ニュースな
2000年7月2日

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 ◆今週の記事

◆総選挙後の祭り
 
 ユーラシア大陸の東の隣、太平洋の西端に浮かんでいる島国で衆議院の解散総選挙が行われたのはつい先週のこと。結果は前回書いたとおり、与党が大きく後退しながらも合わせた数では絶対安定多数を確保した。そんなわけでさして揉めることもなく森喜朗首相の続投が決定した。ご本人曰く「国民のみなさまの意思は真摯に、謙虚に受け止めたい」「3党が引き続き国政を担当せよというのが、民意である」とのことである。思えば「3党が…」とはよく考えた言葉かも知れない。選挙直後にマスコミ各社が行った世論調査によれば有権者の6割から7割が「森首相の続投に反対しているのだそうで。しかし森首相個人の不人気と政権政党の人気(というか獲得議席)が必ずしもリンクしないと言うのがこの国の面白いところ。

 それでも現職閣僚をはじめ自民党内のかなりの大物議員が落選の憂き目を見たのも事実だ。これは一選挙区内での最高得票者だけを当選者とする「小選挙区制」の効果と言えなくもない。トップのただ一人しか当選しないために「当選安全度」がある程度下がったことは確かだ。しかし当然ながらこの制度は発足当初から問題点が多く指摘されていて、今回の選挙でも、当然ながら「落選組」から大きな不満の声が上がっていた。
 象徴的なセリフと思ったのが現職閣僚で落選した玉沢農水相の「敗戦の弁」だった。いわく「WTOではこうでしたと(選挙区で)言っても、まったく関心がないんだな。もっと身近な話をしてくれ、と言われるので」とのこと。彼は農林水産大臣としての自らの活躍と成果を有権者に語りかけようとしたのだろうが、実際のところ有権者達は「地元の話」にしか関心がなかったというわけだ(ちなみに確かこの人の地元は岩手1区)。なるほど、収賄罪で有罪判決を受けても「橋をかけ、道路を作り」と言ってる候補の方が当選するわけである。玉沢農水省はさらに「選挙区を回っている方が、国政をやってる者より強いということになる。小選挙区の弊害だ」と述べ、小選挙区制度そのものへの批判もブチ上げていた。小選挙区制が導入される際、選挙区が小さくなることで地元に密着した選挙、いわゆる「ドブ板選挙」になりやすいという懸念はされていたのだが、今回の選挙でそれをハッキリと裏付ける現象が、とくに地方で起こっていた節がある。もちろん玉沢さんの落選が選挙制度のせいばかりではないとは思うのだけど、小選挙区制が結果として「国政選挙」の地域私物化を拡大していることは確かなようだ(なにせもともとその傾向が強いですからねぇ)
 そんなこんなでどうやら与党はさっそく「小選挙区制」の見直しに入る模様。この制度、そもそも小政党には不利なので、今回の選挙で痛い目にあった公明党も見直しに積極的だ。野党では社民党も見直し論を唱えており、恐らく共産党や自由党なども同調しそう。民主党だけは都市部でメリットが多かったから見直しには反対するようだけど。
 こうしてみると、この制度、なんで導入したんだっけなぁ、という思いがよぎる。この制度は自民党が野に下った細川−羽田政権の時に成立したものだったわけだけど、その時の狙いは「二大政党制の実現→政権交代の可能性を高める」「金のかかる選挙の一掃→政治腐敗の一掃」というものだったように記憶している。当時多くのマスコミは大騒ぎでこの制度の実現を支援していた記憶もある。当時国会で社会党議員の一部が反対したため一時不成立になった際、彼らを「戦犯」呼ばわりしたマスコミもあったっけ。今になってみるとなんだか遠い日の思い出だ。

 ところで第二次森内閣へ向けて自民党内はザワザワと動きだした。小渕・梶山そして竹下と大物ベテラン政治家の死が相次ぎ、にわかに自民党内には世代交代の風が吹きはじめた。そこでガゼン注目が集まってくるのが加藤紘一・山崎拓・小泉純一郎の若手三人トリオ、いわゆる「YKK」グループである(それにしても日本政治史は「三角大福」「金竹小(こんちくしょう)トリオ」など命名の傑作が多い)。今週、妙にこのYKKへの圧力が強まった。青木官房長官「竹下さんなど年配も無くなったことだしYKKは解散しては」と言いだし、森首相も自派の会長である小泉氏を呼びだして「YKKの会合の頻度を少し減らしたらどうだ」とわざわざ言ったそうである。これに対し小泉氏はやんわりと「他の派閥とも会合しているんだから問題ない」と言い返した。帰り際にも森さんが「これからYKKで会わないだろうな」と畳みかけ、これに小泉さんは「会いませんよ」と苦笑していたという(朝日新聞記事より)。このYKKの中心的存在とも言える加藤紘一氏は「友情は解消できないし、大事にしたい」とあくまで「YKK」は同期の議員同志の「お友達」であることを強調していた。もちろん、そう思われていないからあれこれ圧力がかかるわけですが(笑)。どうも「竹下支配」が終わり、自民党主流派内で反主流派への警戒感が高まった上での現象のようだ。加藤さん、最近ますます政権獲得に意欲を燃やしてますからねぇ。

 ところで今週の政界の目玉といえば中尾栄一・元建設相の収賄容疑での逮捕があった。その後の調べでは「派閥の領袖クラスの大物議員」に金銭が渡っているとの情報が出てきて、どう考えても頭に浮かんでくる人物に注目が集まっている。「サンデープロジェクト」でこのお方が大騒ぎしているのを面白がって眺めてましたけど…少なくともこの政局に微妙に影響を与えそうですな、この問題は。



◆全世界選挙速報!
 
 今年は世界的な選挙の当たり年(やっぱ2000年というキリの良い数字のせいか…関係ないか)。身近なところでは先週の日本の総選挙があり、台湾の総統選挙、韓国の総選挙がそれに先立って行われていた。ロシアでも大統領選があったし、なんてったって超大国アメリカの大統領選が一年がかりの大イベントとして行われている。
 日本の総選挙の直後にもいくつかの国で注目すべき選挙が行われていた。それを以下に列挙してみよう。

 まずジンバブエの総選挙。以前にも「史点」で触れているが、この国では今、黒人の元軍人らに率いられた武装集団による白人農場の占拠事件が起こっていて、国際的に注目を浴びていた。この占拠事件は20年間にわたって事実上の独裁を敷いてきたムガベ大統領の権力にかげりがさしてきて、総選挙前にそれを挽回するために行われた政治的活動だったと見られている。で、注目の選挙結果だが、「野党が大健闘して議席を大幅に増やしたものの、与党側がなんとか過半数を確保した」という、まるでどこぞの島国の選挙結果みたいな結果だった。野党とは昨年9月に結成されたばかりの「民主変革運動(MDC)」という政党で、今回の選挙で選挙で選ばれる120議席中の57議席を獲得したという(ただしこれ以外に30人の議員を大統領が指名できる)。それ以前にこの国には野党なんてものは事実上存在していなかったようなものだったから(なんと非与党は3議席のみだったそうで)、建国以来の与党政権に相当な批判が浴びせられたものと言えるだろう。ちなみに投票率は65%と、これまたどこぞの国と似たようなレベルである。それでも建国以来最高の投票率だったそうだが。

 お次にモンゴル。ここはソ連に次ぐ史上二番目の社会主義国となった国なのだが、事実上ソ連の衛星国とされており、社会主義を掲げる「人民革命党」が長い間一党独裁制を敷いてきた。しかしソ連の崩壊によって、この国でも民主化が目指され、前回の1996年の総選挙で人民革命党以外の政党、民族民主党、社会民主党などによる「民主連合」勢力が圧勝し、人民革命党は政権の座から転がり落ちた。時代の流れを感じたか、人民革命党は党綱領からマルクス・レーニン主義を外し、野党として政権奪還の機会をうかがうことになった。
 ところが意外にも早く政権奪還の機会はやって来た。東欧の元社会主義政権の国でも起こっている現象だけれど、社会主義与党を追ってできた政権がなかなか安定せず、また急に自由化を急ぐために貧富の格差を拡大したり経済の混乱を招いてしまったのだ。最近モンゴルでは大寒波による大規模な家畜被害という不幸があったが、これも一部には都市部の人々が商業的な家畜飼育に無謀に乗り出したための「人災」の部分があるという指摘もあった。そんなこんなの経済の混乱、政権の不安定(この春に社会民主党が「民主連合」を離脱していた)がかつての大政党への回帰を国民に志向させることになったようだ。
 そんなわけで当初から人民革命党の躍進、政権の奪還はある程度予測されていた。で、フタを開けてみたら人民革命党が議会の全76議席のうち72議席を確保(どしぇ〜!ちなみに選挙前は25議席)。過半数確保なんて生やさしいものではない。占有率約95%の圧勝。それ以外の4議席を民族民主党、国民勇気党、民主新社会党、無所属がそれぞれ1議席ずつ分け合うという有様。民族民主党・社会民主党は党首も落選している。それにしても極端な結果だよなぁ。ちなみにこの国の投票率はムチャクチャ高くて毎回90%以上は確実とのこと。

 そしてトリはメキシコの大統領選挙。こちらも「政権交代があるのでは?」と注目されていたのだ。しかしこれがまたそんじょそこらの政権交代劇とは訳が違う。メキシコの与党「制度的革命党(PRI)」は、その前身の政党が1929年に政権をとって以来、なんと71年にわたる長期政権を維持していたのである!あのソビエト連邦だって若干70年の政権だったから、このメキシコの与党は「世界最長の長期政権」などと呼ばれていたのだった。しかしそれも20世紀のうちに政権の座を降りることになってしまった。
 新大統領に当選したのは国民行動党(PAN)フォックス前グアナファト州知事(58)。いやはや、あのメキシコ革命以来の政権交代と言っちゃって良いらしい大事件なのでありました。かのサパタパンチョ=ビリャは何を思いますかねぇ。



◆「交通公社」の名の陰には…
 
  実は僕はこれでも鉄道ファンである。まぁそれほどマニアックというわけでもないのだが、一般人よりは相当な「好き者」の部類にはいると思う。当初、この「多趣味の城」を立ち上げた際に「鉄道」だけで1コーナー作ってしまったのもそのせいなのだ。だがいかんせんあれこれと手を出しすぎたため、更新どころかコーナー開設もままならず、弟の「K・E・N」に引き渡してしまった経緯がある。ま、マニア度では彼の方が上だろうし(笑)。
 
 前ふりが長かったが、そういう僕などには「日本交通公社」というお名前には少年時代から非常になじみがあるのである。一番お世話になったのはこの交通公社が出している「時刻表」だろう。僕自身はそれほどではないのだが、弟などは月刊誌のように買っている(笑)。いつからか「交通公社」と言わず横文字の「JTB」がおなじみになったが、これはいわば「通称」というもので、相変わらず正式社名は「日本交通公社」だった。僕などは日本社会のやたらな英語頭文字化傾向はあまり好きじゃないんで「交通公社」のほうが気に入ってたんですけどね。

 ところでこのたび日本交通公社は正式に社名を「ジェイティービー」にすると発表した。来年の1月から実施するそうだ。「ソニー」のパターンみたいだなぁと思っていたら、この会社名、実はなかなかに面白い歴史的背景があると新聞記事(僕の場合、朝日の)で知ったのである。
 この会社が設立されたのは1912年。中国で辛亥革命なんてやってた年である(汗)。当時の鉄道院(のち鉄道省→国鉄となる)の肝いりで、なんと外国人向けの旅行会社として設立されたのだった。その時の社名はずばり「ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)」!なーんだ、こっちの方が「元祖」だったのである。当時としてもムチャクチャにハイカラなお名前だったのでありました。まぁ外国人向けですから当たり前なのかも知れないけど。
 しかし。この調子であの太平洋戦争期をくぐり抜けられるわけがない。英語は「敵性語」として御法度になった(正確には「自主規制」に近かったみたいだけど)時代である。「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」は1941年に「東亜旅行社」に改称した。「東亜」なんてあたりが時代への迎合を感じさせるものだが、なんとこの名前にもクレームが付いた。そう、あの軍部からだ。「『旅行』は時局にふさわしくない!」というクレームなのである。この時代、この手の無茶な話が多いんですよねぇ。この事だけでも僕は戦中を否定しますね。かくして1943年に同社は「東亜交通公社」に改称したのだった。戦後は「日本交通公社」になって現在に至っているわけだ。

 そういやぁ確かに「交通」ってついているのには妙な気がしてはいた。そういう歴史的経緯があったとは…「JTB」になるのは名前に関しては単なる「先祖返り」だったという次第。
 それにしても「旅行」ができるってのは良い時代って事なんですね。しみじみ。
 


◆歴史的文書は8億円!

  1989年。この年は現時点でも世界史の教科書に特筆される歴史的な大事件がバタバタと起きた年だ。天安門事件が起こり、ベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパの社会主義政権が軒並み倒された。国内では昭和天皇の死、手塚治虫の死、美空ひばりの死、田河水泡の死…、あれ、お悔やみばっかりになってしまった(^^; )。

 この年、アメリカはフィラデルフィアの蒐集家が雑貨市で一枚の絵を4ドル(400円少々)で購入した。ところがこの絵の裏に思いがけない文書がはさまっていた。文面をみれば、アメリカ人ならすぐ分かる、あの「独立宣言」の文章。独立戦争当時の1776年7月4日(今日の独立記念日)に、のちに大統領にもなるトマス=ジェファソンによって起草され、基本的人権を唱えて世界の革命に影響を与えたあの歴史的文章である。見つけた男性は「どうせ後世に印刷された記念品だろう」と思ったが、これを見た友人が「もしかすると…」と思って専門家による鑑定を勧めた。そして結果は!なんと、1776年当時のオリジナルだと断定されたのである。
 独立宣言は起草されたその夜のうちに数百枚がフィラデルフィア市内で印刷され、独立戦争を戦う13植民地に配布されていた。絵の裏から見つかったのはその数百枚の一枚だったというわけである。その時はそれなりに大量に刷ったわけだけど、当然当時においては単なる印刷物に過ぎず、保存されると言うことは滅多になかった。こんにち、現存するのはわずか二十数枚で、いずれも博物館や公共機関に保存されているそうだ。
 1991年、この発見者はこの歴史的文書を競売にかけた。その結果、2420000ドル(約2億5000万円!)である企業が落札した。なんだか「開運!なんでも鑑定団」みたいな展開である(笑)。

 そして今年の6月29日、この文書が再び競売にかけられた。今どきの競売というやつで、当然インターネット・オークション。なんと9日間にわたる死闘の末(笑)、とうとう814万ドル(約8億5000万円…!!)で落札された。ネット競売の史上最高額だったそうである。何もそこまで、と思っちゃうところもあるが、アメリカにとっては「建国の証人」みたいなもんでしょうからね。
 


2000/7/3記

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