しりとり歴史人物館
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第10回
誰でも救おう宗教革命家
法 然
ほうねん
(1133−1212、日本)
法然像
伝わる肖像画を元に再現。元の絵がかなり傷んでいて見づらく、だいぶ想像で補ってます。


◆はじめに


 今回は「ケインズ」以来2度目となる管理人の弟・K・E・Nが担当します。
 今回取り上げる浄土宗の開祖・法然は 中学レベルの歴史でも必修といえる人でメジャーすぎるかな、とも思いましたが、前回同様高校野球オフの暇つぶしに書いてみました。
 なお「法然」というのは坊号で、この人の僧名は「源 空」と言い、両方つなげて「法 然坊源空」が正確な法名になります。なぜ坊号のほうが一般に知られるようになったかはよくわかりません。もっとも例外的に、 「コンパクト版 鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社 1990年)は源空を項目名としていましたが。
 後で書きますがそう名乗るようになったのは数え年(以下年齢はこれで表記します)18歳くらいの時とされ、それまでは生まれた時からの幼名があったはず です。一般には「勢至丸」という名が伝わっていますが、どこまで正確かわからないそうなので、本稿ではこのまま「法然」で通してしまいます。


◆惨劇を機に出家

 法然は長承二年4月7日(グレゴリオ暦 で1133年5月20日)、美作国稲岡荘=現在の岡山県久米郡久米南町で生まれました。なんでも母親が剃刀を飲む夢を見て生ま れた、という伝説があるそうですが、生誕地には誕生寺という寺が後年建てられ、近くを走るJR津山線の誕生寺駅がアクセスとして使えます。岡山駅か ら1時間強というところですが、この駅に停まるのは原則鈍行だけで、快速の「ことぶき」に乗ったら先の駅まで飛ばされてしまいますから行ってみようという 方はくれぐれも注意してください。
 
 父の漆 間時国は久米南条の押領使という役職にありました。これは国司に任命されて国司の兵を指揮する地方官で、土着の地方豪族がやっ ていたそうで、漆間氏も代々この職に就いていたようです。地方の警察みたいなことをやる土着武士、というあたりでしょうか。
 法然が9歳のとき、時国の館は以前から不仲だった稲岡荘の預所・明石定明の 軍勢に夜襲されました。預所というのは荘園の領主が派遣して荘園の管理や年貢の徴収などをやっていた在地の管理人というあたりでした。定明の父定国は稲岡 荘の領主だった堀河天皇の滝口(護衛にあ たる武士)で、定明はその父が堀河天皇の死後出家して美作に下向していた関係でその任にあったようです。個人的な問題もさるこ とながら、荘園領主の利益を代弁する立場から国司や現地農民の利益を擁護する立場にあった時国と対立が生じていたと思われます。

 法然自身矢を射て応戦したともいわれますが、時国は重傷を負って亡くなってしまいました。ここで死に際し、時国は「自分は助からないだろうが、これは前世の報いである。お前 が敵を恨めば末代まで報復が繰り返されることになる。悪い因縁をお前の代で断ち切ってほしい」と言い残したとされます。要する に仇討ちで殺しあったらそれが代々続いてきりのないことになるからやめてくれ、というところでしょうか。このあたりするは時国も争いの繰り返しを「妄縁」 とする仏教の智恵を理解していて、法然自身そういう宗教的な雰囲気に感化されていたことをうかがわせます。

 ともあれ父の死で一家が離散したため、法然は母方の叔父にあたる観覚が 院主をしていた菩提寺(岡山県奈義町に現 存します)に移りました。定明の追手から逃れる目的もあったといわれますが、観覚に教えを受けた法然はここで仏教に関する非凡 な理解力を示していたようで、「こんな辺鄙 なところに置くのは惜しい」という観覚の紹介で当時仏教の最高学府といえた比叡山延暦寺に登りました。観覚が比叡山北谷の地法坊源光に 書いた紹介状には「進上、大聖文殊之像一体」と書いてあったといい、それだけ能力を見こんで源光に預けたようです。

 最初は源光に入門、2年後に「扶桑略記」の撰者として知られる皇円の 門下に入って出家得度、受戒して本格的な修学生活に入りました。正式な出家は諸説ありますが、15歳くらいといわれています。天台宗の基本的なテキストは 早めに習得したようで、能力を見込んだ皇円は将来の天台座主を目指さないかと勧めることもあったそうですが、そういう世俗的な立身にあまり興味を持たな かった法然は18歳の時遁世して黒谷の叡空に 師事、本格的な修行生活に入りました。
 すでにその学力を評価されていた若者の入門を喜んだ叡空は「法爾自 然」という用語から「法然」の 坊号を授け、源光と自分から一字ずつ取って「源空」の 僧名を授けました。
 

◆修行から開宗まで

 黒谷に入った法然は叡空の指導で戒律を守る厳しい修行生活を送るとともに、源信の「往生要集」などに基づく天台念仏を学びました。称名が重要であるとい う解釈をして譲らず、叡空やその師であった良忍を見下したともとれることを言って怒った叡空が木枕を投げつけ、箒をもって追いかけまわした、なんてことも あったそうですが。

 修行を終えて24歳のときには下山して奈良などを回り、他宗派の著名な僧にあっています。比叡山に入って以来勉強家として知られ、後年弟子に「他宗派の教えを宗旨別に理解することなしに、自宗派と違う点を間違いと決めつけてはい けない」と語っているように視野の広かった法然は独学で概ね他宗派の教義を理解しており、相手の方に感心されることが多い反面 彼らから学ぶことは少なかったようですが、南都系の浄土教に触れたことは、後々役立ったようです。
 自分がなすべきことは何か修行や遊学ではっきりと見いだせず、悩んだ法然は黒谷に戻って叡空を補佐しつつ、寝食を忘れて経典を読み続けるという生活を十 数年にわたって続け、特に漢訳の仏教聖典を集め、5048 巻からなる一切経を5回にわたって全巻読破した、という逸話もあります。

 そうした中、法然が悟りを得るきっかけになったのが7世紀中国の僧・善導が記した「観無量寿経疏」で した。インドから伝わったとされる経典(中 国でできた偽経という説もあります)の注釈書であるこれの、「一 心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」と いう一節に法然は着目します。
 松本章男氏の口語訳を拝借すると「心を一つにしてひたすらに阿弥陀仏の名号を称え、行くときも・止まるときも・座るときも・臥すときも、時間の長短を問 わず、称え称えて終わらないのを、必ず往生できるおこないと名付ける。なぜなら、それこそが阿弥陀仏の本願に随順するおこないであるから」というような意 味だそうです。
 他の修業をもって往生、つまり仏の慈悲を得て浄土に生まれ変わることを本願とせず、「南無阿弥陀仏」と称える称名を本願とする、というのは、それがだれ でも比較的簡単にでき、全ての人々に適合するからだ、と阿弥陀仏は述べている、と法然は説いています。

 その後の主張を私なりに意訳すると、「仏 像や仏塔を作るのが本願だったら、貧乏人は往生できないことになる。智慧や才覚のあることが本願だったら愚かな人は往生できないことになる。いろいろもの を知っていることが本願であるなら、ものをよく知らない人は往生できないことになる。戒律を厳しく守ることが本願だったらそれを守れない人は往生できない ことになる。でもそうなると、世の中の大半の人たちはそれらに当てはまらないから、往生できる人は少なく、出来ない人が多くなってしまう。だから阿弥陀如 来は慈悲を平等に広めるため、仏像や仏塔を作ったりといったことを往生の本願とせず、称名念仏の一行を以て本願となされたのだ」と いうところでしょうか。

 法然は天台宗など既成の日本仏教があまり救済の対象として重視していなかった貧しい、愚か、知識がない、戒律を守りようがない、そういう人たちこそ如来 による救いの正座に置くべきだと考え、いわゆる専修念仏の教説を打ち立てました。
 こうした説を人々に広めるべく、承安五年(西 暦で1175年)、43歳になっていた法然は、比叡山を去って多少各地を転々としてから東山大谷の吉水草庵に移り住み、専修念 仏の布教を開始しました。一般にこの時が浄土宗の開宗とされています。


◆吉水での30年

 法然が吉水草庵にいた期間は約30年、田村圓澄氏もぼやいているように、この人の生涯が若年と晩年波乱なのに対してこの時期は今一つ暇になっています。 実際法然自身「無為に日々を渉る」と 書いたことがあるそうです。

 法然が既成の仏教者と大きく異なったのは浄土門の教義を体系化し、組織化していったこと、さらに政治と結びついた「鎮護国家」という立場を離れていたこ と、それまであまり重視されていなかった一般庶民、さらには女性をも布教の対象としたことなどがありました。

 この時期はもろに源平合戦の時代。奈良の大仏などが焼けた際は法然が勧進を頼まれたものの断り、重源を 代わりに推挙した、という説があったり、木曽義仲の 軍勢が入京して暴れたときは普段多くの経典を読んでいた法然が不安になってなにも読めなくなったと後で語ったり、奈良が焼けたとき兵を指揮していた平重衡が 捕らえられた後苦悩していたら、法然が会って受戒したという話が平家物語にあったりします。

 そういう中で文治二年(1186年、そ の3年後という説もあります)に行われたいわゆる「大 原談義」は各宗派の著名な僧を相手にした論議で、ここで法然は末法の世といわれるこの時勢において、専修念仏こそが万人に適合 する教えであると説いて来聴者たちの共感を得、法然の存在と教えは庶民のみならず上級僧侶や貴族、武士にも広まって行きました。

 貴族の中でとくに有名な帰依者となったのが、関白などを歴任し、日記「玉葉」の著者としても有名な九条兼実で した。長男の良通に先立たれた悲しみから法然をしばしば招いて受戒した兼実は法然の人柄に傾倒して、あまり一人にだけあって教えるのもどうかという法然を 病になったと偽ってまで呼んだとも言われていますし、建仁二年(1202年)には法然を戒師として出家もしています。
 また、建久九年(1198年)に法然は兼実の勧めで主著となる「選択 本願念仏集」を書いています。もともとあまり筆まめでないうえ、このころ病み上がりでもあった法然は書くというよりは質問に答 えるという形で文章自体も弟子に口述筆記させているのですが、2巻16章からなるこの書で法然は既成の仏教を「聖道門」とし、末法の世ではこれと決別し、 浄土門に帰すべきであるとするなど、法然の教えを集大成した論文として広く知られています。
 他、平家物語で知られる武将の熊谷直実も 法然に師事し、歌人として知られる式子内親王も 帰依し、一説には法然を思慕していたとも言われています。

 出家の門弟としてはまず、ともに叡空の元で学んでいて弟弟子といった方がいい信空、 さらには西山系の祖になる証 空、現在の浄土宗の主流となる鎮西派の祖となった弁長、 そして入門は建仁元年(1201年)と比較的遅めでしたが、浄土真宗の宗祖として後年の知名度が高くなった親鸞等 がいます。

 しかしこうした信徒の拡大は既成仏教との摩擦を引き起こしていました。さらに法然自身は必ずしもそう考えていなかったらしいのですが、便乗して信徒と称 し、聖道門をやたらに攻撃する人が出たり、念仏を唱えればどうせ往生できるから何やってもいいという風潮が出来たり、さまざまな問題も生じたりしていたよ うです。
 そうした中で元久元年(1204年)には延暦寺の宗徒が一部の門弟の言動などを問題視して、専修念仏の停止を天台座主の真性に訴えています。さすがにま ずいと思ったのか、法然は弟子たちを集めて「念仏以外の宗派や行をそしったり、法然の名をかたって勝手な説を広めてはならない」など七カ条にわたる制戒を 書いて比叡山側に送っています。

 その時はそれで一応切り抜けましたが、翌元久二年(1205年)には奈良の興福寺から「勅許も得ないで新しい宗派を立てたり、阿弥陀如来だけ信仰して釈 迦を軽んじたり、国家を守護すべき仏法の在り方を乱すなどしている」など9カ条にわたる問題点を指摘して専修念仏の停止と法然やその門弟の処罰を求める 「興福寺奏状」も出されました。法然は一念義の主張で批判されていた行空を 破門するなど対処し、朝廷側も摂政が九条兼実の子・九条良経だっ たこともあって極力厳罰を避けようとしていたようですが興福寺側はおさまらず、繰り返し法然らの処罰を求めて強訴を繰り返しました。
 しかし良経が不審な急死をするなど事態が悪化していたところで、建永元年(1206年)十二月、朝廷の最高実力者だった後鳥羽上皇の 女房(侍女)2人が法然の門弟であった遵西住蓮に 懇願して上皇に無断で出家し、これに絡んで彼らが密通したのではないか、と疑われる事件が起こりました。浄土宗関係の人たちは冤罪、捏造だと現在でも主張 していますが、ともあれこの件は上皇の逆鱗に触れたようで、朝廷の姿勢も一気に硬化しました。

 建永二年(1206年)2月、朝廷は遵西や住蓮らを処刑、法然に加え、親鸞など門弟7人を流罪にすることを決めました。法然はこの際僧籍を剥奪され、「藤井(または源) 元彦」という名を付けられました。この事件、この年また改元があったため「承元の法難」と呼ばれます。


◆前向きに流浪した晩年

 法然は土佐(今の高知県)に流されることが決まり、これを憂えた信空たち門弟は「老 齢の御身ではるかな西海に行かれたら御命が危ぶまれますし、私たちが御教えを受けることもできなくなります。表向き一向専修念仏の興行を止める旨を奏上 し、それで流罪を回避して内々に念仏を教化されてはどうでしょうか」という提案をしました。

 しかし法然は「流罪を恨みと思っていな い。自分は80近くなってどうせ遠からず死ぬし、どこにいても浄土で再会できることに変わりはない。京で長らく念仏を広めてきたけど、辺鄙な地方へ行って 田夫野人にも念仏を勧めるのは念願でさえあった。機縁が熟さずそのままになっていたけど、今その機会が与えられるのはむしろ朝恩というべきである。専修念 仏という法の弘通は人の力で止めようとしても止まらないだろう」といいきり、表向きの小細工などを一切拒みました。ポジティブ な発想の転換ともいえますが、朝廷に禁止された(異 説もあります)教えを地方に広めてやろうというのは朝廷に対する反逆、皮肉とも取れる、と寺内大吉氏などは指摘しています。

 3月16日、法然は流刑地へ向かうべく京を発ちました。ちなみにこの時期自分の別邸に法然を保護し、処罰を避けようと奔走していた九条兼実は心労や悲嘆 があったか、直後の4月5日に亡くなっています。法然は行く先々で言った通り、会う人々に専修念仏の教えを伝えました。特に播磨の高砂で漁夫、室の泊で遊 女を導いたことなどが知られています。讃岐国(今の香川県)にいたときにも善通寺を訪れたり、集まった多くの人々を教化したとも言われています(松本章男氏は信徒の津戸三郎に宛てた手紙などからそこま で布教の自由があったか疑問視していますが)

 讃岐についてしばらくのち、兼実の死もあって同情論が起こる一方、延暦寺や興福寺にも配慮するということで、12月8日「大赦により赦免するけど、京に入ってはならない」というや やこしい宣旨を受けた法然は結局本来の流刑地だった土佐まで行かずに四国を離れ、現在も大阪府箕面市にあり、Jリーグのガンバ大阪が必勝祈願をやっている という勝尾寺に移ってここに4年ほど滞在、世話になった例として門弟に命じて仏具や一切経を入施するなどし、ここでも多くの人を教化、とくに宇都宮頼綱の 帰依が知られています。

 建暦元年(1211年)11月20日、ようやく入京を許された法然は5年ぶりに京へ戻りました。吉水草庵は荒れて使えなかったので、現在知恩院勢至堂が あるところに移り住んでいます。この赦免は体が衰えてそろそろ危なそうだという配慮だったらしく、実際翌建暦二年(1212年)に入ると老衰から食事もと れない状態になっていました。

 ただそれまで数年物忘れが多くなっていた法然も、病床に伏してからは割と頭はしっかりしていたといいます。「古代の先徳には皆遺跡がありますが、師は一寺の建立もありません。御入滅の後、どこを 遺跡とすればいいのでしょう」と問われた際には「遺跡を一か所に限定すれば、法は弘まらない。専修念仏の興 行を生涯やってきたから、念仏の声がするところは貴賤を問わずみな私の遺跡である」と答えたり、臨終の際五色の糸を取るという 一般の儀式に従わなかったりと、自分の死やその後についても既成の仏教とは一線を画した発想を貫かせたそうです。

 1月23日には「念仏の肝要について一筆賜り形見としたい」という門弟の源智の 求めで「一枚起請文」とよばれる遺戒を書い ています。全部書くと大変なので(浄土宗 のHPで全文を読めます)一部だけ意訳しますが「観念の念仏でなく、学問して悟った念仏でもなく、極楽往生 のためには念仏を唱えて疑いなく往生すると思って申す他に別の仔細はない。いろんな考えや修行は称名で往生することに含まれるけど、他に余計な奥義なんか 知ろうとすれば二尊の憐みにはずれ、本願の救いから洩れるだろう。念仏を信じる人はどんなに勉強していても自分を愚鈍の身になし、智者のような高慢な振る 舞いをしないで一向に念仏しなさい」という内容で、専修念仏の教義を実にシンプルな形でまとめたものとなっており、どういう人 たちを教化の対象とすべきかをよくあらわしています。

 それから2日たった建暦二年1月25日(グレゴリオ暦で1212年3月7日)正午ごろ、法然は床にあってもひたすら念仏を唱え続けて息を引き取りまし た。仏教用語では「入寂」とか「入滅」とか言われます。享年80歳。

 その後も延暦寺の層に法然の墓堂が壊されたり、選択本願念仏集の版木が焼かれたり、3度にわたって専修念仏が禁じられて信徒が流罪になったりと弾圧は続 きましたがやがて収まり、浄土宗や親鸞の系統から興った浄土真宗などは法然の死から800年ほどたった現在でも続いています。
 政治への関与をあまりせず(それが弾圧 を避けきれない原因ともなりましたが)既成の仏教に重視されていなかった庶民にも平等に教化していき、下からの信仰となったこ とや、親鸞が師事できたのを生涯の喜びと書いていたように多くの人に尊敬された法然の人柄も長く続いた要因だったといえそうです。

 ところで法然といえば、九条兼実の隠居所を訪ねた際詠んだとされ、「続千載和歌集」に収録されている「光明遍照十万世界念仏摂取不捨の心を」という詞書の短歌が 知られています。

 月影の い たらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ

 この短歌、現在でも浄土宗の宗歌とされ、浄土宗系の学校である上 宮高校などの校歌ともなっているので、私のような高校野球ファンにも結構おなじみだったりします。

 月の光にたとえて、阿弥陀仏の光明はどんな所にも、どんな人にも届いて救い取るという慈悲の心を歌い、その一方で月が照っていても見ようとしない人には それがきれいだと思えないように仏の慈悲に気付かず、ありがたいと思えない人には何の価値もなくなってしまう、ということも表しています。救済対象の平等 性と、救済を信じる心の大切さを歌い、法然の思想を簡潔に示した短歌といえそうです。

(2012/2/17)
次回は「ん」から始まる人物です。お楽しみに…って、ん?

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