昨年イギリスでいきなり身柄を拘束されて、二度ばかりこのコーナーをにぎわせたピノチェト元チリ大統領(84歳)だが、すったもんだの末に結局イギリスが彼の拘束を解いて帰国を認め、3月3日、彼は無事に祖国チリの土を踏んだ。一部の報道では今にも死んじゃうんじゃないかという病状と伝えられていたような気がするのだが、なかなかどうして。機内では車椅子だったが、首都サンチャゴの空港に降りたピノチェト氏は杖を使ったり人の手を借りたりしながらも自分の足でしっかりと歩いて、出迎えた家族や軍の幹部たちと握手し抱き合っていたという。このためピノチェト氏に批判的な人々からは「おいおい、じゅうぶん健康体じゃないか」というツッコミの声が上がっているそうな。
こちらで報道などを聞いているとちょっと奇異に映るのだが、チリには相当数の「ピノチェト支持派」の市民も大勢いるようで、彼らはピノチェト氏の帰国を喜ぶデモやイベントを行い、さらにピノチェト氏が入院するといわれる病院に早くから押し掛けてピノチェト氏を歓迎する横断幕や国旗を用意して待ち構えていたそうだ。まぁどこでも「開発独裁型」の権力者には支持者も多くいるというわけか。もちろんピノチェト大統領の軍政下で行われた恐怖政治を追及する「反ピノチェト派」の市民による抗議デモもちゃんと行われていたが…
ピノチェト政権が大変な恐怖政治をしき、多くの人権抑圧や犯罪行為が行われたのは事実なのだが、これを外国が訴えて元とはいえ一国の元首だった人間を外国で逮捕してしまうというのは、前代未聞のことだったし、いささか無理のあるところではあった。揉めに揉めた挙げ句イギリスはじめ各国が彼の帰国に同意した背景には、彼を本国のチリにおいて裁いてもらいたいという気持ちが当然あるわけだ。これを受けてチリ政府がどうするか見物となるが、一つクリアしなければならない問題がある。チリの現在の憲法では大統領を6年以上勤めた者は「終身国会議員」となることになっており、不逮捕特権が認められているのだ(どうもこの条項、ピノチェト氏本人が後難を恐れて自分で作っておいたらしいんだよな)。今のところ終身議員が辞職するという規定はない。そこでまず憲法を改正して終身議員にも辞職する道を開き、なおかつ高等裁判所がこの不逮捕特権を剥奪できるという規定をもりこむつもりらしい。
この憲法改正はどうやら実現する見込みのようだ。議会内でいわゆる「右派」とされピノチェト氏に同情的な議員達もピノチェト氏に引退を勧める動きを見せているという。先の大統領選挙では反ピノチェト派のラゴス氏が当選しており、新ピノチェト派だったはずの右派の対抗馬・ラビン候補は選挙中にピノチェト訴追を支持する発言を行わざるを得なかったほどピノチェト氏に対する風当たりは強くなっている。それも前に書いたようにまだまだ市民の支持者もいるし、右派や軍部内のピノチェト訴追妨害工作も相変わらずあると言われている。
次期大統領となるラゴス氏ははっきりとピノチェト訴追の姿勢を示していて、民主的な憲法改正を通して軍部の国政介入権(やはりあるんだな、そういうのが)を削除する意向だそうだ。読売新聞のインタビュー記事によると、ラゴス次期大統領は「ピノチェト問題は世界の多くの人々にとり、(人権に絡む)象徴的なケースになっている」と語り、世界に対してピノチェト氏を追及する責任があると言明していた。
しかしピノチェト氏が年なのも事実。このへんは大急ぎでハッキリさせてもらいたいものである。
上と同じでこれ、読売新聞でみかけたネタなんだけど、思わず笑っちゃいましたねぇ。こういう歴史話ニュースはこのコーナーにもってこいというものだ。
そのネタとは…なんとロシアの次期大統領(たぶん大丈夫だろう)プーチン氏の先祖の姓は実は「ラスプーチン」だったというのである!
なんか冗談のような話だが、ロシアの週刊紙「文学新聞」が報じたものだそうだ。1920年代にプーチン氏の祖父であるスピリドンさんはモスクワ近郊に移住してきたが、この時彼の姓は「ラスプーチン」だったという。この姓自体はありふれたものだそうだが、なんといってもロシア史上の有名人にこの名前がいる。そう、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世夫妻の絶大な信頼を得て宮廷に出入りし、しまいにはロシア帝国を滅亡に追いやった(?)とまで言われちゃってる怪僧ラスプーチンのことだ。
このラスプーチンはただの修道僧だったのだが、異端とされる神がかり的な宗派の影響を受けて「神の霊感」を説くようになり、首都ペテルブルグで「予言者」として上流階級でもてはやされるようになった。その後宮廷にも呼ばれるようになり、医者も見放した皇太子アレクセイ(血友病だった)を祈祷によって回復させてしまうという「奇跡」をおこしたため、ニコライ2世夫妻、とくに皇后の絶大な信頼を得たと言われている。信頼を得て宮廷に出入りするうちに彼は国政にも口を出し始め、政府要人の人事にも介入したとも言われ、数々のスキャンダラスな噂をたてられ当時のマスコミに話題を振りまいている(これについては全て事実と見る人と中傷が入っていると見る人がいる)。一部では第一次大戦への参戦も彼の助言があったというのだが…。こんな奇怪な話が20世紀初めになっても存在していたというのにも驚かされるが、これにはロマノフ皇帝家の中に多分にあった神秘主義的な要素が大きく影響していたともいわれている。で、当のラスプーチン本人は1916年12月に皇族のドミトリー=パブロビッチ大公の手によって暗殺されネヴァ川に放り込まれるという、いかにも彼にふさわしい陰惨な最期を遂げている。その遺体は皇后によって手厚く葬られたが、民衆は相当根に持っていたようで、1917年の3月革命の際に彼の遺体は掘り出されて焼かれたという。
この怪人物は映画「アナスタシア」にも登場していたし、日本の格闘ゲーム「ワールドヒーローズ」にも登場している(笑)。いずれも不気味なキャラクターに統一されてますね。
話を戻すと、プーチン氏の祖父スピリドンさんは家庭内の不和などから1927年に修道院入りを決意した。ところがそのままでは「修道僧ラスプーチン」という人物が誕生しちゃうわけで(笑)、あらぬ疑いをかけられてはとスピリドンさんは姓を一部省略して「プーチン」と名乗ることにしたという。このスピリドンさんと離婚した妻(つまりプーチン次期大統領の祖母)は、自分の子どもを連れて別のユダヤ系男性と結婚したが、この男性が自分の姓を嫌ったため、別れた夫にならって自らの姓を「プーチン」としたのだという。ついでながら別の週刊誌の報じたところによると、スピリドンさんが入った修道院はその後スターリン時代に宗教活動を禁止され、聖職者たちは粛清に遭った可能性が高いという。
どうも作り話っぽい匂いがプンプンする話だが、当のプーチン次期大統領の側では大統領府のコメントとして「大統領代行(プーチン氏)は家系を云々されるのを好んでいない」とのみ言っているという。
それにしても先週もスターリン・ロシア人説が出ていたし…ロシア人ってこの手の秘密暴露話がかなり好きみたいですね。
これもまたロシアが絡んだ話。
トロツキーと言えば、世界史の教科書にもバッチリ太字で載っているロシア革命の英雄である。1917年、ロシアの11月革命で社会主義政権(ソ連の原型)が誕生すると、列強諸国はこれを恐れて「干渉戦争」を行い、またロシア国内でも反革命勢力が武装蜂起を起こして、生まれたばかりのソビエト政権を危機に陥らせた。この危機に際し「赤軍」を組織して干渉軍や反革命勢力を打ち破ってソビエト政権を救った英雄がこのトロツキーだった。
こういう人だからレーニンが死んだとき、その後継者の有力候補と目されたのは無理のないところだった。しかしご存じの通りレーニンの跡を継いだのはスターリンだった。トロツキーがロシアの社会主義革命を世界中に広めていこうという「永久革命説(世界革命説)」を唱えたのに対し、スターリンはまずロシアの社会主義体制をしっかり固めておくべきと言う「一国社会主義」を唱えて対立し、結果として現実的な後者が勝ったというように教科書的には説明されている。しかし、名著「歴史とは何か」のなかで歴史家E.H.カーは「当時のソビエト指導部において、トロツキーはフランス革命におけるナポレオンのような存在と疑われたのかもしれない」という推測を書いていて、これもなかなか捨てがたいところだ。まぁ実際にはスターリンが「ナポレオン」だったわけですけど。
スターリンに政争で敗れたトロツキーは国外に亡命した。その後あちこちを転々としていたが、1940年になってメキシコで、スターリンの放った刺客によって暗殺されている(それにしてもスターリンもしつこい男である)。
さて、なんでこの人物を当コーナーで取り上げているかというと、イギリス公文書館がこのたび公開した内務省の資料によって、トロツキーが1929年から1934年にかけて、4回もイギリスへの亡命を申請していたこと、そしてそれが4回とも却下されていたことが明かとなったのだ。トロツキーは「病気療養」を理由にイギリス入国を果たそうとしていて、イギリスにも支援者がいたのだが、時のマクドナルド内閣は徹底してこれを拒絶していたのだった。
さて理由は何か?まず当時の内務大臣の言った申請却下の理由は「入国を許可したらソ連が非友好の態度とみるから」というもの。まぁスターリンは良い気はしないだろうけど、ソ連をナチス以上に敵視したイギリスの本音の言葉とは思えませんよね。マクドナルド首相は「トロツキーは、永久革命論を唱え、世界中の政府に敵対する政治活動を率いた過去がある」と書き残しているそうで、こちらのほうが納得が行く。そう、結局彼の永久革命説が命取りになっちゃったわけですね。
朝日新聞の記事によると、インド政府考古局は3月3日までにインダス文明の都市構造がほぼ完全に残っているドーラビーラ遺跡の主要部を発掘し、その成果を外国に明らかにした。この遺跡は東西781メートル、南北630メートルの外壁に囲まれており、その中に城塞や公共広場、整然と並ぶ住宅街があり、インダス文明の大きな特徴とも言える整備された水道施設も発見された。年代も紀元前3000年から前1500年までのものとされ(日本史から考えると気が遠くなるな)、これまでインダス文明の大遺跡として知られていたモヘンジョ=ダロやハラッパと同レベルの遺跡であることが明かとなったのだ。こりゃ確実に数年後の教科書には載せられているでしょうな。
このドーラビーラ遺跡だが、なにも新発見というわけではなくて、関係者の間では以前から結構知られていた遺跡なんだそうだ。ただ場所が湿原の中のカディール島という、雨期に孤島になってしまうというやっかいな場所にあったために本格的な発掘が行われていなかったというところがあったらしい。また、インド政府もなかなか本腰入れて研究をやらなかったということもあったんじゃないかな。
現時点でこの遺跡から出てきたもので、やはり注目したいのは「インダス文字」で書かれた「世界最古の看板」(発掘者の命名らしい)だろう。城門の跡付近から発見され、縦37センチ、横27センチの白いインダス文字が10字並んでおり、気の板にはめ込まれていた形跡があるという。城門の上に掲げられていた可能性があり、町の名前か王の名前を書いているのではないかと推測されているという。
インダス文明の文字は未だに解読されていない文字の一つだ。四大文明の他の三つはほぼ解読されちゃっているのだが、このインダス文字は対照する文字がない上に印章(ハンコ)に数文字刻まれたものが見つかる程度なので(全体では400種類ほど確認されている)、解読が困難なのだ。今回のこの「看板」の発見はインダス文字解読の手がかりになるのではとの期待も高まる。
ところで、前出のモヘンジョ=ダロ、ハラッパはいずれもパキスタン領内に存在する。今回インド政府がこの発掘に乗り気になっている背景にはインド国内にもインド文明の源流ともいうべきインダス文明の遺跡があるんだぞというパキスタンへの対抗心もあるようだ。