ニュースな
2000年10月8日

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ


 ◆今週の記事

◆紀元4333年!
 
 何の「紀元」かすぐに分かった方は相当の「通」ですね。もっともすぐお隣の国の話なんだけどなぁ。
 10月3日は韓国では「開天節」という祝日になっている。現在の大韓民国が成立した直後に憲法で四つの国民の祝日を決定したが、一つは元日、一つは憲法記念日、もう一つは日本の植民地支配から解放された「光復節」、そしてもう一つはこの「開天節」だ。
 この「開天節」とは、日本で言えば「建国記念の日」にあたる。あたる、というかその意味深な性格も含めて非常によく似た祝日となっている。さらにハッキリ言っちゃえば、この「開天節」というやつ、日本の「建国記念の日」のルーツである「紀元節」のモノマネなのだ。「紀元節」は日本の初代天皇とされる神武天皇が即位したとされる日を『日本書紀』の記述から類推して(この類推には数度の計算し直しを経ている)決めちゃったものだが、こちら「開天節」は朝鮮民族にとっての伝説的「建国の父」である檀君(檀君王倹)が、いわゆる「古朝鮮」を建国した日を記念日としたものだ。神武天皇の即位年は西暦だと紀元前660年とされているが、檀君紀元元年はもっとブッ飛んじゃっている。なんと紀元前2333年となっているのだ!つまり今年は檀君紀元4333年。檀君は即位以前に数百年も生き、即位後も数百年生きていたとか言われており(神武天皇だって120才ぐらいなんだけど)、韓国人・朝鮮人が「我が国5000年の歴史…」という中国人もビックリのフレーズを使うことがあるが、その根拠は一応ここに求められている。うーん、こう並べてしまうと日本の建国神話もまだまともに見えてくるから恐ろしい(笑)(まぁ日本でも最近「縄文文明」を過大に強調して「一万年の歴史」とか言い出す人が出てきているので余り笑えないが)

 いわゆる「檀君神話」について軽く紹介しておこう。帝釈天(いきなりこれである)の庶子に桓雄という者がいた。これが三千人の部下と神々を引き連れて太白山の山頂に天下った(このあたりは日本の天孫降臨ばなしとよく似ている)。そこへ熊と虎がやってきて、人間になりたいと申し出る。桓雄はヨモギとニンニクと二匹に与えて「これを食べて百日光を見なければ人間になるぞ」と言った。そこで熊と虎はこれを実行するわけだが、熊は成功し、虎は失敗する。熊は人間の女性となり、桓雄と結婚して子供を産む。この子どもが檀君王倹で、平壌に都を置いて「朝鮮」という王国を築いたという。動物が人間と結ばれて王家の始祖となるという、神話の一つのパターンですな。

 「檀君」の神話について言及した最古の史料は、高麗時代の13世紀に書かれた歴史書『三国遺事』だ。これは同時期に国家が製作した正史である『三国史記』に比べると若干俗っぽいというか独特の記述を含む歴史書で、この檀君の物語は当時の半島における民族意識の高まりの中で増幅されたものであると言われている。檀君が持ち出されるとき、そこにはいつも多大な影響をこうむっている中国とは異なった、朝鮮民族独自の古い古い歴史像が描き出されるわけで、彼らの民族的自尊心をくすぐる効果がある。そんなわけでこの檀君神話は朝鮮人の文化意識の地下水脈として、目立たないものの脈々と流れてきたわけですな。

 ただし、この檀君神話が強烈に出てきたのは近代以降のこと。とくに日本による支配を受け、そこから抜けだそうとする中で「檀君神話」が強烈に持ち出されるようになる。中でも大ソウ[イ宗]教という新興宗教は檀君そのものを信仰の対象とし、陰暦の10月3日をその即位日=「開天節」と決めてしまった。どうもこれ、日本から押し付けられた「皇国史観」の裏返しなんじゃないかって気もするんですがね。独立を取り戻した途端に南側の大韓民国がこの「開天節」を定めた(陰暦をそのまま陽暦にしちゃったわけだが)のにも、そんな気配が感じられる。この時に檀君の即位年は紀元前2333年のことと決定され、1961年までは正式に「檀君紀元」が使われていた。そして今でも檀君の神話はちゃんと韓国の国定歴史教科書(小・中・高とも)にも載せられている(もちろん事実としてではなく、古代の青銅器文化段階を反映した説話、とするのだが…)。このあたりも戦前日本を変な形で継承しているような気もする(ちと脱線するが、日本における歴史教科書改造運動にも「神武神話」を歴史教科書に載せようとする根強い欲求がある)

 大韓民国ではそんな具合だったが、北の朝鮮民主主義人民共和国は一応科学的社会主義を標榜していることもあって、当初は「檀君」についての言及はあまり無かった。それが韓国以上に強烈に出てくるのは80年代あたりからだったと思う。このころになると北朝鮮は「世界に冠たる朝鮮民族」って感じで民族主義をあおるようになり、檀君はまさに恰好の素材となったわけだ。そして94年にはとうとう「檀君の墓」なるものが「発見」され、その中から出てきた人骨が「檀君本人のもの」と確認されてしまった(どうやって?)。壮麗な「檀君廟」まで作られ、しまいにゃ世界最古の文明の一つにまでされかねない状況だ(まったくどこでもおんなじようなことをやってる人がいるものだ)

 さて、前置きが長くなった(なんとここまでが前置きなのである!)。元ネタは韓国紙「東亜日報」の日本語サイトである。
 10月2日、韓国の国会議員で作る研究会「国と文化を考える集い」が国会内で懇談会を開き、「南北間の檀紀統一と開天節行事の共同開催」を提案したという。代表の金元雄(キム=ウォンウン)議員は開天節行事を南北共同開催によって「民族の祭典に昇華させたい」と語り、「特に檀君に関する歴史認識を統一させるために南北の歴史学者が共同研究で檀君紀元の単一化を推進すること」を提案したそうな。韓国は先述のように檀君紀元元年を即位年の「紀元前2333年」にしているのだが、北朝鮮では檀君が生まれた年である「紀元前5017年」を基準年としている(檀君さんっていったい…)そうで、これを「南北の歴史学者たちの共同研究で単一化」したいってわけなんだそうだ。

 …まぁ、近ごろの南北和解ムードの一環ととれば、それなりに明るい話題ではあるのだが、歴史をやってる者としてはちと暗澹たる気分に陥るニュースでもある。



◆「人権」が初めてやってきた
 
 この見出しを見て、どこの国の話かとお思いでしょう。僕も元ネタを見たときはそう思い、記事の内容をみて驚いた。なんと、今日の議会制民主主義のルーツとも言える国、イギリスのお話なのである!元ネタは読売新聞。

 10月2日に、イギリスで「人身の自由」「拷問の禁止」「裁判を受ける権利」「思想・信条の自由」「表現の自由」などを明記した「人権法」がようやく発効した。2年前の1998年に制定され、ようやくこの日に発効となったわけだが、驚いたことにイギリスにはこうしたことを明記して定めた法律がなかったんですねぇ。ふつうそういうことは憲法に書くだろ…と思っちゃうところだが、実はこの国、「成文憲法」というものを依然として持っていない妙な国だったのだ。
 もちろんイギリスが基本的人権の保証されないとんでもない国だというわけではない。むしろ、世界史の教科書にも載っているように、そうした「人権」思想のルーツとなった国である。ただ、この国はルーツでありすぎるために古いものがそのまんま残されている国でもある。前にも書いたように、貴族たち世襲議員からなる上院もあるし(ただいま改革中)、どこか中世の匂いを残したような制度があちこちに残っている。一つにはフランスみたいに血なまぐさい革命を余り経なかったことも一因なんだろう。

 いちおうイギリスにおける「人権思想」はジョン王に貴族達が認めさせた「マグナ=カルタ(大憲章)」までさかのぼれる。この時点では王権の制限という形をとっているが、1689年の「名誉革命」の時に出された「権利の章典」が、その後のイギリスにおける人権保証の根拠とされることとなった。これらは世界史学習の必須事項であるが、実はこの後イギリスはこれといった成文の「憲法」に該当するものは作ってこなかったのだ。それで事足りたということなんだろうが、慣習法的なやり方で対処してきたものであるらしい。そんなわけで、今度の改革は実に名誉革命以来、310年ぶりの大事件(大袈裟か)とも言われている。

 この「人権法」は現在のブレア労働党政権になって着手されたものだ。そもそも西ヨーロッパでは「欧州人権条約」なるものが1950年代に結ばれており、イギリスもこれに批准していた。しかし、このイギリスって島国は昔から「大陸とは一歩距離を置いて」という孤高の姿勢をしばしばみせる。現在のEUに対してだって、どこかそういう独自路線を見せようとしてるもんね。イギリスはこの「人権条約」については「我が国に編入するとそれが憲法と化して、我が国の国家主権をそこなう恐れがある」と主張し、批准しておきながら公式の法制化は拒み続けてきたのだった。それがブレア労働党政権の誕生でようやく流れが変わることになったわけだ。

 上院改革の件もそうだが、ブレアさんは「古いイギリス」をいろんなところで一掃しようとしているのかもしれないな。



◆10月3日のネタもう一つ
 
 一番上で韓国における10月3日「開天節」の話題をとりあげたが、この10月3日は、奇しくも韓国と同じ第二次大戦後の分断国の一つであるドイツにとっても重大な意味を持つ日となっている。そう、他ならぬ「東西ドイツ統一の日」なのだ。しかも今年で10周年、節目の年であったわけだ。
 お約束のようにこれを記念するお祭り的イベントが開かれていたが、統一の立て役者…というよりは統一の時たまたま首相だっただけ、という気もしなくはないコール前首相の姿はどこにも見られなかった。昨年発覚したヤミ献金疑惑ですっかり「晩節を汚す」ことになってしまい、全く呼ばれもしなかったということである。

 ところでこのネタのメインはコール氏のことではない。この10月3日の「統一の日」を中心に、ドイツ各地でユダヤ人施設やユダヤ人そのもの、さらには外国人などへの襲撃が相次ぐという、実に頭の痛くなる事態が発生したのだ(元ネタは朝日新聞)。特にドイツ西部のデュッセルドルフでは2日深夜、極右と思われる集団によりユダヤ教会堂に火炎瓶や石が投げ込まれるという事件が起こり、これを重大視したシュレーダー首相が4日、直々に現地を視察してユダヤ人中央評議会議長らと会談を行っている。この町では7月にもユダヤ人を狙った爆弾テロ事件が起きていたのだ。ユダヤ人中央評議会議長は「統一式典で極右問題への憂慮の言葉もなかった。ドイツのユダヤ人の将来が不安だ」と事態を憂慮するコメントを出している。
 このほか、北部のシュベリーンでロシアから移住してきた夫婦が極右の若者二人に襲われ女性が重傷を負うという事件があり、ワイマール近郊のユダヤ人強制収容所の展示に石が投げ込まれたり、南西部のシュウェービシュハルのユダヤ人墓地にハーケンクロイツ(鉤十字)が書かれるという事件もあったという。いずれも「統一の日」である10月3日を狙って同時多発的に起きたものとしか思えない。

 よく言われることだが、統一後のドイツでは、経済的に立ち後れている旧東ドイツ地域を中心に、ネオナチなどユダヤ人・外国人排斥を叫ぶ極右勢力が台頭している。もちろんドイツだけの現象ではなくオーストリア(極右政党の政権参加で騒がれたが、いちおう「手打ち」になったみたい)やフランスでも同様の動きがある。デンマークでも先日、ロシアやアルメニアからの亡命者が犯罪を犯しているとして内相が彼らを「島流しにしろ」と言っちゃって物議を醸していたりする(言った本人は極右的意図から言ったわけではないそうだが、結局極右から賞賛されるハメになった)
 ただ、とくにドイツの場合、経済的な背景が深刻であり(それにしても不景気なると極右が流行るというのはほぼ「定説」になったようだ)、なおかつつい半世紀ちょっと前に超極右のトンデモ政権が実在していたことがあるだけに、かなり神経質にこの問題を扱わざるを得ない。どうも一部で「極右政党非合法化」が検討されているとも聞くが、それも焼け石に水、というかそもそも逆の意味でのファシズムとも言える。

 下のネタであるユーゴスラヴィアの問題にEU各国が非常に神経質になるのも、こうした事情をそれらの国自身が抱えているからなんでしょうねぇ。
 



◆ユーゴスラヴィア「革命」へ
 
 先週、どうなることやらと書いていたユーゴスラヴィア情勢だったが、一週間後にいともあっさりケリが付いてしまった。思ったほど泥沼化しませんでしたね、幸いにして。先週紹介した「セルビアのノストラダムス」とやらの予言も一部については大外ししたことになるようで。

 しかし事態というのは想像を超えて一気に展開することがあるんだなぁ、と改めて思わされたものだ。たぶんセルビアの国民の大半もそう思っているんじゃ無かろうか。あれよあれよと言っているうちに「独裁」「強権」と言われていたミロシェビッチ政権はあっさりと倒れてしまった。それも意外なほど抵抗らしきものも見せずに…。当初やたら強気な事を言っていたのはなんだったんだ、と言いたいぐらい。
 内外の各マスコミの論調を見ていると、ほぼ共通して出てくるフレーズがある。「10年遅れてやって来た『東欧革命』」という言い回しだ。ホント、示し合わせたようにみんな同じようなことを書いていて、「オリジナリティってもんがないな」などと、自分も当初そんなネタで書こうとしていたことも棚に上げてつぶやいていたものだ(笑)。ま、誰でも思いつくことなんでしょう。

 『東欧革命』については余りにも最近史ということもあって説明の必要があるのか、とも思ってしまうのだが、一応まとめておこう。この「革命」は1989年の秋に起こったが、この年は昭和天皇や手塚治虫が亡くなり、中国で天安門事件が起こりと世界史・日本史ともに何かと節目となる重大事が次々と起こった年である(なんか前にも書いたな、こういうの)。当時ソ連ではゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ」という改革が進行中で、東西冷戦を実質的に過去のものとしつつあった。そしてその影響はソ連の衛星国とされていた東欧諸国に及び、この年の秋にドミノ倒しのように各国で次々と社会主義政権が自然崩壊することとなった。中でも象徴的だったのは東ドイツにおける「ベルリンの壁崩壊」のシーンと、唯一流血の事態に陥ったルーマニアの「チャウシェスク処刑」の映像だろう。歴史的事件がテレビで世界中のお茶の間に流れるという体験もこのあたりから顕著になったように思う。
 で、同じ東欧の社会主義国でありながら昔から独自路線を歩んでいたユーゴスラヴィアは、東欧民主化の流れの中でも独自路線を歩んでしまった。それも民族主義の台頭による「バルカンの火薬庫」再現という最悪の形で。その民族主義を鼓舞してユーゴと言うよりはセルビアを引っ張ってきたのが、今回政権の座を追われたミロシェビッチ大統領だったわけだ。

 こうして書いてみると確かに「東欧革命」の流れがついにユーゴに及んだか、とカッコ良くまとめることもできるわけだが、僕自身の印象はもうちょっと複雑だ。さっき書いたように僕自身も「10年遅れの東欧革命」とチラリと思ったことは否定しないが、今度の急激な政権崩壊にはむしろフィリピンのマルコス政権崩壊の時の記憶を重ねるほうがしっくり来る気がしている。あの時も大統領選挙がマルコス大統領とコラソン=アキノ候補(前大統領)の間で行われ、その結果を双方が自分の勝利と発表し、その後のドタバタの中で群衆のデモやら暴動やら、軍が政権を見捨てて野党側につき、という展開になり、マルコスはアッという間に政権を追われてしまった。先年のインドネシアにおけるスハルト政権崩壊も似ていると言えば似ている。何というか、いつの間にか「政権崩壊」という方向へ国を挙げて怒濤のように流れが向かっていってしまった。そして、政権・政策に対する不満などもその背景としてもちろんあっただろうが、どうも多分に「ノリ」で政権を倒してしまったようにも僕には感じられるんですね。大半の国民は「流され」ちゃってたんと違うかな。

 思えばミロシェビッチ大統領の評判は、少なくともセルビア人の間ではかなり高かった。ことに民族主義をあおるその言動はユーゴ内戦、コソボ紛争、そしてその結果としての昨年のNATOによる空爆という状況下で、セルビア国民の高い支持を集めていたことは間違いない。NATOによる空爆時とその直後、アメリカやEU諸国は野党勢力の盛り上がりによるミロシェビッチ政権の自然崩壊を期待し、露骨にそれをあおっていたが、それらはまるっきりの空振りに終わっていた。それがここに来てアッサリと実現してしまったのを見ていて、「セルビアの国民って…」と思っちゃったのは僕だけではないはず。いや、「革命」なんてのはいつの時代も案外そんな「ノリ」であったのかもしれない。

 いま「革命」と書いたが、今度の「政権交代」はよく考えるとかなり「超法規的措置」であることも気に留めて置いて欲しい。大統領選挙においてある程度の不正などがあった可能性は否定しないが、どうも正確な数字でもミロシェビッチ大統領は40%以上の得票はしたらしく、本当にコシュトニツァ候補がいきなり過半数をとったかは判然としていないようなのだ。「決選投票」という話が出てきたとき、野党連合やNATO諸国がかなり露骨にそれを「潰し」にかかったのも気になるところ。それほどひどい事態には至らなかったが、全体としてみると「暴力革命」の性格がかなり強い政権交代であると言わざるを得ない。終わってみたとき、「勝ったモン勝ち」状態になっているところもあって、ちょいと僕などは引っかかりを感じるんですね。個人的にはミロシェビッチ氏みたいなキャラクターは大嫌いだとしても。

 で、政権の座を追われたミロシェビッチ氏であるが、なかなかどうして、転んでもただでは起きないお方のようである。一転してコシュトニツァ氏を次期大統領として認める、どころか祝福する演説をTVで行い、表面的には平和的な「政権移行」を印象づけようとしているようだ。おまけに今後は最大の「野党」となる社会党を率いる党首として政治活動を続けるつもりとのこと。NATO諸国からは戦争犯罪人扱いされていることもあり、かえって国外へ出ようと言う気は起きないようだ。
 面白いのはコシュトニツァ新大統領の方もトコトンまでミロシェビッチ氏を追いつめる気はないらしいこと。彼自身はミロシェビッチ氏を「戦犯」として裁くことに反発をしているし、NATO諸国が妙に介入してくることに警戒感を示しているとも言われている(かなり反米的との報道もなされている)
 とにかくこのユーゴの政変に関してはEUやアメリカが言うように「市民による独裁打倒の正義の革命」と単純にとらえないほうがいいでしょうな。
 


2000/10/8記

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ