僕らが今、日常的に使つている文章の「つづり方」はせいぜい敗戦後から始まつたものにすぎない。僕らがいただいてゐる日本國憲法だつて敗戦後の産物だが、あれの本文は「旧仮名遣ひ」で書かれてゐる。当初これも「大日本帝國憲法」と同様に「文語文」(古文と同じ奴ね)で制定作業が進んでいたさうだが、最終段階で話し言葉と同じにする「言文一致」スタイルがとられて(当時さういふ文章の普及運動があつたんださうで)今日見る形になつたといふ経緯がある。それでも仮名遣ひは旧式のままだから、この当時はかう書くのが当たり前だと思われてゐたわけだ。うーん、この文章、試みに旧仮名遣ひで書くといふ暴挙を行つてゐるのだが、現代風の砕けた文章には似合ひませんな(笑ひ)。
日本でも今もつて旧式の仮名遣ひにこだわる人も一部にはゐるが、圧倒的少数派でしかなく旧仮名遣ひはほぼ絶滅状態と言つて良い。ところが似たやうな「綴り方問題」は欧羅巴にもあつて、こちらはなかなか簡単に「旧式」が絶滅するやうすを見せないのである。
讀賣新聞で見た話題なのだが、獨逸(ドイツ)ではつい二年前から「独逸語の新正書法」なるものが発効してゐるさうだ。僕は獨逸語は全く習つたことがないので良くは知らないだが、獨逸語特有の文字の使用(ワープロやパソコンで「欧州文字」なんてのが入つてゐるが、あれがさうなんだらう)や外来語の表記などに繁雑さがあり、「獨逸語学習の妨げになる」との意見が多かつた。そこで独自文字の使用頻度を減らし、外来語表記も簡略化した「新正書法」が制定され、官公庁や報道機関、そして教育現場に於いてもこれの使用が義務づけられることとなつたのださうな。
ところが、つい先日の7月26日、獨逸の有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」が「新正書法は失敗だつた。もう使わん」と言ひだし、8月1日付の紙面から旧式の綴り方に戻すことを表明しちやつたのである。この新聞の意見によれば「国民の九割がプライベートでは旧来のつづり方を使つてゐる」「多くの出版社が新正書法を拒否してゐる」のださうで、さらに「新正書法では獨逸語習得が容易になるどころか、獨逸語の統一性も保つことができない」と主張、政府の政策に真つ向から反旗を翻したのである。有力紙がかういふあからさまな態度を示したあたり、この「新正書法」が国民に今ひとつ浸透していない現状が示されているやうだ。この新聞の「決断」により、獨逸國内でも「綴り方論争」が再燃しさうだ、とのこと。…日本なんかじや某超保守系新聞でも記事では旧仮名遣ひを使ひませんからねえ、割とあつさり「乗り換え」に成功するのは日本人の國民性かも知れませんな。
こうした綴り方問題は獨逸の隣國・佛蘭西(フランス)にもある。佛蘭西語は大學の教養課程で取ったことがあるので覚へがあるが(文法等はあつさり忘れてしまつたが)、佛語の綴りはやたらに難しい。読みもしないくせに飾りで書く字がいっぱいあるのだ。英単語でも妙に読まない文字の多い単語にお目にかかることがあるが、これらは佛蘭西系の言葉であることが多い。お陰さんで佛語の単語習得には大変な苦労を強いられた覚へがあるのだが、だうやら本場お佛蘭西でも事情は同じであるやうで、あの綴り方は佛蘭西人にとっても苦痛であつたやうなのだ。そこでやはり「発音に即した新しい綴り方を普及させませう」という運動が行はれてゐたりする。ただ、そこは「我こそ文化の中心地」思想の強固な佛蘭西人のこと、「美しい佛蘭西語を守れ」といふ学者などを中心に激しい抵抗運動もあつて綴り方改革はなかなか進んでゐないさうだ。かつて苦労させられた私などはこの改革には大賛成なんだけどな。似たやうな話は中國の「簡体字」とか韓國の漢字使用問題なんかにもありますね。
…ふう、思い付きでやつてしまつたが、通常の倍の時間がかかつてしまつた(笑ひ)。読む方も疲れるでせうが、書く方も疲れるんですわ。自分で書ひてゐてもなんか正しく書けてゐる気がしない(^^;
)。以下、現代風綴り方に戻らせていただきませう。
◇一年後のコメント◇
このエセ旧仮名遣い記事は当時の掲示板などでちょっとした話題を引き起こしまして、なかなか懐かしい思い出になってます。今読むとちとチェックが甘かったなぁと思うところも多いですね。
先日の7月16日付「史点」で国会議事堂占拠事件が一応の「決着」を迎えたことを書いた。チョードリ前首相以下の人質は解放されたが、武装グループを指揮しているジョージ=スペイト氏の要求でジョゼフ=イロイロさんが新大統領となり、組閣人事もスペイト氏の意向をかなり汲んだものになるらしい、などと僕は書いている。「やったモン勝ち」なんてことも書いた。ところが、である。事態はまたもや思わぬ急展開をとげることになっちまった。
7月26日、このスペイト氏がなんと「逮捕」されてしまったのだ。 軍側の発表によると、この日の午後九時ごろ、スペイト氏が仲間と共に首都スバ近郊の軍のチェックポイントを通ろうとしたのだが、この際に「脅迫的な行動」をとったため、軍は「武器の不法所持」を理由にスペイト氏とその部下三人を逮捕した。この際にドンパチがあったとの情報もあるが、詳細は不明だ。
スペイト氏が逮捕されて、その指揮を受けている武装グループ側が黙っているわけはない。しかし国軍が先手を打つ形で翌27日の午前中、スペイト氏の武装グループが拠点にしていた学校を急襲し、約30名を拘束した。この際にやはり銃撃戦があって武装グループ側が一人死亡、という情報も流れたが、どうやら実際には「鎮圧」時に使用した催涙ガスの影響による死亡だったらしい。急襲した軍の側は怪我人一人とのことで、どうもハデな戦闘を繰り広げた様子はない。聞く限り、今度の一連の騒動の死者ってまだ3人ぐらいじゃなかったかな。
かくして27日までに武装グループやスペイト支持派の360人以上が身柄を軍によって拘束されてしまった。一時は「勝利」かと思われたスペイト派であったが、急転直下、軍によって徹底鎮圧されてしまった形だ。最初からこのつもりだったとしたら凄い謀略なのであるが…。
今にして思えば軍の行動は最初から複雑怪奇だった。武装グループと敵対する姿勢を見せるかと思えば、急に政府を潰して武装グループ側の要求を飲みだしたり、そうかと思えば武装グループと長々と駆け引きを続けてみたり…僕はけっきょくのところ軍がその場その場で対処していたように感じるんですけどね。
イロイロ新大統領がスペイト氏の要求により就任したあたりまでは両者の関係は良かったのだろう。人質の全員解放と引き替えにスペイト氏らの罪はいっさい問わない旨の約束も交わされていたようだ。しかしその後の組閣段階でスペイト氏側が不満を見せはじめ、またもや武力をチラつかせて脅迫を始めたあたりから、また情勢が流動的になった。スペイト氏が逮捕された当日も当初は新政権の閣僚名簿が発表される予定になっていたのだが、スペイト氏の脅迫により延期に追い込まれていた。そしてスペイト氏側が「内戦」をチラつかせたことで軍部が「完全鎮圧」を決意したということのようだ。それにしてもスペイトさん、あっさり捕まっているところをみると不用心ではあったような。逮捕された理由は「武器の不法所持」だが、どうやら「国家反逆罪」にも問われそうな空気である。まさに天国から地獄。
その後武装グループの一部による蜂起や占拠なども地方では起こっているようだが、とりあえず7月28日にライセニア・ガラセ氏を新首相とする新内閣の就任式が無事執り行われた。閣僚人事は一時決定したものと大差はないが、スペイト支持派は一人残らず排除されているとのこと。そりゃそうでしょう。
今度の騒乱では「フィジー系住民とインド系住民の対立」が背景に存在していたが、新内閣はこの件の解決にも乗り出すつもりのようで、閣外相(どういうものかよくわからないんだけど)としてインド系の人を一人採用。また「国民和解相」なるポストを新設してガラセ新首相が兼任するとのこと。
これでなんとか丸く収まると良いんですけどねぇ…。
やや前の話題になるが、7月12日に鳥取県埋蔵文化財センターが、同県青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から二世紀後半(弥生時代後期)の人骨・約4000点が出土したと発表した。この4000という数字はあくまで「部品数」であって、人数としては53人ぐらいに相当するという。注目されたのはそのうちの約10体分の89点。どこが注目されたのかというと、この89点の骨にはいずれも「戦傷」と思われる傷が残されていたのだ。壮年男性の骨盤と10代前半の性別不明の骨盤には約3pの銅製の「矢じり」が刺さったままだった。大きくても13歳ぐらいのものと思われる上腕骨にも金属製の武器が食い込んでいたという。
二世紀後半といえば、かの邪馬台国の話が出てくる「魏志」東夷伝に「倭国大乱」と書かれた、まさにその時期。この時期の戦乱の発生は吉野ヶ里遺跡のような「環濠集落」の存在により確実視はされていたが、人骨に武器が刺さっているという、まさに直接的な証拠が今度の発掘で初めて見つかったわけだ。それにしても子供の被害がもうあったというのは痛ましいというか、おぞましいというか。乳児の骨もあったそうだから、ジェノサイドの現場だったかも知れないなぁ。
7月21日には福島県飯野町の和台遺跡(南東北最大級の縄文遺跡だそうな)から縄文時代中期末(4000年前!)のものとみられる土器が見つかった、との発表があった。まぁこのぐらいの土器が出てくることは珍しいことではないんだけど、これまた大いに注目すべき点があった。ツボ型の土器なのだが、その側面に弓矢を持った人間の手足とイノシシと見られる絵というか文様が描かれていたのだ。この手の土器は「狩猟文土器」と呼ばれて青森や北海道などで見つかっていたが、これほど南部で、しかもこれまで見つかったものより古い時期のものだったことが注目されるのだ。この手のデザインの土器は狩猟の成功や豊かな生活を祈って製作されたのだろうが、そうした文化が南から北へと伝わっていった可能性が考えられるのだという。
弥生、縄文、と続いてまた弥生時代に話が戻る。朝日新聞で読んだネタだが、静岡県登呂遺跡から出土した炭化米を静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授がDNA分析したところ、これが東南アジアあたりで焼き畑栽培され陸稲に適している「熱帯ジャポニカ米」であることが判明したそうである。登呂遺跡、というと「水田」というイメージがあり(実際にそうした遺物も出ているが)、縄文末期から弥生時代に始まった日本列島の稲作は「水稲」という固定観念があったわけだが、そのイメージ作りに貢献した当の登呂遺跡から「陸稲」の痕跡が見つかっちゃったわけである。水稲ならば「温帯ジャポニカ米」というのの方が適しているのだそうだが、登呂だけでなく最近までに「熱帯ジャポニカ米」の発見が数例あって、弥生=水田という定説を覆す可能性があると学界で論議になっているそうである。また陸稲の栽培があったとなれば、話は縄文時代にまで広がることになる。つまり水田の痕跡が無いからと言って稲作をしていなかったことにはならないからだ。
弥生、縄文、弥生、ときて話は一気に旧石器。それもウン十万年もの大昔。先日、「秩父原人?」の件で「史点」でも取り上げた埼玉県・秩父の長尾根遺跡から今度は「墓?」と思われるだ円形の穴が2つ見つかったとの発表が7月28日に埼玉県教育委員会からあった。1つが長径約130センチ、短径約90センチ、深さ約60センチで、もう1つが長径約90センチ、短径約60センチ、深さ約30センチだったとのこと。小さい方の穴からはへら状やなた状の石器が数点出てきたという。
「墓かもしれない」という説の根拠だが、「穴の形や大きさが繩文時代の屈葬墓の構造と似ている」「穴の底が黒い有機の土である」「当時としては貴重な石器が穴に入っている」の三点が発表されていた。ただなにぶんにも酸性の土壌のため人骨は溶けてしまう土地なので、骨の発見はまず期待できず、決定打は今のところまだだ。土の中の成分を分析したらもしかして、とは言われている。
もしこれが墓だとすると、大変な問題なのだ。これまで「人類最古の墓」と考えられていたのはイラクの遺跡で見つかった6万年前のもので、いわゆるネアンデルタール人が作ったとされているものだ。今回の秩父のそれは35万年も前のもので、無茶苦茶な記録破りということになる。あんまり古すぎるんで、慎重論を唱える人も少なくないようだけど…「原人」段階の精神性を考えさせる発見であるとは言える。
この秩父では先日「50万年間の住居跡?」が見つかり、これまた大変な記録破りであったのだが、それと合わせて今回の「墓発見」は「人類史」を揺るがしかねない大発見かもしれないのだ。
…もちろん、秩父の原人が現在の日本人の直接の先祖だってことは無さそうなんですけどね。
◇一年後のコメント◇
最後のネタはご存知のとおり、このあと「捏造工作」が発覚して大騒ぎになる、あのアマチュア考古学者が関わっていたため今ではすっかり否定された形になっているもの。僕も少々「住居」の話には気が引けつつも「学者さんの言うことだからまぁ大丈夫なんだろう」と思ってこんなことを書いている。これはこれで貴重な記録でありますね。
その最新作として、ついにあの「太平天国」が中央電子台(まぁNHKみたいなもん)でドラマ化され、7月から全46回の放映が開始されたのだそうな(元ネタは28日付「読売新聞」)。「太平天国」とは、アヘン戦争後の混乱期に、洪秀全という人物が「上帝会」なるキリスト教的宗教組織をつくり、これを中心として清朝打倒を目標に起こした大反乱だ。話によると、この洪秀全は科挙の試験に何度目かの落第をしてそのショックで発熱して寝込み、その夢の中で神の声を聞いちゃって「自分はキリストの弟だ」と名乗り始めたことになっている。受験地獄の反動の恐ろしさを語る恰好の題材になっちゃってるんだけど、そんな彼が目指した「太平天国」なる国家構想はそれなりに評価すべき点が多いことも確かだ。ちょっと変とは言えいちおうキリスト教的な平等主義精神にのっとっていて、女性の足を幼児から固定して小さくする纏足(てんそく)という習慣をやめさせたり、「天朝天畝」という土地の平等分配を政策として掲げた(ホントにやったかどうかはともかく)ことなど、一概に宗教反乱で片づけられないところがある。一時南京を首都にして中国南部を支配するまでになったが、そのころには内部抗争や洪秀全以下幹部の堕落がひどくなり、官軍による鎮圧よりも自滅していったという観が強い。
中国共産党が毛沢東のもとに天下を取ると、過去の農民反乱のたぐいはみんな「偉大なる農民革命起義」とか呼ばれて高く評価され、それらの指導者−−陳勝・呉広から張角、黄巣、宋江(これは『水滸伝』のイメージだけど)、李自成、そして洪秀全にいたる「反乱者」たちは一転して「革命の英雄」に祭り上げられることになった(ついでながら僕の専門である「後期倭寇」も似たような扱いをされていたものだ)。とくに洪秀全なんかは政策的にも社会主義と相性がよさそうなので、とくに高く評価されたように思う。さすがに毛沢東以後の中国はそれほど歴史に対して教条主義を振り回さなくなったが、「太平天国」をわざわざTVドラマ化する背景にこうした評価がある程度影響していることは確かだろう。昨年あたりは清朝の皇帝の「雍正帝」をドラマにしていて、これについても現政権とダブらせているのでは…との憶測もあったっけ(どの辺が?って気もするけど)。
しかし。この話を聞いたとき僕ですら考えたものだが、やはり共産党幹部で一抹の不安を覚えた人はいたようだ。その読売の記事のメインがこれだったのだが、国家放送映画テレビ総局(と、読売は訳していた)の吉炳軒副局長が放送開始後、全国紙「光明日報」に、「ドラマ『太平天国』に、積極的に正しく対処しよう」との論文を寄せ、観賞の「指針」を示したそうである。そう、「太平天国」はなんだかんだいっても宗教結社をメインに起こされた大反乱。ちょうど一年前の「史点」をご覧になれば、中国共産党政府が一抹の不安を覚えるのがすぐ分かるはずだ。あの「法輪功」とダブらされたらたまったもんじゃない、ってことなのだ。気になるぐらいなら最初からやらなきゃいいだろ、って気もするのだが、その辺はもうドラマ制作部門が結構自由に動いているってことなのかもしれない。
ところで来年の日本の大河ドラマは「北条時宗」。すばりモンゴルの襲来が描かれるわけだが、これも深読みすれば政治性を感じ無くはなかった。決定が発表された当時、例の米軍との防衛協力の指針「新ガイドライン」の国会通過でもめていた時だったからだ。もちろん深読みだとは思うのだが(大河のテーマ決定ってかなり早いと聞いているので)、このテーマは「正しく」やらないと危ないよなぁ、それこそ。
再来年は「利家とまつ・加賀百万国物語」だそうだが、これが決定・発表されたのはその加賀の出身である森喜朗さんが首相になっちゃった直後のことだった。まさかねぇ…(笑)。