ニュースな
2000年5月14日

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 ◆今週の記事

◆ベトナム戦争終結から四半世紀
 
 先週執筆を休んだこともあってちょっと古いネタも取り混ぜて書きたいと思う。
 さる4月30日、ベトナムではベトナム戦争終結25周年記念式典が行われていた。あのベトナム戦争終わってから四半世紀がたったのだ。1975年4月30日に南ベトナムの首都・サイゴンが陥落し、ベトナムは統一され「ベトナム戦争」は終結した。しかしベトナムはその後カンボジアに侵攻し(まぁ相手がかなりムチャクチャな連中だったわけだけど)、中国とも一時ではあるが戦うことになり、「戦争状態」は延々と続いて難民も続出した。ベトナムの戦争状態が終わり、経済回復に進み出したのはホントについ最近のことだ。
 
 ところでこの記念式典で掲げられた一つの旗に内外で驚きの声が上がっていた。その旗は赤と青に染められた二色旗で(ベトナムの国旗は単純明快な「金星紅旗」)、ベトナム戦争中にはおなじみのものだったが戦後完全に封殺された旗だった。これはかの南ベトナム解放戦線の旗だったのだ。南ベトナム解放戦線といえば、アメリカの影響を強く受けた軍事政権である当時の南ベトナムを「解放」するべく1960年に結成された、共産主義者から民族主義者、さらにはカトリックや仏教徒も広く含めた南ベトナム国内での民族ゲリラ戦線だった。北ベトナム軍とともに「ベトナム解放」に大きな力があったとされる。
 ところが戦後、これは歴史上よくあるパターンなのだが、北側から統一された南ベトナムに北の共産党の幹部が支配のためにやってきて、それまで南ベトナムで戦ってきた解放戦線の人々の上に立つようになった。サイゴン陥落から統一ベトナム国家誕生までに一年のブランクがあるのだが、この間に解放戦線とベトナム共産党との間にあれこれと確執が起こっていたようだ。要するに共産党側は「南」を「北」と一体化させるため早期の社会主義化を求めたのに対し、解放戦線側はもう少し緩やかに社会主義化をすすめるべきと主張したのだった。結局このドタバタの結果、解放戦線指導者の一部はパリに亡命し、国内でも解放戦線に対する風当たりは強くなった。かくしてその後四半世紀にわたって、彼らの存在は公式の場では事実上無視されることになったわけだ。二色旗も当然ながら公式の場に姿を見せることはなくなっていた。

 しかしベトナムの「戦争状態」も終わり、「冷戦」も終わった。ベトナムは改革を進め市場経済も導入して経済活性化を図ろうとしている。そして経済力はやっぱり旧「南」側にどちらかといえばあるのだよね。こうした事情を反映してか、数年前から「解放戦線の兵士として命を捧げた「南」の人々の功績を評価するべき」との声がしきりとなっていたようだ。こうした声に応えて旧サイゴンであるホーチミン市の党幹部の間で一年前から記念式典でこの旗を掲げることを計画していたとのことだ。

 この記念式典の前日、そのベトナム現代史の重要人物の一人がひっそりとこの世を去っていた。その人物はファン=バン=ドン元首相。建国の父ホー=チ=ミン、フランス・アメリカと戦った将軍ボー=グエン=ザップと並んで、苦難のベトナム共産党を支えた三人トリオの一人だった。なんと94歳。まさに「生きている歴史上の人物」だったのだ(とか書きつつ、僕は死んで初めてその名を知ったのだが)。せっかくの記念式典に水を差すのもなんなので、その死は数日たってようやく発表された。5月6日に行われた国葬では数万の群衆が棺を見送り、前述の三人トリオの一人ボー=グエン=ザップ元国防相も姿を見せて(まだ生きている!)盟友に別れを告げていた。ボー=グエン=ザップ元国防相は「ファン=バン=ドン元首相は最近の党幹部の腐敗には心を痛めていた」と述べて、「革命第一世代」から現在の指導者たちにクギをさしていたそうな。似たような問題は中国でも起きているな。
 
 ところでベトナム戦争の一方の当事者、アメリカでもこの戦争を回顧する企画がいくつかあったようだ。アメリカにとって「初めての挫折」とされるこの戦争については今でも複雑な国民感情があるようだが(このあたり、日本の戦争観とも似てますな)。参戦経験のある元兵士の上院議員たちがテレビ討論番組に出るという企画があったそうだが、そこでヘーゲル上院議員(共和党)は「戦いの大義は崇高だった。しかし戦争行為は間違いだった」と発言したという。この辺が元軍人達の最大公約数的な見解かも知れない。「戦争をやらなかったら東南アジアの自由は大きくそこなわれていた」とかいう論法で「やる方がまずくて敗れはしたが、戦った意味はあった」とするわけだ(これまた日本の戦争肯定論とそっくりなような)



◆憲法論議の今日この頃
 
 今国会から「憲法調査会」なるものが設置され、憲法について改正も含めた論議が行われている。その意味で今年の5月3日の憲法記念日はこれまでとはまた違った空気の流れる日となるはずだった。「はずだった」と書いたのは、この日にあの「西鉄高速バスジャック事件」が発生してしまい、国民の目がほとんどそっちに行ってしまったために、憲法論議が大きな関心を呼ばない結果となってしまったからだ。とくに「改憲」っていうより最近は「破棄」で盛り上がる方々にはこの結果はあんがい痛手であったような気もしている。
 めだった所で言えば読売新聞が94年に続く「憲法改正試案第二弾」を出したことぐらいだろうか。「戦争の放棄」が「戦争の否認」つまり「認めない」になっていることと「自衛のための軍隊の保有」を明確に認めたところが目に付くが。

 憲法を論じること自体はもちろん大切なことだ。かく言う僕も「改正したいですか」と聞かれたら「はい」と答えると思う。そういう意味では広義の「改憲派」なんですけどね。文章に変なところがあるから明確にするために変えろとか、権利関係の拡充とか、三権分立の不徹底をどうにかしろとかその程度のもんですけどね。「三原則」にはいっさいタッチするつもりはない。個人的にあの三原則は「好み」でして。読売新聞が世論調査して「改憲が6割!」と大騒ぎしていたが、「改正に賛成ですか」って聞いたらそんなもんでしょう。「改憲派」には単純に「じゃあ変えたら」という程度の感覚で言ってる(そしておおむね憲法の内容を良く知らない)人がかなりいるということを計算に入れなくてはならない。なんか日本では「改憲=9条改正」という公式を、護憲・改憲の双方で短絡に考える向きが多いようだ。
 実際、この「憲法調査会」設置に動きまわった人々には「改憲=9条改正」論者がかなり目に付いた。調査会ってただ単に調査するってだけのものだったはずが「これで1年以内に改正事項を固めて、3年〜5年で改正だ!」とはしゃいでいる議員もいた。ひどいのになると「急がなければならない、1年で改正だ」と言ってるお方もいた。こんな短期間に話がまとめられると思っている理由は、その改正対象がたった1条であると考えているからに他ならない。これらの声を見ていて思うのだが、この人達は今の憲法が「素人が拙速で作って押し付けた憲法だから変えるべき」としばしば主張しているのに、自分でまさにそうした行為をやろうとしていることに疑問を持たないんだろうか?

 さてそんなこんなの思惑から、この憲法調査会はもっぱら「今の憲法が成立した経緯」の追及に時間が費やされていた。改憲を急ぐ議員達は「押しつけ憲法」であることを証明することで、これを改正、あるいは破棄(おいおい)して新憲法を作っちゃおうという流れに持ち込もうとしていた。一方で護憲派、あるいは改正消極派は実際の改正議論に入るよりはマシだと考えたのか、この「成立経緯検証」に乗っていた節がある。憲法学者・歴史学者などを呼んで成立経緯の説明を求めたり、さらにはアメリカから当時憲法草案作りにあたった人を招いてしゃべらせたりと、まぁいろいろやっていた。個人的には議論が歴史話の様相を帯びてきて面白かったが。
 個人的な面白がりは別にして、この憲法の成立経緯の検証なんてのはハッキリ言って時間の無駄というところがあると思う。なんでかというと憲法の成立経緯はその関係の本を読めばすぐに分かる程度のものなのだ(実際僕もササッと2冊ほど読んだら大筋は分かってしまった)。今さら関係者を呼んでまで検証するたぐいのこととは思えない。あえて言うと「第9条」を発案したのが実際は誰なのか不明確なところはあるんだけど、成立過程そのものを検証してもこれといって「違法」なことが行われたというわけでもない。「押しつけ」についてはあえて言うが「そんなの当たり前じゃん」って程度のことだ。もっとも呼ばれたアメリカ人が「日本の憲法はアメリカのそれより素晴らしい。いいものを『押し付ける』ことがありますか」と言っていたのには思わず笑ってしまったが。
 敗戦後、憲法改正の指示を受けて日本側が当初自前で改正案を練っていたが、これが明治憲法とさして変わらぬものだと分かったためマッカーサーは大急ぎで自らのスタッフに憲法草案を作らせた(大急ぎだったのはアメリカ以外の各国が入ってきてからでは面倒だと思ったためのようだ)。この草案というのが面白いことに「天皇は象徴」「戦争の放棄」「一院制の議会」「土地・天然資源の国有化」という内容を持っていたのだそうな。とくに最後の一条はほとんど社会主義国。これには日本側も驚いてガンとして受け付けなかった(こんな条項が入っていたのは草案作成にアメリカのリベラル派が入っていたため彼らの理想論を入れちゃったものらしい)。一院制もそうだが、日本側は押し付けられながらも条項によって取捨選択していることが分かる。もっとも戦争放棄は天皇制の維持とひきかえで強硬に突きつけられたが。
 9条の戦争放棄についてはすでに第一次大戦後に結ばれた「不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)」にすでに書かれていることであり(訳文を読んだが、ホントに9条の文章と瓜二つなのだ)、これに参加していながら破る形で戦争に突入した日本に対する懲罰として「押しつけ」られたもので、実は別段目新しいものではなかったりする。もっとも侵略に対する防衛戦争についてはマッカーサーは認めるつもりだったようだが、これはいつの間にか「戦力不保持」というかなり徹底したものに変化することになった。これが誰のアイデアかということだけはどうもよく分からないらしい。今でこそ「護憲」の急先鋒である共産党だが、当時国会での審議で「防衛戦争は正義の戦争であり、これを否定してはいけない」吉田茂首相に詰め寄ったことがある(当人達はあまり言わないが、今でも共産党は「武装中立論」だ。ただ現在の自衛隊が「中立」じゃないから嫌がってるとのこと)。これに対し吉田茂は「近年の戦争の多くは国家防衛の名の下に行われる。だから正当防衛権を認めることは戦争誘発に繋がる。あなたのご意見のごときは有害無益」と答えたという。のちに朝鮮戦争勃発の際、吉田茂はアメリカから共産党の非合法化と再軍備を要求されたが「あんたたちが押し付けた憲法によりそれは出来ません」とやり返したという。アメリカにしてみれば「押しつけ」たものが逆利用される形になっちゃったわけだ。その後の日本が平和憲法を盾に軍事費を最低限におさえ(その代わりアメリカに防衛を負担させたんだけどさ)たことが、後の経済大国を産む要因となったとする意見も多い。

 なんだ、俺も結局「9条論議」してるじゃん、などと思ってしまうが、要はこの事も含めて日本は案外したたかにアメリカの「押し付け憲法」を能動的に取捨選択し大いに利用してきたところがある、ということなのだ。草案作成に携わったアメリカ人たちは、半世紀がたった今も日本国憲法が一字一句変更されていないことに一様に驚いているという(笑)。自分達でも急ごしらえということが分かっていたし10年ぐらいたったら改正されるだろうと大方思っていたのだそうだ。戦後のほとんどを政権党として存在していた自民党も党是に「自主憲法制定」をかかげていたはずなのだが、どういうわけかこれまで議論すらしなかった。僕などはこのあたりに意外な日本の主体性を見るような気もするんだが、どんなもんだろう。

 こんなこと書いていてなんだが、「調査会」で憲法の原点論議をするのは無意味だと思う。それは「破棄」派の思惑から来ているものに過ぎないからだ。自民党の改憲論者でも若手を中心に「憲法の成立過程の正統性には興味がない。これからどうするかを議論しなければ」という声が上がっているという。僕もこれにはおおむね同意見だ。だいたい半世紀もお世話になったものをいきなり「破棄」ってのは日本人得意の「義理人情」に欠けるってもんだろう(笑)。



◆ローマ法王が「聖地」訪問、そして…
 
 上の二つが長いので、あとは簡単に。
 法王ヨハネ=パウロ2世といえばつい先日も「史点」にご登場していただいた(そんなことはあちらは知ったことじゃないだろうが)。その時はいわゆる「ミレニアム巡礼」で、エジプトやらパレスチナの聖書ゆかりの地を訪問しているという話題だった。今回もやはり聖地巡礼の話題なんだけど、ちょっと趣向が違っている。
 
 5月13日、ローマ法王はポルトガルの「聖地」ファティマを訪問、ここで83年前に「聖母を見た」という兄妹のうち亡くなっているフランシスコとジャシンタの二人を「福者」に列するミサを行った。「福者」って言葉は僕は初めて知ったのだがカトリックでは「聖人」に次ぐ地位なのだそうだ。この83年前に現れたという「聖母」なんだけど、なんでも5月から10月までの毎月13日に必ず出現し、三人の兄妹達に三つの予言をしたのだという。予言なんてものはいずれもどうにでも解釈できるような文を作るもので、この予言もどういう文章だったのかはよく分からないのだが、一つは「第一次世界大戦の終結」でありもう一つは「共産主義の台頭とソ連の崩壊」だったと解釈されているとのこと。そして三つ目の予言だが、これはなぜかカトリック教会内で「極秘」とされ、公表されることがなかった。このため「世界の終末が予言されている」との憶測も飛び交っていたのだった。
 で、この5月13日にひょっとすると法王がこの極秘の予言を公表するのでは…と注目されていたのだ。そして、ホントにこの予言は「公表」された。なんと!ローマ法王自身が1981年5月13日にサンピエトロ広場で狙撃された、あの事件の予言だったのだという!それじゃあカトリック教会は事前に知っていて準備していたわけ?なんだかよくわからんが、ローマ法王は「ファティマの聖母に救われた」と信じてらっしゃるのだそうな。カトリックって割と近代に入ってもこの手の奇跡話が飛び出してきて「公認」を受けるんだよな。それにしても聖母様はなんでまたその兄妹にいきなりこんな予言をわざわざなさったのであろーか。カトリックの奇跡話にはどうも「気まぐれ」としか思えないものが多い。

 ところで「83年前」という数字に僕は敏感に反応してしまった。奇しくもこの同じ5月13日に日本で83年ぶりの大事件が起こっていたのである!大相撲夏場所7日目、朝の霧vs千代白鵬戦において、朝の霧のまわしがほどけ、局部が露出、ただちに規定により朝の霧の「反則負け」が決まった。
 この「あそこが見えたら反則負け」の規定は割と有名で、僕もかなり前から知っていた。「NHK放映時にそんなことになったら大変だよなー」などと言っていたものだが、これが83年ぶりの「事件」とは思わなかった。NHKは衛星放送で中継していたが、幸いお尻が映っただけで「前」は映らなかったそうである。
 この恐るべき符合は…ひょっとして聖母様のきまぐれだろうか(笑)。
 


2000/5/14記

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