ニュースな
2000年4月24日

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 ◆今週の記事

◆「満州語」絶滅の危機

 「満州」とは現在の中国東北部を指す。なんてことは説明不要なのかもしれないけど…。そこに住んでいたから満州族、って平気で書いてる歴史本も見かけるのでいちおう注意が必要だ。「満州」という語は、清朝の太祖であるヌルハチのころからようやく使われだした言葉で、自分達の種族・国家を「マンジュ」と名乗り、それに漢字を当てたものである(そういや「満洲」とも書くね)。じゃあ「マンジュ」って何かというとあの「文殊菩薩」に由来していたりする。
 もともとこの辺りにいた民族は「女真(ジュルチン)族」と呼ばれていた。北東アジア地域の森林地帯に居住するツングース族の系統とされ半農・半猟の生活を送っていた。これが世界史の表舞台に登場するのは12世紀のこと。完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)という妙にインパクトの強い名前をもつ英雄(世界史の授業で一発で覚えた人も多いはず)が女真族の統一を果たし、を建国した。この王朝は南の宋に攻め込み、およそ一世紀にわたって華北地域を支配したが、13世紀にモンゴルによって征服されている。
 この民族はその後元・明の支配を受けていたが明の末期に前出のヌルハチが各部族を統一して後金国を建国、ヌルハチの跡を継いだホンタイジ(中国語の「皇太子」だったりする)がこれをと改めた。このころから自分達の民族と故郷である地域を「満州」の名で呼ぶようになり、やがてその字面のせいもあってか、あの地域を指す地名へと固定していった。

 前置きがえらく長くなってますが、もうちょっとおつきあいくださいね(^^; )。この「女真族」「満州族」なる民族は先ほど書いたようにツングース系で、言語的にはアルタイ語族に属するとされている。このグループにはトルコ、モンゴル、朝鮮、そして日本語(疑問視する向きも多いが)が入っている。まぁ大雑把な話をすると英語とか中国語のような「主語+動詞+目的語」という文構成ではなく「主語+目的語+動詞」という形をとる言語グループだ。ついでに助詞(日本語の「てにをは」)の存在があるという特徴を持つ。たとえば、僕は朝鮮語はちょっと習ったことがあるのだが文法形態は日本語と瓜二つである(さらに言えば文章の最後が「だ(断定)」「か(疑問)」「よ(呼びかけ)」になるあたりも瓜二つ)。満州語はさすがに習ったことはないのだが聞いた話では構成はよく似ているとのことだ。そして日本語が朝鮮語に似て、満州語はモンゴル語に似て…という連鎖が成立するらしい。実際、ヌルハチは部族統一時期に「満州文字」を製作させたが、「モンゴル語に我が言語は似ているから」という理由でモンゴル文字(元代のパスパ文字ではなくウイグル文字改造バージョン)を利用して文字を作っている。

 で、ようやく前置き終わり。
 ところがこの満州語であるが、報道によると今や絶滅の危機が迫っているのだそうだ。現在「満州族」は980万人もいるとされるのだが、そのうち「満州語」を母語とする人は「全国でも30〜50人しかいないのではないか」という(!)。じゃあみなさん何語を話してるのかというと、すっかり北京語になっちゃっているのだ!何もこれは近年になって政策的に「漢化」をしたとかそういうことではなく、清朝成立から数百年という時間の中で自然とそうなってしまったものだ。清朝成立当初は公式文書や記録に満州語を使ったり皇帝も満州語を話していたのだが、なにせ当時200万人の満州族に対し支配領域に入った中国人は4億人以上。これじゃあ「漢化」しないほうが無理というもので(しかもこの後中国の人口は恐ろしい勢いで急増する)、しかも故郷である「満州」地域にも漢民族系の人間が大量に入り込むようになっていった。かくしていつの間にやら「満州語」は文字通り「死語」と化していったのである。康煕帝(第四代)なんかは満州語と漢語とモンゴル語をあやつるトリリンガルだったそうだが(まぁ母親が漢族だったり祖母にモンゴル人がいたりしますから)、ラストエンペラーこと溥儀は完全に北京語を母語としていた。溥儀の自伝には、満州語の学習を皇室の義務としてやらされたが全然覚えられなかったという話が出てくる(それより英語学習に熱心だったみたい)。まぁそんな具合だ。
 
 で、その報道というのが、この状態を憂慮して中国で「満州語保存活動」が本格的にスタートしたというのだよね。なんだかトキみたいな話になってきたな(^^; )。まぁそう古い言語でもないので再構成はかなり楽だと思う。満州語の史料ってのもずいぶんあって、実は僕の身近にも専門家がいたりするぐらいだ。

 ところで…この満州にかつて支配者として生きていた、一歩間違えれば満州国皇帝にされたかもしれない、中国現代史の生き証人・張学良氏は今年も無事に誕生日を迎えてます。数え年で100歳になるわけで、それを記念したシンポジウムが北京で4月16日に開かれていた。西安事件(1936)で中国史を展開させたこの人物は大陸では当然、台湾でもやはり英雄視されており、双方で記念イベントが行われる予定とのこと。今変化しつつある中台情勢だが、ひょっとしてこの人物が再び表舞台に立つなんて事があるかもね。



◆DNAが歴史の謎を解く
 
 新聞各紙に「ルイ17世論争に決着」という見出しが躍っていた。ルイ17世?フランス革命の最中でギロチンにかけられたのがルイ16世、その後ナポレオンの没落で復活ブルボン朝の王位についたのがその弟のルイ18世ってことは知ってるのだが(余談だが映画「ワーテルロー」ではオーソン=ウェルズが演じている)、その間の「17世」ってのは記憶にないぞ?確かに数字が一つ空いている事は前から気になっていたのだが…。
 「空白」のルイ17世であるが、王位にこそ就かなかったもののいちおうそう呼ばれる人はいた。ルイ16世と王妃マリ=アントワネットの間に生まれた息子がそれだ。 
 1789年、フランス革命が勃発。急速に進む革命の嵐に恐れをなしたルイ16世一家は、王妃の実家であるオーストリアをたよって国外逃亡を企てた。しかしこれは途中で発見され失敗。この事件でフランス国民の王への信望は完全に地に墜ち、ルイ16世は王位を奪われて家族とともにタンデル刑務所に送り込まれた。この幽閉生活は国王一家に短い間とはいえ一家だんらんの機会をもたらしたが、1792年にルイ16世が、翌1793年にマリ=アントワネットがそれぞれギロチンで処刑されていった。
 さて、問題の王子ルイ17世のことだが、これは国王夫婦の間に生まれた次男だった。長男は革命の起きた1789年に死亡している。あとマリー=テレーズという娘がいるそうだがこれは19世紀半ばまで生き延びた。四番目の子供も生まれたがこれは早世した。問題の次男ルイも長生きはできず、母親が処刑された2年後の1795年に10歳で病死している。その遺体の検視の際に彼の心臓が取り出され、大司教や貴族などの手を転々とした(気色悪い…)のち、ようやく歴代王室の墓があるパリ郊外のサンドニ教会に保存されることとなったのだった。ナポレオンの失脚後に王位に就いたルイ16世の弟が「18世」とカウントされるのは、16世が死んでからの空白期を一時期とはいえこの少年が生きたからなのかもしれない(そういやナポレオン2世ってのも聞きませんな)

 …と、いうことになっていたのだが。革命の混乱が増していく中で「実はルイ17世は脱獄して今も生きている」という噂が広まり出す。まぁ歴史ではよくあるパターンで一種の「判官びいき」なのだろうが、実際に「私がルイ17世だ」と名乗り出る人も出てくる。のちの時代になるとさすがに本人とは名乗らないものの「その子孫だ」と称する人も現れて、そうした「自称者」は100人ほどもいたというから驚く(笑)。この手の話を聞くと、どうしても思い起こされてしまうのがロシアのロマノフ皇帝家の王女アナスタシアの生存をめぐる騒動だ。これも「自称アナスタシア」がいたのだが、最近やはりアナスタシアは家族と共に処刑されていたことが証明されてしまった。ついでながらロシア史では似たような大騒動として「偽ドミトリー事件」ってのもある。

 ルイ17世のほうはなかなか決定打が無かったらしく、1995年(つまり死後200年)に作家のフィリップ=ドルロム氏が「脱獄説」を否定する小説を書いたことでようやく真相を確認する動きが出てきた。なんてったって本人の心臓といわれるものがが残っているのである(ホルマリン漬けにでもなってるのか?)。今や犯罪捜査にも使われる必殺兵器「DNA鑑定」で白黒つけちまおうということになった。オーストリアには母親のマリ=アントワネットの遺髪が残されているので、両者のDNAを比較して親子かどうか確認すればいいわけだ。
 そして結果は、「この心臓は間違いなくルイ17世のもの」という、実に当然と言うか歴史ミステリマニアには拍子抜けという内容だった。やはりルイ17世は言われていた史実の通りに生き、そして死んでいたのである。

 それにしてもこの調子でいろいろDNA鑑定して調べてみるとおもしろい歴史事実がこれからも判明してくるかもしれないですな。こういうの「歴史のロマンが消える」とか嘆く人も多いのだが、そんなもんで消えるほど歴史のロマンとはチャチなもんではありません。



◆ジンバブエの人種対立
 
 この騒動、欧米では大きなニュースとして連日報じられているようだ。やはりそこは白人社会。いまジンバブエで大がかりな「白人への迫害」が起こっているのだ。やはり東アジアではピンとこないもので、この話題は大きくは取り上げられていない。
 そもそも「ジンバブエ」って言われてもどこにあるのかすぐに分かる日本人は珍しいはずだ。僕もおおよその位置しか頭になかった。手っ取り早く言えば「南アフリカの北」にある。この地域の多くの国々同様にかつてイギリスの植民地で、あのセシル=ローズが19世紀にこの地域を征服し、彼の名にちなんで「ローデシア」と名付けられた。第二次大戦後、旧ローデシアのうちザンビア、ボツワナなどが黒人を主体として独立していったが、現在のジンバブエ地域=当時の「南ローデシア」地域だけは少数の白人が主導して1965年に勝手に独立宣言。ここだけが「ローデシア」として生き残ることになった(南アフリカの事情と似た所がある)。これに対し黒人による反政府のゲリラ闘争が行われ、1980年4月についに勝利を勝ちとり「ジンバブエ」と国名を改めた(「ジンバブエ」の名はこの国にかつて栄えた黒人王国モノモタパの古代遺跡から採られている)。このゲリラ闘争時代から現在に至るまで独裁権力を握っているのが、今回問題の中核に存在しているムガベ大統領だ。

 騒動は今年2月から起きていた。以上のような歴史的経緯があるため、ジンバブエには少数ながら大きな面積と財産を持つ白人農場主が存在する。この白人の持つ農場を「本来は我々から奪ったものではないか」という根拠をもって無償で政府が接収するという憲法改正が行われそうになったのだ。しかしこれはやはり無茶というものであり、実現はしなかった。ところがその直後、以前反白人政府闘争を戦った黒人の元兵士たちによる白人農場への侵入、占拠が始まったのだ。数千人もの元兵士たちが国内千か所以上の農場を暴力的に占拠してしまった。当然ながら白人の農場主は怒ったが憎悪と混乱は増すばかり。僕がこの原稿を書いている時点で白人二人・黒人二人の死者が出て農場を焼き払うという行為も行われている。事態の展開を恐れた白人達の中にはジンバブエからの脱出を考えている人も多いという。

 この混乱、どうもムガベ大統領自身がしかけたもののようなのだ。だいたいこうした元兵士たちってのは彼の子分みたいなもののはず。実際にムガベ大統領は彼らの暴力的行為を止めようという姿勢をまるで見せていない(というか黙認している)。あまつさえ18日の独立20周年記念日に白人たちに対して「気持ちのうえでは、あなたがたは今も敵だ。なぜなら、あなたがたがジンバブエの敵として振る舞ってきたからで、われわれは心底、怒っている。だから、元兵士らが土地を占拠しているのだ」とまで言ってしまった。
 これまでの歴史的経緯から白人に対する憎悪というものは当然あるだろう。しかし今回の農場占拠・白人迫害はどうやら自らの政権の維持を狙って意図的に人種対立をあおるという、かなり悪質な陰謀というのが核心のようだ。この騒動で政府側敗北必至といわれていた総選挙が延びに延びている。国の経済も行き詰まっており、国民の不満は爆発寸前。こういう時に為政者が思いつく典型的なパターンが「敵を作って不満をそらさせる」という政治手法。それに白人農場主たちに対する黒人達の反感を結びつけようとしたものらしいのだ。

 冒頭にも書いたが、元宗主国であるイギリスはもちろん、欧米のメディアは連日大きくこの問題を報じているという。アメリカ政府も公式にジンバブエ政府への遺憾と非難を表明している。もっともイギリスのブレア首相は「あまりムガベ大統領に強硬に圧力を加えると逆効果になるのでは」と慎重な構えのようだ。
 



◆わずか6歳で人生大波乱
 
   以前にも当「史点」にご登場いただいた6歳の少年、エリアン君のことである。わずか6歳にして世界史ネタにされてしまう人生というのも珍しい。気が早いかもしれないが、10年後、20年後の彼の人生の追跡番組なんてものを見てみたい気もしている(笑)。

 このエリアン君、昨年11月に母親とその愛人に連れられてキューバからアメリカへの亡命を図った(といっても自分の意志とは思えないよな)が、フロリダへ向かう海上で船が遭難、母親を失って彼一人アメリカ側に救助された。その後はマイアミにいる親戚(大おじさんがいる)のもとに預けられていたわけだが、キューバにいる父親(といっても母親とは離婚している)がエリアン君の引き渡しを要求、キューバ政府もカストロ首相以下、国を挙げての「エリアン奪還運動」を展開した。一方でフロリダに数多くいる亡命キューバ人(当たり前だけど反カストロ派が多い)たちは「せっかく亡命したのに帰してなるものか」と断固引き渡しを拒否した。6歳の少年は思わぬ「紛争」の敵味方双方のシンボルにされてしまったわけだ。いまたけなわのアメリカ大統領選にもこの少年の問題は微妙な影を落とし、共和党のブッシュ候補は当然のように「送還反対」をとなえ(なんせフロリダ遊説でスペイン語で挨拶した人だ)、民主党のゴア候補も世間の様子をうかがうようになんとなく「送還には消極的」な発言をしていた。

 で、どうなるかと思っていたらアメリカの司法当局は「子供は実の父親と一緒に暮らすべき」という原則論からキューバへの送還を決定した。アメリカとキューバと言えばかつての「キューバ危機」もあったように冷戦以来の「敵国」どうし。こんなキューバ側の要求を一方的に飲む決定をくだして世論の反発はないのかと思ったら、世論調査では亡命キューバ人以外のアメリカ国民では「送還すべき」と考える人が多数をしめていたのだった。アメリカも本音はキューバに限らず移民はもう「非歓迎」なのだな、と思わせる現象だ。そしてキューバとも和解の方向が外交レベルで進んでおり、かつて歓迎・保護された亡命キューバ人達はいささか「厄介者」扱いされ始めていたようだ。

 そして4月22日午前5時、合戦用語で言う「朝駆け」というやつで、武装した20人を含む当局の職員がエリアン君の大おじの家を「襲撃」した。強硬突入して部屋のドアを蹴破り、ついに物置に隠れていたエリアン君を「保護」。エリアン君は女性職員に抱きかかえられてあっという間に車に押し込まれ、運び去られた。周囲には亡命キューバ人たち数百人が押しかけていたが、「奪還部隊」は催涙ガスなどでこれを押さえ込んだ。
 それにしてもずいぶん手荒な手段を使ったものである。僕も正直言って驚いた。もっとも政府側も前日の深夜までギリギリの話し合いを続けていたらしいが、ついに「今を逃したらもっと厄介なことになる」と判断したのだろう。世界中に配信された写真がすごかった。重装備に身を固め銃をつきつける職員と、大おじさんに抱かれて泣き叫ぶエリアン君が1ショットに収まったあの写真ですよ。「決定的瞬間」というやつですな。一枚の写真のもつ影響力ってのは時に恐ろしいものがある。政府側もそれをわかっているようで、その直後にエリアン君が引き合わされた父親とニッコリ笑って収まっている写真が公表されていた。とりあえずすぐにはキューバに送られるわけではなく(親戚側が訴訟を起こしているため)、しばらくはワシントンで過ごすとのこと(気をつけないと今度は父親が亡命するかもよ(笑))
 
 この処置についてクリントン大統領は「正しい決断だった」と記者会見で正当化。亡命キューバ人は「アメリカに裏切られた」と激怒。ブッシュ候補は「実に悲しい出来事。米国の価値に反し、自由を愛する国家として世界には見せたくない」とほぼ予想通りのコメント。共和党の一部では「ナチスかKGBのやり方だ」との非難も。民主党のゴア候補は「この問題は裁判所で取り扱うべき」とさりげなく逃げてました(笑)。で、世論調査ではやっぱり過半数が今度の処置を支持しちゃってるみたいである。
 
◇一年後のコメント◇
文中に出てくる、「エリアン君恐怖の写真」は先日ピューリツァー賞もらってましたね。まさに決定的瞬間。


2000/4/24記

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