しりとり歴史人物館
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第9回
苦労連続の漂泊の大詩人
杜甫
と ほ
(701−770、中国)
なんかの本に出ていた「杜甫像」より。似てるかどうか以前に唐代の肖像画ってみんなこんな感じなんですよね。
◆はじめに
この「しりとり」コーナーで取り上げてきた人たちの中では知名度だけなら随一かもしれません。しかし政治家でもなく思想家でもなく学者でもなく、「詩人」という大変感覚的な職業分野の人でありまして、なかなか扱いが難しい人でもあります。しかも「変人」好みの僕からすると同時代の同業である李白なんかと比べるといたって常識人なのがちょっと物足りなかったりするのですけれど(笑)、やってみると案外面白いかもしれない、そんな気分でちょこちょこ書き始めてみました。
◆生い立ち
杜甫
が河南府鞏(きょう)県に生まれたのは西暦で712年、唐の先天元年。この年は
玄宗皇帝
が即位し唐の最盛期
「盛唐」
の始まりとされる年でもあります。この「盛唐」期は唐のみならず中国の歴史全体の中でもひときわ光り輝く経済・文化の爛熟期でして、そうした時代に成長した杜甫自身もそれを彩る役者の一人になっていくことになります。
杜家の家系図によりますと、遠祖は西晋時代(3世紀)の武将・
杜預(どよ)
ということになっています。「三国志演義」をしっかり最後まで読んだマニアなら良く知ってるでしょう。三国のうち最後まで残っていた呉を攻め滅ぼした武将で、この折に今でもよく使う
「破竹の勢い」
という故事成語を生んでもいます。なおかつ彼は学者としても優れ、『春秋左氏伝』が大好きで自ら
「左伝癖
(左伝マニア。左伝オタクといってもいいか)
」
と称したほどで、その現存最古の注釈本である『春秋経伝集解』を後世に残しています。杜甫が登場するまで500年近い時間があるわけでホントに子孫なのか若干疑わしくもあるのですが、杜甫自身は少なくともそう信じていたということが大事なんでしょう、この場合。
杜甫の祖父・
杜審言
は中国史上唯一の女帝である
則天武后
の宮廷に仕え、
沈セン[イ全]期
・
宋之問
といった当時を代表する詩人達
(であると同時に則天武后ともども後世の評判はあまりよくない)
の一派に属して律詩(八行詩)の完成に貢献し、文においても
「文章四友」
の一人に数えられるほどの大物文化人でした。しかし若いころから言動に敵を作りやすいところがあったようで、そんな「敵」の一人である
周季重
という人物に無実の罪を着せられて投獄されたこともありました。このとき杜審言の十三歳の次男・
并
(つまり杜甫の叔父さん)
は憤激のあまり宴席に季童を襲って刺し殺し、自らもその場で殺されてしまうという事件を起こしています。杜甫の父親は杜審言の長男・
閑
で、地方の県知事などをつとめつつ、これといった話は伝わっていません。
杜甫の母親は
崔氏
と伝えられ、杜甫を生んでまもなく亡くなっています。そのため幼い杜甫は父方の叔母のもとに預けられたのですが、その叔母の子と一緒に病気にかかったとき叔母は自分の子よりも杜甫を優先して看病したため、杜甫が回復する一方で叔母の子は死んでしまったというエピソードも伝わっています。
自伝的な詩
「壮遊」
で杜甫は七歳にして最初の漢詩を詠み、十四、五歳で洛陽の文士の仲間入りをしたと言っています。もっとも彼の若いころに作った詩はほとんど残っておらず
(自分で破棄したとも言われる)
、またその「壮遊」によれば彼の青春時代は
「性は豪にして業(すで)に酒を嗜み、悪を嫉(にく)んで剛直を抱く」「脱落す小時の輩、交わりを結ぶは皆老蒼たり」「飲むこと酣にして八極を視て俗物多く茫々たり」
といった調子で、早熟かつ豪放かつ生意気な(笑)若者であったことをうかがわせます。
その後二十歳ごろから遊歴を始め、第一回の大旅行で山西から江南など東方を旅して名勝をめぐり、四年後に洛陽に帰ってきます。このときに初めて科挙
(国家公務員採用試験)
を受験しますが落第。その後またもや第二回の大旅行に出発し、山東や河北をめぐって狩に明け暮れる日々を送ります。なんだかんだで三十歳ぐらいまでこんな調子で、何やら昨今の日本をにぎわすニートだのフリーターだのといった言葉が頭をよぎります(笑)。
三十歳になったころ、洛陽に帰ってきた杜甫は
楊氏
と結婚。あちこちに「妻」がいた李白とは異なり杜甫はこの妻と生涯添い遂げ、三男二女をもうけ苦労を共にすることになります。
◆天才との邂逅
しばらく洛陽に落ち着いて新婚生活を送っていた杜甫でしたが、天宝三歳(744)夏、彼個人の生涯のみならず世界文学史上でも最大の遭遇が実現します。都・長安から山東へ向かう途中、洛陽に立ち寄った
李白
と出会うのです。このとき杜甫33歳、李白44歳。李白はすでに天才詩人として名をはせており、玄宗皇帝の宮廷詩人として三年間も勤めていました。しかし彼はその詩作同様に常人はずれした性格でいつもベロンベロンに酔っ払ったノンベエで
(そんな状態でも詩はスラスラ作ったという
)、酔ったまま玄宗寵愛の宦官の
高力士
に自分の靴を脱がせたりしたためその恨みを買い、あの有名な
楊貴妃
経由であれこれざん言され、追われるように長安を出てきたのでした。
当然当時の杜甫はまだ全く無名、しかも無職(笑)の文学好きの一青年に過ぎず、すでに高名で年も一回り上だった李白なんかとどうやって邂逅したのか不明なんですが、この二人は出会うや否やたいへん意気投合してしまい、およそ一年半にわたって交友を結ぶことになります。これはもう文学史上の奇跡と呼ぶしかありますまい。二人は洛陽周辺各地を共に旅し、杜甫は
「君と親しむことは兄弟のよう。秋の夜、酒に酔っては同じ布団をかぶって寝たし、手をつないで毎日あちこち一緒にいったものだ」
と詩に詠んでいます。途中からやはり当時を代表する詩人の
高適
(李白とほぼ同年齢)
も加わって三人はあちこち旅をし、酒場に入っては文学論議に花を咲かせました。三人とも詩人であるだけでなく若いときには遊侠の徒であるという共通点もあり
(李白なんか若いときに殺人も犯している)
、何かと気が合うところもあったかと思われます。
当然ながら李白との交友は青年詩人・杜甫に絶大な刺激を与えたと思われます。しかしなんといっても李白は同時代人にすら
「人の世の人ではない」
と驚嘆され、後世
「詩仙」
と称せられることになる中国詩人史上空前絶後の天才です。杜甫も
「飲中八仙歌」
で李白について、
李白一斗詩百編 李白は酒一斗で詩百編をものし
長安市上酒家眠 いつも長安市内の酒場で眠っている
天子呼来不上船 天子に呼び出されても船にも乗れず
自称臣是酒中仙 「臣は酒びたりの仙人でござい」などと言う
と、その「天才かつ変人」ぶりをユーモラスに詩に詠んでいますが、別れたあと李白を思って詠んだ
「春日憶李白(春の日に李白を思う)」
という詩では、こう歌っています。
白也詩無敵 白よ、あなたの詩にかなうものはない
飄然思不群 まさに自由奔放で詩想は群を抜いている
正直なところ杜甫にとって李白は「こりゃ〜かなわんわ」と思うしかない存在だったのではないでしょうか。少なくともこの人の真似は絶対にできない、自分は別の方向を目指さなくてはならないんじゃないか…と思ったことは想像に難くありません。じっさい杜甫の詩は李白のそれとは全く違った展開を見せていくことになり、彼は李白の「詩仙」に対し「詩聖」と称されることになるわけですが、それは後年の話。
中国で発行された詩人シリーズ切手の「杜甫(左)と「李白」(右)。
◆就職活動にあけくれて
さて杜甫くんも34歳で妻子あり、いい加減いつまでもブラブラと無職生活をしているわけにはいきません。彼は長安に赴いて就職活動を展開することになります。ちょうどうまい具合に天宝六載(747)に臨時の「制挙」
(「一芸入試」の科挙)
が実施され、杜甫はこれに応募します。しかし時の宰相・
李林甫
が文学の士による政治批判を恐れ、
「野に遺賢なし(在野の賢人はもう残ってない)」
として全員落第させてしまいました。
その後およそ10年間にわたって杜甫は長安の都で就職活動にあけくれることになります。具体的には名士の家に押しかけて詩を詠んでみせたり、朝廷に美しい韻文を提出して売り込んだりといったことをしたんですが、彼の才能はなかなか認めてもらえず、生活も困窮していきました。その模様も彼は詩の素材にしてしまっています。
騎驢三十載 ロバに乗り続けて三十年
旅食京華春 今日もうろうろ都の春
朝扣富児門 朝には成金の門を叩き
暮随肥馬塵 暮れにはお役人の行列を追う
残杯与冷炙 飲み残しの酒と冷めた焼肉
到処潜悲辛 いたるところで一人なげく
(750年作「奉贈韋左丞丈二十二韻」)
この時期から杜甫の詩には彼自身のみならず庶民の生活の苦しさを歌ったものが急増していきます。なかなか世に認めてもらえず苦しい生活をおくる彼は次第に「社会の矛盾」というやつに目を向けるようになったようです。当時の吐蕃(チベット)など各地で起こる戦争に徴兵されていく人々の苦しみを歌い、一方で栄華を極める楊貴妃一族に対する批判を歌うなど、杜甫の詩は政治性すら帯びてきます。表面的には平和を謳歌する玄宗皇帝の治世でしたが、その影で貧富の差が拡大し、度重なる遠征で国家が疲弊しつつあることを杜甫は詩によってえぐりだし、間もなく来る混乱の時代をはからずも予言することになります。
就職活動が長引くうちにいよいよ生活は苦しくなり、天宝十三載(754)に杜甫は妻子を妻の親戚が県令をしている奉先県
(現・陝西省蒲城県)
に預けます。そして奉先県と長安を行ったりきたりするうちに、ようやく天宝十四載(755)に就職活動が実って「河西県尉」の地方官の職を与えられます。しかし杜甫はぜいたくにも(笑)これを拒否し、もそっとましな「右衛率府冑曹参軍」
(東宮近衛軍の武器管理係)
の職を得ます。44歳にしてようやく下っ端とはいえ中央官吏となれた杜甫は大喜び、吉報を家族に伝えるべく奉先県へ向かうべく長安を発ちます。その途上、彼はこんな光景を目にしました。
朱門酒肉臭 金持ちの屋敷の門には酒肉の臭いが漂うが
路有凍死骨 道ばたには凍死者の骨がころがっている
(「自京赴奉先県詠懐五百字」)
強烈な社会の矛盾に不吉な予感を覚えつつ奉先県へたどりつくと、
入門聞號● 門をくぐると泣き叫ぶ声がする
幼子饑已卒 幼子が飢えですでに死んでいたのだ
吾寧舎一哀 私は哀しみの声をあげずにはおれず
里巷亦嗚咽 村人達もまた嗚咽(おえつ)している
所愧為人父 人の父親として恥じ入るばかり
無食致夭折 食も無く幼くして死なせてしまうとは
●は[口兆]
(「自京赴奉先県詠懐五百字」)
なんと杜甫自身の幼児も飢えのために命を落してしまっていたのです。
そして――彼が長安を発ったわずかに数日後の11月9日、節度使
(地方軍司令官)
の
安禄山
が反乱の兵を起こしていたのです。唐王朝を大混乱に陥れる、
「安史の乱」
の始まりでした。
◆動乱の中で
杜甫という人はどうもついていません。やっと官職にありついたというのに、いきなり戦乱が勃発して唐王朝そのものが崩壊の危機に直面してしまったのです。騒乱はあっという間に全国規模に拡大し、翌年には玄宗皇帝も都・長安を捨てて蜀(四川省)へと逃亡します
(この時に乱の遠因とされた楊貴妃が死を賜っている)
。安禄山は自ら「大燕皇帝」を称し、玄宗は退位して皇太子・亨が即位し
粛宗
となります。
杜甫は家族を戦乱から逃すべく北方へ疎開させる一方
(この時の旅の模様ものちに詩にうたっている)
、粛宗即位の報を聞いてその行在所(仮皇宮)に駆けつけようとします。ええ、もちろん必死の「就職活動」です(笑)。ところがその途上、彼は反乱軍の捕虜となって長安に軟禁されることになってしまいます。軟禁程度で済んだのは皮肉にも彼が下っ端の役人にすぎなかったからなんですが(笑)。
長安に軟禁状態で暮らすうち、彼はあまりにも有名なあの詩をうたっています。
「春望」
(春の眺め)
国破山河在 都は荒れ果てたが山河はそのままにある
城春草木深 街は春となり草木が生い茂る
感時花濺涙 時の移ろいを感じて花にも涙をそそぎ
恨別鳥驚心 別れを悲しんでは鳥にも心がかき乱される
烽火連三月 戦いののろしは三月におよび
家書抵万金 家族の便りは大金の値打ちがある
白頭掻更短 白髪頭をかけば毛は抜け落ち
渾欲不勝簪 もはやかんざしも挿せなくなってしまいそうだ
この軟禁状態の時に遠く離れた妻や子を思って歌った
「月夜」
も代表的名作とされます。本人にとっては不運なことでしたが、その不運が彼の詩人としての感性をいっそう研ぎ澄ましていくのですから皮肉なものです。なお李白もこの戦乱の中で粛宗の弟・永王の陣営に招かれて戦意高揚の詩を作ったりしておりましたが、その後永王が反乱軍とみなされ官軍に滅ぼされる結果となり、李白自身も捕縛され流刑に処されるという苦難を体験するはめになっています。
結局四月になって杜甫はこの長安を脱出、ようやくの思いで粛宗の行在所にたどりつきます。ボロボロの衣服にわらじ姿という有様で謁見した杜甫に感じ入るものがあったのか、粛宗は「左拾遺」
(皇帝に諫言する役職)
に彼を任じました。ようやく高位の職を得た杜甫はおおいに発奮して職務に励み、励みすぎたあげく戦いに敗れた友人の宰相・
房カン[王官]
を弁護して粛宗を強く諌めてしまい、粛宗の怒りをモロに買ってしまいました(笑)。周囲のとりなしもあって罪には問われず、家族のもとへ帰ることを許されましたが翌年(758)「華州司功参軍」に左遷されることになります。彼が皇帝のそばに仕えることが出来たのは三ヶ月程度の短い日々でした。
◆しばしの安逸
乾元二年(759)、杜甫はとうとう華州の官職も辞してしまいます。一説に、この時期に詠んだ戦乱の世を嘆く社会派の連作
「新安吏」「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」「垂老別」「無家別」
のいわゆる
「三吏三別」
が政治批判であるととられ罷免されたとも言われます。もっとも当時長安周辺が大飢饉になり、今度は「職」よりも「食」を求める必要に迫られ家族を連れて流浪を余儀なくされたという事情もあったようです。で、あちこちさまよった末にたどりついたのは「蜀」だったりしまして(笑)、杜甫一家は現在の四川省成都の郊外に「草堂」を営み、ここに落ち着くことになります。
なにかと落ち着かなかった杜甫一家はこの地で数年間平和な時間を過ごせ、杜甫の詩にも家族との落ち着いた日常をうたう作品が多く登場します。次はその一例。
「江村」
清江一曲抱村流 清らかな河がひとすじ村をかかえて流れる
長夏江村事事幽 長い夏の日、水辺の村はすべてがおだやかだ
自去自来堂上燕 行っては帰る堂上のつばめ
相親相近水中鴎 親しみ近づく水中のかもめ
老妻画紙為棊局 妻は紙に線を書いて碁盤をつくり
稚子敲針作釣鈎 子どもは針をたたいて釣り針をこしらえる
但有故人供禄米 あとはただ知り合いが禄米を分けてくれれば
微躯此外更何求 この小さな体、これ以上何を求めようか
なお、この詩はテキストにより後ろから二行目が
「多病所須唯薬物(病多き身にはほしいのはただ薬だけ)」
となっているものもあります。杜甫がこのころから病気がちだったことも確かなようです。
上元二年(761)秋、暴風雨がこの地を襲い、杜甫の草堂もその屋根を吹っ飛ばされるという被害を受けます
(おまけに近所の悪ガキどもが堂々と物を盗んでいったりした)
。これまた杜甫は詩に詠んでいるのですが、その最後に、
安得広厦千万間 千万間もの広い家があったらなら
大庇天下寒士倶歓顔 天下の貧しい人をそこにおさめて喜びを共にしたい
風雨不動安如山 風雨にも動じず山のようにしっかりとした…
嗚呼何時眼前突兀見此屋 ああ、いつか目の前にそんな家が突然現れたら
吾廬独破受凍死亦足 私の家など壊れて凍え死にすることになっても満足だ
と歌い、貧窮に苦しんだ
(といっても本当の貧民よりはマシなんでしょうが)
彼の「夢」が語られています。
その後、広徳二年(763)には友人で支援者でもあった厳武が成都の長官として赴任してきたので杜甫は彼の幕僚となり
「節度参謀・検校工部員外郎」
の官職についたりもしています。後年、杜甫のことを
「杜工部」
という敬称で呼ぶことが多いのはこの官職に由来するのですが、これも半年で辞めてしまっています。
平穏だった蜀の地方にも不穏な空気が流れ、また杜甫自身病気療養の必要が出てきたため、永泰元年(765)に杜甫はまた一家を連れて成都を離れ、長江を下ります。
「旅夜書懐」(旅の夜に思いを書く)
細草微風岸 細草がそよ風になびく岸辺
危檣独夜舟 帆柱のもと一人夜の舟
星垂平野闊 星の降る平野はひろびろと
月湧大江流 月は湧き上がり大河は流れゆく
名豈文章著 しょせん名声は文章では得られず
官応老病休 官職など老いた病身ではやめるしかない
飄飄何所似 あてどなくさまようこの私は何ものだろう
天地一沙鴎 天地の間にさまよう一羽のカモメか
杜甫、54歳。すでに晩年にさしかかっていました。
◆旅のうちに
雲安(現在の重慶市雲陽県)で一年療養したのち、杜甫は有名な山峡の入り口にあたるあたりに移住。ここでの二年間のうちに四百首もの詩を作っています。もはや官職への望みもなく老いた病身で「詩こそ我が命」とばかり怒涛の勢いで創作に打ち込んでいくのです。そしてそれらの詩の中には遠く離れて帰れぬ故郷への思いをこめた言葉が目立つようになってきます。
大暦三年(768)、杜甫は病を押してさらに長江を下り、長沙から北上して帰郷をもくろみましたが北方はまだ戦乱が続いていたために果たせず、洞庭湖のほとりへと向かいます。ここで晩年の代表作である
「岳陽楼に登る」
を歌うことになります。
「登岳陽楼」
(岳陽楼に登る)
昔聞洞庭水 昔から聞く洞庭湖の水
今上岳陽楼 いま岳陽楼に上って眺める
呉楚東南拆 呉と楚の地を東と南にわけ
乾坤日夜浮 天地すべてが日夜ここに浮かぶ
親朋無一字 親しき友から一字の便りもはなく
老病有孤舟 老病の身には一隻の舟があるだけ
戎馬関山北 戦雲が北のふるさとをおおっている
憑軒涕泗流 手すりにもたれてとめどなく涙するばかり
その後も江南各地を転々とした杜甫でしたが、大暦五年(770)冬、潭州から岳州へ向かう舟の中でついに息をひきとり、59歳の生涯を閉じます。
ところが…彼の死後、
「杜甫は食い過ぎ飲み過ぎで死んだ」
という奇妙な伝説が生まれます。耒陽の地にやって来た杜甫が洪水に足止めされ飢えに苦しんでいると、見かねた現地の県令が牛肉と白酒(どぶろく)をたくさん贈ってくれ
(これ自体は杜甫も詩に詠んでいる事実)
、これを無我夢中で食らい飲んだ杜甫は一夜にして急死してしまった、というお話です。一方の李白(762年没)に
「酔っ払って水に映った月をとろうとして溺れ死んだ」
という伝説
(もちろん事実ではない)
があるのと同じようなもんですが、生涯飢えに苦しんだ杜甫らしい逸話だということで、いつの間にやら「事実認定」されてしまい、新旧『唐書』の杜甫伝など、れっきとした正史のたぐいにもこうした急死ばなしが載せられることになりました。
本人も嘆いたように生前はあまり世に評価されることのなかった杜甫でしたが、よくあるパターンでその死後に絶大な高評価を得ることになります。彼の後に続いた
韓愈
・
白居易
ら中唐以後の詩人達はいずれも杜甫の作品に多大な影響を受けまたし、
張籍
という詩人にいたっては杜甫を崇拝するあまり杜甫の詩集を焼いて灰にし、それを蜂蜜と混ぜて飲み込み
(味はつけたんですね)
、体の中から「杜甫化」しようというとんでもない行動に出ています(笑)。場所も時代も超えた日本の俳人
松尾芭蕉
も杜甫を敬愛し、しばしば彼の詩からの引用をしていることは有名です。
詩として高度の技巧に富みながら個人の生活や感情を素朴に歌い上げるそのスタイルは中国文学史上の画期をなすとされ、彼以後の詩人は全て彼の影響下にあるという声もあるほどです。また杜甫の詩は当時の世相を詠み込んだものが多いため
「詩史(詩による歴史書)」
と呼ぶ用法すら発生していきます。時代を下るにつれて杜甫の「神格化」は進行してゆき、「詩仙」李白に対して
「詩聖」
という称号が奉られることになります。「聖」となりますと儒教における孔子にあたりますから、杜甫のほうが後世の詩人達の崇拝と信仰を集めたわけです。李白は突然変異の超人みたいなもんですから真似しようと思う人もなかなか出ないんでしょうけどね(笑)。
最後に杜甫自身が「詩にかける思い」を歌った詩を挙げてしめくくりましょう。成都の草堂で落ち着いていた50歳ごろの作です。
「江上値水如海勢聊短述」(
川のほとりで水が海のように勢いを増したのを見て短く述べる)
為人性僻耽佳句 私は変わり者でよい句をひねることに夢中だ
語不驚人死不休 言葉で人を感動させられなければ死んでも死に切れない
老去詩篇渾漫与 年をとって詩も気楽にわいてくるようになった
春来花鳥莫深愁 春が来て花や鳥にも深く愁えることもない
新添水檻供垂釣 新しく岸に手すりをつくって釣りができるようにした
故著浮槎替入舟 もともとは舟の代わりにいかだを浮かべておいたのだ
焉得思如陶謝手 ぜひ陶淵明や謝霊運のような詩人と会い
令渠述作与同遊 彼らに詩を作らせてともに遊びたいものだ
(2005/4/17)
次回は「ほ」から始まる人物です。お楽しみに。
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