ニュースな
2000年4月2日

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 ◆今週の記事

◆小沢一郎衰亡史?

 当「史点」では久々に日本政界の話題だ。世の中歴史好きは多いと思うのだが、日本の現代の政界動向ファンというのはあまり聞かない。既に過去となっている「歴史」と比べて、不透明で読みとりにくい上に生々しすぎるからなのだろうが…実は僕は結構好きなんですよ、戦後政治史ってのも。最近「小説吉田学校」の劇画版(byさいとうたかを)を読んでますますハマってしまっている。ここ数日の動きはそうした日本政治史がたびたび繰り返してきた悲喜劇の一つだと言えるだろう。

 僕自身が一連の動きの始まりをネット上の情報で見つけたのは確か3月27日ごろだった。自由党の小沢一郎党首が自民党と選挙協力やら政策合意やらの問題で揉め、「聞いてくれなきゃ連立を離脱する」と言いだし、自由党の議員達から党首に一任する念書を取り始めた、という話だった。それを見たときは「なんだ、またかい。ようやるわ」というのが率直な感想だった。小沢さんの「離脱」発言はもう何度目だったか忘れていたが、ついこの前もあったよな、と。どうせまたドタバタした末に引っ込めるだろう、ってな感触を持った。あとで確かめたが小沢さんの「連立離脱騒動」はこれで実に四回目だったのだ。「離脱するぞ、離脱するぞ」と言って結局離脱しない小沢氏を「オオカミ中年」と呼んだ自民党の人もいたっけ。

 しかし「オオカミ中年」は「少年」と同様、そう何度も通用するものではなかった。29日になって「こんどはどうやらマジらしい」という空気が流れてくる。自由党の全議員懇談会で小沢氏が「自民党との『保守新党』が作れなければ野党にまわる」という発言が出てきて、一気に「離脱は確実」という報道が流れ出した。まぁ要するにそれでなくてもこのところ存在感が希薄で支持率が落ちている自由党、このまま選挙に突入したらジリ貧は確実。そこで自民党と選挙協力し、さらには保守合同を、と生き残り策を目論もうとしたわけだ。 自民党内の「反小沢」グループにも配慮したのか「私が邪魔ならば新党に私が参加しなくても良い」とも言ったようだ。それだけ追いつめられていたとも言えそうだが…。
 そして、今回の事態が深刻となったのは、自由党内に連立離脱に反対する勢力の登場だった。自由党の野田毅前自治大臣や海部俊樹元首相(この人が首相だったこともあったんだなぁと思う今日この頃)を中心に十数名が「自由党が連立政権を離脱したら離党して新党を結成し連立政権にとどまる」という動きを見せ始めたのだ。「離脱するぞ」と騒いでいたら身内から「離脱するぞ」と言われちゃったわけである(笑)。この勢力の出現により自民党は何も自由党に脅されて譲歩する必要はなくなった。「野田新党」と連立を組んじゃえばそれで済むわけである。この時点で小沢氏の運命は決したと言っていい。

 4月1日夕方、自民・自由・公明の三党党首会談が行われた。なんでもこの党首会談自体「有珠山の噴火の視察をするから延期したい」と小沢さんは言ったそうである。しかし冷たく二党につっぱねられてしまった。会談が始まるやいなや小沢自由党党首は「すいません、すいません、ご迷惑おかけしました」と切り出したという(…汗)。そして小沢党首は小渕首相・神崎公明党代表に例によって連立政権を組んだ際に約束した政策合意事項の文書を示し、これらの今国会での実行を要請した。神崎氏が「みんなやったじゃないか」と反論し(今朝TVに出ていた自民党の野中広務氏によると5つの合意事項の内「選挙協力」だけが残っていたという)、小沢氏は「文書は訂正します。どう書き直したら良いですか」と言ったそうな。この人としては必死の低姿勢だったのだろう。じゃあつい先日の「聞いてくれなきゃ離脱する」という騒動はなんだったんだと部外者でも思うところだが、当然神崎代表からこの点を追及されると、「私は『離脱』とは一言も言ってない」と小沢氏(おいおい…確かにそうだったかもしれんが…思えばこの日は4月1日)。神崎代表、青木官房長官が「それはおかしい」と至極もっとものツッコミをし、自民・公明両党は「政策よりもあんたの体質が信用できません」とついに小沢自由党に三行半を突きつけた。会談開始から終了までわずか50分だった。
 どうもこのやりとりを見ていると、小沢さん、ひょっとしてまた「オオカミ中年」をやるつもりだったとしか思えない。前からどうも手法に批判の多い小沢氏なのだが、ぜんぜん直っとらんなというのが僕の印象だ。相手を脅して要求を飲ませるつもりが、逆に斬り捨てられるというえらくカッコ悪い結末だった。まだスパッと自分からやめた方が良かったというもの。

 思えば小沢一郎という政治家はなんだかんだ言われつつここ十年流動化する日本の政界の「台風の目」となってきた。僕がこの人の存在を初めて意識したのは、やはり13年前の鈴木俊一都知事4期目出馬騒動の時だったろう。当時自民党の幹事長だった小沢氏は最大派閥・竹下派のホープであり当時実力者だった故・金丸信の子分として権力をふるっていた。鈴木都知事が老齢をおして4期目出馬をするというので小沢氏は元NHKキャスターを引っぱり出して対立候補に出し、「鈴木下ろし」を画策した。この時鈴木陣営が「岩手から出てきたやつに負けてたまるか」と言っていたことが懐かしい(笑)。で、結果は鈴木氏の圧勝。だいたい小沢一郎氏はこの時から負け癖のある政治家なのだ。
 その後金丸信の逮捕と死、リクルート、佐川急便と続いた政治不信の嵐の中で、小沢氏は「政治改革」「二大政党制」を掲げて自民党を離党、「新生党」を結成した(ああ、懐かしい)。これはいわゆる「新党ブーム」に乗ってそこそこ成功、日本新党・さきがけ・社会党(ああ、いずれも懐かしい)そして公明とともに「細川連立政権」を実現し自民党を政権の座からひきずりおろした。ここまではよかった。細川政権を引き継いだ羽田政権のもとで小沢氏は露骨な社会党外しを行い、激怒した村山富市率いる社会党の連立離脱を招き、政権を弱体化。自民・社会・さきがけが村山氏を押し立てて連合すると、海部俊樹元首相を引っぱり出して対抗したが、首相指名投票は村山氏と勝利なり、「自社さ」による村山政権が誕生、小沢氏はまたも野に下った。このあと非自社さ勢力を集めた「新進党」を結成したが(懐かしい。党首は海部さんでしたねぇ)、しょせん寄せ集めで内部抗争が絶えず、小沢氏自身が党首となったのち1997年12月に新進党は分裂崩壊。小沢氏自身は自由党を結成して、その後小渕政権誕生で自民党と「自自連立」を実現、どうにか与党に舞い戻った。しかしすぐに自民と公明がくっついた「自自公連立」に政権は移行、自由党の存在価値は一気に減り(どうも自民党は公明と連立するための接着剤として自由党を利用したと言われている)、その後の度重なる「離脱騒動」の末、とうとう今回の「三行半」となったわけだ。
 いやー、こうしてみると小沢さんを中心に現代史が書けるな、確かに。しかしそれは小沢さん連敗の過程であるとも言える。誰かも言っていたが小沢氏は「敵を作る天才的な才能」があるようで、こうして振り返ってみてもドンドン友達を敵に回すパターンを繰り返している。今回の野田さんの「離反」も小沢氏から「党を乗っ取るのではないか」と不信の目でみられたことに端を発していたという。政治家が道徳的である必要は必ずしも無いが、小沢さんの場合、度を過ぎて性格に問題があるのかも知れない。まぁこれも言い古されていることなんだけど…。

 「野田新党」は当初十数人と言われていたが、どうも20人以上、30人以下ぐらいが集まるらしい。とすると小沢自由党は20人クラスに落ちてしまうことになる。さて、何度も「終わった」と言われてきた小沢氏、挽回の機会はあるのか?

 …と、4月2日夜の段階でここまで書いていたのだ。そんなとき、ビックリするようなニュースが流れた。小沢自由党を斬り捨てた三党党首会談の直後(わずか5時間後)、小渕首相が体調の不調を訴え(その後脳梗塞と判明)緊急入院してしまったのだ。小渕さん、そうとうこの件では神経をすり減らしていたようだ。もともと同じ竹下派のメシを食っていた間柄ではあるしねぇ…さて、日本の政界の明日は?こう書いてるうちにも波乱の予感が。

◆一年後のコメント◆
このネタの最後にご注目。ご存じの通りこれが森政権を生む展開になるわけです。この次の「史点」でその顛末が語られてるんですが…まさに現在進行形の「歴史」叙述になっちゃってますね。



◆ビックリの国際協力!?
 
   ニューヨーク・タイムズといえばアメリカを代表する有力紙の一つだが、ここのコラムニスト・ウィリアム・サファイア氏が3月23日付の紙上コラムで次のような情報を書いたという。

 「北朝鮮がスーダンにイラクのためのスカッドミサイル工場を建設しようとしている」

 …というものだ。「誰がどこで何をした」という言葉遊びのゲームがあるが、あれを思い出させる。一回この見出しを新聞で読んだとき、何が何をやってるのかすぐには理解できなかった(笑)。国名が三つもくっついているので、どれが主語やら分からなかったのだ。
 解析をすると、工場を建設しようとしているのは北朝鮮、その工場を建てる場所はスーダン(アフリカの国。エジプトの南にあります)、で、その工場でスカッドミサイルを作る主体はイラクだ、というわけだ。もう少し詳しく流れ作業的に説明すると、まずイラクがスカッドミサイルを作りたい。しかしイラクは国連制裁によりミサイル製造が禁止されている。そこでミサイル製造技術のある北朝鮮(実際あちこちにミサイルを売っているらしく、技術力は高いようだ)にミサイル製造を依頼する。北朝鮮は国内が大変だしアメリカなどににらまれているところなので国内ではミサイルを作れない。そこでアフリカにあってやはりアメリカに反感を持つ国スーダンに工場を建設する。イラクは金だけはあるらしく(ほんとかよ)4億7500万ドルの資金を投じ、貧乏な北朝鮮とスーダンが喜んでこれを受け入れる、とまぁこういう展開だ。このコラムに拠れば消息筋の話として五週間前に北朝鮮の専門家グループとイラクの軍事調査団がスーダンの首都ハルツーム入りして準備を進めているという(こう自分で書いていても主語が混乱してくるな)。それにしてもまあユーラシア・アフリカ両大陸をまたにかけた気宇壮大なプロジェクトではある(汗)。

 このコラムの報道を受けて(コラムが「報道」ってのもちょっと妙な気がするんだが)、アメリカ国務省のフォーリー副報道官も「これらの情報をきわめて深刻に受け止めている。徹底的に調査する」と述べたというし、共和党の院内総務がさっそくこの問題を取り上げ「事実なら武力行使も辞さない(…中国だけじゃないんだな、こういう事言うの)とか騒ぎ出している。
 このミサイル工場建設計画が事実である可能性は僕も否定しない。むしろ今どきの世界の縮小化・緊密化はこういう形の「国際協力」を生み出すのかと面白がって(不謹慎だなぁ)いるところもある。ウチでダメならよそで作る、技術も人もよそから借りてくる…犯罪とか非合法活動で人種・民族・国家を越えた協力があっさり行われる構造を連想させるところがある(僕の専門、「倭寇」がまさにそうなんだよね)
 ただねぇ…どうもこの話を素直に受け取れないのは、この話、アメリカが「反米的」とにらみをつけている国ばかり見事に結びつけちゃってる点、そのものなんだよね。なんか出来過ぎって気もしてきちゃうのだ。



◆東南アジア王室事情(その1)
 
 世界に「君主国」がどれだけ残っているか、お調べになったことがあるだろうか。案外いっぱい残ってるんですよね。もちろんヨーロッパ各国のように政治権力には無縁となった国も多いんだけど。東・南・東南アジアでは日本(中にいると意外と忘れやすい)、タイ、ブルネイ、カンボジア、マレーシア(一年前の「史点」でこの件やってます)、ブータン、ネパールといった国々がある。立憲君主制をとっている国がほとんどだが、それでも国王の権力が依然として無視できない国も多い。

 ブルネイといえば東南アジア・ボルネオ島にある小国だが、石油や天然ガスを産出するためその国王は「世界最大の金持ち」とも言われるほどの経済力を持っている。国王はイスラム教徒でいわゆる「スルタン」。このスルタンが首相も兼ねているので割と古風な王国体制だと思う。
 この国王の末弟にジェフリ殿下という人物がいる。この人、これまでにも自分で会社を興して160億米ドルの負債を抱えて倒産させたり、元ミス・アメリカを愛人にして彼女から「性の奴隷にされた」と訴えられたりと、なかなかハデでスキャンダラスな王子様なのだが、この王子様がまたもすったもんだの騒動を起こしているそうだ(元ネタは読売新聞)
 なんでも彼が国家投資庁長官時代に公金260億ブルネイドル(日本円で1兆6400億円!!!)を不正流用したとして政府にその金の返還を要求され個人資産を凍結されているそうな。いやー、金持ち国の王子様の使い込みは半端じゃありませんな。ところがジェフリ殿下、逆襲して「国王の弟として見分相応な生活をするには毎月100万米ドル(約1億円…)が必要」と、イギリスの有名弁護士を雇って法廷闘争を行い、どうやら要求の半分の毎月50万米ドル(それでも一ヶ月5千万円かよ!)の引き出しは認められる情勢のようだ。なんだか書いていて気が遠くなって来るんだが…ちなみにジェフリ殿下には妻4人・子供17人の家族がいて、彼らにも王室の身分相応の生活をさせなければならないためこの額になっちゃうというところもあるようだ。



◆東南アジア王室事情(その2)
 
 当初一つのネタにまとめる予定だったのを、二つに分解して今回はネタ4つにどうにか到達させてます(笑)。まぁ最初のネタが長かったから…今度の元ネタは産経新聞。

 東南アジアの王国その2はカンボジア。カンボジアといえばポル=ポト政権による大虐殺とその後のベトナムも介入した内戦などが印象的だが、もともとはシアヌーク国王が君臨する王国だった。1970年に彼が中国滞在中に右派クーデターが発生しその後にかのポル=ポト政権が誕生、シアヌーク国王は亡命したが(その後はシアヌーク殿下などと呼ばれていた)、その後90年代に内戦がどうにか収まると帰国して国王に復帰した。しかしその後も健康不安のためしばしば北京で療養する生活を送っている。
 3月30日、シアヌーク国王は二ヶ月ぶりにカンボジアに帰国した。今年一月に王宮でめまいを訴え、またしても療養のために中国に行っていたのだ(なんでいつも中国なのかはよくわからん。なじみの主治医がいるのかな)。シアヌーク国王は今年77歳。すでに前立腺ガンに糖尿病のダブルパンチを患っていて健康不安なんてものじゃなく、すでに不謹慎にも「死期はいつか」という観測さえ飛び交う状態となっている(…と言われてから結構たってるんだけどね)。この1月にも議会で野党側から国王の選出方法の改正を求める意見があり、「人の運命をもてあそぶな」とフン=セン首相からたしなめられたりしている。

 新聞記事の受け売りなんだけど、カンボジア憲法(1993制定)では国王の死去後7日以内に首相・国会議長・仏教指導者(このへんがカンボジア風)らで構成する王室評議会が「アンドアン」「ノロドム」「シソワット」の3王家の三十歳以上の男子から次代の国王を指名すると定めている。このうち有力視されているのはやはりシアヌーク国王の王子達で、なかでも最有力候補と言われているのが国王の第一妃が産んだラナリット殿下(56)だ。この人、現在下院議長を務めているが、新生カンボジアの誕生過程であれこれと活躍(暗躍?)し政界の動向に影響を与えてきた。1998年にフン=セン首相の勢力と連立を組んだ際、フン=セン首相が「あなたを次期国王にする」と密約したという噂もある。しかしこういう王子が国王になることは国王が政治権力を握る結果を生みかねないとフン=セン首相自身が警戒しているとの話もある。
 ラナリット殿下の対抗馬といわれているのが第六妃で事実上の正妻といわれるモニク妃の子シハモニ殿下(47)だ。こちらは現在ユネスコ大使。ラナリットさんに比べて政治的に中立のため、この人の方がドロドロしないで済むと即位を期待する人も多いようだ。他にも以前フン=セン首相の暗殺を企てたとして国外追放されたシアヌーク国王の異母弟シリブット殿下(49)というの人もいる。どうでもいいけど、叔父と甥がほとんど同じ年頃ですな。当然ながら首相としてはこの人に王様になってもらいたくはないだろう。
 このあたりが「シアヌーク後」をめぐって早くも暗闘しているとの話なんだけど、それはシアヌーク国王自身が意図をはっきりさせないためでもある。なまじ国王がそこそこ権力を握っている国なだけに、後継者問題は下手すると血を見かねないぞ。
 


2000/4/3記

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