しりとり歴史人物館
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第1回
ネアカとネクラが交錯する強運のお坊ちゃん天下人!

足利尊氏
あしかがたかうじ(1305−1358、日本)
尊氏像


◆はじめに

 いや、ほんと。栄えある第一回の人物選定は迷いましたよ。最初だけ決めちまえば、あとは絞れますからねぇ。最初の人物はこっちで決めるほかない。とりあえず「あ」から始めようかなぁ、と考えているとこうなりました。
 「なぜ尊氏?」とお思いになる方もいるでしょう。別に杉本苑子さんの影響(「風の群像」出版おめでとうございます)ではありません。何かこういう行動の理解に苦しむ人が好きなんですね。単純明快でないから一般の人気も高くない。そんな人物が私の好みなんです。では、始めましょうか。容量の都合で簡単なものになりますが、あくまで紹介と思ってください(後は自分で調べろってことさ!)


◆誕生から鎌倉幕府打倒まで

 足利尊氏(もと高氏)は1305年、源氏の名門足利氏の当主・貞氏の嫡男として生まれている。絵に描いたような御曹司で、何不自由ない幼少期を送ったと思われる。そんなところが後の彼の妙な楽天的性格(もっとも突如どん底まで悲観的になる傾向もある)を形作ったのだろう。しかしこの足利家、時の北条執権家に対して対抗意識というか野心はあったようで、祖父の家時は源義家の「七代の孫に生まれ変わって天下を取る」という予言を果たせないとして「三代の孫までに天下を取らせ給え」と遺書を残して切腹している。その孫が尊氏という訳で、出来過ぎの気がしないではないが、尊氏と弟の直義は天下を取ってからこの遺書を見たと伝えられている。

 何不自由なく成長した高氏くんは、対抗するはずの北条家から嫁さん(登子)ももらう。ところが、この結婚と前後して「越前局」なる女性に手をつけて男子を生ませている。この子が後に死の直前まで敵として戦う直冬である。登子との間には千寿王(後の義詮)が生まれ、あと他にも側室(名は不明)竹若なる子が産まれている。

 さて、1331年。後醍醐天皇は倒幕の挙兵をし、これにあの楠木正成が呼応。高氏は父の喪中にもかかわらず幕府に出兵を命じられ、これが幕府を恨む動機となったと「太平記」は言う。やがていったん隠岐に流された後醍醐が脱出、再び挙兵すると、高氏は再び出兵を命じられる。この時高氏はすでに寝返る決心をしており、京都近くの篠村八幡宮で寝返りを表明、幕府の出先機関である六波羅探題を攻め落とした。直後に新田義貞が鎌倉を攻略。これにしっかり鎌倉脱出に成功したばかりの息子・千寿王を参加させ、「足利が鎌倉幕府を滅ぼした」という認識を作ることに成功、後醍醐に勲功第一と称えられた。ちなみに竹若は逃亡に失敗して北条氏に殺されている。


◆建武の乱から南北朝両立まで

 幕府打倒に成功した後醍醐は「建武の新政」をスタートさせる。この政策は天皇個人に権力を集中させるシステムで、単純に復古的な政治であった訳ではないのだが、個人集中である点に無理があった。特に恩賞・土地関係はメチャクチャで、土地に命を張る武士達は不満を抱き、次第に名門・足利氏に期待を抱くようになる。高氏自身も自分が征夷大将軍に任命されて幕府を開けると思っていたフシがある(どうもこの人の観測というのは常に甘い)が、後醍醐の諱「尊治」の一字を与えられ「尊氏」となっただけであった。おまけに後醍醐の子・護良親王が尊氏の命を狙う始末で、尊氏は謀略をもって(意外と謀略を巡らすところもある)護良親王追放に成功する。

 1335年、事態は急変する。北条氏残党が挙兵し、鎌倉が占領されたのだ。尊氏は後醍醐に鎮圧を命じられ出陣し、あっさりこれを撃破する。ところが鎌倉に入った尊氏はそのまま居座り、都に帰らない。どうも鎌倉でそのまま幕府を建設し、これを既成事実にしてしまおう、と考えていたようだ。はっきり言って甘い観測で、後醍醐は尊氏のライバル新田義貞に尊氏討伐を命じた。これを聞くや尊氏は「自分は天皇に逆らう気はない」とか言い出して出陣せず、代わりに出陣した直義が東海道で新田軍に敗北すると、「出家する」と言い出して寺にこもり、まげも切ってしまった。理解に苦しむ行動だが、どうも「自分が坊主になれば家は安泰」というこれまた甘い観測に基づく行動だったようだ。結局出家しても許されそうにないことを説明されると、あっさり出陣、箱根・竹之下の戦いで新田軍に大逆転勝利をする(だったら初めから出てくれよ、という部下のぼやきが聞こえてきそうだ)

 逃げる新田軍を追って尊氏軍は京都へ乱入。すったもんだの乱戦の末、奥州から北畠顕家軍が参戦すると、尊氏軍は崩壊、ほうほうの体で遠く九州まで逃げることとなる。その一方で尊氏は後醍醐の皇族におけるライバル光巌上皇に接触し、「逆賊」の汚名を逃れる工作をしている。

 さて九州についた尊氏を待っていたのは菊池氏に率いられた強力な天皇方の軍勢であった。多々良浜で両軍は激突、尊氏軍は菊池軍の十分の一に過ぎなかったという。「太平記」によれば、ここで尊氏は完全に弱気になり「討たれるよりは自ら・・・」とか言い出して、戦ってもいないうちから腹を切ろうとした。直義らが必死に止め、ヤケクソで戦ったところ、敵陣に強風が吹き付け、乱れるところを尊氏軍が強襲。混乱して寝返りも続出し、終わってみれば尊氏軍の圧勝となっていた。尊氏のここ一番の強運には脱帽の他はない。

 勢いに乗ると止まらなくなる尊氏は東上、これを迎え撃った義貞・正成を湊川で撃破する。ここで正成は戦死し、尊氏は正成の首を実家に届けてやっている(親切心からではあったが、これを見た正成の息子正行は自害しかけるという騒ぎになった) 。京都へ再び乱入した尊氏は、京都で市街戦を展開。新田義貞が一騎打ちを挑むという一幕があったが、出るポーズだけ見せて結局相手にしなかった。その後、後醍醐が尊氏との和議に応じ、一旦は尊氏の完全勝利かと思われた。しかし後醍醐はまたしても脱出、吉野に南朝を開くことになる。後醍醐の脱出を聞いた尊氏は「警備の手間が省けてよかったじゃないの」と言ったそうな。例によって甘い観測で、日本は南北朝泥沼の争乱に巻き込まれていく。


◆南北朝争乱から観応の擾乱まで

 北畠顕家、新田義貞といった強敵も次々と戦死し、1338年、尊氏はついに念願の征夷大将軍となり、幕府を設立する。翌年、最大のライバルであった後醍醐天皇も吉野で死し、尊氏の権勢は盤石のものと思われた。このころであろうか、尊氏は「自分は世を捨て、今生の果報は全て直義に・・・」という有名な願文を残している。実際尊氏は政務はほとんど直義に任せ、自らは田楽見物(当時最先端の流行で、身分の上下を問わず熱狂していた)に興じていた。しかし戦乱の火種は幕府内部にあったのである。

 1349年、尊氏を長年支え続けた弟の直義と、足利家の執事であり数々の武勲を挙げている高師直との対立が始まった。いわゆる「観応の擾乱」である。尊氏はあくまで中立的立場にいるつもりだったが、何となく師直にかつがれる形となった。師直に敗れた直義はなんと南朝に降伏、尊氏・師直に戦いを挑む。この戦いは直義が勝ち、尊氏はまたも自害を計るが、結局直義が尊氏を救い、師直は殺された。

 意気揚々と勝利者である直義の武将達が、敗北者である尊氏の元へ挨拶に来た時である。尊氏は開口一番、「降参人が何をしに来た!」と一喝した。そのうえ「師直殺害の犯人を死罪にせよ」と騒ぎ始めた。びっくりしたのは直義達である。これではどっちが勝利者だか分からない。これが尊氏の強がりなのか、単に事態を理解していないのか、専門家でも分からない所であるが、いつの間にか直義を離れ、尊氏に付くものが増え始める。そして今度は尊氏自らが南朝に降伏(ほんとこの時代の人間の感覚は理解しがたいものがある)、直義と戦う。直義は鎌倉まで追いつめられ、尊氏に降伏、直後に急死した。尊氏に毒殺されたというのが、ほぼ定説である。

 尊氏の降伏で勢いづいた南朝は京都を占領。尊氏は関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ取って返し、南朝軍から京都を奪回する。その後直義の養子となっていた実の息子・直冬が京都へ侵攻、兄弟の次は親子の対決となる。結局直冬は急にやる気をなくして(「太平記」によれば、子が父と戦っては勝てないという神託があったという)九州へ去り、尊氏はついに勝利者として生き残ったのである。しかし尊氏に残された時間は少なかった。1358年、尊氏は背中に出来た瘍がもとで死んだ。約54年の生涯であった。

たかうじ君◆同時代、後世の評価

 個人的に親交のあった夢窓疎石は言う。「将軍は矢石の飛ぶ中にあっても笑みを浮かべ、欲が少なく、財宝を見ることちりあくたのようであった」と。前半に関しては「太平記」の弱気な尊氏像と大きくことなるが(勝ち戦ならそうだったのかも)、後半に関しては、山のように届けられる八朔の祝いの品(中元、歳暮みたいなもの)を挨拶に来た客に次々とやってしまい、夕方には何も残っていなかったというエピソードが裏付けている(ちなみに弟の直義は「賄賂は受けん」と言っていっさい受け取らなかったという) 。この大盤振る舞い体質が彼の人気を支えていたのは間違いない。もっともこの大盤振る舞いが元で守護大名が強大化し、室町幕府が弱体化する遠因になったとも言われている。それにしても特に「太平記」なんか読んでるとこの人なんで天下取っちゃったの、と思うほど覇気を感じない人物に描かれている。「しょうがないな、この人は」と部下達が頑張ってしまうタイプであったようだ(中国の天下人によくあるパターンだ)

 足利尊氏は「棺桶が閉まって人生の評価が決まる」という言葉が、全く当てはまらない例としてよく紹介される。尊氏は江戸時代中の水戸学の歴史研究あたりから「天皇に背いた逆賊」 と非難されるようになる。これに染まってしまった幕末の志士たちは「忠臣正成、逆賊尊氏」と頭にたたき込まれ、尊氏の木像の首を切ってさらす、なんて事件も起こしている。そんな彼らによって作られた明治政府は当然のように尊氏を「逆賊」呼ばわりし、足利の織物は「逆賊織り」などと呼ばれた。足利氏の子孫は華族となっていたが、学習院などで歴史の時間はいろいろ肩身の狭い思いをしたそうだ。考えてみると今の皇室は北朝系なんだからむしろ感謝すべきなんだけどね。

 戦後の価値観の逆転のなかで、尊氏は今度は「保守勢力を破り新時代を築いた英雄」と、打って変わった評価を受ける。これもまた極端な評価としかいいようがないが、さすがに現在は冷静に研究されるようになった。よく言われるのが「矛盾に満ちた人物」という評価で、これが彼の人気が高くならない原因のようだが、そう言う性格だからこそあの混乱を極めた南北朝動乱を生き延びた、とも言われる。1990年NHK大河ドラマ「太平記」では尊氏が主役となり(真田広之が演じた)、何だかいつも悩んでばかりいる人物に描かれていたが、実際の尊氏はけっこうネアカな人物であったようだ。その一方で極端に落ち込み、出家する、切腹すると騒ぐところもあり、歴史家佐藤進一氏は尊氏は躁鬱(そううつ)質の人間では、と推測している。ネアカとネクラが交互に極端に現れる当たり、案外当たっているのかも知れない。

30,8,1997
次回予告次は「じ」か「し」で始まる人物です。お楽しみに


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