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2000年3月26日

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 ◆今週の記事

◆台湾政権交代その後

 台湾の総統選が実施され、その結果、民主進歩党の陳水扁氏が次期総統に決定、国民党が政権の座から初めて落っこちるという歴史的事態から一週間が経った。その後の展開などをチョコチョコとまとめてみたい。

 先週の記事でも書いているが、「独立派」と中国から名指しされた陳水扁次期総統は、さっそく大陸側に対し「平和的対話」を呼びかける柔軟路線を示し始めた。「五月に総統に就任した直後に北京を訪問し、首脳会談を行いたい。江沢民・朱鎔基両氏の台湾訪問を要請したい」という、ちょっと前だったらビックリの提案も改めて示していた。そしてより柔軟な姿勢をみせるためなのだろうか、所属政党である民主進歩党では党綱領の第一条に掲げられている「主権独立自主の台湾共和国の建国と新憲法の制定は、台湾全住民の公民投票で決する」という、いわゆる「台湾独立条項」の見直し・改正論も浮上してきて実際に検討に入っているようだ。もちろん党綱領の第一条に掲げられている基本的な条項なので党内の古株を中心に見直し論への抵抗もあり、「継続審議状態」になっているようだが。ただどうも「台湾共和国」とか「新憲法」といった「刺激的」な部分は削除される可能性が強いという。
 面白いのが党内の「独立条項見直し派」の意見に「綱領はすでに歴史文献になっており、現実に合わない」という、どっかの国の憲法改正論議によく似た表現が出てくることだ。野党でいるうちはいろいろ過激なことも言えるけど、実際に政権政党になるとそう気楽にものは言えないということなのか(余談だが日本の自民党も党綱領に「自主憲法制定」があったはずだがとりあえず半世紀も実現してない)。それと、陳水扁さんも言っていたようだが、建前はどうあれ、台湾は大陸の中華人民共和国とは別の「主権」を事実上確立しちゃっているという「現実」も確かにある。ここで変に波風たてると、現状の「主権」すら維持できなくなる恐れだってある。

 一方の中華人民共和国の方だが、前回も書いたように「想像以上に冷静」な姿勢を見せている。メンツが大切な国だから、事前にあそこまで名指しで陳氏を批判しておいて何もないということはあるまいと思っていたのだが…予想以上に中国の外交(厳密には彼らは台湾問題を「外交」とはしてませんがね)は「大人」だったと言えるかも知れない。陳次期総統が提案した「相互訪問・首脳会談」にも前向きの姿勢を江沢民主席が示したというこれまたビックリの報道もある。ただし、大きな壁が一つありますね。中国側はあくまで「『一つの中国』という前提を確認した上で話し合おうじゃないか」と言っており、これに対し陳氏は「お互い対等の立場で話しましょうよ」と言っている。これが乗り越えられないと首脳会談は実現しないし、お互い譲れない一線でもある。その一方で経済的には結びつきが強くなって来ちゃってるからそうおいそれとケンカもできないところ。

 ところで今度の選挙で大敗を喫し、ついに政権から陥落した国民党の方はもう大変である。TVでもずいぶん流れていたが、「国民党支持者」が国民党の本部前でほとんど暴動状態のデモを行い、敗戦の責任を李登輝総統に求め、彼の党主席からの辞任を要求していた。これを受けて李登輝さんは一年以上の任期があったのに9月に辞めると表明。ところがそれでもデモ群衆・党内の不満分子の攻撃は収まらず、結局李登輝氏は3月24日付けでただちに党主席を辞任するハメに追い込まれてしまった。ここで「李登輝時代」は完全に終わってしまったのである(中国がこの退陣を喜んで報じたのは予想通りでした)
 それにしてもこの辞任劇で改めて浮上してきたのが国民党内、いや台湾内にくすぶり続ける「外省人」と「台湾人」の対立構造だ。ハタから見ていてはちっとも区別が付かないのだが「李登輝退陣」を要求して騒いだ群衆や国民党内の勢力は、そのほとんどが蒋介石と共に大陸から渡ってきた「外省人」だったと報じられている(もちろん、「本籍」の問題なんだけど)。国民党を離党し、総統選では二位についつけた宋楚瑜氏も外省人を中心に新党(人民党とか親民党とか?)を結成する。こちらは党の綱領にあくまで「中国統一」を掲げて民進党との差別化を図るそうで、「外省人」を中心とした強烈な「中国」意識をかいまみせている。
 李登輝総統は台湾生まれの台湾育ちで日本の教育も受けたし日本の軍人だったこともある人物だ(日本語でものを考えると聞いたこともある)。この人が蒋介石・蒋経国のあとを受けて「台湾出身の総統」となって、民主化を進めつつ外省人と台湾人の融合を進めようとしたわけだが、この結果を見る限り民主化は推進されたものの、両者の対立は想像以上に根深いものということが示された形だ。国民党内では選挙中から「李登輝は実は密かに陳水扁を応援している」という噂が飛び交い、李総統が否定して改めて連戦候補指示を表明した、なんてこともあった。これもやはり「外省」「台湾」間の対立感情の現れだったのだろう。選挙に大敗したことでそれが一気に表面化しちゃったわけだ。
 若い世代にはこうした出身地間対立感情は余り見られなくなっているとも聞くんだけど、今度の選挙では改めて台湾の歴史的経緯と現在に通じる問題を考えさせられたものだ。

◇一年後のコメント◇
ちょうど一年後と言うことで「史点」でも台湾ネタが出てますね。その後もまだ情勢は混沌というかそれほど激しい波風もたっていないというか、というところかな。北京・台北の相互訪問うんぬんは結局その後まったく聞かなくなっちゃいました。中国側と台湾側はひそかに連絡をとろうとしている気配もあるけど、少なくとも中国側は陳総統には期待してない空気を感じる。一方で李登輝さんの台湾での株は下がる一方のような印象を受けますな。



◆ローマ法王聖書の故郷へ

 先週に続き、ローマ法王ヨハネ=パウロ2世再登場。
 先週の記事に出てきた「ミレニアム懺悔」は、その直後の法王の聖地エルサレム訪問を強く意識したものだ。エルサレムを訪問するにあたって訪問先にいるイスラエルのユダヤ人やイスラム教徒たちに「けじめ」をつけておかねばならないという動機で行われたものと言える。

 で、3月21日からローマ法王は巡礼の旅に出発した。まずはヨルダンに入り、イエス・キリストが洗礼を受けたというヨルダン川の東岸を訪れている。うーん、子供時代に聖書の中身については子供向けの簡略本(中でも愛読したのは先日亡くなった山室静さんの「聖書物語」でした。「ムーミンの訳者」という肩書きばかりが踊っていたけど、個人的にはやっぱ「聖書物語」ですね)で読んでいるのでそこそこ知ってはいるのだが、確かイエスの親戚で先輩格である預言者ヨハネに洗礼を受けたんだったよな?その「洗礼を受けた地」ってのもちゃんと特定されているのか、などと感心していたら、どうもこの辺りに面白い論争があるそうなのだ。
 ヨルダンではイエスの洗礼地は「ヨルダン川東岸のワディアルハラル」と主張している。一方でイスラエルとパレスチナ(うまくいけば今年中に独立国なのだが…)はエリコ(これも聖書では有名な町ですな)に近い「ヨルダン川西岸のカスルエルヤフド」と主張していて論争があるんだそうな。先月バチカンを訪問したパレスチナ自治政府のアラファト議長も「エリコを訪問してくれ」と法王に言ったという。ユダヤ教徒・イスラム教徒が多数を占めるこの国々がなんでイエスの洗礼地の「本家争い」をやらなきゃならんのかと思うところだが、報道によればどうも観光地化する狙いが各国共にあるみたいなんだよね(笑)。イエスの洗礼地となりゃ、それはもう世界的な観光地には違いないだろう。
 どうも考古学的調査では「ヨルダン川東岸説」が有力だそうで(どういう調査なのかは分からないが)、法王庁も当初東岸を訪問する予定だった。しかしアラファトさんやらイスラエルやらの主張を無視することも出来ず、「聖書には『ヨルダン川』としか書いてない」ということで両者訪問という折衷案で落ち着いたとのこと。21日に東岸を、22日に西岸を訪れるというオチでした。

 3月21日にヨルダンからイスラエルのベングリオン空港に降り立ったローマ法王は、そこからヘリでいよいよ聖地エルサレムに入った。エルサレムに入った法王は史上初なのかなと思ったら、1964年にパウロ6世がすでにエルサレム訪問を行っていた。当時はまだこの地はヨルダン領内だったため、イスラエルを訪問するローマ法王は初めてということになる。イスラエル国内ではイエスの誕生地ベツレヘムだの、あの「山上の垂訓」が行われたという丘など、まさに新約聖書の舞台となった土地土地を訪問し、ミサを行った。ローマ法王個人としてもこうした歴史的かつ宗教的名場面の生の現場に触れて感激ひとしおであったようだ。こうした訪問先ではイスラム教・ユダヤ教の信者も参加して三宗教の和解という演出も盛んに行われたようだ。

 そして23日、法王はエルサレムにあるホロコースト記念館「ヤド・バシェム」を訪問した。ナチスによるホロコーストに関するカトリック教会の責任問題については前回も触れたが、ここでも法王の発言が注目された。法王はホロコーストの生存者を前に、「この記憶の場では沈黙が必要とされる。ショアー(ホロコーストのこと)の悲劇を悔いるのに十分な言葉はない」と語りはじめたという。うーん、明白なコメントを避けたようにも見えなくはないな。それでも先日やったようにカトリック教会が反ユダヤ主義を伝統的にとっていたことを批判する発言は行われたようだ。そして「ユダヤ人の友人や隣人のうち何人かは命を失い、何人かは生き延びた」と個人的な経験を語ることで、ホロコーストへの「痛み」を表現していた。そういえば今の法王ってホロコーストの主要な舞台の一つになったポーランドの出身でしたっけね。



◆カルト教団集団自殺?

   前項で「東岸だ」「西岸だ」という話をしていたら、お次は「ウガンダ」である(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい^^; )
   「カルト集団」というと先進工業国系に見られる現象かという「偏見」が僕にはあったようだ。東アフリカの国・ウガンダでカルト教団による集団自殺と見られる事件があった。この手の事件は以前アメリカでブランチ・デビディアンなるカルト教団の集団自殺が記憶に新しいが、アフリカのウガンダで、というのはちょっと驚いた。しかも死者は500人を越えるという大変な規模である。けっこう話が錯綜してたんだけど、現時点では以下のような話になっている。

 3月17日にウガンダ西南部の農村カヌングの教会に火が放たれ、中にいたカルト教団「神の十戒復古運動」(一部では「審判の日」という団体名になっていた)の信者ら約500人以上が死亡していた。現場を調べた警察によると70人以上の児童の遺体も含まれていたという。また遺体の中には焼死前に刺殺されたり撲殺されたりしていたものもあり、どうやら完全な「集団自殺」とも言い切れない「大量殺戮」の部分もかなりあったようだ。
 この「神の十戒復古運動」というカルト教団は「預言者」を名乗るジョゼフ・キブウェテレなる人物(現在68歳)がカトリック司祭とともに1987年に興したものだという。キリスト教系のカルト教団ということになるのだが、なんでもこのジョゼフ氏、聖母マリアとキリストの「会話」を聞いたことがあり、それをテープレコーダーで録音したと主張していたそうな。録音できたって事は彼以外の人間にも聞こえる声だったということになるんだけど…。とにかくそんな話で信者を獲得し教団を作った彼は「1999年年末に世界の終末が来る」という、終末思想を唱えて信者をさらに拡大していった。ウガンダだけでなく隣国のルワンダにも信者がいたようだから、想像以上にその勢力は広がっていたのかも知れない。この手の終末論で勢力を拡大する教団は日本のオウムを初めとして世界中にあったようだが、ウガンダでも同じパターンがあったということみたいだ。教団は信者を農場で無報酬で働かせたり、子孫を残さないため信者にいっさいの性行為を禁じるなど、これまたどこかで聞いたようなパターンをやっていたとのこと。

 で、その終末論の結果はご存じの通り。1999年12月31日も無事に過ぎ(そういえば「2000年問題」の話も絡んでいたのかも知れないな)、終末の予言はアッサリと外れてしまった。怒った一部の信者からは「これまで出してきた金を返せ」と「教祖」に要求する声もあったという(ってことはやはり金集めもしていたわけか)。するとこの教祖、今度は「3月17日に聖母マリアが復活し、天国に連れていってもらえる」という「予言」を言い出した。これを信じて数百人の信者がウガンダ国内、一部はルワンダから、このカヌングの村へと集まってきたわけだ。すでに予言が大はずれしているのに教祖の発言をひたすら信じ続ける信者がいる辺りも世界のカルト教団に共通するところですな。

 一部の報道では信者達牡牛一頭と清涼飲料水(なんだろう?)で「最後の晩餐」を行ったというから、「集団自殺」には違いないようだが、先述のようにすでに殺害されていた遺体もあり、また教会の入口が釘で塞がれていたとの話も出てきている。おまけに当初信者達と一緒に焼死したと見られていた教祖が直前に逃亡していたとの目撃談が出てきたため、「集団自殺」にかこつけて教祖が信者達を「殺戮」したのではないかという見方が強くなってきている。さらにビックリしたことに24日になって燃えた教会から60q離れた教団のもつ別の土地に、153人もの新たな遺体が埋められているのが発見された。遺体の多くは首を絞められたり刃物で切られたりしているそうで、これもまた「大量殺戮」であったとみられている。もちろん教祖とその側近だけでこれだけの人間をいっぺんに殺せるとは思えないので、信者同志で「殺し合いによる集団自決」をやらせたんじゃないかと想像される。この教団はなんだかんだで700人ぐらいの人間を「虐殺」したということになり、これはカルト教団史上でも類を見ない惨事と言えそうだ。まして教祖たちが逃げちゃってるとすると、これは完全な「犯罪」ですね。



◆ユーゴ空爆から一年
 
 「史点」の一年前記事をご覧になればおわかりでしょうが、ちょうど一年前にNATO(北大西洋条約機構)によるユーゴ空爆が始まってます。昨年の「史点」では最多の登場回数を誇った(?)ネタなので、今後過去記事にしばしば登場することになります。

 それにしても一年たってみて改めて振り返ると「あの空爆はなんだったんだろ」という思いがどうしてもしちゃうものだ。コソボ紛争発生の経緯は繰り返し書くのも面倒なので一年前の「史点」記事を読んでいただきたい(うーん、過去記事載せるのってこういう楽ができるのですなぁ)。まぁとにかく錯綜した事情なのだが、NATOは「ミロシェビッチによる人権抑圧をやめさせるため」と「人権」を旗印にしてセルビアへの空爆を行ったわけだ。戦争史上でもちょっと例を見ない変な戦争ではあるのですよね。結局3ヶ月ほど空爆したのちセルビアが「降伏」してコソボから軍隊を撤退させた形なんだけど、現状をみると問題はほとんど解決していない。NATO側に「ヒトラーの再来」扱いされたミロシェビッチ大統領は相変わらず意気軒昂でユーゴスラビア(セルビア)の政権を握っているし(湾岸戦争後のイラクのサダムさんとパターン一緒ですね)、コソボでは今度はアルバニア系住民によるセルビア系住民への報復的「人権抑圧」があると報告されている。進駐しているNATO軍と現地住民のトラブルもたびたび報道されている。

 空爆開始一周年ということで、NATOのジョージ・ロバートソン事務総長とウェズリー・クラーク・NATO軍最高司令官は3月24日にコソボ自治州の州都・プリシュティナで記者会見を行った。そして当然ながら「NATOが行ったことは正しかった」と強調している。しかし「真の平和の道は依然、遠い」と付け加えてコソボでの問題が依然解決困難であることも素直に認めていた。この空爆開始一周年の日の夜にはコソボ自治州のアルバニア系の若者達が「コソボ解放」を祝ってドンチャン騒ぎをしていたそうである。

 しかし一方の当事者、セルビアの方も負けてはいない。同じ3月24日にミロシェビッチ大統領はこの日を「国の自由と尊厳を守った記念日」と位置づけ(うわあ)、「祖国防衛の戦士」に献花式を行うなど、「戦勝記念行事」を繰り広げたという(笑)。ユーゴの外相も「ユーゴは誇りを守ることに成功した」と記者会見で述べていた(…なにやら日本の大東亜戦争肯定論と似ているような)。「負けた」って気は確かに無いのかも知れない。NATO側はすぐにも国内でミロシェビッチ政権打倒の動きがあるだろうと期待していたようだが、今のところミロシェビッチ政権の権力は強化されているような印象も受ける。この空爆開始記念日には首都ベオグラードでミロシェビッチ打倒を叫ぶ集会もあるにはあったというが…

 ホント、なんだったんでしょうね、あの空爆は。

◇一年後のコメント◇
その後この年の内にミロシェビッチ政権は崩壊、コシュトニツァ新政権が誕生した。その途端、NATOやEUはユーゴ側に組みするようになってしまって「コソボ独立」はどこへやら、という状態。焦った余りに隣のマケドニアにまでコソボのアルバニア勢力が暴れ回っているのは先日の「史点」で触れているとおり。ホント、一寸先は闇ですな。なお、空爆開始の日をコシュトニツァ大統領は「追悼の日」みたいな扱いにしたらしい。


2000/3/27記

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