ニュースな
2000年6月25日

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ


 ◆今週の記事

◆「金・金会談」その後

 先週行われた半島の南北首脳「金・金」会談だが、この一週間もこの話題の余波があちこちで続いていた。ここではそれを列挙してみよう。

  まず韓国ではやはりというべきか一種の「金正日ブーム」みたいなものが発生したようだ。「凶悪な独裁者」「引きこもりの変人」から一気に180度転換したような「聡明」「ユーモリスト」といった肯定的なイメージが急増した。まぁみんながみんなそう単純にとらえているわけではないのだろうが、金正日、そして北朝鮮に対するイメージがかなり変化したのは事実のようだ。
 もちろん「あれは演出だ、芝居だ」という声も多い。それも確かにそうなんだろうけど、そもそも外交現場なんてのはどこでも「演出」「芝居」がつきものだ。たとえば先日の小渕前首相の自民党・内閣合同葬に各国の人が集まってきて「弔問外交」を展開していたが、日本は世界的には問題児にされているミャンマーの使者とは「立ち話」をするという「お芝居」をやっている。ま、外交現場なんてそんなもんだと考えれば、今回の南北首脳会談は「最高の出来の芝居」だったと言って良いと思う。金正日総書記が計算づくで「演技」をしていると強調する人もいたけど、そうだとしたら大変な「名優」としか思えないわけで、それはそれで「じゃあ無茶なことはしないな」という安心感に繋がる。

 それと、今度の会談の裏話がいろいろと韓国側から出てきていたが、やはり各種の「演出」は事前に相当に両者間で練られた「合作」であることが明らかになってきた。金正日総書記が空港に出迎えたことについて前回僕は「直前には知らされていたかも」という程度の認識を書いていたが、どうやらこの「直々のお出迎え」も両者でかなり相談した末のことであったらしい。前回書いた両首脳の挨拶儀式の一挙手一投足もやはり事前にそうとうな打ち合わせが行われていたとのこと。
 韓国側は他の場面でも終始「金正日総書記本人」を登場させることにこだわりつづけていた。二日目に発表された南北の共同声明に金正日総書記本人がサインをすることを北側がかなりしぶったようだが、韓国側がかなりふんばり、最終的に「じゃあ私がやろう」と金正日さん本人が決断し(というか、本来するのが当たり前だと思うのだが…)どうにかサインにこぎつけたそうだ。金大中大統領も帰国後、「何度か絶望しかけた」とコメントしているが、実際いろいろと表面に出ないところで苦労はあったのだろう。まぁ変に愛想がいいばかりというのも不気味なので、そうした攻防が繰り広げられていたとすれば、まっとうな外交交渉であると評価もできる。

 この会談ののち、韓国・北朝鮮双方のいろんな場面で変化が起きた。特に相手を非難する言葉には厳重な注意が払われるようになったことは明らかだった。北では国境付近で南側に呼びかける放送があるのだが、そこでそれまで韓国に対して使っていた「アメリカ帝国主義のかいらい」といった表現が消えた。また朝鮮戦争の「戦勝記念日」のイベントもかなり穏やかなものになったという。韓国側でも同様のことがあるわけだが、それらもやはり影を潜めることになりそうだ。サッカーの2002年ワールドカップで南北統一チームを作ることや北朝鮮国内で試合をいくつか開催しようと言う話も現実的なものとして進んでいる。大ヒット映画「シュリ」でも描かれたことがホントに次々と実現してくるのは恐ろしいほどだ。もちろん、あの映画では北朝鮮の特殊部隊が和解ムードの阻止を狙って暴走するわけで、そこまで実現しちゃ困るんだけど。
 そうそう、映画マニアの金正日さん、予想通り「シュリ」を鑑賞していたことが判明。残念ながら高い評価はしてくれなかったが、一部の暴走とはいえ「北」の危険性を描くテーマを評価するわけにもいくまい(実際、この映画は「反共映画」として韓国政府の推薦映画にされちゃっている。かなりの勘違いとは思うのだが…)。「あんなことは起こりませんよ」の一言だったそうで。他にも韓国情報部を通じて韓国映画をいくつも観ていることが判明していた(ピンポン外交ならぬムービー外交ってやつでしょうか)

 もっとも、その後こんなこともあった。韓国の前大統領・金永三氏が金大中大統領から今回の会談の報告をうけた際に「天下の独裁者、金正日を平和主義者のイメージに変えてしまった」と言って金大統領を批判したのだ。まぁ何となく当たってなくもないセリフであるが、どうも本来自分が実現しているはずだった南北会談実現の名誉を「横取りされた」という嫉妬心も働いていたのではという見方もある。で、この発言に対しさっそく北朝鮮のラジオは「祖国統一を志向する大勢の流れに逆行し、口から泡を飛ばして狂乱的に行動する間抜けがいる。歴史上2人といない人間のクズ、反統一の逆賊、金泳三だ」という物凄い表現(朝日新聞に載っていた訳)を使った非難を表明した。あんた、子どものケンカじゃないんだから(笑)。

 呼び方といえば、アメリカが「テロ支援国家」として非難している4国(イラク、リビア、北朝鮮、スーダン)を「ならず者国家(roguestate)」と呼ぶのを中止すると発表していた。代わりに「問題国家」と呼ぶことにするそうだが(笑)、どうも今回の南北首脳会談の影響に拠るところが大であるようだ。人様のことを「ならず者」呼ばわりするあたりは西部劇の保安官のノリで、いかにもアメリカらしいところだったが。

 東アジアでもう一つややこしいトラブルを抱えているのが中国と台湾の関係だが、今回の南北首脳会談を受けて台湾の陳水扁総統が中国政府に直接対話のよびかけを行っていた。もっとも陳さんは選挙中から「総統になったら北京に行って首脳会談をやる」と言っていたからその延長上の発言とも言える。陳総統は、「13日の握手の場面を見て、朝鮮半島で出来て台湾海峡両岸で不可能なことはないと確信した」と述べて、「形式や場所にこだわらず、前提を設けずに行おう」と付け加えて無条件で会談をするよう提案していた。「前提」ってのはもちろん中国政府がこだわりつづける「一つの中国」というやつだ。中国政府はやはりこの前提を提示して今回の呼びかけをつっぱねている。「半島の分断は冷戦の結果だが、中国と台湾の関係は内戦の結果によるもので、同じではない」との見解を示している。
 ちなみに陳総統はこの会見で「2008年に北京でオリンピックを開く場合、台湾でも一部開催を」という、事実上の「北京開催支持」を表明している。案外こんなところから話し合いは始まってしまうのかも知れない。

 ところで、先週この件に関する日本の週刊誌レベルの見出しの予言をしましたけど、思ったほど目立つ見出しはなかったですね。総選挙が近いんでそっちに大見出しが流れちゃったようで。まぁそれでも斜めに構えたのが多かったのは確かですね。
 

◇一年後のコメント◇
本題はともかく、最後の一文について。この前の回で予測として書いたことは結局のところだいたい当たっちゃいましてね。単行本のたぐいではずいぶん出てました。ま、平和ムードよりは危機をあおった方が本は売れるしね。



◆インドネシアの苦悩は続く

 昨年来たびたび登場しているインドネシアだが、まだまだ大変な事態が続いている。外患は無いにしても内憂は立て続けに起きてますね。
 今週、とうとうワヒド大統領自身が、自らも関わる金銭疑惑で警察の事情聴取を受けることになるという、大事件が起きていた。僕はこのワヒドという人のやり方はかなり評価している方なのだが、ちょいとこの食糧調達庁をめぐる裏金騒動には評価ポイントをかなり下げざるを得なかった。実際、インドネシア国内で学生などが中心にやっている、「無能な政治家」と認定された人に贈られる「スハルト賞」(笑)なるののが、先日ワヒド大統領に贈られたことが報じられている。「無能」と呼ぶのはちとやりすぎだとは思うんだけど…。事情聴取受けたのだって「インドネシアが法治国家であることを示すためだ」ということなので逃げを打つよりはマシというものだろう。

 この一件はなにやら話がややこしいのだが、要するに大統領の側近であるマッサージ師が、独立騒動の起きているアチェー(スマトラ島北部)の復興資金に活用するという名目で、食糧調達庁の職員の福祉財団から350億ルピア(約4億3000万円)の裏金を受け取ったという疑惑だ。このマッサージ師はその後行方をくらましてしまっている。ワヒド大統領自身はこの疑惑に無関係と表明しているが、問題のアチェー復興資金に「ブルネイ国王からの支援金200万ドル(約2億1千万円)をあてた」とばらしたことがまたも批判を浴びてしまった。「外国からの支援金はまず国庫に納めるべき」との批判が出ているわけだ。

 このアチェーも独立運動が起こって衝突が続いていたが、どうにか停戦にこぎつけている(その後も散発的には衝突があるようだが)。それでホッとしていたら今度はインドネシアの反対側の端イリアンジャヤ(ニューギニア島西部)で独立運動が本格化してきた。ちょっと前の話になっちゃうが、6月4日にイリアンジャヤ州住民により新国家「パプア」の成立が宣言されている。東ティモールの二の舞にもなりかねないのだが、ワヒド大統領は当然この独立宣言を拒否。といってこの人のやり方なのだがあくまで話し合いで事態を収拾しようとするだろうから、そう酷い事態にはならないものと思いたいところ(でもそうすると軍部にフラストレーションがたまっていくという怖い展開も予想される)
 また昨年来続いている各地でのキリスト教徒対イスラム教徒の争いもエスカレートしている。住民間の激しい抗争が続いているマルク島には周辺の島々からイスラム教徒の「ジハード(聖戦)部隊」を称する武装勢力が上陸し、混乱に拍車をかけている。ワヒド大統領はこれらの勢力を封じるためマルク島への部外者の渡航を禁止し、「旧体制派が騒乱を起こしている。政府は断固とした措置を取る」と警告した。
 ワヒド大統領自身はインドネシア最大のイスラム勢力の指導者だ。しかし彼のやり方は基本的に融和政策だと言って良い。キリスト教など異教徒はもちろんそれまで非合法化されていた共産主義政党の政治活動の自由化をも実現させようとしている(そういえば金正日さん、「インドネシアにも行った」とか言ってたけど、どうやって…?)。ここで「旧体制派」という表現を使っているのは、同じイスラム教徒でも古い体質の連中が騒ぎを起こしてワヒド体制にゆさぶりをかけているんだ、というニュアンスを含めているように感じる。

 この辺りの展開はくたびれきったソ連にゴルバチョフが登場し、改革を進めていったら保守派の反発と共に民族紛争が頻発し、結果的にソ連の崩壊、各共和国の独立という事態に至ってしまったことを思い出させる。インドネシアの苦悩はもう少し続きそうだ。
 

◇一年後のコメント◇
情勢はその後もちっとも好転しておらず、むしろ悪化していると言っていい。真面目な話インドネシア崩壊・解体だってじゅうぶんありうる事態だと言って良い。



◆「闇将軍」の死
 
 かつて「闇将軍」といえば田中角栄だったが…その後継者ともいうべき竹下登氏が亡くなったとき、やはり「闇将軍が死んだ」という表現がなされていた。外国の報道でも一部で「シャドウ・ショーグン」という表現が出ていたそうだ。
 「昭和の皇后」が先週亡くなったと思ったら昭和最後の首相(そして平成最初の首相)だった竹下さんまで亡くなってしまった。享年76歳。この業界では「早死に」に属するかなぁ…

 竹下登は1924年、島根県の造り酒屋の家に生まれている。造り酒屋ってのは地方においては金持ちの有力者になることが多く、地方政治家に実家が造り酒屋というケースはけっこう多いらしい。早稲田大学に入って(どこかの首相と違って試験は受けた)あの「雄弁会」に所属。卒業後ややあって政治家を志し、島根県議を経て1958年に衆議院議員に初当選。以後14回連続当選を続けている。自民党内で派閥は最大勢力の佐藤派に属し、1971年、第三次佐藤内閣で官房長官に抜擢されたが、このときまだ47歳。それだけ「使える奴」と思われていたことは確かなようだ。「米中国交回復」というショッキングな事態を受けて佐藤栄作首相が怒り狂ったというあの時の官房長官だ。

 その後、やはり佐藤派の中にあって隠然とした勢力を持ち、佐藤の後継者を狙っていた田中角栄に接近。角栄が佐藤派から独立して田中派を旗揚げするとこれに加わり、「田中派のプリンス」と呼ばれるようになる。田中角栄自身は金脈問題などもあって首相としては短命に終わったが、彼の率いる田中派が自民党内最大勢力ということもあって、角栄の存在はその後の自民党政治に強い影響力を与え続けることになった。このために「闇将軍」の名が奉られることになったわけだが、この闇将軍の意向で大平・鈴木・中曽根内閣が生まれたと言っても過言ではない。竹下自身はこの最大派閥の中で「次期リーダー」とみなされるようになる(彼が40代に「十年たったら竹下さん♪」とズンドコ節を替え歌で歌っていたことは有名だ)。ところが角栄はこの竹下を「後継者」とは認めつつ、なかなか「禅譲」をしようとはしなかった。このことが竹下の「決起」を引き起こすことになる。

 1985年2月。竹下は金丸信らとはかって政策勉強会「創政会」の設立に動きだした。角栄は当初「政策勉強会」と聞いていたので油断していたが、直前になってこれが明白な「謀反」であり「竹下派」の結成であることを知り、激怒。あわてて潰しにかかったが、結局竹下派は田中派の約3分の1を吸収して結成された。このあたりのやり方はまさに角栄が佐藤栄作に対してやったことの繰り返しであったとも言える。まさに政界は「下克上の世」なのだ。角栄は激怒したあまりなのか、直後に脳梗塞で倒れ、一命はとりとめたものの事実上の政界引退を余儀なくされた。このことは竹下の「天下奪り」にとって大変な幸運だった。今も昔も最後に勝負を決めるのは「強運」のようである。
 1987年の7月に竹下は完全な自派閥「経世会」を結成、同年の11月、任期の切れた中曽根康弘首相が後継者を指名する「中曽根裁定」をやった。竹下登・安部晋太郎宮澤喜一のいわゆる「ニューリーダー」の中から選ばれたのは今や最大派閥を率いる竹下だった。かくして竹下登は第74代内閣総理大臣に就任した。なんだか秀吉を連想させる「天下奪り」の過程ですな。そういえばお顔もなんとなく…(笑)。正面から決戦を挑んで雌雄を決するタイプではなく、「根回し」を得意とした調整型政治家だったが、この辺りも実に「日本人的」という印象がある。

 ただこの人も首相の地位にいられた時間は短かった。わずかに1年6ヶ月。この内閣で自民党長年の課題であった「消費税」の導入に成功、また「ふるさと創生」とかいう各地方自治体に1億円づつばらまくという珍政策をやったこともあった(バブルの時代だったなぁ)。この任期中に昭和天皇が死去、元号が「平成」に変わるという節目があった(この時「平成」という文字を見せた官房長官が先日亡くなった小渕恵三前首相)。しかし当時政界に吹き荒れた大疑獄事件「リクルート事件」で支持率が急落、退陣に追い込まれることとなる。この間に竹下さんの秘書が自殺するなんてこともあったなぁ…。

 その後も右翼が竹下氏への「ほめ殺し」をやって田中角栄邸の門前にわびを入れに行くという、いわゆる「皇民党事件」などもあり、どうもこの人には暗い影がつきまとう。この事件で国会の証人喚問を受けた竹下は「私という人間の持つ体質が悲劇を生んでいる。これは私自身を顧みて、万死に値する」(92年11月)と述べている。このセリフは最近出た竹下氏の伝記の表題にもなっていたが、確かにご本人を象徴するセリフであるのかもしてない。また、自覚もしていたということですな。
 それでも「竹下支配」と呼ばれる派閥の数に任せた政界支配は続いた。橋本・小渕政権は明らかに竹下派→小渕派の意向で生み出されたものであるし、それを引き継いだ現在の森政権もまた然りだ。ただ最後の森さんについては病床にあったこともあり直接影響を与えたかは微妙だと思う。とにかく振り返ってみると竹下登という政治家は常に「最大多数」の勢力に属し、またそれを最大限に利用していたことがよく分かる。
 病床についてからも政治的影響力の持続には物凄い執念を感じたものだ。出席できない会合で自らの声を吹き込んだテープをよく流していたが、あれはまさに執念としか言いようがなかった。今年5月初めの「引退会見」までこれをやっていたが、この調子だと葬儀でも本人の声が流れるんじゃないかと(笑)。いちおう流れなかったようだが、まだ分からない。選挙後に「実は竹下さんが死ぬ間際に予測していた選挙結果が…」なんてものが発表されたりするのかも(^^; )。実際、死の数時間前まで「票読み」をしていたと言いますからねぇ。ちなみに竹下さんの予測は「自民単独で239、がんばってプラス2議席?」ってなあたりだったらしい。
 まさに「死せる竹下、生ける自民を走らす」というところ。さて結果はいかに?
 それは次回、じゃなくて下の記事をお読みください(^^)。
 


◆20世紀最後の衆院選の結果は…

  で、上の記事を書いてからほぼ一日たってこの記事を書いているわけですが…
 20世紀最後(だろうね)の衆院選の結果は、与党が絶対安定多数確保、しかしながら与党全体としてはかなりの後退。野党では民主党が躍進、自由党と社民党がそこそこ議席を増やし、共産党があおりを食って議席を若干減らすという結果になった。
 与党としては議席は減らしたものの「安定多数確保」で信任を得たものとして森政権の持続を決定した。一時「敗北」とみてとって辞任をほのめかした野中広務幹事長も留任。ってなわけでほとんど政治状況に表面的な大きな変化はない。民主党は与党批判票を集めた形で大きく躍進したが、キャッチフレーズに使っていたように政権を「奪る」ところまではいかなかった。なんというか、総じてどうもハッキリしない中途半端なところに「国民の審判」とやらは下ったようだ。日本人好みの「調整」というか「落としどころ」に落ちたような印象もある。

 投票率は結果的に63%ぐらいあったようだが、当日の出足はかなり低調だった。やっぱり天気が祟ったのか。事前のマスコミ予測ではかなりの投票率が見込まれていたんだけどねぇ…。不在者投票が妙に多かったり、直前に森首相が「(無党派層は)寝ていて欲しい」とか本音を言っちゃったこともあって(それにしても相変わらず口の軽い人である)下手すると70%行くんじゃ…という空気すら流れていたが、結果はこんなもん。投票締め切り時間が伸びたことと不在者投票が緩和されたこととで前回よりはアップしているのだが、国政の最大イベントだというのにお寒いもんだという思いが強い。国民にとって分かりやすい「争点」が無かったと言うことかなぁ…いろいろと問題があったはずなのだが。昨年あたりやっていたら争点がいろいろとあったんだろうけど、毎度の事ながら「争点」が明確なときに解散総選挙はやらないものだ(やれやれ)
 いくつかのマスコミで「国民は大きな変化を望まなかった」と表現していたが、歴史をやっていると思うんだけど、案外民衆なんていつもそんなものとも思える。自分の生活に直接的に影響するような事態が起きないとなかなか大きな変化を望むものではない。ただいよいよ追いつめられたときのパワーは強烈になるときもあるが。そう考えるとまだまだ日本の有権者は生活に余裕があるのかもしれない。だが、なんとなく社会の空気として「違う方向」を望む流れは徐々にではあるが次第に出てきていると思う。大きな流れとして見れば第二次大戦後の日本を牽引してきた巨大政党・自由民主党は冷戦終結後どんどん規模を縮小させているんだから。その代わり細かい政党がゴチャゴチャと出てきて離合集散を繰り返すことになっちゃってるわけだけど。

 このところの定説として「投票率が低いと自民有利、高いと野党有利」という法則がある。だが、今回の選挙結果では必ずしもそれは正しくなかったと思う。確かに結果的に与党三党で安定多数を確保したが、それぞれに議席は大きく減らしており、本来大政党に有利と言われる小選挙区制においても自民党は結構苦戦した印象がある(公明は小選挙区制の被害を多大に受けていたが)。とすると自民に投票しそうな人が「寝て」しまったのかなぁ…?これで天気が良くて投票率が高かったらどうなったんだろうと思うところであるが(僕自身の予想としては相当な票が野党に流れたんじゃないかと思うんだけど)、まぁ分かりませんね。
 それにしても今度の選挙で与党側が「私たちの安定した政権のもとで景気回復を」ってやたらに言っていたが、かなり妙なんじゃないか、これって。その勢力に安定した政権を与えていたから経済がおかしくなったと自分で白状してるようなものとも思えるが。

 それと、前々から見えている現象だけど、今回の選挙では選挙風土の地方・世代による違いがますます現れてきたように思う。地方における自民党「世襲議員」の強さはあらためて健在さを見せ付けた。そしてこれと繋がることだが「利益誘導」の選挙風土。どっかの有罪判決を受けた候補者は「私が当選したら道路や橋を造って東京から人を呼び、地域を活性化させる!」などと公約してしっかり当選していたっけ。上の話にある竹下さんの地元・島根県は公共事業の投入が全国一というところで、今回の選挙でも早々と竹下元首相の弟さん(えらく年の離れた弟だよなぁ)がアッサリと当選を決めていた。なんかホント、日本の議会は「地方貴族院化」していくんじゃないかと思うこのごろだ。地方の選挙は「国政」ってのを地域ぐるみで私物化しているんじゃないかとも思える。
 森首相の不支持率がやたら高くても結果的にそれが自民党批判に結びつかないのもこうした選挙風土が大きく影響している。いつまでも通用せんと思いたいところなんだけどね。データで見るとこうした旧態依然のしがらみに縁が薄い若い世代や都市部では自民支持層はどんどん減っているのでそのうち状況は変わってくるかも知れない。ただ、問題は自民党に対抗するような勢力が現れるかどうかだ。確かに民主党は今回大きく議席を伸ばし、「疑似二大政党制」と言っても良いような状況ができつつあるが、なんといっても民主党はまだまだ寄り合い所帯で政権構想や基盤も固まっておらず、いつまでもつんだろ、と思われてしまっているのが実情だ。

 小選挙区制って確か二大政党制を実現しやすくするために導入されたような気がするんだけど、果たして日本の風土で「二大政党」って状況が可能なのか、僕はかなり懐疑的。いろんな分野で気が付くことだけど、日本ではある分野で過半数のシェアを一つの勢力が取り、あとは「その他大勢」で分け合ってしまうという状態が生まれることが多い(身近な一例=プロ野球のチームごとのファンの分布)。イエスかノーかをハッキリさせず互いに傷が付かないようにナァナァで済ますことの多い日本風土(別にこれはこれで一つのやり方なので否定はしないが)に二大政党制が根付くとはあまり思えないんだけどなぁ。

 とりあえず、森首相の続投が決まったわけで、さらなる「暴言」「放言」を期待したいところ(いや、マジで)。選挙も済んだし、サミットという晴れ舞台は用意されているし、世界に向けて恥をさらしてほしいものだ(私も選挙が済んだのでハイになってるかな?)
 
◇一年後のコメント◇
今度は参院選ですな。この時の選挙結果見てると、あの森不人気の中ですら自民党は大敗はしなかったわけで、今の小泉人気の中ではホントに圧勝しかねないとの予測が出来る。つくづく自民党ってのもしぶといというかしたたかというか…時折、一党独裁国を除けば世界最強の政党って気もしちゃうんだけどね。
 


2000/6/26記

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ