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2000年6月18日

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 ◆今週の記事

◆ベールを脱いだ?お隣の金さん

 今週の最大のニュースはなんといってもこれでしょう。今週に限らず今年最大のイベントの一つと呼んで差し支えないと思う。下手すると今世紀の…と言いたいところだが、まぁそれは大袈裟ってもんだろう。
 この南北首脳会談の意味についてはあれこれと様々な人々が表現を競っているが、つまるところは「金正日が表に出てきた」という一語に尽きると思う。もちろん歴史的にも、政治・外交面でも重要な要素は多々あったが、大方の人にとっては「金正日」という「謎の指導者」の素顔が出てきたということ自体が、最大の注目点であったはずだ。韓国では今度の会談について「金正日の、金正日による、金正日のためのイベント」などと囁かれているそうだが、言い得て妙だろう。とにかくこの会談は「金正日一色」と言って良い政治ショーとなった。

 当初6月12日から行われる予定だった南北首脳会談は、直前の11日深夜になって、いきなり北側からの要請で一日延期になった。延期の理由について北側は「技術的な理由」としか説明していない。いまだにこれがなんだったのかはよく分からない。後日、僕が考えたのは「晩餐会の料理の材料が揃わなかった」「沿道を埋め尽くす民衆の動員および花の準備」「金総書記が言うジョークの準備と練習」(爆)などというものがある。他に考えたのは、下にある漫画のネタ(^^)。冗談はともかくとして、当初韓国側では「日程がマスコミに流れたことに不快感を示したのかな」と予測もあったが、「直前にこちらを慌てさせて会談の主導権を握る揺さぶり作戦では」という憶測もあった(結果から言えばこれが真相に近いかも知れない)。会談の一方の当事者である金大中大統領は「55年間待った対面だ。1日ぐらい待てる。問題ないよう対処するように」と冷静な対応を呼びかけていた。しかし何しろ南北関係はこれまでの経緯が経緯なので、僕も含めて多くの人が「やはりドタキャンか?」と心配したものである(そう、かなりの人が「やはり」と感じたはず)

 しかし6月13日。無事に会談実現の日がやってきた。9時13分にソウルの軍用空港を韓国版「エアフォース・ワン」である「空軍一号機」(直訳だな)で飛び立った金大中大統領は、たった1時間後の10時25分に平壌郊外の順安空港に降り立った。この近距離を大統領が飛び越えるために半世紀を要したわけだ。もっともTBSの「報道特集」で先ほどやっていたが、国境を直接越えたわけではなくいったん西に飛んで黄海奥深く入る遠回りコースで行ったとのこと。平壌に入った韓国大統領は初めて…と思っていたら、朝鮮戦争当時に李承晩大統領が、マッカーサーの「仁川上陸作戦」で北に反撃し平壌を一時的に占領した際に韓国大統領として平壌入りしていたとどっかの新聞に出ていた。まぁとにかくそれ以来ということだ。金大中さんも「生きているうちに北の大地に足を踏み入れることが出来るとは思わなかった」と言っていたが、まさに多くの人がそんな気分だろう。こんな事態は4月の発表まで予想もしなかったもんなぁ。
 金大中大統領が空港に降り立つ場面を、僕は生ではなく1時間ほどのちに録画映像で観た。金大統領がタラップに姿を現すと、なんとその下には金正日総書記その人が出迎えに来ている。多くの人がこの瞬間に息を飲んだ。韓国側でも全く予想しない展開だったらしく、「形式的な最高位である金永南最高人民会議常任委員長あたりが出迎えるのでは」と思っていたそうだ(それでも直前に大統領本人には知らせがあっただろう)。直前の会談延期に続き、ここでも意表を突かれる形となったわけだ。
 ところで金大中大統領はすぐにタラップを降りず、なぜか横を向いてしばしそちらに目をやっていた。僕も下の大物を差し置いてなんだろうと思ったのだが、これは後で理由が判明した。金大統領の視線の先には金総書記の父・金日成の肖像が掲げられていたのだ。南北共に儒教国といっていいお国柄だから、生きている息子さんを差し置いて死んだその父親にまずは敬意を表したのかも。僕は北側からそうするように要請があったのではないかと推測している。
 そして金大統領はタラップを降りた。下に敷かれた赤絨毯の上に立っていた金総書記がゆっくりと近づき、手を差し伸べる。そして二人の金さんが両手でガッチリと握手。さらにその手を上下にブンブンと振って見せた。この瞬間、韓国のプレスセンターでは記者達の拍手が上がり、町々では感涙にむせぶ姿も多かったという(日本では在日の人達の多くがやはりそうした反応をしていたようだ)。細かい話だが、この握手、年下である金総書記のほうが先に手を差し伸べたことも重要であるらしい。両手、というのも意外に予想されていなかったそうだ。一部で予想されていた社会主義国型の「抱擁」(金正日さんが先日北京に行った際、江沢民主席とこれをやっていた)は行われなかったが、これは最終日に両首脳の別れの場面で行われていた。このあたりも、これも「北」が「南」に相当に配慮した形であるのかも知れない。

  もう一つ、僕がこの場面で注目した点がある。金大中大統領と握手を終えたあと、金正日総書記は金大統領の夫人・李姫鎬さんに挨拶をしていたが、この場面にこの李夫人に対応する北側の「ファーストレディ」の姿が見えない。このことは事前にもどうなるのか話題になっていたのだ。
 金正日総書記には過去に三人、夫婦関係にある女性がいた事実が確認されている。しかし正式に結婚したことは一度も確認されていない。多くの愛人がいるんじゃないかという、いささか興味本位の入った噂も多々あるが、いずれにせよ韓国側では「本妻はいない」と分析していた。果たして今回の会談で「金正日夫人」の登場はいっさい無かった。そのため各種の場面でややバランスを欠いた構図が出現することとなったのだった。

 「歴史的」握手を終えた両首脳は赤絨毯の上を車に向かって並んで歩き始めた。よく見ると北の金さんが南の金さんに何やらにこやかに話しかけている。「おおっ」と僕は思わず口に出していた。考えてみれば同じ言葉を持つ人達なのであるが(僕などにはわからなかったが、金正日さんは平安道地方の訛りが濃厚にあったそうだ)、英語圏は別として外交現場で首脳同士が直接にこやかに話しかける場面を見るのは非常に珍しい。ましてそれをやっているのが、ついこの間まで肉声もろくすっぽ出なかった謎の人物なんだから、驚くのも無理はなかった。そして両首脳は同じ車に乗りこんで平壌市街へと向かった。これも大変な演出だった。この場面でも韓国の記者達は拍手喝采したそうである。
 それにしてもこの場面でどうしても思ってしまったことは、「金正日さん、そのジャンパー姿はやめた方が…」って事でした(^^; )。

影武者でなければ…と一時マジで考えました(笑) その後の首脳会談の内容もさることながら、やはり世界の注目はついに表舞台に姿を現した金正日という人物の生の映像に釘付けになってしまったと言っていい。そしてそこに現れたのは、これまでさんざん流されていた「金正日」像、「凶悪な独裁者」あるいは「引きこもりの変人」といったものではなく、「非常にきさくで細かい気配りをする、現役の政治家」という姿だった。もちろん、表面的にとりつくろったり「演技」が或る可能性も否定は出来ない。だが少なくとも「この人は想像以上にやり手だ」という印象を多くの人が受けたのではないだろうか。いわゆる「大馬鹿者説」は完全に否定されたと言って良いだろう。先日の北京訪問で予兆はあったけどね。
 「やり手だ」と思う根拠はやはり彼の口から出た外交ジョークの数々だろう。初日、金大統領の随員の一人一人に握手を求める際に「心配しなくていいですよ」と言って笑わせたあたりからこのジョーク攻勢は始まった。このセリフなんて、自分が外国でどう言われているか知った上でないとジョークとして成立しない。このセリフに「おっ」と思っていたら二日目にはさらなる攻勢が続いた。二日目の首脳会談の出だしとして持ち出された「あなたのおかげで隠遁生活から解放された」とか「冷麺談議」「キムチ談議」なども、金正日氏のソフト面を強調すると同時に意外なまでの海外情報通ぶりを示している。「日本では『キ・ム・チ』と発音する」なんてセリフは日本人でもそう吐けるものではない(ついでながら朝鮮語では『キチ』とでも表記すべきかな)。日本の衛星放送を見ているとの噂は前からあったが、それを証明した形だ。そして「昨夜は南(韓国)のテレビを遅くまで見ていた。離散家族や北からの亡命者が映っていて興味深かった」とも言い、この会談の最中にもしっかりと韓国でこの会談がどう報じられているのか、自らチェックしていたことを明らかにしている。
 それと、これに関連することだが前日に金正日総書記の発言部分の映像に「ガー」という雑音がやたら聞こえていた。これは北側のマスコミ(もちろん官製マスコミ)が回しているフィルムの音だったのだが(ビデオはないんだろうな。余談だがあの「産経抄」は「金正日氏の貴重な肉声はまたしても聞くことができなかった。これもまた何かの妨害あるいは演出だったのだろうか」と早とちりしていた)、翌日の映像ではこれがパタリと消えていた。どうもこれも金正日ご本人が韓国のテレビを見て自分の音声が聞こえづらい事に気が付き、フィルムを近くで回すことをやめさせたためのようだ。この事も彼の気遣いの細かさを感じさせられる所とは言える。
 極めつけが二日目の晩餐会。初日の晩餐会に出席しなかったときは「やっぱり…」というムードが流れていたが、二日目にはしっかり登場(これも「南のテレビ」を見た結果だろうか?)。離れた席に座っていた李夫人を大統領の側に呼んで「ここで『離散家族』にならなくても良いでしょう」と言ってみせたのだ。金大統領夫妻は大いに受けていたが、確かにこれはなかなかのセンスだ。この一言で僕は彼が相当に頭の回転の速い人物だと確信した(もちろん、性格も良いとは限りませんが)。またそのことと同時に、彼が北朝鮮において姿を見せない飾りものではなく名実共に権力を握って国を指導している人物だということも確信させられた。

 ということは、だ。やはりこれまで北朝鮮絡みで起こった数々の事件や国内の疲弊、そして彼自身への不可解なまでの個人崇拝もまた、彼が指導した上で行われた、少なくとも知った上で行われていた、ということを考えておかねばならない。こんなにソフトで物わかりのいい面があるのだったら、今までなぜ出てこなかったんだい、という疑問は残る。もちろん僕自身はこの南北和解ムード、北朝鮮の対外姿勢の変化は大いに歓迎するが、これらのことは一抹の不安材料であるとは思うし、今後解明されなければならない問題だと考えている。それでもこの会談が今後東アジア情勢の良い方向への大きな変化の始まりであろうとは信じている(やや願望込み)。次の注目は金正日総書記がいつソウルを訪問するかですな。当初噂されていた「8/15」は無さそうだけど、ひょっとすると年内にもやるかもしれない(もう何が起きてもおかしくない感じですね)
 
  ところで「予言」です。今週日本で発売される週刊誌や、もう少し後で出てくる月刊誌などの多くが今度の南北首脳会談ネタの特集記事を組むでしょうが、「形だけの政治ショー」「北朝鮮のパフォーマンス」「笑顔の裏に潜む陰謀」といった見出しが目立つものと予想されます(笑)。「統一朝鮮に警戒せよ」って過激かつ気の早いのも恐らく出てくるでしょう。
 別に日本人全体がそういう斜めに構えた態度で見ているとは思いませんけど、マスコミには「危険をあおることが商売になる」という発想が濃厚にありますからね(「テポドン○月危機」と延々と騒いでいたのが典型)。初めからそういうもんだと思って眺めることにいたしましょう(^_^; )。

 …長い(汗)。このため今回はネタは三つに絞ります。っていうか4つネタが集まらなかったんだけどさ。

◆一年後のコメント◆
去年最大の歴史イベント…なのは間違いないんだけど、そのあとどうなったんだと言われると表面的にはあんまり変化はない。今度は金正日さんが韓国を訪問しなければならないのだが、なかなか実現しませんなぁ。そうこう言ってるうちに息子さん(?)が電撃的に日本訪問しちゃったりして(笑)。
 



◆シリア骨肉の争い
 
 こちらも上のネタの国と同様に親子相続をした国のお話なのだが…
 6月10日、中東の国・シリアのアサド大統領が69歳で死去した。死因は公表されなかったが長年患っていた心臓病が原因であろうと言われている。このアサドさんという人物、まさにこのところの中東の激動の歴史で重要な役割を果たした人物と言って良い。昨年亡くなったヨルダンのフセイン国王(ちなみに「史点」の記念すべき第一回がこの方の話題です)とともに中東指導者の世代交代が相次ぐこととなった。

 アサド大統領は1970年に無血クーデターでシリアの政権を掌握、その後国民投票によって大統領の地位に登りつめた。同時に同国のバース党(最終的には「アラブ統合」を目指す社会主義的政党)の書記長になって独裁体制を固め、以後なんと30年にわたってシリアを独裁してきた。バース党ということもあってアラブ民族主義と穏健な形の社会主義政策を両立させ、ソ連との結びつきが強かったと言われる。もちろん隣国にしてアラブの宿敵イスラエルとそれを支援するアメリカには敵対的な姿勢を続けていたわけだが(日本のPKOも行った「ゴラン高原」はシリア領内のイスラエル軍占領地だ)、90年の湾岸戦争ではアメリカ主導の多国籍軍に参加するという身代わりの早さを見せている。これには同じバース党のイラク版を率いるサダム・フセイン大統領との「バース党本家争い」も絡んでいたようだが、その後アサド大統領はどっちつかずの微妙な立場で中東和平を進めていくことになる。こういう存在は双方にとって便利なものではあったようで、今度のアサド大統領の死には中東和平を進めるアメリカも落胆を隠していないようだ。

 ところで、僕が興味をそそられたのはアサドさんご自身よりも、そこに現れてきた後継者問題だ。
 アサド大統領が死去したその日のうちに、シリアの議会が大統領の就任可能年齢を40歳から34歳という妙にハンパな年齢に引き下げる憲法改正案を慌ただしく可決。翌日の11日、アサド大統領の次男バシャル氏(34)の階級が大佐から中将にいきなりランクアップした。中将はこの国では最高位になるそうで(大将がいないわけだな)、ただちにバシャル氏は軍の最高司令官に任命されてしまった。もちろん、アサド大統領の後継者として国の最高権力を握るための手続きである。それにしても憲法改正のやり方は露骨ですなぁ。ちょうど34歳にするとは(笑)。そしてバシャル氏は17日のバース党大会で正式に次期大統領に決定している。
 実はこのバシャル氏への権力移行の動きはかなり以前から始まっていた。先月にシリアのゾービ前首相が汚職の疑いで告発され、バース党から除名された挙げ句、自宅で自殺するという事件が起こっているが、これもバシャル氏による次期政権固めのためであったと噂されている。今月にもバース党大会が開かれバシャル氏を指導者に指名すると早くから予測されていて、こんどのアサド大統領の死去で予定が多少早まったに過ぎない。それにしても慌ただしい権力移行措置だが、これにはもう一つシリアの「お家事情」があるようだ。

 アサド大統領には長男ハジル氏がいて大統領警護隊長を務めており、当初これが跡を継ぐかと思われていたのだが、94年に交通事故で急死した。次男であるバシャル氏はイギリスに留学した後、眼科医となっていたが、兄の急死を受けて兄が占めていた地位のほとんどを引き継いだ(この辺り、疑えばキリがない陰謀説が浮かんでくるなぁ)
 そしてアサド大統領にはもう一人、後継者候補がいる。一時シリアの副大統領の地位にあった実弟のリファート氏(63)だ。一時実際に後継者と目されていたが、権力闘争に敗れて国外追放というか亡命をし、現在スペインやフランスをウロウロしている。このたびのアサド大統領の死去を知って血が騒いだのか(^^; )、シリア国民に向かって「修正運動を起こせ」とのコメントをわざわざ発表している。「修正運動」というのは兄のアサド大統領がクーデターを起こす際に使った言葉で、何を意味しているのかは明らかだ。これを受けてなのだろう、シリアの治安当局は12日に「リファート氏の逮捕状を取った」と発表し、素早く牽制球を投げていた。実際、リファート氏は兄の葬儀に参列することを口実にシリア入国を計画していたフシがある。実行はさすがにしなかったようだけど…。どうもバシャルさんが「即位」を急いだ背景にはこういった「骨肉の争い」があったようなのだ。

 …なんかホントに時代劇みたい(笑)。



◆「昭和の皇后」激動の一世紀
 
 上のネタに続きおくやみネタ。日本の現在の天皇の母(昔だったら「国母」というところだ)である良子(ながこ)皇太后が6月16日に亡くなった。実に97歳。ちゃんと調べたわけではないけど、皇室の歴史上最長寿なんじゃなかろうか(あ、神武とかの伝説レベルはカウントしてません)。お年からすると以前「史点」ネタにしたイギリス皇太后と同じ世代と言える。あちらは今年8月に100歳になっちゃうそうですけど。考えてみると張学良さんとも同じ世代だ。これだけ生きていると生涯がそのまま「歴史」という感じである。

 良子皇太后は1903年3月6日の生まれ。明治36年なんて年である。日露戦争まであと少しという時期だ。父親は久邇宮邦彦(くにのみや・くにひこ)さんで当時はギリギリながら皇族の一員だった。母親の俔子(ちかこ)妃はなんと薩摩藩主・島津忠義公爵の七女だ。高貴なお血筋、といえばこれ以上のものはなかなかないのだが、この血筋が一悶着を呼んだことがある。歴史用語で「宮中某重大事件」と言われる騒動だ。
 久邇宮家の女王・良子さんと裕仁皇太子(言うまでもなく昭和天皇)の婚約が内定したのは大正7年(1917)のことだった。当時のことだから当然ながらお二人が一度も会わないうちにこの婚約は決定している。昭和天皇自身が後に語っているところによれば、婚約のことを知ったのは内定の翌年のことで、直接面会したのはそのさらに翌年の大正9年(1919)のことだったそうだ。それも「儀式的に会い、言葉も交わさなかった」というものだった。もっとも内定の直後に東京朝日新聞が写真入りで報じているそうだから、翌年まで全く知らなかったということは無いような気がするんだけど。
 とにかく婚約が内定すると良子さんは学習院中学科を中退して「お妃教育」に入った。と、ここまで話が進行していたというのに、突然結婚に反対の意向を明確に示す人物が現れる。長州閥の重鎮・山縣有朋公爵である(いやー、ホント「歴史」であります)。反対の理由は良子さんの母方の実家・島津家に「色覚異常の血統がある」というものだった。これが事実であったかどうかは分からないのだが、とにかくそう言い出してかなり強硬に反対の姿勢を示した。当然ながら久邇宮家は「いったん決まった婚約を破棄するとは人倫にもとる」と言って反発。政治問題に発展し、当時のマスコミでもかなり取り上げられる話題となってしまった。大正10年に宮内省が「良子女王殿下東宮妃ご内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも、右ご決定はなんら変更なし」とわざわざ発表している。それだけ世間でも噂になってしまっていたわけだ。今から考えると大変なプライバシー侵害とも思える。

 で、これで一件落着だったかというとそうでもない。実は不思議なことに大正天皇の皇后・貞子、つまり昭和天皇の生母が、この結婚にかなり強硬に反対していたというのだ。この事は当時皇室・政府内では公然のことであったようで、様々な証言がある。当時の首相・原敬も日記に山縣有朋との会話としてこの事実を記しており、山縣は「(皇后は)皇太子殿下ご近眼なればつくづく左様に思し召さるるならん」と言ったとしている(そういえば昭和天皇って歴代天皇中初のメガネ使用者では?)。結婚には天皇の勅許が必要だが、大正天皇は病弱で判断が出来ず、勅許の件は皇后に一任されていた。このため宮内大臣の牧野伸顕が皇后説得にあたり、どうにか皇后の同意を引き出した。牧野の日記によれば皇后は「涙を呑みて勅許被遊止むを得ざるべし」と言ったというからその意志のかなり強かったことがうかがわれる。結婚後も皇后と良子皇太子妃の間にはいろいろと衝突があったのは確からしい。単純に「嫁姑の争い」とだけで解決できないものがあったようだ。
 よく言われるのが、長州閥の山縣が、天皇家に島津家の血が入ることで薩摩閥の勢力拡大を恐れてこの騒動を起こしたのではないかという説だ。しかしそれだけでは皇后のかたくなな態度が理解しにくい。ちなみに貞子皇后自身は九条家の出だ。

 こうしたすったもんだの騒ぎを受けてめでたく結婚の運びとなったのであるが、結婚式が予定されていた大正12年(1923)11月の直前、9月1日にあの関東大震災が発生。裕仁皇太子はこの非常時に慶事を行いたくないと自分から申し出て結婚式を延期させている。挙式は結局翌年の1月26日に執り行われた。そして1926年12月25日の大正天皇の逝去にともない裕仁皇太子が即位、「激動の昭和」が始まるわけだ。
 昭和そのものも激動の展開であるわけだけど、天皇夫婦もいろいろと大変だった。二人の間には結婚の翌年に長女照宮(故東久迩成子さん)、昭和2年に次女久宮(6カ月で死去)、昭和4年に三女孝宮(故鷹司和子さん)、昭和6年に四女順宮(池田厚子さん)と相次いで子宝が恵まれたが、四人立て続けに女子だったことは周囲を不安に陥れた。天皇の位を継ぐべき男子・「日継の御子」が誕生しないのである。
 ここまで天皇家が絶えずに続いた理由の一つに側室制度があることはやはり否定できない。子どもの生まれる確率、そして男子が生まれる確率も当然違ってくる。実際大正天皇以前の9代の天皇はみんな側室から生まれている。昭和天皇が皇后自身から生まれたのは異例のことだったのだ。そのせいか、それとも欧米嗜好の強さからだったのかは不明だが、昭和天皇は即位すると宮中改革を行って実質的に側室制度を廃止してしまっていた。ところがここに来てまたぞろ「側室制復活」が公然と叫ばれることとなる。
 だが昭和天皇が耳を貸さないうちに昭和8年(1933)12月23日、ついに待望の皇太子・明仁親王(言うまでもなく今の天皇陛下)が誕生し、問題は解消した。その後次男常陸宮、五女清宮(島津貴子さん)が生まれている。

 その後の激動については「昭和天皇と苦労を共にした」ということで割愛したい。僕もまだ昭和時代の方を長く生きている世代なので昭和天皇についてもよく覚えているだが、この「昭和の皇后」の記憶は余りない。実のところ80歳を過ぎたあたりからすでに痴呆症が進んでいて表舞台に現れないようにしていたと聞いている。その後は静かに余生をおくっておられたというところだろう。

(参考文献・高橋紘・所功著「皇位継承」文春新書、1998)
 

2000/6/18記

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