江沢民主席がカンボジアに入ったのはAPEC開催前の11月13日ことだった。カンボジアに入る前にはその隣国のラオスも訪問し、いろんな意味で縁のある東南アジア諸国歴訪の旅となっていた。ラオスはともかく、カンボジアを中国首脳が訪問するのはかなりの緊張を強いられるものであったには違いない。実際、中国の国家元首である主席がカンボジアに入ったのは1963年の劉少奇の訪問以来のことなのだ。
この劉少奇という人物、中華人民共和国の建国者である毛沢東が「大躍進政策」という大失敗政策をやらかした後に、あのトウ小平とともに実権を握り、ガチガチの社会主義路線に変更を加えて市場経済を導入した政治家だった。しかしこれに対して毛沢東が起こした「文化大革命」により「走資派」として集中攻撃を浴び、憤死に追い込まれたのは良く知られているとおり。この劉少奇を悲劇の死へと追いやった「文革」はカンボジア現代史にも暗い影を落としている。
「文革」は今から見れば単なる毛沢東と「四人組」の権力闘争として理解することができるが、その掲げた「造反有理(造反するにはまっとうな理由がある)」とか「革命無罪」といったスローガン、古いものを徹底的に破壊して新社会を作り上げようといった思想運動は、当時の世界中にかなりの影響を及ぼしている(もちろん日本だって例外ではない)。この影響をモロに受け、カンボジアで徹底した共産化を推進したのがあのポル=ポトだ。昨年「タイム」誌でやった「20世紀アジアの20人」に悪名の高さで選ばれてしまった人物でもある。
このポル=ポトが率いる共産勢力「クメール・ルージュ」がカンボジアの政権を握ったのは1975年のこと。このポル=ポト政権が何をやったかは「キリング・フィールド」という映画を見ていただければよく分かるが、知識人・インテリを徹底的に抹殺し、国民総農民化・強制的集団化を実行したのだ。文革が持っていた思想を徹底的に純化した政策だったといえる。この過程で約200万人が虐殺されたと言われ、世界史上の一大事件として記憶されることになる。
このポル=ポト派を中国は一貫して支援し、協力を続けてきたのは紛れもない事実だ。この姿勢はポル=ポト政権の実態が暴露され、彼らが政権を追われたあとも維持された。「文化大革命」が歴史的誤りであることを中国共産党が確認した後もなぜかこの姿勢は継続される。ポル=ポト派に対して1979年に隣国ベトナムが介入した際も、中国はポル=ポトを支援してベトナムと中越戦争を起こしている。このあたりは多分に「大国のメンツ」というやつが絡んでいるのだろうが…。
カンボジアの内戦は90年代初めにようやく和平へと向かい、シアヌークを国王とするカンボジア王国が成立した。この時期になってようやく中国はポル=ポト派と距離を置き、いつの間にか知らんぷりを決め込むようになる。そうこうしているうちに98年にポル=ポトが死に、その派も壊滅。しかしシアヌーク国王がなぜか北京の病院で療養生活を送っているということもあって、その後も中国とカンボジアの結びつきは深い。
まぁとにかくそのような歴史的経緯があるものだから、ポル=ポト圧政に苦しんだカンボジア国民の中国主席に向ける視線は複雑なものがあるだろう。カンボジア政府が動員したとも言われる8万人の群衆が江沢民主席を歓迎していたが、一方で少人数ながら中国の責任を問う学生らのデモも行われていたという。
とりあえず今回の訪問で中国主席の口からポル=ポトに関する発言や謝罪などといったものは出てこなかった(もちろん両国間で事前に決めてのことだ)。その一方で中国は1億元の経済支援を約束しており、これがある意味「罪滅ぼし」のつもりであるのかもしれない(日本が中国にやってるODAも似たようなものであると言われる)。そのせいかどうか、カンボジアの外相は「中国は近い将来世界の超大国になる」などと持ち上げていたものだ。
さて、そのカンボジアの隣のベトナムにはアメリカの大統領がAPEC終了後の16日に訪れていた。もちろんこれもあのベトナム戦争以来初めてのこと。一足先に先頃上院議員に当選したヒラリー夫人がベトナム入りし、ちゃっかり大歓迎を受けて目立っていた(笑)。クリントン大統領に対しても意外なほどの熱狂的な市民の歓迎ぶりであったという。まぁ考えてみればクリントンさん個人はその昔ベトナム反戦運動にからんで徴兵を拒否したりしていた人だから彼個人に対してベトナム市民が好意的であることも予想されるのだが、やはりベトナム戦争終結から四半世紀が経過し、アメリカへの憎しみも風化が進んでいるということなのだろう(これに対してポル=ポトなんかはついこの前まで生きていた人だしねぇ)。
で、こちらにおいてもアメリカの大統領はベトナム国民に対して「新たな二国間関係を」というだけで、いっさい過去への「謝罪」的なコメントは吐かなかった。ベトナム戦争に関しては行方不明米兵の遺骨収集の件でベトナム政府に感謝の意を表した程度だったようだ。このあたりはまだアメリカの方でも整理がついていない問題ではあるしね。なんだかんだで歴史的評価がある程度冷静になされるのはもう四半世紀待たなければならないのかもしれない。
前々々回の「史点」でネタにしているが、フィリピンのエストラダ大統領はギャンブルの上納金疑惑、それに絡んで愛人らに隠し資産を持たせていた疑惑などが浮上し、国民の不信感が爆発、辞任を要求する大規模なデモや抗議ミサ、大司教や元大統領らまで辞任をすすめる声明を出す事態となっていた。そしてとうとう国会でフィリピン史上初の大統領に対する弾劾裁判まで始まってしまったのである。11月14日には大統領の辞任を求める全国ゼネストまで発生し、学校や交通機関までがストライキを起こしてしまう事態に(なんだか先頃のユーゴ情勢を思わせるな)。どうもこのままいくと辞任は時間の問題と言えそうである。APECには参加はしていたが、明らかにエストラダさんの視線はうつろだった…
そしてもうお一人のフジモリ大統領。こちらも今年の「史点」にたびたび登場していただいているが、自分で制度を改造した大統領選挙で「三選」を決めて以来、ずっと失点の続きっぱなし。参謀役だったモンテシノス元国家情報局顧問が野党買収疑惑で国外に脱出し、フジモリ大統領も来年のうちの辞任を表明。ところがモンテシノス氏が受け入れを断られて帰ってきてしまったのが先月のことだった。野党の猛反発、そして下手するとクーデターもあり得るとの事態にフジモリ大統領は自ら陣頭指揮をしてモンテシノス逮捕に乗り出したりしていたものだ。
11月13日の午前中、フジモリ大統領はAPEC出席のためブルネイへと旅立った。その直後、ペルー国会はフジモリ派の国会議長がモンテシノス疑惑の捜査の妨害をしたとして不信任決議を可決し、野党派の議長を据えてしまった。この時点でフジモリさんはかなり窮地に立たされ「このまま亡命しちゃうんじゃないか」という冗談とばかりも言えない噂がAPEC報道でも流されていた。
APECが終わるとフジモリ大統領は祖先の地である日本に唐突にやって来た。完全に非公式な日程で、しかも「体調不良」を理由に東京都内のホテルにそのまま居座ってしまったのだ。「もしや…」と思って「史点」ネタに準備していたら、案の定。日本時間の20日未明になってフジモリ大統領から正式に「48時間以内の辞任表明」が行われた。どうも新しい国会内の情勢によりエストラダさん同様「弾劾」を受ける可能性も出てきたので、急遽辞めちゃう事にしたようなのだ。何かと話題の多かったフジモリさんだが、末路はあっけなかったなぁ。
その一方、騒動の発端ともいえる「ペルーのラスプーチン」ことモンテシノス氏は、潜伏中の身にも関わらずペルー週刊誌の電話取材に応じた。以前にも逮捕令が出たときにラジオ出演していたこともあり、このあたりもなんとも不思議な人物である。この電話取材の中でモンテシノス氏は「公正な裁判を受けられる条件が整っていない。フジモリ大統領は私を逮捕ではなくギロチンにかけようとしている」と述べたそうである。そのフジモリさんが身を引いた今、このお方はどうするのでありましょうか。「敵」であるはずの野党に捕まるとも思えないんだけどね。
とにかくいずれにせよそれらの数字にもう一つ回数を加えなければならなくなった。パナマでつい先日まで中南米諸国が集まる「イベロアメリカ首脳会議」なるものが開かれていて、カストロ議長も出席していた。そんな17日、パナマ国家警察は「カストロ議長暗殺を計画していた」としてパナマに入国していた亡命キューバ人のテロリスト・ルイス・ポサダ(68)ら4人を逮捕したのだ。
カストロ議長はなぜかパナマ入国直後に「亡命キューバ人のテロリストが私の暗殺を計画している」と公言。そしてその背後にアメリカのフロリダ州(そういえばまだ決着着いてませんね、ここの選挙騒動)にいる亡命キューバ人組織が支援をしているとまで言い出したのだ。発言の根拠は不明だが、問題の亡命キューバ人たちがパナマに密かに入国していたのは事実(エルサルバドル人名義のパスポートを持っていたそうである)。パナマ警察は「予防措置」として逮捕に踏み切ったとしている。
報道によれば、このポサダなる人物、かなり不思議な過去がある。1970年代にカリブ海バルバドス上空でキューバ航空機を爆破するテロを起こしたとしてベネズエラで逮捕・服役。ところがなぜか脱獄に成功し、アメリカへ亡命。キューバ政府はこの脱獄は完全に「CIAの手引き」だったとして非難しているという。そして今度のこれである。疑うなってほうが無理というものだろう。まぁ今度のことにCIAが関わっているかどうかは別として。
今度の逮捕を受けて、脱獄されたベネズエラ政府、そして母国であるキューバ政府が、彼らの「送還」を要求している。しかし彼らはアメリカに亡命している立場でもあるので、その引き渡しはかなり外交的に微妙な問題となりそう。このところキューバとアメリカは接近・和解の兆候が見えるのだが、今もめている新大統領政権によっては、この一件でかなり話がこじれる可能性もある。
「肩すかし」「腰砕け」というのがこの件に注目していた大半の人の感想だろう。僕も「史点」の更新を遅らせてまで(?)注目していて、ちょっとバカを見た思いもある。しかし採決の直前1時間で事態が急転するとは、ほとんど誰も予想できなかったことだろう。
加藤紘一という政治家はもうかれこれ10年ぐらい前から「いずれは首相に」と言われていた人物だった。この10年間ぐらい、本格的に政策構想を持ち、首相になるべくしてなる政治家がいなくなったと言われている中で、この加藤氏だけはやや例外的に「いずれ本格政権を作る男」と注目をされていた。今回の「決起」によって外国メディアで「日本で久々の本格政権樹立の可能性も」と報じたところがあったぐらいだ。しかし今回の「決起」の結果は無惨なものだったと言わざるを得ないだろう。
自民党の歴史は派閥抗争の歴史と言っちゃっても良い。だいたい一つの政党の枠にはおさまりきらない巨大政党であり、事実上の一党独裁政治を戦後半世紀にわたって維持し続けてきた政党である。その内部に「政党内政党」ともいうべき派閥が出来てくるのは当然と言えば当然だった。「派閥」とはつまるところ個人的な「人脈」の繋がりで築かれるグループであるが、いちおうそれなりにグループ構成員の性格や政策方針の色合いに違いがあるにはある。「加藤派」=「宏池会」という派閥は池田勇人首相にルーツを持つが、大ざっぱに言うと官僚出身者によって構成されるエリート色の強い集団というイメージがある(もちろん例外は多々含む)。それだけにそう「バカ」はいないと言えたのだが。
官僚出身者によって構成されるグループに対して、自民党内の個人的人脈の繋がりとか政治家一族の出身者などによって構成される人々を「党人派」などと呼ぶこともある。これも最近はかなり境界線が曖昧なのだが、佐藤栄作、それに反乱を起こして乗っ取った形の田中角栄、さらにそれに反乱を起こして乗っ取った形の竹下登(そういえばこの人が死んだのも今年の政界のトピックだった)、と続く巨大派閥の流れがその中心にある。現在の「橋本派」がこれを引き継いでいるわけで、今回の抗争劇はそうした自民党内の大雑把な両極の対立構造の延長線上にあるとも思える。思えばこの両極の初代である佐藤と池田は吉田茂の「教え子」の同窓生でもあるわけで、なんだか日本の政治の流れは相変わらず吉田茂の亡霊に振り回されているように見えなくもない。
今回の「加藤の乱」、今月の初めに加藤紘一氏が「森さんに内閣改造はやらせない」とある酒席で言い出したことから始まったらしい。そして11月10日ごろには「野党が内閣不信任案を出すなら、我々は採決のための衆院本会議を欠席する」と対決色を鮮明に打ち出しはじめて騒ぎが大きくなっていったのだ。今にして思えば、結果はこの時点での発言をそのまま実行した形になっているわけで、この辺の態度をそのまま維持していればあんなみっともないことにはならなかったんじゃないかと思われる。さんざんマスコミで紹介されていたが、こうした「欠席戦術」は大平正芳首相の時に前例があるのだ。大平派と対立する福田派・三木派が「欠席」をタネに大平に譲歩を迫り、結局大平がこれに応じなかったため両派は本会議を欠席。この結果野党が出した内閣不信任案が可決されてしまうと言う珍事になった(まさか可決すると思っていなかった野党(笑)は三木・福田を逆恨みしたという)。この時も自民党は分裂の危機を迎えたのだが、この直後の総選挙での過労がたたって大平首相が急死したため、皮肉にも分裂の危機を乗り越えてしまった経緯がある。
さてこの発言後、加藤氏の発言は一気にエスカレートしていく。マスコミにも積極的に顔を出し、森首相に高い不支持率を示す国民の支持をとりつけようとし、森首相をかつぐ主流派に次々と挑戦的な態度を見せ付けていく。そしてとうとう「野党の不信任案に賛成する」という「禁じ手」まで示し始めたのだ。これに対し橋本派を中心とする主流派は徹底的にこれを非難、攻撃し、表には余り出てこないものの、加藤派議員の地元にまで介入するかなり露骨な切り崩し工作をかけていった。「離党勧告」「除名」なんてのより、敵の本拠地に手を加えた直接攻撃の方が効き目があったように思える。とにかく結果としてはこれが加藤派の分裂を招き、反対者・態度保留者を加藤氏らの予想以上に出す結果となり、彼らの「降伏」につながることになったわけだ。いわば相手の補給線を絶つ作戦だったわけですな。さすが策士・野中さんというべきなのか。「降伏」後に加藤派の議員が「都市部はともかく、地方では…」とこぼしていたが、たぶんそのあたりに土壇場のドンデン返しの秘密が画されているように思う。
結局のところ、加藤さんはやはり「自民党的政治体質」の枠から飛び出すことは出来なかったのだ。最初から「離党はしない」と盛んに言っていたあたりにそれが見えていたのだが、あまりにも「勝算有り」と言う態度を示すもんだから、何か裏がある、もしくは下野を覚悟しているととられていた。しかし終わってみると単に騒ぎを起こして自民党内の主導権を握りたい、あるいは影響力を増したいと考えての「党内反乱」に過ぎなかったと言うほか無い。もちろん自民党体質改善じたいはその目標ではあったのだろうが、それをやろうという自分自身がまだ自民党体質を引きずっていたところに限界があったのだ。本当に改革がしたいのであれば、もはや自民党内にとどまっていることは無理なのだということを今回の騒動は明らかにしただけだった。もはや自民党に自浄能力は残ってないとも言えますな。
今度のことで自民党内で珍しく「期待株」と目されていた加藤紘一という政治家の株は著しく落ちた。自民党内に踏みとどまったことで、自民党内ではこれからもそこそこの地位を保って、野中幹事長との連携次第では(野中さん、あれで加藤さんを買っているのは確からしい)首相の目だってあるかもしれない。しかし国民の目はこれから厳しいよなぁ。盛り上げるだけ盛り上げておいて、最後の土壇場でキャンセルなんて、観客は怒りますぜ(笑)。こういう分かりやすいドラマの方が今後尾を引くだろうなぁ。
それにしても。「YKK」の盟友・山崎拓さんのつき合いの良さには感心した。途中からエスカレートする加藤さんに「無理」と思いつつ、ちゃんとついていったもんな。この人に関しては株を上げた気もする。またやはり「YKK」の小泉純一郎さんも今度の一件は一つの転機になるように思われる。今後の展開次第では「YKK」の再結束も無いとは言いきれない。
そして問題は、森内閣がいつまで存在しているかだが…