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2000年10月15日

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 ◆今週の記事

◆ノーベル平和賞!
 
 あの「南北首脳会談」以来、延々と噂はあったんですよね。韓国大統領・金大中(キム=デジュン)さんのノーベル平和賞(現地発音では「ノベール」が正しいそうだが)
 ノーベル賞というものはなんだかんだ言われながらも「世界最高の権威ある賞」と認識されているわけで、どの部門でも毎年の受賞者は大きな話題を呼ぶ。日本人も白川さんが化学賞で久々に受賞したらこの騒ぎである。そんな中でも、毎年違った意味でいろいろと注目と話題を呼ぶのがこの「平和賞」の受賞者の名だ。
 ノーベルはご存じの通りダイナマイトの発明者で、自分の発明が戦争に使われたことを悔やんでこの「平和賞」の部門を立てたと言われる。これはこれで素晴らしい思い付きだったし、その遺志を引き継いでいるノーベル財団の平和希求の姿勢も高く評価できるとは思うのだが、「平和に貢献した人物」というのをどうやって選ぶのかというのは実に難しく微妙な問題だ。過去の平和賞受賞者の名前を振り返ってみると時折首を傾げる名前にめぐりあうこともある。唐突だが、赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」に「人の言うことを信じない男」というヘンなキャラが登場する一話があり、この男が「わしは佐藤栄作がノーベル平和賞をもらってから何も信じられなくなった!」とその原因を語っている(笑)。あれは恐らく沖縄返還とかが理由となっているのではあろうが…
 ソ連(当時)のゴルバチョフ大統領が受賞したときは、その弾圧を受けたバルト三国など旧ソ連支配下の国から反発があった。南アフリカのアパルトヘイト撤廃やパレスチナ和平のように、それまで対立していて和平へ動いた両者にあげるという「ダブル受賞」型もいくつか見られたが、これについても疑問視する声があった(アラファトさんだって一頃は国際テロ組織の親玉扱いだった)。それと、ダライ=ラマアウンサン=スーチーさんなどの政治運動指導者の受賞においては選定の基準がかなり政治的(それも北欧諸国の価値基準)になることも否定できない(それぞれの個人については確かに偉いと思うんだけどね)。それもあってか、最近は「国境無き医師団」とか地雷撲滅運動のNGOなど団体に与えられるケースも出てきている。

 で、今年は金大中大統領だ。先述のようにおおかた予想されていたところではあった。確かにあの南北首脳会談は「平和貢献」には間違いないが、この金大統領はその人生がそのまま「韓国民主化への苦闘の歴史」となっているところもポイントが高かったはず。南北首脳会談が無くても受賞したかもしれないお人ではあるのだ(実際以前から推薦はあったそうで)
 金大中さんは1924年、日本の植民地・朝鮮に生を受けた。だから当然のように日本語はペラペラだ(さすがに大統領になってからはほとんど口にしなくなったが)。木甫公立商業学校時代の担任だった椋本さんという日本人を今でも恩師と仰いでいて来日時には必ず訪ねて「豊田です」と挨拶するそうだ。そう、創氏改名のために豊田という名前だった時代もある人なのだ。この当時クラスは日本人・朝鮮人が半々という構成だったそうだが、担任だった椋本さんによるとこの「豊田少年」はトップ成績で、「政治家向きだな」と早くも言われていたという。
 1945年、日本が敗戦し、朝鮮半島は「光復」つまり独立を取り戻した。しかし今度は東西冷戦の流れの中で南北分断の悲劇に見舞われる。1950年に起こった朝鮮戦争では、金大中さんも北朝鮮軍に捕らえられ、あわや処刑という場面に陥ったこともあったという。この人の命がけの人生はもうこの辺から始まっていたようだ。

 1954年に政治家を志し、国会議員選挙に出馬。以後、紆余曲折があるが、70年代には韓国において大統領の座もねらえる有力政治家に成長していた(地域主義の強い韓国では金大中の支持基盤はだいたい旧百済地方となっている)。しかしこの事が彼の命を何度も危険にさらすことになる。
 中でも有名なのが1973に発生したいわゆる「金大中事件」(当時の日本で起こった事件なので「きんだいちゅうじけん」と呼ぶのが通例)。東京のホテルにいた金大中氏がKCIA(韓国版CIA)と思われる一団に拉致され、一時行方不明となったのち、ソウル市街でひょっこり出現したという奇々怪々な事件だ。この事件については不透明な部分もあるのだが、要するに当時金大中さんを警戒していた朴正煕大統領が彼の文字通りの抹殺を図って起こした事件だった。なんでも拉致した後、KCIAが船の上から金大中氏を簀(す)巻きにして海に投げ込もうとしていたところへ(なんだか時代劇に出てくるヤクザみたい)、本場アメリカのCIAがヘリで乱入してきて暗殺を中止させた、なんて話しも聞く(どこまで事実かはよく分からない)。ちなみに目と鼻の先でこんな事件を起こされた当時の日本政府(田中角栄内閣)はこの事件の捜査をしっかりうやむやにして片づけている。
 その後もこの人は逮捕・投獄は4回で計6年。自宅への軟禁とアメリカなどへの亡命生活は計10年に及ぶという壮絶な人生を送っている。1980年に当時の軍事政権に対する民衆運動が軍事力で潰された「光州事件」が発生すると、その首謀者とされ死刑判決まで受けている。80年代後半になってようやく韓国の民主化が進むとようやく韓国国内で政治活動を展開できるようになったが、このころには「すでに過去の人」という印象も無くはなかった。大統領選に出馬しては敗れて「引退」を口にし、次の大統領選にまた出るということをやったため「大統領病」なんて言われちゃう事もあった。しかし98年にようやく韓国大統領の地位にたどりつくと、日本文化開放政策や、北朝鮮に対する「太陽政策」で俄然リーダーシップを発揮することになる。いずれも現時点ではかなり実績を上げていると言って良いだろう。
 こうして振り返ってみると、金大中さんの人生というのは韓国現代史そのものなのだな、とも思えてくる。

 ところで、今回のノーベル平和賞受賞については、日ごろ大統領を批判をしている韓国の野党勢力もいちおう祝辞を述べている。金大中さんを弾圧してきた張本人でもある全斗煥・盧泰愚ら元大統領(にして元囚人)も祝賀メッセージを出している。しかし金大中さんと長年のライバルであった金永三前大統領ははなはだ面白くなかったようだ。南北首脳会談の直後も南北の両金さんを「独裁者」呼ばわりしていたが、今回のノーベル賞受賞を受けて「何が自由と正義、人権だ。独裁者がノーベル賞とはまったく矛盾している。ノーベル賞は地に落ちた」とわめいたそうである。そもそも南北首脳会談にしても自分がやるはずだったのに…という嫉妬感情がかなり入っているように思えますけどね。
 一方、南北首脳会談でもう一人の主役であったはずの金正日総書記の名はノーベル賞発表時に全く出てこなかった。これまでの「敵味方ダブル受賞」のケースから考えると、金正日さんにも…という観測もあるにはあった。が、やはりいくらなんでも無理という判断であったようだ。いちおう発表時に「北朝鮮など周辺各国の協力があった」と付け加える配慮はされていたけど。北朝鮮はどうやらこの件では黙殺を決め込んだようで、一切のコメントも無く、国内で報道もしていないようだ。変にスネなきゃいいんだけどね。まぁ近々クリントンさんも訪朝するようだし、それで機嫌を取り戻してもらいましょう(笑)。



◆中東情勢異常有り

 で、ノーベル平和賞の「敵味方ダブル受賞」を受けたこともあるパレスチナとイスラエルが大変である。9月末に始まった両者の衝突が、ひところの楽観ムードを完全に裏切る形でエスカレートしつつある。今こうやって書いている間にもどうなるんだか分かったものではない。最悪の場合、これまでの中東和平の流れを完全にぶち壊して全面戦争を再開しかねない。まさか、と思うところなんだけど、少なくとも楽観ムードは消し飛びましたね。11月には予定されていた平和的な「パレスチナ独立」なんてもう夢のまた夢。

 衝突が拡大して、イスラエル側がパレスチナ側に「最後通告」をし、9日にいったん「最後」の期限を延長したところまでは、なんとか話がまとまる気配があった。しかしバラク首相の期待に反してパレスチナ自治政府は激昂する住民を押さえ切れなかった。住民だけでなくどうもパレスチナ側の武装警察や民兵の一部までがイスラエル治安部隊に対する挑発をしているところもあるらしい。
 11日にはユダヤ教の聖地である「ヨセフの墓」の建物の一部がイスラム教を象徴する緑色に塗られるという騒ぎもあった。銃撃戦の後始末で修復作業がパレスチナ人らによって行われたのだが、その際に当人達が言うところによれば「たまたま緑に塗っただけ」とのこと。もちろんユダヤ教徒たちは「モスクに改装する気か」と激怒した。
 そして12日に、イスラエル兵4人がパレスチナ民衆のリンチにより殺害される(2人死亡が確認されてるが、たぶん4人全員)という最悪の事態が発生した。リンチの場面が映像で流されていたが、二階から突き落とし、そこへ群衆が文字通り袋叩きにしていくという凄惨なものだった。先日のパレスチナ人親子が銃弾を受け死傷する映像と逆のベクトルで、この映像の影響は絶大だった。今度はイスラエル側が態度を硬化、ただちに「報復」の軍事行動を起こして事件の現場やパレスチナ自治政府の施設(アラファトさんの公邸もあった)への空爆を実行してしまった。そしてバラク首相はついに「アラファト議長は和平のパートナーではない」と表明してしまうに至った(なんだか日中戦争の時の近衛文麿の「国民政府を相手とせず」を連想させた)。そしてバラク首相は事実上の戦争状態ということで、極右政党リクードまでも取り込んだ挙国一致内閣を作ることとなった。

史点新聞 そもそもこの騒動のキッカケはこの「リクード」のシャロン党首が作ったんだよなぁ。この人がイスラム教徒の言う「高貴なる聖域」、ユダヤ教徒の言う「神殿の丘」に大勢部下を引き連れて訪問したのがそもそもの発端なのだ。それまではなんとかうまく折り合いをつけてパレスチナ独立へとというところだったのに、この挑発行動でパレスチナ人が激昂し、ここまで話がこじれてしまった。こうしてみているとこのシャロンさんの思惑どおりに全てが運んでしまっているところが余計に頭に来るところで。そんなわけで腹いせに左図を製作(^^;)。
 現時点では一応アメリカやら国連やらが仲介に立って、どうにか17日にもエジプトのムバラク大統領・アメリカのクリントン大統領を混ぜた四者会談という形式で、バラク・アラファト両首脳を会談させることに決まっている。しかしまさに「一寸先は闇」の状況だ。この事態にシャロンさんだけでなくパレスチナ側の原理主義勢力「ハマス」も興奮しており(なんとなく喜んでいるようにも感じてしまう)、「聖戦」をイスラム教徒に呼びかけている。それと呼応するかのように、イエメンでアメリカ海軍の駆逐艦に爆弾テロがあり、十数人の犠牲者が出てしまった。これにはあの反米テロの総元締め・オサマ=ビン=ラディン氏関係の組織が拘わっているとも噂され、なんだか好戦派がみんなでよってたかって事態を悪化(彼らには悪化じゃないんだろうが)させようと躍起になっているみたい。
 もう一つ、アメリカの大統領選挙も影を落としているともいわれる。クリントンさんとしては変にユダヤ系米国民を刺激して民主党のゴア候補に迷惑をかけるのを恐れて、あまりイスラエル側に強気に出れないとの観測もある。そのせいか、最近は北朝鮮外交に熱心のようにも感じられるが…。
 
 何にせよ、早期の事態収拾を望みます…としか書きようがないなぁ(涙)。



◆すでに過去の人?
 
 金大中大統領もそう言われたもんなんですけどね。ちょいと小ネタなんですが、「歴史の流れ」を感じてしまったもので。

 東欧の国ポーランドで10月8日、任期満了に伴う大統領選挙が行われた。結果は現職のクワシニエフスキ大統領(45)が53.92%の得票率で圧勝。立候補者は12人もいたそうだが、過半数を一回の投票で確保したのでそのまま続投が決まった。ちなみにクワシニエフスキ大統領は旧共産党系の流れを汲む「民主左翼連合」の代表である。かつてソ連の影響下に社会主義国となり、長らくこの共産党が単独支配していたポーランドだが、東欧革命後の一時の反共ムードがおさまると、旧共産党系の勢力に支持が集まるようになってきているわけだ。こうした現象は他の東欧諸国にも見られるが、もちろん旧共産党系の諸政党が今さらかつてのまんまの社会主義体制に戻るつもりはないわけで、急激な市場経済導入による混乱を抑制するという意味で支持を集めているところがあるんだろう。
 
 さて、この大統領選には前の大統領であるワレサ氏(57)も立候補していた。ひところポーランドといえばこの人の名前が浮かんだぐらいの有名人だったんだよなぁ(ちなみに「ワレサ」は便宜的に日本語化した表記で、実際の発音は日本語では表記不能だそうな)。社会主義国だったポーランドで、政府から自立した自主管理労組「連帯」を作ってその指導者となった人物だ。ゴルバチョフがペレストロイカを始めるより前のことで、当時の「東側諸国」で共産党に対抗して孤軍奮闘する闘士、みたいなイメージがあったものだ。思い返せばあれが「東欧革命」「ソ連崩壊」の前兆だったと言えば言えるかも。
 それがあれよあれよと言ううちに社会主義政権はバタバタと倒れ、ワレサさんは「反共の闘士」として一躍ポーランドのトップに祭り上げられた。しかしこういう闘士タイプは得てしてそうなのだが、巨大権力に立ち向かっているうちは輝きを放つのに、いざ政権を取ってしまうとまるで役に立たないという結果になった。そして旧共産党系に大統領の座を奪われるハメになってしまった。

 今度の選挙ではかつての「連帯」を中核とする「連帯政治運動」という連合体が大統領候補を出していた。もちろんそれはワレサさん…ではなく、現在の「連帯」議長のクシャクレフスキ候補。議会ではこの「連帯政治運動」が与党で首相もここから出ているのだが、大統領選での得票は15%にとどまっている。
 あれ?するとワレサさんはどういうお立場で立候補したのであろうか。実はこの人、すでに「連帯」からも見放されていたのである。ワレサさんは「連帯」の反対を押し切って単独で立候補、相変わらず「反共産主義」を掲げて支持を求めた。結果、わずか1.01%という驚異的な得票を挙げてしまった(^^; )。何やらもの悲しいものである。
 



◆史上初の女性首相死去
 
 このところスリランカネタは何度か取り上げている。中心はタミル人武装勢力との内戦ネタだったが、10月に選挙があるということでそれにも注目とか書いていた。ところがその注目の総選挙の最中、このスリランカにおける歴史的人物がこの世を去ったのである。
 その人物の名はシリマヴォ=バンダラナイケ前首相(84)。実はこの人が亡くなって初めて僕は知ったのだが、この人すでに世界史の教科書にも、そして我が家にある平凡社百科事典(1968年頃のやつ)にもすでに名前が載っているというお方だったのである!なぜかというとこの人、なんと「世界史上初の女性首相」だったのだ!

 バンダラナイケ前首相はイギリス連邦の自治領だったスリランカ(当時はセイロンと言われてましたね)の中部の名家の出身。1940年に当時スリランカ与党の実力者となっていた政治家ソロモン=バンダラナイケ(17才ぐらい年上だったそうな)と結婚した。実はその我が家の平凡社の百科事典にはこの夫の事績とあわせて載っていたんですね。このソロモン=バンダラナイケはスリランカ自由党を作ってそこから1956年についに首相に就任している。
 ところがこの夫・バンダラナイケ首相は1959年に過激な仏教徒によって暗殺される(どういう事情だったのかは未調査)。その翌年の総選挙には未亡人であるシリマヴォ=バンダラナイケ女史が党の指導者に担ぎ出され、圧倒的な勝利を収めた。そしてこのバンダラナイケ未亡人がそのまま首相に就任し、これが「世界史上初の女性首相」の実現となったわけだ。時にバンダラナイケさん44才。
 それ以来77年に大統領制が導入されるまで長期にわたってスリランカの最高権力者として君臨し続けた。この間に政策としては社会主義的な経済政策を導入し、外交面では非同盟主義の旗頭の一つとして活躍している。ちなみに1972年にセイロンからスリランカに国名を変えてますね。

 こういう有力政治家の家族がそのまま政党あるいは一国の指導者になってしまうケースが、どうもインド文化圏の国々に目立つような気がする。インドのネルー、その娘インディラ、その息子ラジブ、その未亡人ソニア…という「ネルー=ガンジー王朝」の例もあるし、ミャンマーのアウンサン=スーチーさんとか、インドネシアのスカルノの娘メガワティさんなど、女性が立てられるケースも多く見られる。日本だとせいぜい田中真紀子さんぐらいですよね。でもいきなり自民党党首になったりはしないでしょ。それがあちらの国々ではひとっ飛びにリーダーに祭り上げられる。バンダラナイケさんもその実例だし、彼女の娘クマラトゥンガさんも94年に首相、そして現在のスリランカ大統領になっている。実は息子さんも野党の党首だそうで…なんだか今度の選挙は家庭内紛争に見えなくもない(笑)。

 バンダラナイケさん(という言い方は正しいのかな?まぁ良く知られた名前で通します)は娘のクマラトゥンガ大統領のもとで、それを補佐すべくまたも首相に再登板していた。しかしさすがに高齢には勝てず、今年8月に辞任している。
 10月10日はスリランカの総選挙投票日だった。バンダラナイケさんは自分の住民登録をしてあるコロンボ郊外の町の投票所に出かけ、投票を済ませたのち、自宅へ帰る車の中で心臓発作を起こし大往生を遂げたという。政治家としてはまさに理想的とも思える劇的な最期だった。
 …合掌(ちなみに彼女はバリバリの仏教徒でした)
 


2000/10/15記

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