまじい額であるかと言いますと、当時の相場ではこの借金のために支払う年間利息だけで60万両。ちなみに当時の薩摩藩の年間収入が推定14万両ていど(笑)。ハッキリ言ってお話にもならんほどの大借金だったわけです。現代の会社ならとっくの昔に倒産しているところですが、そこは「藩」ですから潰れると言うことはありません。しかしいつまでも返せるワケのない借金に苦しめられるのはかなわない。結局のところ調所たちはこの莫大な借金を「踏み倒す」計画を実行に移します。
天保6年(1835)年から薩摩藩は金を借りている京・大阪の商人達に「古い証文を確認して書き改めるから証文を提出しなさい」と命じます。そして証文が提出されると、調所達はこれらを回収して通帳形式に書き改める作業を行う一方で、とんでもないことを言い出します。いわく、「薩摩藩の借金はすべて一律に250年の年払い・無利子で返済していくことにする」と一方的に申し渡したのです。500万両を250年で払おうというのですから年間2万両しか返さなくていいわけで。ちなみに250年というと、ちゃんと払っていくとしても返済終了は2085年。ほとんどSFの世界へと突入してしまいます(笑)。もうこれは事実上の借金踏み倒しと言うほかありません。借金の証拠である証文が借り手に回収されてしまっているんですからもうやりたい放題(笑)。
調所広郷のお孫さんが後に語っているところによりますと、調所は金元の商人たちの目の前で証文を焼き捨ててしまい、「文句があるなら私の体をどうにでも勝手にしなされ」とすごんで見せたと言います。藩の家老一人を殺したって一文にもなりゃしませんから泣く泣く商人達は言うことを聞いたというのですが…ただしこの話、いささか脚色の度合いが強いようで、証文を目の前で焼き捨てたというムチャな事実はないらしいです。
また「踏み倒し」といっても完全に支払わなくなったわけでもないようで、明治初期まで一応返済を続けてはいたようです。どっちにしても権力にモノを言わせた横暴には違いないですけどね(笑)。
この無茶な「踏み倒し」作戦に京・大阪の商人達は当然ながら激怒しました。また「無利子」となったことで利子で食っていた商人達は黙っているわけにも行かず、「他の大名も同じことをやりだしたらたまったものではない」とも騒ぎ出します。幕府機関も見過ごしにすることもできず、大阪の東町奉行所が捜査に乗り出し、薩摩藩そのものに直接手を付けるわけにも行かないので、とりあえずこの「踏み倒し」の発案者として調所の参謀役である浜村孫兵衛を逮捕、投獄しています。商人である孫兵衛をしぼり上げれば背後関係を白状するかと思われましたが、なかなかどうしてこの孫兵衛は泰然自若として取り調べに応じ、すすんで罪を一身にかぶることになります。結局孫兵衛は「大阪追放」程度の処分で済みましたし、薩摩藩に累が及ぶことは全くありませんでした。このあたり、島津家が裏から手を回して幕府に働きかけた様子があります。
一時は直訴まで計画して抵抗を試みた商人達でしたが、結局は薩摩藩の権力の前に力でねじ伏せられた観があります。もっとも藩主の斉興や調所達は極力大阪に近づかないように心がけていたらしいですが(笑)。また地元・薩摩の商人達にも同様の「踏み倒し」措置をとりましたが、こちらは借金帳消しの代わりに商人達を武士身分にとりたてて調所の手足とさせるなどの作戦がとられわりあいスムーズにいったようです。
鹿児島の鶴丸城の城門跡に今も残る橋。 |
◆総合商社・薩摩藩
莫大な借金を踏み倒してその整理がつくと(笑)、調所達はとにかく「とにかく金を作れ!」という大作戦を展開していきます。重豪の遺命により50万両という金を蓄えなければならないのです。もう死んだ人の命令じゃねーかと思っちゃうところですが、調所は生涯自分を取り立ててくれた重豪に忠義をつくし、その墓や位牌に政治改革の状況報告まで逐一やっていたといいます。
金を作れるならなんでもやるというのが調所改革。その内容を簡単に見ていきますと…
★徹底的財政合理化
今で言うところの「行政改革」ですかね。とにかく徹底して無駄を省き、支出を抑えます。ただし単純に財布のヒモを縛るということではなく、道路や橋の整備など将来的に得だと思われる支出は惜しまなかったようです。こうした合理化にあたっては先ほど調所に取り立てられた商人達がいかにも彼ららしい感覚を生かして活躍しています。その陰でこうした連中が業者との腐敗を招いたのも事実なんですが。
★密貿易
そもそも調所はこの分野で活躍して頭角を現したんですからね。当然調所はこの密貿易に徹底して乗り出していきました。琉球を経由して入ってくる中国産の商品、または琉球から産出される朱粉やウコンといった特産品を大阪などに運び販売するわけです。調所改革以前からこうした密貿易は行われていたわけですが、調所が腐心したのはそうした特産品の価格を高く維持することでした。こうした商品が薩摩藩以外にもけっこう横流しされていて価格を下げていることに気が付いた調所は、こうした横流しを徹底的に取り締まっています。
★ありとあらゆる商品生産
この時期各藩は現金収入を得ようとして米以外の商品作物を生産しその専売を行おうとしています。薩摩藩でもやはりこれを試みてまして、調所たちは煙草、菜種、胡麻、椎茸、櫨(ロウソクの原料)などなど思いつく限りの商品作物の栽培を実施しています。もっとも強制的に作らされる農民達にはかなり不評だったようですが…
植物系ばかりではなく、硫黄・石炭・絹織物・薩摩焼(陶磁器)・かつお節などなどなど、一儲けできそうなものならなんでも手を出しています。こうした産業奨励じたいはこの時期よくあることなのですが、調所の凄いところはそれら商品の流通にまで目を光らせ、徹底的に収益増加をはかっているという点でしょう。これらの事業で調所の手足となって働いたのが、やはり武士にとりたてられた町人達でした。一昔前に流行った「民間活力導入」みたいなもんでしょうかね。
★黒砂糖の壮絶搾取政策
薩摩藩の財政改革というか金稼ぎのメインになったのは。、何と言っても特産品である黒砂糖でした。もっとも正確には薩摩藩内での特産品ではなく、薩摩藩が直接支配下に置いていた奄美諸島
における特産品だったのですね。この奄美は江戸時代初期の薩摩藩の琉球征服の結果琉球王国から分離して薩摩藩の直接支配下に置かれたのですが、ここで黒砂糖の生産が元禄頃から始まっています。これが18世紀の中頃になると薩摩藩が黒砂糖のもたらす利益に目をつけ、その生産を完全に藩の管理下に置き、徹底的な強制栽培・搾取体制をとるようになります。その搾取のひどさと言ったら、植民地というよりは奴隷制度と呼んだ方が適切なほど。
調所はそれまでもすでに過酷な搾取が進んでいた奄美諸島にさらなる過酷な搾り取り体制を整備していきます。基本的には本土における農民のように黒砂糖の収穫の一定割合を年貢として差し出させるわけなんですが、残った砂糖についても薩摩藩が生活必需品と交換するという形で全部とりあげてしまいます。それまで黒砂糖の一部が闇ルートで流通することもあったようですが、それも徹底して阻止してとにかく全ての砂糖を薩摩藩に収めさせる。当然島民に対する監視・管理も厳しくなり、子供がサトウキビを舐めただけでも役人がキッチリ処罰したというくらい。こうした凄まじい搾取は調所の時代だけにはとどまらず、その後の斉彬時代にはより強化されたとも言われ、幕末薩摩藩の重要な資金源になっていったわけです。
調所の砂糖政策は単なる搾取強化だけではありませんでした。 商品品質の高上、輸送費用のコスト削減、流通ルートの開拓など、商品としての砂糖をどううまく売りさばくかに大変な腐心をしていまして、その入念さは政治家というより商人のそれになっちゃっているような。調所がとにかく気を使ったのが薩摩藩産砂糖の高値維持でありまして、とくにそれまで事実上の独占状態にあった砂糖市場に他地域産の砂糖が流通し始め砂糖価格が下落してきたことに激しい警戒心を抱いていました。そこで他地域砂糖の流通に対する妨害工作まがいのことや砂糖の買占め工作(これはかえって大損こいたらしい)
、さらには当時出版されそうになっていた砂糖製造法を書いた本を幕府に圧力をかけさせてその出版を差し止めさせる、なんて神経が細かいとゆーか手段を選ばないとゆーか、ということまでやっております。付け加えておくと奄美産だけではなく琉球産砂糖も琉球王国からの献上という形で受け入れてその売りさばきまでやっております。
★農村搾取体制の強化
搾取体制の強化は「植民地」である奄美だけではなく、藩内の農民にも向けられました。当時の薩摩藩内の年貢の徴収法がその年その年の作柄を見て決定する「検見(けみ)取り法」で、これがかなりいい加減と言えばいい加減で収奪体制が甘かったことに目をつけた調所は、作柄に関係なく一定割合の年貢を納めさせる「定免(じょうめん)法」への移行をほとんど独断で決定して断行してしまいます。部下達も「せめて来年からにしては」と言ったのですが調所は思いついたら即実行という信条から強行してしまい、農民達はもちろんのこと、支配側である多くの藩士たちからもヒンシュクを買う結果になってしまいました。
などなどなど、とにかく基本的には財政面で、調所は物凄い集中力とエネルギーで改革、というよりも徹底した増収工作を推進していきました。しかしその一方で敵を作り続けていたのも事実。中でも最強の「政敵」となったのが、次期藩主と目される島津斉彬でした。
◆悲劇的な最期
島津斉彬は調所を抜擢した島津重豪のひ孫にあたりますが、重豪が長寿だったこともあって青年に達するまで「蘭癖大名」重豪の薫陶を受け、当時としては海外情報にも通じ、かなり開明的かつ意欲的な改革志向をもつ人物でした。なおかつ後に明治維新の立役者となる若き日の西郷隆盛
を見出して引き立てるなど、人物鑑定眼も優れた君主でもありました。ですが、彼は藩の改革を推し進める調所広郷については徹底的に敵視し、なんとか彼を政権の座からひきずりおろそうと画策します。また調所のほうでも斉彬を危険視し、彼を島津家の当主にさせまいとあれこれ工作していたのも事実です。
なんでこの二人が気が合わなかったかと言えば…いろいろと考えられますが、一つには世代差というものが大きかったかと。調所の関心はあくまで薩摩藩をどうするかにあったのに対し、斉彬の関心は日本という国家全体、さらには欧米列強が押し寄せるアジア全域をどうするかというスケールにまで及んでいました。さらには曽祖父・重豪の影響もあって金に糸目をつけない殖産興業・富国強兵政策を構想していましたから、重豪の浪費の処理にさんざん財政で苦労してきた調所から見れば実にあぶなっかしい若様に見えたのも無理はありません。斉彬の方も調所個人に関しては「わがままなだけではなく半分はよい事もあるが…」と評しつつ、その改革のやり方と部下達の専横(と少なくとも斉彬の目には映った)には眉をひそめていました。
またこの時期、島津家内はお家騒動の火種を抱えていました。重豪の孫である藩主の島津斉興は嫡男の斉彬とそりが合わず、寵愛していた側室のお由羅(江戸の町娘の出と言われる)に生ませた次男の久光 を 溺愛し、これに家督を継がせようとまで画策します。もっとも藩士の多くはお由羅を嫌って斉彬シンパになってましたし、問題が起こることを予想していた重豪が生前に斉彬を将軍に面会させて将来の藩主としての「公認」を得るという手を打っておいたこともあり、斉彬廃嫡の画策は不発に終わります。 そこで斉興はとりあえず時間稼ぎと、なかなか斉彬に家督を譲らず、斉彬は四十を過ぎても「若様」のままであり続けたのでした。その「若様」があぶなっかしいと感じた薩摩藩の「首相」であるところの調所としては自然な流れとして斉興と「お由羅一派」に属して斉彬と敵対する関係になっていったわけです。
斉彬としては現在の政権掌握者でもあり、父・斉興のふところ刀となって自分の登板を邪魔しようとする調所をなんとしても引きずり下ろさなければならない。そこでまず調所に何か不正蓄財などスキャンダルを発見できないかとあれこれ調査を行わせます。調所改革の実行者となった者には低い身分の武士や町人の出であった成り上がり者も少なくなく、ほじくり返せば不正の一つや二つ簡単に見つかったようですが(調所は仕事さえちゃんとすればこの手のことも大目に見たらしい)、調所本人はいたって清廉潔白、蓄財どころか借金を抱えた質素な生活を送っており、スキャンダルの線は一向に見つかりませんでした。
そこで斉彬はかなり危険な強硬手段に打って出ます。時の幕府老中・阿部正弘
と結託して薩摩藩と清との密貿易に関する情報を幕府に流したのです。時の日本首相とも言える老中・阿部は斉彬とは幕府改革派として同志的関係にあり、雄藩・薩摩藩の当主に斉彬が登板するのを期待してこの謀略に乗りました。幕府の建前では密貿易の発覚は藩おとりつぶし級の大事件であるはずですが、それには目をつぶると密約してこの件を斉興隠居・調所降板の画策に利用することにしたのです。
嘉永元年(1848)秋。73歳の調所広郷は江戸に上りました。この歳まで彼はほぼ毎年あれやこれやの用件で江戸・大阪・長崎と各地を精力的に回り、薩摩の自宅で家族と過ごせるのは一年のうち2、3ヶ月程度であったと言われます。彼の部下で後年調所について多くの証言を残した海老原清熙は調所より30歳近く若かったのですが、その彼が調所の仕事ぶりについていっては身がもたないと嘆いたほどのエネルギッシュな調所でした。さすがに70近くになってからは調所も「もう海老原などの元気にはかなわん」とボヤいていたそうですが。
その調所が江戸に上ってくるのを待ち受けて、幕府は彼を内密に江戸城に呼び出します。そして斉彬経由で得た薩摩藩密貿易の情報を調所につきつけ、暗に斉興の隠居を要求したものと思われます。ことがことだけにこのあたりの事情は正確にはわかりませんで、調所がその情報の出所がどこであるのか察していたかどうかは不明です。
はっきりしている事実は冒頭に書きましたように、その年の暮れに調所が薩摩藩江戸屋敷内で急死した…ということです。状況からすれば服毒自殺であったのは間違いないでしょう。密貿易の証拠を幕府から突きつけられ、責任が主君斉興に及ぶのを防ぐため密貿易の罪を一身に背負って自らの命を絶ったものと思われます。
調所の死後、幕府をはばかって嫡子の左門は「稲留数馬」と名を改め、その屋敷も取り上げられました。ただし藩主斉興が身を挺して自分を守ってくれた調所に感謝して内々に屋敷の代金も贈り、お由羅の推薦で数馬も用人に取り立てられるなど遺族への保護はあったようです。
そして調所の死の翌年の嘉永二年(1849)、いわゆる「お由羅騒動」が勃発します。調所を殺された報復とでもいうように斉興が斉彬派の藩要人の大粛清に乗り出し、多くの藩士が切腹(さらにはその死体を辱めたり墓碑を削らせたりまでした)、島流しになる事態になったのです。この時切腹させられた者の中に西郷隆盛に強い影響を与えた人物もいましたし、大久保利通の父も島流しにされ、後に幕末の薩摩藩を引っ張って明治政府を作ることになる二人とその周囲の若者達はそろってお由羅、ひいては調所に深い恨みを抱くことになります。
結局これがやり過ぎで、斉興は翌年に幕府から隠居を命じられ、嘉永四年(1851)四月、斉彬がようやく薩摩藩主として登板することになりました。しかし斉彬は安政五年(1858)に急逝してしまい、家督は久光の子・忠義が継ぎ、久光が実質的藩主として君臨することになります。ですが薩摩藩の中心人物たちはほぼアンチ調所派で、万延元年(1860)に斉興が死にますと、待ってましたとばかり調所の罪悪を言い立て、遺児・数馬の家格を下げ用人の役も家禄(給料)も没収になってしまいました。言い立てられた調所の罪悪というのは「上を欺き下を軽んじ、奸曲私欲を専らとし、国体を損じ風俗を乱し、邦家を覆し危うきに至らしめ、其の魁首と成りて阿諛の者に党し、重畳極罪の者候に付き…」(原文)というもので、とにかくこれでもかとばかりに極悪人とされたのです。さすがに死後ということもありこの程度で済ましてやる、という文が続くのですが、こうした調所への風当たりはその薩摩藩の志士達が主導して作り上げた明治政府の成立後も続きました。
西郷隆盛らが反乱を起こして敗北した西南戦争後にようやくわずかにではありますが再評価の動きが出て、その記録が編纂されることになりましたが、それまでの経緯もあって調所の功績の記録のかなりの部分が反調所の人々によって焼却されていたといいます。 その後も西郷の人気と表裏する形で「調所悪人説」は講談・小説のたぐいで連綿とイメージが再生産されてゆき、たまに調所の功績を挙げて贈位の声があがっても、薩摩系元勲たちの横槍で立ち消えにさせられたりもしました。調所一家も鹿児島では冷たい扱いを受け明治20年代には離散の憂き目をみる事にもなったそうです。
とまぁ、本人の最期も悲劇、死んだ後もさんざん悪口言われるという追い討ちの悲劇という、可哀想なばかりの人生ですが、彼がやった手段を選ばぬ強引な財政改革(借金踏み倒しが「改革」かどうかは意見もありましょうが(笑)) は借金地獄に陥っていた薩摩藩を建て直しただけでなく豊かな経済力を持たせるまでに仕立てたのは事実。そしてそれが――調所本人の思惑とは別だったとは思うのですが――結果的にその後の薩摩藩による倒幕、明治維新の実現につながっていってしまったのもまた事実です。時として人は本人の全く気付かぬうちに大きな歴史の方向を決定付けてしまうことがあるようです。