ニュースな
2000年8月20日

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 ◆今週の記事

◆あの人が聖人になりました
 
 誰かと申しますと…ロシア帝国ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ2世なんですね。この人を「聖人」に列しようとロシア正教会が画策しているものの反対もあって難航している、という話題は確かこの「史点」でも取り上げた記憶がありますが…それが、とうとうホントに聖人になっちまったのでありますね。
 8月14日、ロシア正教会の高位聖職者会議は、ニコライ2世、その皇后アレクサンドラ、そして皇太子アレクセイほか4人の皇女たちを含む860人(!)を新たな「聖人」と認定することを決定した。この860人のほとんどはソ連時代に政府により殺された人たちだそうで、ソ連が崩壊して復活を果たしつつあるロシア正教会にとってかつてのソ連に対するあてつけとそれ以前のロシア帝国時代への郷愁を示す狙いがあったといえるだろう。実際、ニコライ2世は「聖人」の中の「受難者」カテゴリーに入れられるのだそうだ。
 それにしてもロシア史上の有名人はかなりの確率で聖人に列せられてしまっているようで、今回の860人の聖人認定というところをみても、なんか死後にあげる勲章程度の価値なのかも知れないな。もっともレーニンやスターリンが「聖人」にされるとはおよそ思えないが(笑)。
 
 しかしめでたく「聖人」とされたニコライ2世であるが、ホントにこの人を聖人にして良いのかという声がロシア国内に強くあるのも事実。ニコライ2世は「暴君」とは呼びがたいものの、どうひいき目に見ても「名君」とは言い難い人物だ。この皇帝の治世において、ロシアは日露戦争に苦戦し、それによって生活に苦しむ市民のデモを武力鎮圧した「血の日曜日事件」が起こり、第一次世界大戦にも参戦してますます国民を窮乏させ、ついにロシア革命が起こってロマノフ王朝は滅亡することになったのだ。
 ニコライ2世自身が積極的に関与してこうした危機を招いたとばかり極論はしにくいところもあるが、少なくとも国民を苦しめているという自覚にはかなり欠けていたことは確かだ(このあたり、ちょっとフランス革命の際のルイ16世一家に似たところもある)。「血の日曜日」事件の日の日記がNHKの「映像の20世紀」で紹介されていたが、ごくごく日常的な家族との生活が書かれているばかりで、宮廷の外で何が進行しているのかほとんど関知していなかった節もある(一家庭人としては良き父・良き夫であったことは確かなのだけれど)。また、この宮廷には怪僧ラスプーチンなどという怪しげな人物も出入りして実際に政治に影響力を持ってしまったこともあり、この点でもニコライの評判はよろしくない。
 彼の直接的な失点ではないのだが、ついでに言うならニコライは皇太子時代に日本を訪問し、大津でロシアに警戒感を抱く警官に斬りつけられるという災難にもあっていた(大津事件)。この時日本人医師の診察を拒絶したそうだが、まぁこんな災難に遭った場合、気持ちとしては分からなくもない。さらに脱線すると、この際に犯人を死刑にしようと圧力をかけた日本政府に対し、裁判所があくまで「傷害事件」として扱い無期懲役にしたという故事は、「司法権の独立」の説明をする際に定番で使われてますね。

 ロシア革命が起こり、ソビエト政権が樹立され、革命と反革命の両勢力、そして外国の干渉も絡んでややこしい内戦状態になる中、1918年7月にニコライ一家はエカテリンブルクで革命軍により銃殺された。ソ連崩壊直前の1991年にニコライ一家のものと思われる人骨が発掘され、98年にDNA鑑定の結果、「本物」と認められた(この際にいわゆる「皇女アナスタシア」はやはり一緒に死んでいたことが判明した)。遺骨はそのままサンクトペテルブルクのペトロパブロフスク聖堂に歴代皇帝とともに葬られた。もっとも正教会の総主教はDNA鑑定の結果を信用できないとして埋葬式に出席しなかったなんてこともあったそうだが。そして去年辺りから「聖人」にしようという運動が起こっていたのだった。

 この聖人認定のニュースに出ていたのだが、ニコライ一家の親族の中で最年長となるニコライ=ロマノフ大公なる人物(やっぱりいるんですねぇ、こういう人が)がコメントを出していた。「ロシア国民にとって非常に重要な知らせとなるだろう」とのこと。



◆沈没の艦隊
 
  で、そのロシアの今の話である。先週に続く潜水艦シリーズだったりもする。140年ぐらいの開きがあるけど。
 それにしても大変に悲惨な、痛ましい事故だ。もうさんざん報道されているから詳しい説明は省くが、ロシア海軍の原子力潜水艦「クルスク」が北極圏のバレンツ海で事故を起こし、百十八名の乗員と共に百数十メートル海底へ沈没してしまった。原因について当初ロシア政府は「巨大な物体に衝突した」として他国の潜水艦が接触した可能性を表明していたが、どうもその後アメリカやヨーロッパ側の発表した観測データ、そしてロシア海軍の上層部が洩らす情報などにより、潜水艦「クルスク」自身が魚雷か何かで爆発事故を起こした可能性が強まっている。もちろん現時点ではまだまだ不明な点が多いのだが…

 それにしてもこの事故の展開でいろいろと見えてくるものがある。一つは北極海ってのが相変わらず各国の潜水艦やら何やらがひしめきお互いを監視してにらみ合う海だということ。よくある赤道を真ん中に配置した世界地図だとピンとこないのだが、北極を中心とする世界地図を眺めるとこの海の戦略的な重要性がよく分かる。アメリカとロシアという超大国がこの海を挟んで対峙している形になっているのだ。かつての冷戦時代においてはそれこそムチャクチャ緊張した海だったんだろうなぁ、と思うところ。海の表面は氷に覆われているものの、潜水艦はその下を往来しており、冷戦が終結したといわれる今でもこの海はまだまだ緊張を続けているようなのだ。今度の事故だってノルウェーの地震観測所がバッチリとらえていたし、おそらくNATO各国も直後に確認していただろう。

 もう一つこの事故で見えてくるのが、どうもこれはソ連時代以来の伝統のような気もするんだけど、ロシア海軍・政府当局の方々に「責任回避+責任転嫁」と「機密保持+事実隠蔽」の体質が濃厚に現れたことだ。もっともそれらはほとんど直後に暴露されちゃったので、日本のお役所におけるそれよりは長く尾を引かなかったような気もするけど(日本が「成功した社会主義国」などとブラックジョークで言われちゃうのもこの辺に由来があるんだろうな)
 さっきも書いたが、当初ロシア海軍・政府当局はこの事故が「他国の潜水艦・艦船との衝突」であるようなことを匂わせていた。各種マスコミに「事故にアメリカの対潜哨戒機二機が演習海域に飛来した」とか「バレンツ海にいた米潜水艦がノルウェーに五日間の緊急寄港許可を求めた」といった、「米潜水艦関与説」が盛んに流されている。また「クルスクは沈没ではなく海底に下降した」「クルスクの乗員と接触できた」「海上からクルスク艦内へ酸素と電気の供給が行われている」「乗員は全員無事」「クルスクの二つの原子炉は停止された」などなど、多くの虚偽情報までが流され、事故そのものの深刻さを隠蔽しようとするかなり姑息な情報操作も行われたとのこと。だいたい事故の発生日まで二日ほどずらして発表し、艦内からのモールス信号が途絶えたのも当初の発表より二日ほど前のことだったようだ。酸素が尽きるまでがどうのこうのという話もあったが、どうやら爆発事故の直後にほぼ乗員全員が死亡したのでは、と今ごろになって見解が出ていたりする。
 ロシア海軍の最高指揮官であるプーチン大統領は、たまたま休養で黒海沿岸の保養地に行っていた。ところがこの大事故だというのに、なかなかモスクワに戻ろうとしなかった。結局予定を切り上げてモスクワに戻ってきたものの、やはりどこか「責任回避」をしたい気分が濃厚に感じられ、国民の批判を受けている。そういえばこの大統領、潜水艦に予定外で乗り込んで一晩明かしたりもしてたっけなぁ…戦闘機にも乗ったしね。そういう「強いロシア・強い大統領」というイメージで売ってきただけに、今度の事故は彼の政権にとって打撃であるのは間違いない。



◆離散家族再会であれこれ

 8月15日は日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した「敗戦の日」だ。「終戦記念日」という言い方が定着しているが、ま、負け戦をした方というのはそういうもので。
 おとなり朝鮮半島では、この日は日本の36年にわたる植民地統治が終わり、民族の国家の復活=「光復」を果たした記念日、「光復節」となっている。こちらは「降伏」、あちらは「光復」。お隣さんどうし語呂のよろしいことで(笑)。
 
 さて、今年は6月にあの歴史的な南北首脳会談があり、朝鮮半島は緊張緩和と和平ムードに一気に傾いた。一時「光復節に金正日総書記がソウルを訪問するのでは?」との観測も流れたが、さすがにこれはなかった(年内にあるかどうかというところだろう)。その代わり、南北間の大きな懸案である、離散家族の対面がこの日に実現することとなったのだ。
 離散家族とは、主に1950年に勃発した朝鮮戦争による混乱で家族間で生き別れになってしまった人々を指す。朝鮮戦争という戦争の展開を大雑把にまとめると、まず北朝鮮軍が一気に南下して一時半島全土を制圧しかけた。しかしマッカーサー率いる国連軍(実質的には米軍)が「仁川上陸作戦」を実行して反撃、逆に北朝鮮軍を半島の北辺の彼方へ追いつめる。ところが今度は米軍の進出を恐れる建国間もない中華人民共和国が北朝鮮に大規模な援軍を派遣、一気に支配地域を巻き返して、ほぼ真ん中の38度線付近で南北がにらみ合う形になった。そのまま休戦状態で今日に至るわけだが、とにかく朝鮮半島全土を戦場と化したといってもいいぐらい動きの激しい戦争である。この混乱の中で多くの住民が死に、あるいは生き別れとなり、戦後も全く体制の違う二つの対立国家に分断されてしまったために行き来も連絡もままならない状態になってしまった。こうした離散家族は南北で合計して一千万人以上に上るというから(韓国だけで700万人はいるという)、いかにこの問題が南北双方にとって重大かつ深刻な懸案であるかが分かるというもの。ましてや戦争から半世紀が過ぎ、離散した家族たちも高齢となっており、確認・再会は緊急を要することになってきている。

 しかしこの8月15日に再会を実現できたのはわずかに南北双方から100組ずつのみだった。今回選ばれたのは親兄弟など直接の親族に限られていたし、北側からソウルにやって来た離散家族の人々はどうも北朝鮮国内で高い地位についている人が中心となっていたようだ。大切な一歩には違いないが、余りにも小さな一歩でもあった。一千万人のうちの200組だもんねぇ…。
 今度の感激の再会シーンを見ていて、やはり改めて目に付いたのが朝鮮・韓国の人達の儒教的な要素の強い肉親愛・郷土愛だった。特に「親孝行」とか「先祖の墓守り」などをおろそかにしていた事に対する謝罪を口にして泣き崩れる場面が多く出ていたように思う。日本人にもそれらが無いとは言わないが、やはりあちらの方がずっと強烈だ。
 今回の再会訪問の直前に、北で109歳の母親が生きていたと聞かされ感動して再会を楽しみにしていた韓国のある老人が話題となっていた。このニュースを聞いて僕も「良く生きていたものだなぁ」と感心していたものであったが、残念ながらこれは北の赤十字の確認ミスで、母親は実際にはすでに亡くなっていた。嘆き悲しむ老人だったが、特別に北にいる親戚との面会を果たすため北への訪問団に加えてもらうことになった。

 それにしてもこんなペースでは離散家族全員が確認をとり再会を果たすまでいつまでかかるかわかったものではない。そこで登場するのが民間による離散家族の確認・再会ビジネスである。朝日新聞で読んだネタなのだが、こうした確認・再会ビジネスが大変な盛況になっているらしい。相場は「生死確認」が700〜1000ドル(約7万7000―11万円)、「再会」が8000〜1万ドル(約88万―110万円)とのこと。特に再会に関してはかなりの高値だが、離散家族との再会が果たせる額としては安いかも知れない。実際、ここ数年でこうした民間の再会仲介業者によって、昨年だけで生死確認が481件、再会が195件も実現しているのだという。南北首脳会談も行われていない昨年の段階でこれだけ成果をあげているとはちょっと驚きだった。
 ところでこうした民間の仲介業者がどうやってあの北朝鮮の人々の生死確認や再会などを実現できるのかというと、間に北朝鮮と密接な関係を持つ中国をはさみこんで情報をやりとりしているのだ。特に北朝鮮と国境を接する東北部には中国籍の朝鮮族が住んでおり、彼らや中国の貿易業者などが北朝鮮に入国する際に確認調査の協力を依頼するのだそうだ。こういう仲介業者が韓国内にすでに40団体以上もあるといわれ、韓国政府も追認する形で補助金を出しているとのこと。
 どうもこういうことってのは民間レベルの方が一歩進んじゃってる観もありますね。



◆推古天皇のお墓か?
 
 推古天皇、といえばたいていの日本人はまず名前ぐらいは知っているはず。なにせ歴史の授業に嫌気が差さない初めのうちに出てくるし、あとで受験勉強する際もこのあたりまでは努力が持続している人が多いからだ(笑)。資料的に確認する限りの最初の女性天皇として知られるが、教科書なんかじゃどちらかというと「聖徳太子が摂政についた天皇」という程度の扱いのようである。どうしても太子のほうの存在が大きくなっちゃってるんですよねぇ…しかし一方で推古女帝は単なる飾りものではなく案外強い権力を持っていたとする人も出てきている。
 で、この推古天皇の「お墓発見?」とのニュースが8月17日に流れた。奈良県橿原市の「植山古墳」というのが問題の古墳。ここから巨大な横穴式石室が二つも発見されたのだ。古墳そのものの規模は大したサイズではないのだが、その石室の規模は石舞台古墳(こちらは蘇我馬子の墓?と言われてますね)に匹敵する大きさで、開閉式の石の扉までついていた。これらが埋葬された人物がかなりのランクである可能性を感じさせたという。そして、この古墳の所在地、二つの石室から年代のやや異なる土器が出たこと、一方の石室に石棺が無く、どうも運び出されたものであるらしいことなどから、「古事記」「日本書紀」の記述と符合する点がいくつかあり、どうやら推古天皇とその皇子・竹田皇子を葬ったお墓なのでは、と推測されているのだ。

 竹田皇子は推古天皇の子供であるが、母親より先に亡くなっており、どうもこのあたり謎が多いらしい。「日本書紀」の記述によれば、あの蘇我馬子が聖徳太子らとともに物部氏を滅ぼした戦い(587年)に参加したことが書かれているものの、以後の消息が分からないという。聖徳太子ともども次の天皇になる可能性を十分にもっていた人物と思われるだけに、何らかの陰謀に巻き込まれたか、さもなくば完全に皇位争いの圏外に追い払われたかどちらかのようだ。なにせこの時期は血なまぐさい陰謀話が多いですからなぁ。この植山古墳がサイズが小さい割に石室がデカい点について、「推古天皇の配慮があったのでは」とする学者の推理も出ているようだ。
 推古天皇自身はけっこう長生きをして、聖徳太子も亡くなったあとの628年に亡くなっている。五穀が実らず人民が飢えたため、推古天皇は自分の墓を作ることなく子の竹田皇子の墓に合葬してくれるよう頼んだと「日本書紀」は書いているそうだ(買って読めば良いんだけど確認するヒマがなくって)。この植山古墳が「推古天皇の墓」と推測されるのもこの合葬形式であったからだ。さらに、「古事記」は推古天皇の墓について「はじめ大野岡にあったが科長(しなが)に移した」と記していて、どうもこの「大野岡」という地名がこの植山古墳のあたりを指しているらしいのだ。「科長」というのは現在の太子町付近で、いま宮内庁はこちらにある「山田高塚古墳」を推古天皇陵に指定している。植山古墳にどうやら石棺が移動された痕跡があることからも、この古墳が「もと推古天皇陵」である可能性がかなりあることになる。

 ところでこの古墳の調査は別の意味で重要なところがある。日本の各地の「天皇陵」は宮内庁が管理しており、その発掘は毎年のように考古学者から要請が出されているものの、一向に許可してくれる気配はない。天皇陵は天皇のご先祖の墓だから「神聖にして侵すべからず」ということである。もっともよく言われていることだが、天皇陵の、とくに古墳の指定は明治時代に「古事記」「日本書紀」の記述などをもとにして大急ぎでやってしまったためにかなりいい加減な部分があるのも事実で、そのほとんどについてその被葬者が本当に「○○天皇」であるという保証はない。最近の教科書で「仁徳陵」とか書かなくなった理由もそこにある。確認したければ掘ってみた方が良いのだが、それは断固として拒絶されてしまっているのが現状だ。
 その裏をかいて…というわけでもないのだが、宮内庁が指定していない古墳で「実は天皇陵?」と言われているものがいくつかあり(確か継体天皇陵も指定外の古墳が「本物」と推測されている)、それらの発掘調査で天皇陵の実態が明らかになるのではと期待されている。この植山古墳についても、「天皇陵の調査」という期待がされているとのことだ。
 


2000/8/20記

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