しりとり歴史人物館
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第11回
アフリカ独立と統一に賭けたガーナの英雄
ン クルマ
Kwame Nkrumah
(1909−1972、ガーナ)
ンクルマ像


◆はじめに


 この「しりとり人物館」、連載開始(ま だ20世紀の話です)に あたっての「あいさつ」に「『ん』で終わる人の次は同じ文字で始まる人をもう一度やる」というルールを書いています。そうすることで「ん」で終わる人も採 り上げられるようにしたのですが、よく考えてみると世界史上の有名人で「ん」から始まる人がいるんですよね、一人だけ。それがクワメ=ンクルマで す。英語読みで「エンクルマ」と呼ばれることが多いのですが、チャドに「ンジャメナ」という地名があるように、アフリカ中部方面では「ん」で始まる固有名 詞が結構あり、彼の名前も「ンクルマ」と表記する方が現地発音に近いようです(聞いた感じでは「ぬ」と「ん」の中間ぐらいの気もしま す)。そういうわけで、実はひそかに「ん」で終わる人物の次にこの人を持ってこようと数年前から計画だけはしてました(笑)。 ま、こんなの今回限りでしょうけどね。

 すでに没後40年のンクルマ(偶然です がつい先日の4月27日がちょうど没後40年)。 アフリカで最初に植民地からの独立を成し遂げて「ガーナ」を建国、これが他のアフリカ諸国の独立機運をうながし、その先にアフリカ全体の統一国家樹立を夢 見た人物で、一時は世界的な影響力をもった指導者の一人として日本でも有名でした。ですが結果的に彼の「夢」が夢と消えたこともあって、今日では世界的知 名度は同世代の他の指導者と比べるといまひとつ。今回はそんな彼の生涯をおしゃべりしてみたいと思います。では、はじまり、はじまり〜〜


◆黄金海岸の片隅で

 クワメ=ンクルマは現在のガーナ、当時イギリスの植民地「黄 金海岸(ゴールドコースト)」(実際に金が豊富に産出するのでこの名がある)の西南の片隅にあるンディマのンクロフル村(どちらの地名も彼の名前同様に「N(ン)」で始まる)に 1909年に生まれています。もっともこの辺りの人たちは年月日の記憶についてはかなりアバウトで、ンクルマの母親エリザベス=ンヤニ バは年の一度の祭の数で数えて息子に 「1912年生まれ」と教えていたそうですが、ンクルマは後に自分の幼時に近くで船の難破があった記憶から自分の誕生日を「1909年9月18日」と自伝 の中で推 定しています。ただしカトリック教会の記録(恐 らくこれも推定)にもとづく戸籍上の彼の生年月日は「1909年9月21日」となっており、本人も面倒なんで公式にはそれで通してい たとか。そのため現在もガーナでは「9月21日」の方を「Founder's Day(建国者の日)」として祝日にしています。
  この地方では子供の名前を生まれた曜日によって決める習慣があり、例えばガーナ出身で国連事務総長になったアナン氏の名前「コフィ」は金曜日生まれの男の 子であるため。ンクルマの名前「クワメ」は土曜日に生まれた男の子につく名前です。彼は生まれた直後しばらく生きている兆候を示さず、母親も死んだものと あきらめてしまいましたが、親戚たちが周囲で楽器を鳴らし、赤ん坊の体をゆすったりバナナを口につっこんだりしたところ、ようやく泣き叫びだしたとか。の ちのガーナ建国の英雄は生まれた直後にすんでのところで命を拾ったわけです。

 幼いンクルマはやがて母に連れられて鍛冶屋をする父の住むハーフ・アシニ(コートジボアールとの国境近くの沿岸)に移り住みます。ンクルマはこの黄金海岸にいる部族のひとつ「アカン族」に属しており、この地方ではある程度富裕な男性は複数の妻をもつことが当たり前で、ンクルマの家 もそうした一夫多妻の家庭でした。自伝を読む限り幼いクワメは母親にべったりの甘えん坊で(母親と同じベッドで寝てると父親がやってきても譲らず、 「母さんと結婚したのは私だぞ」という父に「僕も母さんと結婚してる」と言い返したそうで)、 異母兄たちにもずいぶん可愛がられて何不自由ない楽しい子供時代を送ったようです。やがて初等学校に通い始め、ここでドイツ人のカトリック神父に保護者代 わりをしてもらって感化されたことと、すでに母親がカトリック教徒だったこともあって、クワメはカトリックの洗礼を受けます。性格的に束縛されることが大 嫌いな彼はカトリックの厳格な規律には辟易したそうですが、素朴な信仰自体は終生持ち続け、後年マルクス主義も信奉することになる彼は「クリスチャンであ ることとマルクス主義社会主義者であることに何の矛盾もない」と語っています。

 子供のころから賢かったのは確かなようで、初等教育を終えるとそのまま教生(生徒であると同時に他の生徒に授業をする)を 一年務め、その授業のうまさに感心した国立師範学校の校長の招きで17歳で黄金海岸の首都アクラにある師範学校に通うことになります。そのころンクルマの 父が急死し、それまで比較的裕福だった彼の経済状態は悪化することになります。
 師範学校時代にンクルマはある人物から強い影響を受けました。当時黄金海岸に開校されたプリンス・オブ・ウェールズ大学で黒人初の大学幹部となったクウェギル=アグレ イ博 士です。黒人エリートインテリであったアグレイは情熱的な雄弁家で、白と黒の鍵盤でピアノを奏でるのにたとえて黒人と白人の協力を訴えていました。ンクル マ少年はピアノの例えについては「対等に扱われて初めて可能では」と疑問も感じたようですが、博士個人のことは大変偉大な人物と感じ、心から慕ったといい ます。間もなくアグレイはアメリカに渡航することになり、別れ際に「こ れまで君たちを飢えさせることはできたが、君たちの飢えを満たすことはできなかった。今度帰ってきた時には君たちの飢えを満たす力が私に与えられるよう 祈ってくれ」とンクルマに言い残します。ところがアグレイは無念にもニューヨークに着いてたった一週間後に急病で死んでしま い、知らせを聞いたンクルマ少年はショックのあまり三日間何も食べられませんでした。しかしこのとき彼は「空腹でも勉強をするエネルギーはある」という妙なことを自 覚し(これが後年貧乏留学生時代に役に立 つ)、またアグレイを見習って、あるいはアグレイの果たせなかった夢を果たすべく、自分もいつかアメリカへ留学しようと決意す ることになります。
 
 1930年に師範学校を卒業したンクルマは、カトリック系学校の教師を5年間つとめ、せっせとアメリカ留学のための資金をためこみます。しかし結局それ ではアメリカに渡る旅費にも足りないことが分かり、あてになりそうなナイジェリア在住の親戚の援助を求めようと考えます。しかしナイジェリアまで行くのに も旅費がかかるわけで、それをケチるべくンクルマはナイジェリアへ行く船の火夫たちに紛れこんでタダ乗り密航という挙に出ます。凄まじい密航旅行だったよ うで、着いたころには体も服もボロボロ。おかげで本当に火夫にしか見えず怪しまれずに下船に成功したそうですが(笑)。
 訪ねていった親戚は快く大金の援助を承知してくれ、他にも援助してくれる親戚が現れたおかげでンクルマはようやくアメリカ留学のめどがつき、アメリカの 黒人大学リンカーン大学に 願書を送付します。しかし故郷にいる母親になかなか打ち明けられず、ようやく打ち明けたのは出発前夜。母のエリザベスはアメリカへ旅立つンクルマに夜通しかけて外国 でどうふるまうべきかということと、自分たちの祖先の数世紀の物語を語って聞かせ、ンクルマはそれをノートに書きとめました(のちにその大事なノートをニューヨークの地下鉄でなくし てしまったというオチがつきますが)

  翌朝、ンクルマは少ない荷物を丸木舟に乗せ、母親に別れを告げて旅立ちました。当時の黄金海岸にはアメリカ領事館がなかったため、アメリカに入国するため にまずイギリスに向かうことになります。黄金海岸西部の港タコラディから船に乗ってイギリスはリバプールに渡り、ここで自分と同郷の材木商ジョージ=グラント(のち統一黄金海岸会議議長)の 世話になり、アメリカへの渡航の手続きを進めるべくロンドンへ向かいます。しかしそれが思うように進まず一時はあきらめて帰国を考えるほどでした。
 ところがそんなロンドンで、ンクルマは新聞売りの少年が大声で騒いでいるのを目撃します。その新聞には「ムッソリーニ、エチオピアに侵攻」との大見 出しが(1935年10月3日。エチオピ アはアフリカの数少ない独立国だった)。それを目にしたンクルマは「そ の瞬間、ロンドンの全てが私に宣戦布告しているように感じた」といい、道行く人々の無関心ぶりに植民地主義への疑問をさらに強 め、いつか植民地制度を倒すために働こう、「その目的を達するために必 要なら地獄へも行こう」と決意します。後年彼はこれをかけがえのない瞬間だったとふりかえっており、アフリカ独立に賭ける彼の 生涯の出発点と位置付けています。


◆貧乏苦学生から独立の闘士へ

 1935年の10月の末にンクルマはようやくニューヨークに着き、リンカーン大学に入学します。この大学は黒人に高等教育を与えるべく1854 年に創設されたキリスト教系。途中いろいろあったため2カ月遅れの入学、しかもンクルマは所持金もろくにない状態だったので下手すると入学拒否されかねな いところでしたが、とりあえず見習い学生ということにされ試験でよい成績をとれば編入を認めると学部長から言い渡されます。さすがは秀才、ンクルマは二ヶ 月遅れのハンデもものともせず試験をクリア。この大学では首席と次席の学生には学期ごとに奨学金が出る制度があり、彼は常に首席か次席をキープして在学中 奨学金を受け続けたといいますから、やはり大したものです。
 もっともそれでも生活費にはまったく足りず、学内食堂の給仕などアルバイトで稼ぐこ とに。さらに彼は他の学生たちが社会学・経済学のレポートに音を上げてるのに目をつけ、「1回1ドル」で代作を引き受ける裏バイト(笑)も始めました。自 伝でもこの大学時代は生活費を稼ぐために石鹸工場やら船のウェイターやら、ありとあらゆる過酷なアルバイトにあけくれた話ばかり書かれてますし、また女の 子との交際についてもさりげなく書 かれてます。あくまで本人の弁ではありますが、どうも彼は少年時代からなかなかモテモテだったらしく、自伝でも女の子の方から熱烈に言い寄られる話が目立 ちます(故郷でも近所の娘に熱烈にアタックされ、「あの娘の情熱的な言葉を受け入れてたら故郷の田舎教師か鍛冶屋にでもなってただろう」と語ってます)。 もっとも経済的事情でデートもままならないためすぐフラれたり、彼自身が束縛をひどく嫌う性格でもあったため、いずれも短期の交際で終わっています。 まぁ、こういうあ たりはどこにでもある大学生の青春日記ですね。

 1939年にンクルマは成績優秀のうちにリンカーン大学を卒業。その後コロンビア大に入ろうとしましたが経済的理由であきらめ、ちょうどリンカーン大学 の哲学科助講師の誘いがあったのでこれにとびつきます(留 学条件上引き受けないとアメリカから追い出されてしまう)。本来哲学専攻ではなかった彼ですが、これを機会にと近代哲学の書籍 を片っ端から読み、哲学こそが全ての学問の基礎と確信します。その後ニューヨークのリンカーン神学校とフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学に並行して 通って(50マイル以上の距離を毎週三往 復)神学士号と修士号をとり、さらに博士号取得の資格も得ますが、これと並行して生活費を稼ぐためにアルバイトにも精を出して 肺炎で倒れて死にかけるという経験もしています。さすがにこのときは24時間状態で働く自分を反省し、そろそろ帰国するかという気も起こしています。

  さてンクルマはそれまで故郷でもアメリカでも黒人に囲まれた環境、あるいは理解ある白人と接していたためもあってそれほど黒人差別を経験してはいませんで した。しかしフィラデルフィアで調査をするうちにアメリカ南部における黒人差別の凄まじさをようやく知ることになります。そして彼自身も講演旅行の途中、 立ち寄ったボルティモアのバス停の喫茶室で「水を一杯くれないか」とウェイターに声をかけたところ、不潔なものでも見るような視線と共に「表のたんつぼの水でも飲め」と言われるとい う体験をし、強いショックを受けています(私 事ですが、僕はこのエピソードを小学生の時に児童向け社会科本で読んでいて、強く記憶に残ってました)

 こうしたこともあってンクルマは次第に黒人運動にものめりこんでいきます。ペンシルヴァニア大学で黒人の歴史の講義を行ったり、黒人学生協会を組織して「アフリカン・インタープリター(アフリカの解説者)」とい う機関紙を発行し、黒人の民族意識高揚につとめます。
 それと同時に政治活動や運動の方法を学ぶべく極右から極左までありとあらゆる政治集団に首をつっこみ(フリーメーソンにも入った)、 植民地主義や帝国主義をどう解決すべきか考えようと、さまざまな哲学・社会科学の書籍を読みあさります。その中で彼はマルクス・レーニン主義こそが問題解 決の道だと確信し、またジャマイカ出身の黒人運動家マーカス=ガーヴェ イの著作の影響を多大に受けて、大西洋を越えたアフリカ系黒人の連帯とアフリカ全体での植民地からの独立を強く志向するように なりました。

  第二次大戦も終わりが近づいた1945年5月、ンクルマはおよそ十年に及んだアメリカ生活に別れを告げ、イギリスへと渡ります。船出に際してはとくに感慨 もなく気抜けしたぐらいだったそうですが、ニューヨークの港を出て自由の女神像が「まるで私に特別に別れを告げるかのように腕を上げていた」のを目にし て、思わず目を潤ませます。「自由の意味を本当に教えてくれたのはあな ただ。あなたの教えをアフリカに伝えるまでは、私は決して休息しない」と自由の女神に誓いつつ、ンクルマはすっかりアフリカ独 立の闘士としてアメリカを離れたのでした。すでに30歳を過ぎてますけど、ここまでが彼の「青春時代」だったのだと思います。


◆故国での苦闘

 彼がロンドンに移った本来の目的は法学の博士論文を書くためにこちらの大学に入ることでしたが、ここでも彼はそれこそ極右から極左まで、あらゆる政治集 団に首を突っ込みます。そして1945年11月にマンチェスターで開催された「第 五回パン・アフリカ会議」の組織委員会で書記をつとめてその中心として奔走することになります。この「パン・アフリカ会議」というの はアメリカ出身の黒人運動家W=E=B=デュボ イスが 北米大陸・カリブ海・アフリカの黒人知識人たちを集めて黒人の権利を訴えるべく1919年にパリで開催したことに始まるもので、1927年の第四回まで開 かれたものの世界恐慌により中断、戦後になって復活したものです。この第五回会議は創設者のデュボイスはもちろん、トリニダード・トバゴ出身で一時ソ連に 赴くも追放されていた運動家ジョージ=パドモア(ンクルマと共に書記を務めた)、 南アフリカの作家ピー ター=エイブラハムズ、のちにケニア建国者となるジョモ=ケニヤッタな どなど、そうそうたる面々を含めた200名以上の代表が集まりました。ンクルマのそうした黒人運動家の一人としてこの大会で頭角を現すことになりま す。

  「第五回パン・アフリカ会議」は第二次大戦後のヨーロッパの衰退と黒人の権利意識拡大、そして早くも兆候が見えていた東西冷戦を背景に、あくまで黒人権利 の拡張と自治権を訴えていた戦前の大会からさらに踏み込み、ヨーロッパの独占資本による植民地支配・帝国主義を非難してアフリカ諸国の政治的・経済的独立 を明確に主張しました。そしてその目的のために「非暴力的積極行動」(インド独立の父ガンディーの影響がある)を 戦術とし、「アフリカ的社会主義」の建設を目指し、全世界のアフリカ人とその子孫に連帯を求める宣言を採択します。そうした宣言の多くはパドモアとンクルマの手によ りまとめられました。そしてこの会議を一つの出発点として、アフリカ諸国の独立運動が盛り上がることになります。
  ンクルマは同志たちとイギリスで「西アフリカ民族事務局」を組織してその総書記となり、相変わらず貧乏との戦いを繰り広げつつ、政治活動と組織の運営・拡 大に才能を発揮してゆきます。さすがにここまでくると勉学のほうまでは頭がまわらず、博士論文も放り出して民族運動一本に絞りました。あきらめた博士号は あとでちゃんともらえましたが、それは後述。
 
 さてンクルマの故郷「黄金海岸」は戦前まではあまり騒乱も起こらず経済的にもまずまずうまくいっていて「模範的植民地」と言われていましたが(実際ンクルマもこの地がアフリカ最初の独立国になるとは 思わなかったと述懐しています)、1946年にイギリスの総督アラン=バーンズの もとで憲法が改正され黒人の立法議会での枠が拡大されたものの、かえって自治を要求する新興エリート層の不満を招いていました。こうしたエリート層を中心 に自治を目指す政治団体「統一 黄金海岸会議(U.G.C.C)」が結成されることになりますが、インテリエリートの彼らは組織の運営も具体的な活動もでき ず、また一般大衆になかなか浸透できないという問題を抱えていました。
 そこで白羽の矢が立ったのが、イギリスで目覚ましい活躍を見せていた黄金海岸出身のンクルマです。統一黄金海岸会議はンクルマを「我々の総書記になって ほしい」と招聘し、貧乏な彼の心をくすぐるためか「月給100ポンド に自動車一台を進呈」というエサまでつけました。しかしンクルマはイギリスでの活動も放り出しにくいですし、仕入れた情報から このエリート連中とは肌が合わなそうだという予感を覚えてためらいます(結果的にこの予感は的中します)。 ですが自分が目指していることを母国で実践するまたとない機会でもあり、結局「金 がないから帰国の費用に100ポンド送ってくれ」と手紙を書いて総書記就任を承知しました。

  1947年11月、途中シエラ・レオネやリベリアに立ち寄りつつ、ンクルマは12年ぶりに故国の土を踏みました。実はイギリス出発直前にンクルマは共産党 関係者と疑われてロンドン警察に調べられており、黄金海岸上陸を阻止される懸念もありました。タコラディの港で移民局の黒人役人にパスポートを恐る恐る見 せたところ、その役人は「君がクワメ=ンクルマだね?」と確認して人気のないところに連れ込み、ンクルマの手を力強く握って「我々は君の噂をたくさん聞いている、君が帰国すると聞いて 毎日心配して待っていたんだ!」と言って、ンクルマの入国手続きをフリーパスにしてくれたのです。この思いがけない出迎えにン クルマも大感激しました。
 1947年12月に「統一黄金海岸会議」は正式に発足、ンクルマはその総書記に就任しますが、ここで例の「月給100ポンドに自動車一台」が彼を呼ぶための大ウソだったことが発覚(笑)。 実はこのとき会議には資金がまるでなかったのです。貧乏生活には慣れているンクルマは「住 居と宿泊費さえ保証してくれれば無料で働く」と申し出ましたが、この申し出はかえって会議の幹部の疑念を招き(彼らは富裕層なので理解できなかった)、 「月給25ポンドを払う」と言い張られたので、ンクルマは「どうでもいい」と思いつつそれを受け入れました。どうも最初っからンクルマと会議の連中はウマ が合わなかったようです。
 
  しかしさすがはンクルマ、持ち前の組織力と行動力、そして演説のうまさで「統一黄金海岸会議」の勢力をたちまち拡大、大衆の間にも影響力を浸透させてゆき ます。そんな1948年2月、大戦にイギリス兵として出征していた黒人復員軍人たちがアクラで行った平和デモに警官隊が発砲、2名が死亡するという事件が 起こり、これに群衆が激高してアクラで大規模な暴動に発展しました。この件にンクルマたちはほとんど無関係だったのですが(デモをやるということだけは聞いていた)、 植民地政府当局はこの暴動を「統一黄金会議」による扇動と判断、ンクルマら「会議」の幹部六人を一斉に逮捕します。ンクルマは警官たちに逮捕状と共に拳銃 と手榴弾を見せつけられ、「もしお前が総督 になるつもりなら、そういう人間を俺たちがどう扱うか見せてやろうか」とからかわれましたが、ンクルマは相手が黙ったところで「それで全部ですか?全部なら出かけましょう」とやり返して 素直に連行され、生涯で初めて刑務所にぶちこまれました。
 
  結局8週間の勾留ののち、事件の調査委員会による取り調べを受けたうえで、ンクルマは釈放されます。ただし「統一黄金海岸会議」の他の五人の幹部たちから 牢屋の中で「こんなことになったのもお前のせいだ」と言われて大ゲンカとなり、調査委員会の尋問に対しても他の幹部たちは「ンクルマは会議の雇われ総書記 に過ぎず、その行動に我々は責任をもてない」とまで発言しました。おまけに当局は調査報告書のなかでンクルマを共産党員、ソ連の手先であると疑い、彼の目的が 「西アフリカ・ソビエト社会主義共和国連邦」の建設にあると断定していて、これもまた他の幹部たちから毛嫌いされる原因となります(ンクルマ自身は共産党員ではなかったし、ソビエトうんぬん については完全に彼らの勝手な想像だと否定してます)。さらにンクルマが黒人高等教育機関として「ガーナ大学」を設立したこと も、勝手な振る舞いとみなされて非難されました。
  とうとう「総書記を辞めて100ポンド受け取り、イギリスへの片道切符を買え」とほのめかす幹部まで出る始末でしたが、ンクルマ個人の人気が高いこと、運 動の指導力があることは否めず、彼が離脱すると「会議」そのものがつぶれなかねないと恐れ、総書記を辞めて会計係にまわすという提案がなされます。ンク ルマは名を捨てて実をとれるとその提案を受け入れましたが、ンクルマ支持者からはどうみても理解不能で、会議の事務所に何百通という抗議の手紙や電報が殺 到する騒ぎとなり、改めて彼の影響力の強さが示される格好になりました。

 しかしトラブルはまだまだ続きます。ンクルマは機関紙「ア クラ・イブニング・ニュース」を発行して「我 々は平穏な奴隷の身分より危険を伴う自治を選ぶ」といったキャッチフレーズとともに大衆に意識の浸透をはかり、「真実を知りた くばアクラ・イブニング・ニュースを読め」と国中で言われるほどの成功を収めましたが、その内容に誹謗中傷があるとして警視総監や役人たちから一万ポンド にものぼる賠償金を請求されます(後年判 明したところではこれはンクルマの活動を妨害しようという植民地政府の作戦でした)。ンクルマ当人は「どうせ没収されたり差し押さえられるような財産もないし」とてんで心配しませんでしたが (笑)、支持者たちがカンパで必要な金額を集め、支払ってくれました。また「会議」の幹部の一人も「アクラ・イブニング・ニュース」をつぶすべく発行の権 利を買い取るという挙に出ましたが、ンクルマはすばやく発行所を変更して「ガー ナ・イブニング・ニュース」と改名して発行を続けます(笑)。

 ここまで対立が進んでは一緒にやっていくのは無理というもの。やがてンクルマ支持派の青年たちを中心に「会議」からの分離独立、新政党の結成をめざす動 きが起こり、1949年6月12日に6000人以上の支持者をアクラの広場に集めて新政党「会議人民党(C.C.P)」が 誕生します。当初「ガーナ人民党」とする案が多数を占めたそうですが、「会議」とつけた方が「統一黄金海岸会議」の流れをくむものだと受け止められやすい こと、そして恐らくは「ガーナ人民党」だと共産主義政党っぽく聞こえるという配慮があったものと思われます。「会議人民党」は「統一黄金海岸会議」の「近 いうちに自治を」という姿勢を批判して「今すぐの自治を(セルフガバメ ント・ナウ)」という綱領を掲げ、そのために「積極行動」を推進すると宣言します。


◆囚人からガーナ指導者に、そして独 立へ

 1950年1月、ンクルマたち「会議人民党」は植民地政府に即時自治の要求を突きつけ、これを拒否した場合は「積極行動」、具体的には全国の政 府機関、労働現場や商店などあらゆるところでストライキを起こす、いわゆる「ゼネスト」を実行すると表明します。植民地政府側はこれをなだめたりすかした り脅したり「中止になった」とデマを流したりして阻止しようとしましたが、1月11日にゼネストは実行に移されました。植民地政府は非常事態宣言と夜間外 出禁止令を発動、ゼネストを扇動したとして「ガーナ・イブニング・ニュース」などの新聞を発行停止にし、「会議人民党」の幹部を次々と逮捕、ついに1月 22日にンクルマも逮捕されます。かくして二度目の刑務所送り、今回はアクラにあるジェームズ要塞刑務所に収監され、短期の裁判によって3つの扇動の罪で それぞれ懲役一年ずつ、合計三年の刑務所暮らしを宣告されました。

 ジェームズ要塞刑務所での囚人生活はさすがに過酷でした。11人で満 員状態の牢屋に、仕切りもなく便器としてバケツが一つきり。食べ物もトウモロコシの粥やらメロンの粉やら、たまに弾丸のように硬い肉がちょびっと入った スープが出る。あまりの食事の悪さにハンストを始めた囚人仲間も出ましたが、ンクルマは「出 獄したら仕事は山ほどある。病人になって出獄しても役に立たないぞ」と説得してハンストを中止させました。一方でンクルマはも ともと貧乏時代からの習慣で週に一日か二日断食していて、おかげで胃を健康に保てたと語っています。

  刑務所内では外部との連絡は一切禁じられ、新聞も読めません。しかし刑務所の外で野党の活動が気になるンクルマはなんとか手紙で連絡をとろうと画策しま す。なんとか鉛筆の切れ端を拾ってズボンのバンドの内側に隠して「筆記用具」は手に入れますが、いかんせん紙がないので悩みます。そのとき例の便器バケツ に目に入り、ンクルマはひらめきます。そう、そこに紙が あるじゃないか!というわけで、毎日囚人に数枚ずつ支給されるトイレットペーパーを、ンクルマは他の囚人たちから食べ物と交換 したり、バクチで勝ったりして集めます(ヒ マでものがない刑務所内ではトイレットペーパーや石鹸がバクチで扱われる貴重品だったそうで)。そして囚人たちが寝静まる夜中 に、当人いわく「監房にはいでてくるゴキブリのように」執 筆作業を開始、格子窓からさすかすかな街灯の光を頼りにトイレットペーパーに書きまくります。書いた紙は小さくたたんで外部の同志のもとへ送るのですが、 それがどういう方法であったかは自伝でも明かしていません。恐らくは看守を味方にしたのではないかと思うのですが、とにかく同じ方法で外部からの連絡も受 けとっています。この「トイレットペーパーの手紙」は自伝に写真が掲載されており、もしかすると今もどこかに保存されているのかもしれません。

  結局14ヶ月に及んだ刑務所生活で、ンクルマは過酷でヒマな刑務所というところがいかに人の弱さ・醜さをあからさましてしまうか、いやというほど見たとい いま す。ケンカも起こりますし、ンクルマがこっそり入手した新聞を読んでいるとそれを密告する囚人仲間もいる。ときどき死刑囚がやってきて死刑執行がされるこ とでこちらも気分が滅入ってしまう(ンク ルマは死刑廃止論者でした)。しかしその一方で刑務所の外に支持者が集まって党歌や賛美歌を歌ってンクルマを励まし、彼もまた いつもの調子でたくみに刑務所内の同志たちを組織してこっそり委員会をいくつも作り、今後の活動の討議を行ったりしていました。
 
  1951年2月8日に黄金海岸では立法議会の総選挙が実施されることになっていました。ンクルマは外部の党員たちに多数議席確保のために全力をあげるよう 指示、さらに自身も刑務所内から立候補します。当時黄金海岸の法律では囚人に投票権はないものの、一年以下の懲役囚は立候補できるという規定があり、「懲 役一年」を三つ課せられてるンクルマも立候補は可能だったのです。さすがに党員からも立候補に反対する意見も出ましたがンクルマはこれをしりぞけ、「獄中 からの立候補」を強行します。
 そしてンクルマはアクラ中央選挙区でトップ当選。それも有効投票23112票のうち22780票(得票率98.6%!と いう凄まじい数字で。選挙で選ばれる38議席のうち会議人民党候補者は35議席を占め(議会は全84議席で、あとは地方諸州などで複雑に選ばれ る)、ンクルマと党は議会の最大勢力となりました。こうなっては植民地政府もンクルマを投獄し続けるわけにもいかず、1月12 日午後1時にンクルマは釈放されます。刑務所の外では群衆がンクルマを歓呼で出迎え、凱旋将軍よろしく広場まで大行進を行い、ここで羊をいけにえにしてそ の血をはだしで七回踏み「けがれ」を払う伝統的儀式が行われました。

 翌日、ンクルマは黄金海岸総督のチャールズ=アーデン=クラー クに官邸に呼び出され、黄金海岸の政府事務首班としてイギリス人と共に内閣を組織するよう要請されます。ンクルマはこれを受け 入れ、近い将来に独立を目指すにしてもしばらくはイギリスの植民地支配と共存しつつ次第に自治を拡大してゆくという方針をとり、黄金海岸=ガーナの運営に 乗り出しました。
 大衆の圧倒的支持を受けたンクルマと会議人民党でしたが、抵抗勢力も少なくありませんでした。まず以前の強硬姿勢は消えたものの容易には権限移行をさせ ないイギリス側と外国人官吏たち、「統一黄金海岸会議」に代表される黒人新興エリート層、それから黄金海岸に住む各部族を統治する伝統的な族長たち(実質その地方の「国王」で、イギリスは彼らを通して間接 支配をしていた)といった既得権をもつ勢力は、いわば「成り上がり者」であり中央集権的な体制を目指すンクルマたちにことある ごとに反発しました。まずはガーナの完全自治、それから独立、さらにその先にアフリカ全体の独立と統一まで夢見ているンクルマでしたが、その第一歩の段階 でかなり頭の痛い思いをさせられます。
 そんななか、1951年5月に母校のリンカーン大学から法学博士号を授与するとの連絡があり、ンクルマは気晴らしがてらアメリカに渡りました。かつての 貧乏船旅ではなく、初めての飛行機での旅。しかも今や世界的な「時の人」となっていたンクルマは行く先々で歓迎され、懐かしい知人たちとも会い、かつて授 業料も払えず入学も危ぶまれた母校から盛大な授与式で博士号を贈られ、まさに夢心地の日々を過ごしています。もっとも、この旅行中、彼のスーツケースが紛 失、帰国後にそっくり送り届けられるという珍事が起きていて、仲間たちは「CIAが持ってったんじゃないの」と冗談ですませたそうですが、その後のことを 考えるとあながち冗談ではなかったかもしれません。

 翌1952年3月にンクルマは「政府事務首班」などというあいまいな肩書から、正式に「首相」に任命されます。アフリカ人初の首相 の誕生でした。そして自治権獲得のために憲法改正の検討をすすめ、1953年7月10日にンクルマは「運命の動議」と呼ばれる憲法改正提案を議会に提出、満場一 致で採択されます。
 その新憲法のもとで1954年6月に総選挙が行われましたが、ンクルマの会議人民党では同じ選挙区に党の公認候補以外の党員が81名も勝手に立候補する という事態が起こり、ンクルマが激怒してその81名を「裏切り者」として除名するというトラブルがあったものの、結局会議人民党は104議席中72議席を 獲得する圧勝に。黒人のみの内閣を成立させ不動の地位を確保したンクルマはいよいよ独立への流れを加速して行きます。

 しかしもともと黄金海岸はさまざまな部族の寄り合い所帯で、それぞれに伝統的族長支配のもとで独立性が高く、とくに19世紀にイギリスの侵略に激しく抵 抗した誇り高い歴史をもつ内陸のアシャンティ州はンクルマの中央集権的な政策に強く反発し、ついには会議人民党派を襲撃・追放する暴動にまで発展します。 1954年11月10日はンクルマ自身が自宅で爆弾テロにあい、幸い母親ともどもケガ一つしませんでしたが事態の深刻さを身をもって知ることになります。
 アシャンティ州との対立の問題は容易に解決せず、イギリスマスコミも反ンクルマに同情的な論調があり、どうもイギリス政府自体がアシャンティ側の動きを 黙認しているフシがありました。イギリス側との交渉の末、独立に先立って民意を問うべく1956年にまた総選挙が行われることが決まります。
 これと並行して、黄金海岸の東隣にある「トー ゴランド」の帰属問題がありました。アフリカではよくあることですがトーゴランドは植民地化される際にヨーロッパ列強が勝手に 線を引いて分割しており、同じ民族が国境で分断されていました。このうち英領トーゴランドを新生ガーナに統合するのか、それとも東隣の仏領トーゴ側に統合 するのか、はたまたトーゴランド自体で独立するのか、という問題があったのです。ンクルマは当然ながらガーナへの統合を望んでいましたが、首を突っ込んで 事態を混乱させる可能性もあったのであくまで見守ります。結局1956年5月5日に英領トーゴ住民の投票が行われ、58%というややきわどい過半数越えで ガーナ側への統合が決定されました(仏領トーゴランドはのちに「トーゴ」として独立)
 そして7月、黄金海岸の総選挙が実施されます。選挙中はアシャンティ州を代表してゆるやかな連邦制を主張するコフィ=ブシア(のちにガーナ首相になる)ら の「国民解放運動」がンクルマの会議人民党を上回るとの予想も一部にありましたが(選挙を有利に導くための宣伝工作でもあったらしい)、 ふたを開けてみれば会議人民党は前回とほぼ同じく104議席中の71議席をとる圧勝でした。この結果によりガーナ独立は確定します。

 9月17日、総督官邸に呼びだされたンクルマは、クラーク総督から祝福の言葉と共にイギリス政府から「1957年3月6日」をもってガーナをイギリス連 邦の一国として独立させる、との通知を受け取ります。なぜ3月6日かといえば、1844年3月6日にイギリスと黄金海岸の族長たちとの間で植民地支配の第 一歩となる条約が締結されており、その同じ日をもって独立記念日にしようということなのでした。ついに長年の宿願が達成されたことを知ったンクルマはその 日付を見ただけで涙し、雲の上を歩くような気分で官邸をあとにし、その夜は少年時代からの思い出の数々が頭を駆け抜けて眠れなかったといいます。

 そしてその1957年3月6日がついにやってきます。この独立式典のために合 計56カ国からの来賓がアクラに集まり、またマーチン=ルーサー=キングのような黒人運動家もこの瞬間を見届けようと押しかけました。独立の前日深夜に議会で記念演説をしたンクルマは独立式典が開かれるポロ競技場へ移動、そこにはお よそ10万の群衆が「その瞬間」を待ち受けていました。午前0時の時報と共にユニオンジャックの旗がおろされて赤(独立に流された血)緑(豊かな自然)金(豊かな鉱産資源)の三色に自由を 示す星の入ったガーナ国旗が掲げられ、花火が打ち上げられ、群衆は歓呼しました。ンクルマは演壇から群衆に向かって「ついに戦いは終わった!こうしてガーナは、諸君の愛する国は、永久に自由となった」と 演説を始めます。そして「我々は戦いに勝った。しかしアフリカの他の国 々を解放する戦いに自らをもう一度捧げなければならない。アフリカ大陸全ての解放と結びつかなければ、我々の独立は無意味となるのだから」と、 このガーナ独立がアフリカ全体の独立の第一歩に過ぎないことも強調しました。この演説に群衆は熱狂、この場にいたキング牧師も「最後には正義が勝利するという自分の信念を確信した」と後年語っています。

 ガーナはサハラ以南の黒人アフリカ地域の中で最初の独立を勝ち取りました。ここまでこの「ガーナ」という名前がちょこちょこと出てき ましたが、これは「黄金海岸」の独立運動家たちが自分たちの国家の名前として使い始めたもので、その由来はかつて西サハラに繁栄した黒人王国「ガーナ」に あり、現在のガーナの領域とはまるでかぶらないものの、黒人による立派な王国がかつてあったのだという「歴史」を自覚するための命名でした。さらにいえば ンクルマは将来のアフリカ全体の統合を意識していましたから、「ガーナ」をかつての「黄金海岸」とイコールにはとらえていなかったのかもしれません。


◆ 「アフリカ合衆国」の夢

 ガーナ独立を達成したンクルマは翌1958年4月にエジプト、チュニジア、エチオピア、リベリア、リビア、モロッコ、スーダンといったすでに独立してい た国の代表を集めてアクラで「第一回アフリ カ独立諸国会議」を開催、各地の独立運動の支援、国連での共同戦線、東西冷戦における「第三の道」である非同盟主義の方針など を決定します。そして同年12月には「全ア フリカ人民会議」を主催してアフリカ全域から250名の代表を集め、反植民地主義・反人種差別と反部族主義・将来的なアフリカ 統一を決議します。この会議でンクルマは「20世紀はアフリカの世紀で あり、これから10年はアフリカ独立の10年だ。前進しよう、今すぐ独立へと。そして明日にはアフリカ合衆国へと!」と 呼びかけました。

 ガーナの独立はアフリカ各国の独立運動に火を付けました。1958年10月には西アフリカのフランス植民地だったギニアセク=トゥーレを 大統領として独立、ンクルマはさっそくこのギニアと協力関係を結びます。そしてンクルマが予言したように1960年はアフリカ諸国の独立が相次ぎ、「アフリカの年」とまで呼ばれることになりま す。ンクルマは東西冷戦の中での「第三世界」「非同盟諸国」の代表的存在の一人となり、アフリカ独立のリーダー国として独立諸国に積極的に支援を行うことになりますが、結果的にそれはガーナの財政を悪化させる一因と なってしまいます。
 またいざ独立という目的を達成してしまうと、どうしても国ごとに事情が異なりますし、目指す方向性も異なってきます。1960年にベルギー植民地コンゴが独立を達成、その指導者とし て独立後首相となったパ トリス=ルムンバは「全アフリカ人民会議」にも参加してンクルマとは盟友といっていいほどの関係になっていました。ルムンバも またンクルマ同様に部族主義を否定して中央集権的な国家づくりをめざしたために大統領のカザブブと 対立、さらにコンゴの鉱物資源確保を狙う欧米系資本やアフリカ諸国のソ連寄りを警戒するアメリカの策謀もあって、独立直後にコンゴは動乱に突入、ルムンバ は逮捕されたうえひそかに惨殺されてしまいました(ン クルマの自伝第二冊は亡き盟友ルムンバに捧げられています)
 この「コンゴ動乱」においてンクルマのガーナやギニア、マリ、エジプトなどはルムンバ派を支持し「アフリカ統一」をあくまで掲げる「カサブランカ憲章」 (1961)を採択しましたが、コートジボアールやマダガスカル、ナイジェリア、リベリアなどはカザブブ側を支持して内政不干渉の原則により特定の個人や 国のリーダーシップの否定し、政治的統合ではなく共同行動を、と呼びかけます。この対立はしばらく続き、コンゴ動乱がおさ まったところでひとまず和解、1963年にアフリカの31カ国が集まった「ア フリカ統一機構(OAU)」が結成されました。「アフリカ合衆国」には程遠い諸国の寄り合い所帯ではありましたが、一応アフリ カ諸国の紛争解決や国連での統一行動といった影響力は発揮するようになります。

 なお、ンクルマはガーナ独立直後に、かつてパン・アフリカ会議で共に夢を語り合ったジョージ=パドモアとW=E=B=デュボイスをガーナに招きました。 パドモアは政治顧問としてンクルマを支えましたが1959年に死去。パン・アフリカ会議の生みの親であるデュボイスは家族ともどもガーナに帰化してンクル マの支援のもとで「エンサイクロパディア・アフリカーナ(アフリカ百科全書)」の編纂にあたり、1963年にこの地で95歳の長寿を全うしています。

 さてガーナ国内に目を転じますと、「まずは独立、あとのことはそれか ら。独立すれば全ての問題は解決する」という調子で夢を語って人気を集めたンクルマでしたが、現実は厳しいものでした。ンクル マは独立直後にガーナの経済顧問として、後年黒人初のノーベル経済学賞受賞者となるアーサー=ルイスを 招聘しましたが、農業を重視するルイスと、経済的自立のために社会主義的な急進的工業化を志向するンクルマとは結局肌が合わず、ルイスは翌年にはガーナを去って しまいました。
 ガーナと言えば日本ではすぐ「チョコレート」が連想されるように、チョコ・ココアの原料「カカオ」の一大産地。このカカオ輸出で外貨を稼ぐ、というのは 当然の発想でしたが、それまで小農家によるものだったカカオ生産に社会主義国流の集団農場化・機械化を導入したものの結果的に失敗、カカオの国際価格の低 迷もあってガーナの対外債務がふくらみ、その債務もンクルマの政治姿勢を警戒する欧米諸国によって繰り延べが拒否され、国内利権も欧米資本に安く買いたた かれて、ガーナの経済状態はかえって植民地時代より悪化、ンクルマならぬ火の車になってしまいます。
 ンクルマが成功させた事業として、ヴォルタ川に作ったアコソンボ・ダ ムがあります(政 権末期の1966年完成)。この巨大なダムで水力発電を行い、アルミニウム精製など工業化に利用する狙いでしたが、その建設費 用を賄うために南部のカカオ生産に課税をしたため、これがまた地域対立を招くことになります。

 政治面では従来の部族主義や宗教的な立場で政治集団を作ることを「差 別廃止法」で禁じ、1958年には危険とみなした人物を裁判なしで最長5年拘束できる「予防拘禁法」を制定するなど、各種反対派を おさえこむ狙いだったんでしょうが、明らかに強権的で、かつてとは逆に弾圧者の側にまわってしまいました。自著でも述べているように死刑そのものには批判 的な彼でしたが、政敵の中には獄中で死んだ者もいますし、ブジアのように国外への亡命を余儀なくされる者も出ました。かつて会議人民党でンクルマを支えた 同志たちもンクルマと意見を対立させ次々と彼の元から去って(あるいはンクルマに追いだされて)ゆきます。
 1960年4月に国民投票を行ってガーナをイギリス連邦内の自治領(現在のカナダやオーストラリアのように、イギリス国王の 代理人の総督がいる独立国)から共和国に移行することを決定すると、同年7月1日にガーナ共和国を成立させンクルマは初代大統 領に就任します。群衆は「オサジェフォ(お おむね「救世主」の意)、クワメ・ンクルマ、万歳!」と叫んで路上を埋め尽くして熱狂しますが、このあたりから開発途上の社会 主義国にありがちな個人崇拝・独裁者の傾向も現れ始めます。1962年には二度も暗殺未遂事件に見舞われ、うち一度はボディガードが死んで自身は防弾チョッキのおかげで助かるというきわどさで、以後身の安全を守るために会議などで常に壁を背にす るようになり(ゴルゴ13じゃないんだか ら)、また大統領警護隊を組織したことで軍隊との対立も招いてしまいます。1964年には完全に一党独裁体制をとり、自らの銅 像も建てるなど個人崇拝も強めるというありがちなパターンになってきました。余談ですが、日本のロングセラー菓子「ガーナミルクチョコレート」はこの1964年に発売開始され、その名前はもちろん材料のカカオがガーナ産であるためですが、当時ガーナが世界的な注目を集めていたことも一因かもしれません。
 
 ンクルマは独立後もアフリカは欧米資本の「新植民地主義」に搾取されていると批判し、欧米諸国からの援助が受けにくくなると、もともとマルクス・レーニ ン主義を奉じながらも非同盟の立場をとっていた彼も背に腹は代えられず、ソ連など社会主義陣営に接近します。1963年に「レーニン平和賞」を受賞してい るのもその表れでしょう。コンゴ動乱にも首を突っ込んだラテンアメリカの革命野郎チェ=ゲバラもンクルマと顔を合わせています。またソ連や中国と共に南ローデシア(現ジンバブエ)の黒人ゲリラに軍事援助をするなど、それまでの非暴力・非同盟より東側陣営に 踏み込んだ姿勢を見せています。それはアメリカを中心とする西側諸国からのより強い警戒を招くものでした。


◆ 失脚、死去、そして…

 1966年2月24日、ンクルマが中国と北ベトナムを訪問中に、ガーナで軍事クーデターが発生、ンクルマ政権はあっけなく崩壊しました。実行したのはエマヌエル=コトカ大 佐らで(翌年暗殺され、現在アクラの空港にその名が冠せられている)、クーデター成功後はジョゼフ=アンク ラー中将率いる「国家解放委員会」が軍事政権を樹立します。当時からこのクーデターはアメリカのCIAによる工作があったとの 説が強くささやかれており、後年になって公開されたアメリカの外交資料によると、アンクラー中将らのクーデター計画が実行の1年以上前からあったことをア メリカ政府は承知しており、当人たちと連絡をとっていた可能性が示唆されています。
 政権が崩壊するとンクルマの銅像は引き倒され、その首をはねられました(のちに東欧革命やソ連崩壊で目にした光景ですね)。 アンクラーの軍事政権はンクルマ路線を全部ひっくり返して西側諸国との結びつきを強め、かつてンクルマに弾圧されて亡命したブシアが帰国して首相となり伝 統的部族の自立を重視した政策を進めます。しかしこれは部族対立や政治腐敗を深刻化させ、政権は不安定状態が続いて結局1972年にまたイグナティウス=ア チャンポンによるクーデターが起きて政権交代、アチャンポンはンクルマ路線を復活させますが、これまた1978年にクーデター で打倒されます。こんな調子でンクルマ失脚後のガーナは混迷が続き、ンクルマ時代よりさらに経済と政治を悪化させてしまったため、「ンクルマの方がまだ指 導力があった」と後年言われることになります。

 さてンクルマ当人はといえば、外遊中のクーデターでいきなり大統領の地位から引きずりおろされ、二度と母国へ帰ることはできませんでした。幸い盟友であ るギニアのセク=トゥーレの招きがあり、ンクルマはギニアで「名誉副大統領」の扱いを受けながら亡命生活を送ることになります。さすがに政治の表舞台に立 つことはできませんでしたが、新植民地主義を批判する言論活動は続け、オピニオンリーダーとしての一定の影響力は保ちます。しかし大統領時代からすでにそ うでしたが、ンクルマは自分の命が狙われているとの疑心暗鬼に陥っていて、たまたまコックが死んだ時は誰かが自分を毒殺しようとしていると疑い、自室に食 べ物をためこんでいたとの逸話もあります。晩年は絶えず誘拐や暗殺におびえる精神的にも不安定な日々を送っていたようです。

 ついに健康を害したンクルマは1971年8月に治療のためルーマニアの首都ブカレストに赴きます。病気は皮膚ガンで、すでに手遅れだったのでしょう、翌 1972年の4月27日、クワメ=ンクルマはブカレストの病院で死去、62歳で波乱の生涯を閉じました。遺体はいったんギニアに戻され埋葬されましたが、 ちょうどガーナではンクルマ路線復帰を掲げるアチャンポン政権になっていたこともあり、支持者たちの呼びかけでその遺体はガーナに帰り、彼の故郷ンクロフ ルに改めて埋葬されました。その後、ガーナの政治情勢が安定してきたこともあってかンクルマの再評価が高まり、1992年にアクラに壮麗な「クワメ・ンクルマ廟」が建設され、ンクルマの遺骨はまたま た掘りだされてこちらに改装されています。まぁ死後もいろいろと落ち着かない人ではあります。
 現在、「ンクルマ廟」には立派なンクルマ像が建てられていますが、実は政権崩壊時に首をはねられた銅像のほうも廟に収められているとのこと。首はつなが れないままになっていて、それは「歴史を書 き換えてはならない」という息子さんの意向だという話です。

 ここまで読んで、「あれ?いつ息子が生まれたんだ?」と思った方も多いでしょう。実は僕もこの辺まで書いてからやっと調べたんですが(汗)、実はンクル マ、独立直後の1958年1月1日に結婚しています。お相手はエジプトのコプト教徒のファティアと いう女性で、ンクルマより二十歳以上も年下の銀行員でした。どういうなれそめなのかはンクルマも自伝で一切語っておらず、当時エジプトの大統領であったナセルの 仲介という説もあるみたいですが、よく分かりません(息子さんは「ごく普通のエジプト女性」と言ってました)。反対する母親にファティアは「彼はナセルみたいなアフリカの英雄なのよ」と言い放ってガーナに飛びだ し結婚したという話はあるようです。ガーナ国内でも外国人(ア フリカ出身には違いないが黒人ではありません)の妻を迎えることに反発もあったようですが、一方でこの結婚をンクルマの「パ ン・アフリカ主義」の実践とみなす見方もあったようです。調べてみたらガーナの織物のデザインにも彼女にちなむ「ファティア」というのがあるそうで。
 ファティアとンクルマの間には男・女・男と三人の子供が生まれます。ところが1966年2月に夫の外遊中にクーデターが発生、ファティアは電話線を切ら れる寸前にエジプト大使館に連絡、ナセルが救出の飛行機を派遣し、空港へ逃げる途中でクーデター派軍人たちに銃を突きつけられ車から降ろされるも決然と追 い返したという武勇談も残しています。

 その後ファティアは子供たちと共にエジプトで暮らし、2007年5月に75歳で亡くなっています。彼女の遺言によりその遺体はガーナに運ばれ、ンクルマ 廟の夫の隣に葬られました。第一子のガマル=ンクルマ(「ガマル」はナセルの名にちなんだのでしょう)は 現在エジプトでジャーナリストとして活動中、第二子のサミア=ンクルマは ガーナに戻って政治家となり、昨年(2011年)に父が創設した「会議人民党」初の女性議長に選出され、現在アフリカでももっとも注目される女性政治家と みなされています(ま、どこの国にもよく ある二世政治家といえばそうなんですが)。なんでも彼女はイタリア・デンマーク混血の夫と結婚して「クワメ」と いう名の息子さんがいるそうです。第三子のセク=ンクルマ(こっちはセク=トゥーレにちなむ名でしょう)も 政治家で、近ごろのニュースを見ると昨年お姉さんが「会議人民党」党首になったためか、現大統領ジョン=アッタ=ミ ルズの「国民民主会議」からケンカ離脱するなどちょっとした「台風の目」になってるみたいです。
 なお、ンクルマを育て上げ、息子に多大な影響を与えた母親のエリザベスですが、息子より長生きして1977年10月に亡くなっています。ンクロフルには 彼女の墓と「ンヤニバ・ハウス」なる記念館まで建てられているそうです。
 
 ンクルマもその創設に関わった「アフリカ統一機構(OAU)」は2002年に「アフリカ連合(AU)」に 衣替えし、ヨーロッパ連合(EU)のように、よりアフリカ統合を志向した組織になりました。そしてその目的にはちゃんとンクルマの提唱した「アフリカ合衆 国構想」が掲げられており、2015年ま でにそれを達成するというスケジュールまで組まれました。もっともそれ以前に各国でさまざまな問題があり、またンクルマ時代同様に各国ごとの温度差もあ り、あと3年で実現するとはとても思えない状況。しかしンクルマたちがかつて思い描いた「夢」は、今も決して色あせていないことも分かります。
 現在のガーナは選挙による平和的な政権交代が実現するなど、ようやく民主主義国家としての形を整えて来たと言われます。アメリカ初の黒人大統領バラク=オバマも2009年7月にガーナをアフリカ最初の訪問国に選び、現地では「おかえりなさい」という見出しが新聞に踊る(オバマさんはガーナとは何の縁もないけど「アフリカ人」ということなんでしょう)など大変なフィーバーだったそうで、ガーナ国会での演説の中でオバマ大統領はかつてこの国が独立したときケニアの若者だった自分の父親や、キング牧師らアメリカ黒人が多大な影響を受けたことを語っています(ンクルマについてはケニヤッタらと一緒にチラッと名前を出しただけですが)。そして奇しくもこの年9月はンクルマ生誕100年にあたり、ガーナでは盛大に祝われました。彼の独裁時代を知る世代には批判的な意見も少なくないようですが、彼にささげられた「オサジェフォ」の尊称は彼の代名詞として今も健在のようです。

(2012/5/15)
次回は「ま」から始まる人物です。お楽しみに。

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