ラオスって国も日本人にはほとんどなじみのない国だろう。名前を言われてすぐ場所が分かる人は相当な世界地図マニアかも(笑)。かく言う私もこの国の名前を覚えたのは子どもの時に持っていた世界地図のパズル(国ごとに一つのピースとなっている)で遊んでいたからだ。
ラオスは東南アジアの一国で、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、西はタイに挟まれた、インドシナ半島の内陸部にある国だ。この国の存在が目立たないのはひとえにこのような地理条件によるところが大きい。歴史上でもお隣のカンボジアやベトナムほど世界史的事件が起こっていないこともあり、どうも存在感が薄い。もっともお隣の両国の事を考えると「世界史的事件」が起こらない方が国民にとっては幸せだったとも言えそうだが。
このラオスはもともと独立した王国だった。そこへフランス勢力が入ってきてこの国をベトナム、カンボジアと共に「インドシナ連邦」に編入させ、その植民地としてしまった。戦後、フランスがベトナムとの戦いに敗れて引き揚げると(そしてアメリカが介入してきてベトナム戦争になっちゃうわけだけど)、ラオスでは王制が倒されて社会主義政策を掲げる政府が設立された(これはベトナム、カンボジアも同様)。そしてそのまま現在に至るわけだが、これまたお隣ベトナムと同様に社会主義政策に改革を加えて市場経済を導入しつつある。
このラオスで、いま「独立戦争」が勃発している。「戦争」を起こしているのはラオスの山間部(ラオス自体が山間部とも言えるが…)に居住する少数民族・モン族だ。この2ヶ月間に、首都ビエンチャンをはじめラオス国内の各地で爆弾テロ事件が発生しており、先月14日にモン族の反政府派組織がテロ犯行を認める声明を発表したのだった。
ところで、この「モン族」とはいったいどういう歴史を経てきた民族なのだろう?新聞記事などで知ったところによれば、彼らがラオス山間部に住み着いたのはなんと19世紀に入ってから。もともと中国南部の山間部に居住していたが、なぜか19世紀になって南下を始め現在の地域に住み着くようになったんだそうだ。
この民族が本格的に「独立闘争」を起こしたのは、あのベトナム戦争のまっ最中。ベトナムで苦戦するアメリカが局面の打開を図ってラオスに介入し、あのCIAがこのモン族をたきつけてラオスの共産勢力に対する闘争活動を起こさせたのだ(「ラオス内戦」と言う)。結局この「独立戦争」は失敗に終わり、戦後にこの「反共モン族」数万人(けっこういるなぁ…)はアメリカへと亡命した。彼らはその後も地道に細々と活動を続けていたようだ(公式サイトがあるそうで、興味のある人は探してね)。一部情報では、この亡命モン族組織の活動家がラオスに舞い戻り、反政府活動を指揮しているらしいとのこと。新聞で紹介されていたが、「東ティモールの独立に刺激を受けた」「革命25周年を機に政権の不安定さを示そうとしている」などといった観測が出ている。
この「独立闘争」にはもう一つややこしい事情がかいま見える。6月28日に首都ビエンチャンのメコン川堤防の工事事務所がモン族がからむと思われる爆弾テロで破壊されたが、犠牲者の中にベトナム人が3人含まれていた。そしてこの工事事務所自体がベトナムの建設会社の建てたものだったのだ。報道によると、最近のラオスにはベトナムからの企業の進出が建設・通商分野で相次いでおり、ビエンチャン市内にかなりの数のベトナム人が入り込んできているそうだ。こういう現象は定番として現地住民の反感を呼ぶことが多いが(日本にだってある)、案の定反ベトナム人感情がわだかまってきており、そこにモン族らの反政府勢力がつけこんでいる、という構造があるようだ。これも「経済自由化の効果」の一つと言えるかも知れない。
こうした背景があるためなのか、ベトナムがラオス政府に対して大がかりな軍事援助を行っているらしい。モン族勢力が集中しているシエンクアン州(この州はベトナム国境とも接している)に最近になってベトナムが多額の支援をした軍病院が建設されることになったが、着工式にはベトナム共産党の高官や軍将校が参列。ベトナム政府は「前から決まっていたこと」とモン族活動との関係を否定したが、どうみたってモン族対策としか見えない。しかも6月の初めには首都ビエンチャン市内で武器やベトナム兵を載せた輸送車が目撃されたという。例によってベトナム政府は完全否定しているが、前述の亡命モン族の公式サイトでその写真が公開され、やはりこれも事実であるようだ。そして先月のうちにラオス人民軍の幹部がベトナムの首都ハノイを訪れたが、会談でベトナム側は「敵対勢力による破壊工作に対し、両国軍は一層協力してともに戦うべきだ」と述べ、両国共同でモン族と戦う意志を表明したと言われている。
また、一方でラオスは「モン族の背後にはタイの一部官憲がいる!」と主張していて、さらに話がややこしくなっている。当然タイ政府は否定してるけど、6月27日にラオス側がモン族の拠点とにらむタイ国内の寺院で爆弾テロがあり、モン族数人が死亡した。報道によると「モン族内の麻薬をめぐる内部抗争」とされるが、はてさて。
いま、「麻薬」という言葉が出てきたが、このインドシナ半島内陸部って、「黄金の三角地帯」と呼ばれるケシの栽培と麻薬生産の一大拠点なんですよね。モン族もこれで軍資金を稼いでいた事実があるようだ。この背後に「ネオ・ブラック・ゴースト」という秘密組織がいて…って設定は石ノ森章太郎の「サイボーグ009・黄金の三角地帯編」。ってなわけで見事に次の話題へつながる(どこがやねん)。
それはさておき、なんてったって今週の注目は初代を演じたショーン=コネリー(69)である。この人、ついにイギリス女王エリザベス2世から「ナイト」の称号を授与された。イギリスではちょっとした業績のある人ならこの称号がもらえるようで、過去にもビートルズとかアンソニー=ホプキンズとか芸能人も多数もらっている。古い話だが、シャーロック・ホームズの生みの親・コナン=ドイルももらっていたな。この称号が授与されると以後、その人の名前には「サー」という敬称が冠せられることになる。これからコネリーの出演作の映画には「サー・ショーン・コネリー」と表示されることになるわけだ。
授与式はスコットランドのホーリールード宮殿で行われた。授与式の映像をテレビで観たけど、いろいろと面白いものである。コネリーはスコットランドの正装で登場。あのスカートとしか思えないキルトを腰に身につけて登場した(「あれはスカートではない」ってやりとりは「ラストエンペラー」でも観られたな)。そしてひざまづくコネリーにエリザベス女王が剣で両肩を叩く。これで「ナイト」の出来上がりである。かのエリザベス1世が「公認海賊」ドレークをナイトにしちゃったのもあんな感じだったのかな、などと海賊史専攻の僕は連想したものだ。
儀式を終えた「サー・ショーン」は「人生で最も誇るべき日だ」と感激の感想を述べていた。もちろん「スコットランドと私にとって大変な名誉だ」と付け加えるのを忘れなかったようだが。なんてったってこの「サー・ショーン」はスコットランドの出身でありスコットランド独立運動を支援する超有名人。体に「スコットランドよ永遠に」という入れ墨まで入れているほどの熱烈ぶりだという。ちなみにスコットランドとイングランドの歴史的関係についてはアカデミー賞もとっちゃった映画「ブレイブハート」(メル=ギブソン監督)なんかが参考になる(あくまで「参考」ですが)。こうした事情もあって、コネリーはこれまで「ナイト」授与の話を断り続けていたのだという。授与式がスコットランドの宮殿で行われたのもそうした事情に配慮したんだろうな。ちなみにエリザベス女王はコネリーに「ここにはよくいらっっしゃるのですか」と質問したそうな。
それにしてもやっぱり、なんで今さら授与を受ける気になったのか、疑問は残る。記者会見でもこれに関する質問が飛び、「いつスコットランドに戻ってくるのか」という問いがあったという。これに「サー・ショーン」は「スコットランドを去った覚えはない」とお答えになったそうで。
ちなみに他のボンド役者についても出身地を調べてみたら、ティモシー=ダルトンがウェールズ、ピアース=ブロスナンがアイルランドの出身でした。
ついでに関連余談。
この話題をネットで調べていたら、もう一つ「007」に関わる情報にぶち当たった。最近の「007」愛用の乗用車はBMWと決まっているのだが、最近BMWが傘下のイギリス自動車会社「ローバー」の売却を決定。これにイギリスの労働組合が猛反発、「007は、シンボル。イギリス人の愛国心の、国際的なシンボルだ。その男がいつまでも、あんな車を乗り回していて、いいはずがない」と、ボンド君にBMWをやめてイギリス国産車に変えるよう主張している。コネリー卿がボンドを演じていた時代はイギリス高級車アストン・マーティンと決まっていたそうですが。
今回、この「三民主義」を受験科目から外すことについて、大学の学長らで作る入試検討委員会が昨年のうちに「テーマが限られており、新しい問題が作りにくい」という、まったくごもっともな技術的理由を挙げて廃止を決めていた。だから別に国民党が政権の座から転げ落ちたことと直接的関係はないんだけど、時代の空気として「国民党離れ」があったということではあるのだろう。総統就任式で歴代総統(って言っても蒋介石・蒋経国・李登輝の三人だけだけど)が必ず演説の終わりに唱えた「三民主義万歳」を陳水扁総統は唱えなかった。代わりに「台湾人民万歳」と言ったそうで。
もう一つは読売新聞で見たネタ。なんでも近々台湾では1000台湾ドル紙幣のデザインが変更になるそうで。それまで使われていた蒋介石の肖像画が消えることになったのだ。また、それまでは「大陸奪還までの暫定的措置」として「台湾省の地方銀行」から発行しているという形だったのを、「台湾政府の中央銀行発行」というスタイルに移行することになったらしい。まぁ「現実路線」と言えなくもないが。次は旧清朝の領域を「我が国の領土」としている社会の教科書(モンゴルも「中華民国」の領土なのである!)の変更かな。
ところでこの「壁」を乗り越えて西ドイツ側へ亡命しようとする試みは何度となく行われてる。西側としめしあわせてトンネルを掘って抜けちゃった「傑作」もあるが、多くは実力行使で壁を乗り越えようとし、そして東独兵士の実力行使によって即座に射殺されてしまっている。ベルリンの壁が崩壊したとき、すぐにこの射殺措置が問題となった。当初直接射殺した兵士の責任論が問われていたけど、その後どうなったのか聞いていないが、恐らく個人への責任は問うていないんじゃないかな。下のような事情からすると。
このたびベルリン地方裁判所で判決を受けたのは当時の東ドイツの支配政党・社会主義統一党(共産党)の政治局員三名だ。彼らは1984年から崩壊直前の1989年までに起こった、東ドイツの国境警備兵による「壁越え亡命者」の射殺事件4件について「殺人罪」で起訴されていたのだ。それが今月7日、三人そろって「射殺命令には関与していない」として「無罪」の判決を受けたのだった。検察側はただちに控訴する予定とのこと。
「射殺命令」がどういう経路で決定し、指示されたのかは僕もよく分からない。「最高責任者」ともいうべきホーネッカーもあの世に逝っちゃってるしなぁ。もちろん「射殺」という行為自体は大いに問題があったとは思うが、これを「殺人罪」に問えるのだろうか、と思うところはある。「殺人罪」から離れても直接撃った兵士は命令に従っただけだろうから罪に問えないと思うが、彼ら政治局員個人についてもどれだけ罪に問えるのだろうかと考えちゃうところがある。戦争犯罪でも論議になるところですがね。
そんなわけで、このネタについては今後も注目してます。