ニュースな
2000年1月8日

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 ◆今週の記事

◆エリツィン大統領、いきなり辞任

 えー、新年明けましておめでとうございます。今年も「史点」をよろしくおねがいいたします。ネタを提供してくださる世界じゅうの有名無名の方々もよろしくね(笑)。

 さて、前回は1999年の大晦日に記事を書いていた。アップした直後、その記事中にも登場していたロシアのエリツィン大統領がいきなりの辞任を表明しちまった(笑)。まさに歴史の一寸先は闇。世の中が「2000年問題! 」とか騒いでいるのにロシアではその認識が浸透していないなんて調査もあったが、考えてみるとコンピュータ誤作動より大変な事態がこの国には発生していたのでありますね。
 それにしてもエリツィン氏というのは最後まで人騒がせな人物だったなぁ(…もっともこれからも一寸先は闇なので本当に「最後」なのかどうかは断定できないが)。この人が歴史上に初めて登場したのは1980年代後半にゴルバチョフがペレストロイカを推進するさなかのことで、改革派と言うよりは急進派・過激派の暴れん坊として名を馳せていたように記憶している(最近のジリノフスキー氏なんかと似ている)。その後、1991年に反ゴルバチョフ派の「三日天下クーデター」が発生、この際エリツィンは戦車の上に乗って演説を行い、一躍自由主義のシンボルに祭り上げられた(思えばこれが彼の唯一の「輝かしい戦歴」のような)。そしてクーデターの失敗後、いきなりロシアの最高権力者となりソ連邦を解体。以後経済的にも政治的にもゴチャゴチャの状態のロシアをドタバタしながら引っ張ってきた。対立する議会に向けて戦車で大砲ぶっ放したり、訪問先に酔っぱらって現れたり、閣僚会議でボケて閣僚を追い出したり、後継者をコロコロと変えてみたり…うーん、とにかく話のタネをたくさん提供してくれる人でしたね(笑)。入院もよくしていていつ死ぬかと世界が注目していたものだが、意外にも(?)命あるうちに大統領職を離れることになりそうである。誰かさんが待ちきれなくてエリツィン死去後のロシアを舞台にした小説書いたりしちゃったけなぁ(笑)。

 後継者となったのはチェチェン紛争で一躍国民の人気者となったプーチン(マスコミによってはプチンになってますね)首相。ここ数年「後継者」と目される人が現れては消えていたが、どうやらこの人に落ち着くようである。落ち着くと言うよりはたまたまタイミング良くそこに当たったという印象ですね。まさにロシアン・ルーレット(笑)。これは果たして彼にとって幸運だったのかどうか。
 プーチン氏の経歴をみると、いわゆる官僚出身だ。なんとあのKGB外国情報部勤務で旧東ドイツで西側情報をキャッチする立場にあったらしい。別に「007」に出てくるような前線のスパイだったわけではないが、どうも顔つきが映画に出てくるような典型的ロシア官僚(笑)。なにやらあれで国民の人気があるそうだが、なんか怖そうなお顔である。エリツィンとかゴルバチョフの方が親しみが持てるけどなぁ。

 ちなみに一部で有名なロシア指導者のジンクスがある。「ハゲ・フサフサ交代説」というもので(今呼称を勝手に決定)
 レーニン(ハゲ)→スターリン(フサフサ)→フルシチョフ(ハゲ)→ブレジネフ(フサフサ)→ゴルバチョフ(ハゲ)→エリツィン(フサフサ)
という法則だ(笑)。短命だったアンドロポフ・チェルネンコは除きます(もう誰も存在を覚えていない?)。そういやレーニンの前のニコライ2世はフサフサだよなぁ(…って歳をとってないだけだが)。ということはエリツィンの次の長期政権になるにはハゲでなくてはいけない?どうする、プチン!?
 



◆インディアン航空機ハイジャック

 大晦日に前回を書いた時点ではてっきり年越しだろうと思っていたこの事件。急転直下、とりあえず現地時間では年内の解決となってしまった。
 インド上空でインディアン航空機がハイジャックされた直後から犯人はイスラム系過激派だろうなと誰もが予想していた。このハイジャック犯は飛行機をまずアラブ首長国連邦のドバイに向かわせ、ここで人質の一部を解放。その後今度はアフガニスタンに針路を取り、同国南部のカンダハルの空港に着陸した。そして当然の如くアフガニスタンのほぼ全土を実質支配しているイスラム原理主義勢力、タリバーンに亡命受け入れを求めたのだ。この時点でこの勢力がいわゆるイスラム原理主義系、過激派系であることは明白になったわけだが、面白いことに彼らが頼ったタリバーンは受け入れを拒否してきちゃったのだ。
 このタリバーン、ひところは「イスラム原理主義」ということで特に欧米諸国で危険視されてきたところがあった。実際、占領地で異教徒の「偶像」だといって仏教遺跡を破壊しちゃったり、かの有名なテロ支援大富豪オサマ=ビン=ラディン氏を受け入れてアメリカにミサイル撃ち込まれたりしていたものだ(そのミサイル攻撃はクリントンが不倫疑惑払拭を狙ってやったとか言われたっけ)。ところがここにきて明らかに彼らの態度が柔軟化しつつあり、そのラディン氏も最近ていよく国外へ追い出されたと言われている(タイ・ミャンマー国境付近にいるとの噂が)。さすがに一国を支配してしまうと多くの国民を率いる責任も生じてくるし、他国とのつき合いも生じてくる。いまどき国際社会で孤立して生きることは不可能に近い。タリバーンも原理主義ゴリゴリで突き進むことが自然と出来なくなってきているのだろう。そこへ今度のハイジャック事件。タリバーン側はパキスタンのマスコミにハッキリと「この件には関わりたくない。政治亡命を求めても認めない」と明言したそうである。ホントに迷惑この上ないことだったのだろうなぁ(笑)。

 「出てってくれ」とつれない返事をしたタリバーンに対し、ハイジャック犯側は「カブールに行かせろ、さもなければ機体ごと爆破する」と脅迫し、一時かなり緊張が走った。しかしやがて犯人側はイスラム過激派の同志でインドで服役している者たちの釈放を要求するようになった。すったもんだの交渉の末、結局インド側が要求を呑んで3人の服役者を釈放、機内の人質達も解放された。この手のハイジャック事件で犯人側の要求を呑んで解決したって案外珍しいんじゃないだろうか。しかもあの強硬な姿勢と言われているインドのパジパイ政権のもとで…(そういえばむかし日本政府も似たような「超法規的措置」をとったことがありますね)。ともかく人質を解放した犯人グループは釈放された同志と共に車でいずこかへ消え去った。
 ところでこういう事件がこのあたりで起こると、すぐに関係を取りざたされちゃうのがパキスタンだ。実際、事件解決直後にインドのパジパイ首相は「これはパキスタンが後押ししたテロ事件だ、パキスタンはテロリスト国家だ」とブチ上げていた。その後インド政府は共犯者のパキスタン人を逮捕したと発表し、「実行犯はパキスタン人だ!」とコメントしている(もっとも逮捕者の中にはインド人もネパール人もいる)。一方のパキスタンは当然ながら関与を否定し、「インド側が犯人の情報を提供しないので国境で容疑者を割り出せない」と言っていた。まぁこのコメントは少なくとも犯人達がパキスタンに入ったことは認めているわけだけど。また、人質解放の見返りに釈放されたカシミール運動家はパキスタンのマスコミに「彼らは自分達はインド人であり、これから国に帰ると言っていた」と話していた。どっちにしても政府レベルで関与している様子はないですね。パジパイさんのコメントは多分に国内向けの強気ポーズなんじゃないかと思われる。
 逃走する際、犯人達は「これはインドに対する戦いの始まりに過ぎない」と言っていたそうである。今後も当然何か起こす気なんだろうね。
 



◆新幹線第二ラウンドは大逆転!
 
 まず前座として「新幹線第一ラウンド」について。
 以前「中国新幹線」についてここで書いたことがあって少し話がだぶるのだが、世界の高速列車といえばフランスのTGVと日本の新幹線が代表とされる。さらにドイツも高速特急を走らせるようになり、いまのところ世界最速と言われている。しかしもはやスピードレースは頭打ちと言っていい。今や「新幹線競争」は各国の技術売り込み合戦に舞台を移している。
 第一ラウンドは韓国新幹線だった。日本とフランスが技術提供で争い、結局フランスのTGV方式が採用されることとなった(てっとりばやく両者の違いを言うと、新幹線は全車両に動力があるが、TGVは先頭車両にのみ動力がある)。どうやってこの決定になったかは詳しく知るところではないが、韓国の日本に対する感情がなんとなく入っちゃったかも、という憶測は否定しきれない。もっともその後韓国経済が最悪の状況になったために開通は一時見合わせられ、そのスケジュールは大幅に遅れてしまった。この正月にようやく一部区間での試験走行が行われていた。とりあえず2003年に一部区間で営業開始、ソウル〜釜山間の全線開通は2010年の予定とか…。

 さて、新幹線売り込み合戦の第二ラウンドの舞台は台湾だった。台北〜高雄間に高速鉄道を敷く計画があったのだ。この売り込み合戦、フランス+ドイツのEU連合対日本新幹線という組み合わせになったのだが、この決着が先日いきなり付いてしまった。年も押し迫った12月28日、台湾高速鉄道公司は三菱商事、三井物産、三菱重工、東芝などからなる「台湾新幹線企業連合」に車両システム採用の「優先交渉権」を与えたと発表した。一月末には正式契約となるそうだ。
 ところが、実は直前まで台湾新幹線はほぼEUの技術を採用することで本決まりになっていたのだ。EU企業連合の示した案は価格面で優勢で、台湾高速鉄道公司は完全にこれと連携を組んでおり、日本と台湾の企業連合軍は1997年に一度完敗していたのだ。ところが1999年4月に台湾高速鉄道公司が見直しを宣言、リターンマッチが実現したのである。そして終わってみれば日本連合軍の勝利だったというわけだ。
 まさに大逆転だったわけだけど、不自然な観も否めない。いちおう1998年にドイツの高速列車で大事故が起きたことが一つのきっかけであるとはされているが、やはり政治的な背景を考えた方が納得が行く。台湾の李登輝総統はどちらかといえば日本びいき(それでも僕には「どちらかといえば」ぐらいにしか見えないんだけどね。政治家ですから、彼も)で有名だし、ちかごろ大陸とは切り離した「二国論」の展開でアメリカ・日本の台湾への投資を強く望んでいたと言われる。ドイツが閣僚レベルで技術売り込みに乗り込んでくるぐらいなのに、日本が中国に遠慮して積極的にならないのにイラついていたという話もあるそうだ。どーもそれらを考え合わせると、この大逆転には総統の「鶴の一声」が大きな影響を与えていたように思えてくる。実際、敗北したフランス・ドイツの企業は台湾に賠償を請求する予定という話だ。個人的には日本の新幹線技術が世界に輸出されることは喜ばしく思っているのだが(国粋的鉄道マニアですからね、いちおう(笑))、あとでなんか不正があったとかいう疑獄事件になどならなきゃいいんだが、と心配しているところもある。

 そしてこの第二ラウンドの結果は、次なる第三ラウンドに影響を与えるかも知れない。そう、中国の北京〜上海間の高速列車だ。これもまったく同じEU連合軍対日本連合軍という対立組み合わせになっているのだ。フランスなんか大統領自ら中国主席を駅に案内してTGVの売り込みをしていたものだが…台湾がこういう結果になると、普通に考えると第三ラウンドは日本に不利のようにみえますがねぇ。もっともあの中国のこと、「どうせいずれはどちらも我が国」ってな気分なのかも知れない(笑)。
 



◆中国宗教事情
 
 単なる偶然なのかどうか、この年末年始は中国の宗教関係の話題が二つ、同時進行で起こっていた。
 まず中国とバチカンの関係だ。世界最小の国家ながらカトリックの総本山であるバチカンと中国が正式に国交を結ぶのではないかという報道がこのところ続いていた。慌てたのはバチカンと正式の国交をもっている台湾で、こうした報道の否定に躍起になっていた(こういうあたり、まだ台湾は「中国」を捨てきれないんだなと思う)。しかしローマ法王が12月はじめに中国人信徒向けに出した「中国のカトリック教会に向けて」というメッセージに、どうやら水面下で国交樹立の交渉をしていることをうかがわせる表現があったのだ。
 以下の事情は僕も今度のことで初めて知ったのだが、中国におけるカトリック信徒は500万人以上と言われる。これらを組織している団体が二つある。中国政府が公認し、独自の組織を作っている「天主教愛国会」と、非公認ながらあくまでローマ法王の任命した司教をいただく教会組織とが並立している状態なのだそうだ。中国政府としてはバチカンが任命した司教が国内で活動することは「内政干渉に当たる」という判断があり、あくまで政府のコントロール下に宗教団体を管理しておきたいという思惑なのだ。しかしこのところ両団体で聖職者を兼ねる者も多くなり、中国政府の対応も以前よりは柔軟になったとみてバチカン側も「両者の統合は可能」という見方をするようになってきている。その例の法王のメッセージにも「双方がまとまってバチカンともに生誕2000年を祝おう」という文言があったそうだ。バチカンにしてみれば中国にはなんてったって500万人以上の信徒がいるわけで、なんとかして中国とのパイプを繋いでおきたいという思惑があるのだろう。

 …と、そこまでは順調だった。ところが年明けになって中国側が本音を改めて示してきた。中国公認の天主教愛国会が年明けの6日に5人の新司教を任命したのだ。しかもバチカンが世界各地の新司教を任命するのと同じ時期にぶつけてきた。意図するところは明かで、中国政府のスポークスマンもその事を隠そうともしていない。バチカンとの交渉をおそらく進めているのだろうが、その中で「中国国内のことは宗教関係だろうと干渉を認めない」という姿勢を改めて示すためにわざわざこういう措置をとったのだろう。当然ながらバチカンは不快感を示したが、これが今後の交渉にどう響くかみものである。たぶん折衷案的なところで落ち着けて国交を樹立するような気がするけど。

 一方、早くも世界で大きく報道されているが、チベット仏教のカギュー派の活仏カルマパ17世(15歳)がわずか数人の供と共に極寒のヒマラヤを越え、インドに出国していたことが7日に明らかになった。そしておなじみの活仏ダライ=ラマ14世のもとを訪れ、面会を行ったという。このカルマパという少年、中国政府も公認しダライ=ラマも認める活仏という面白い立場なのだ(パンチェン=ラマについては両者が違う少年を公認している)。普通に考えれば亡命行為であって、中国政府が「子飼い」にしていたはずの活仏に反旗を翻されたと言うことになるわけだが…。今のところ、どうもよく分からないことが多い。どうやって彼が出国したのかというところがそもそも謎が多いし、本人のコメントがなかなか発表されない。ダライ=ラマにも会ったそうだが、詳しい話は今のところ出ず、インド政府も沈黙状態だ。しかもこの原稿書いてる時点の報道では、その後この少年の行方が全く判然としなくなってしまった。
 もちろん何らかの不満があって中国から「亡命」したとは思っている。中国側が「先代の品物を取りに行っただけ」と発表しているのはちょいと信じがたい。それでもどうもこの事件、事が単純でないような気がする。案外コロッと帰国しちゃうかも(笑)。
 


2000/1/10記

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