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2000年11月26日

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 ◆今週の記事

◆フジモリ大統領奇々怪々
 
 「大統領」ではなく、「前大統領」とお呼びすべきなんですがね。この人がAPEC出席の後いきなり日本へ「亡命」し、「48時間以内の辞任」を表明したのは先週の当欄で書いたとおり。その後の一週間、このフジモリさんをめぐるさまざまなニュースが乱れ飛んだ。
 
 ペルー現地時間の11月21日夜、ペルー議会は「道徳的に不適格」としてフジモリ大統領の「罷免」を賛成多数で決議した。フジモリさんがFAXで議会に送りつけた辞表(噂によるとEメールでも送ったという…どっちにしても世界史上初だろうな)は受け付けられず、「名誉ある撤退」という幕引きも許されない極めて不名誉な政権の最期となった。もちろんフジモリ派議員によるフジモリ政権の功績(インフレ抑止、テロ対策等々)をたたえる主張もなされたというが、なにぶんにもフジモリさんご本人がよそへ逃げちゃってるだけに強く言えないところもある。「やましいところがないなら帰国して発言すればいいのに…」とは誰もが思うところ。
 翌22日(ペルー時間)、ペルーの新大統領にバレンティン・パニアグア氏(64)が選出された。もちろん大統領選挙を経たわけではなく、憲法の規定による継承順位に従ったもの。大統領が辞任した場合、「第一副大統領」が大統領職を引き継ぐはずなのだが、第一副大統領はフジモリさん罷免を受けて辞任。お次は「第二副大統領」にお鉢が回ってくるのだが、これも同様の理由で辞任。かくしてつい先日野党側から押されて国会議長に就任したばかりのパニアグラさんが臨時に大統領に就任することになっちゃったわけだ。大統領就任宣誓式でパニアグラ新大統領は「我々は今日、過去の舞台に幕を引き、新たなペルー史の扉を開いた」と宣言したそうな。「インカ帝国以来の伝統」なんて言葉も飛び出したそうだが、これはフジモリさんの持っていた「日本」「日系」イメージに対する当てつけと見えなくもない。
 首相には以前国連事務総長をつとめ、フジモリさんの対抗馬として大統領選にも出たことのあるペレス=デクエヤルさんが指名された。ちょいと懐かしい名前である。
 
 さて、この後はフジモリ前政権への追撃というか追及の嵐となった。
 23日にはペルー国会に「フジモリ氏が今後10年間公職に就くことを禁止する」決議案が提出された。フジモリさんが「大統領職を来年辞任する」と打ち出した頃から「再出馬するんじゃないか」とか「政党を作って国会に居残るのでは」との憶測が流れていたのだが、この決議がなされてしまうと、フジモリさんの政界復帰はほぼ絶望的となる。この決議案は「公職禁止」の理由として「外国滞在中に職務を放棄したのは憲法違反である」ことを挙げている。憲法にそんなことが書いてあるのかどうかは別として、非難の理由としてはごもっともと言うしかない。
 そして同じ23日から一気に吹き出してきたのはフジモリさんの「不正蓄財疑惑」である。外国に不正蓄財があるという話はフジモリさんの側近であり、この騒動の「影の主役」と言えるモンテシノス元国家情報局顧問についてこれまで言われてきたのだが、ここに来てフジモリ前大統領自身がその疑惑の中心人物となりつつある。なんでもフジモリ前大統領がパナマにペーパーカンパニーを2社つくり、その株を売却した利益を日本とシンガポールの銀行に振り込んだという話である。日本の銀行には20億円(!)送ったというのだが…他にもモンテシノス氏経由で麻薬組織からの金の流れもあるとか、あちらでは報道されているという。

 ところで東京のホテルの前で21日夜(日本の国会では「加藤の乱鎮圧」で大騒ぎしていた頃)に記者会見に応じたフジモリさんだったが、その後フッツリと消息を絶ってしまった。「失踪」「帰国?」「アメリカへ?」「まさか暗殺?」などなど勝手な憶測が乱れ飛んだが、25日になって彼は再び姿を現した。「知人宅」にいたというのだが、この知人というのが曾野綾子さんという意外なビッグネームで驚かされた。作家にして「日本財団(旧日本船舶振興会)」の会長。最近では「教育改革国民会議」で「奉仕活動義務化」をやたらにブチ上げている張本人でもあらせられる。日本財団がペルーにあれこれ援助を送っていた関係でつながりがあったというのだが…
 この曾野さん邸でフジモリ前大統領は記者会見を行い(曾野さんは姿を見せず、フジモリさんの義弟で先日辞任した駐日大使アリトミ氏が同席)、自らの功績を列挙して自分への非難・攻撃に対して身の潔白を訴えた。じゃあなんで辞任表明をしたのかについては「いろいろと要因があるが、明らかに出来ないこともある。外国で辞任表明をしたのは遺憾だ」とのこと。帰国しないことについては「私はテロや麻薬問題を扱ったので身の危険がある」ことを示唆していたようだ。「モンテシノス氏を信頼しすぎたのが失敗だった」とも言っているようである。

 この会見でも表明していたが、フジモリさんは「日本での長期滞在」を望んでいる。実はこのあたり、ややこしい状況が存在する。フジモリさんが仮に不正蓄財その他の罪でペルー政府から捜査を受けたり告発されたりした場合、日本政府としては建前上彼をかばうことはできない。もちろんかばったって良いんだけど、その場合はペルーとの関係悪化もあり得る(まったくの余談ながら、第二次大戦時、両国は「戦争状態」になった過去もあったりする)
 しかし一方で、フジモリさんが「日本国籍を持つ」という可能性もあるようなのだ。ペルーでは「国籍生地主義」をとっていてフジモリさんはペルー生まれだからペルー国籍を有する。ところがなんでもフジモリさんの両親が出生届と共に「国籍留保届」を日本側に出していれば、彼は「日本国籍」も持つことになるのだそうだ。そして実際フジモリさんの出生届が両親からペルーの日本領事館に提出された事実は確認されているという。日本の外務省は「国籍留保届」については「プライベートなことなので答えられない」としていて、どうも含みを持たせているようにも受け取れる。
 フジモリさんについては以前にも大統領選の際に政敵側から「ペルー生まれじゃないのでは?」という「疑惑」を欠かけられたこともあったように記憶している。ご両親がペルーに来る途中で生まれたので「ペルー生まれ」ではなく「ペルー国籍も本来は持たない」と攻撃されたことがあったはず。なんかここに来てこの辺の話も再燃したりするのかも知れない。

 個人的にはこの人、あまり「日本」と密着した行動をとらないでいただいた方が両国のためのような気がするんですけどねぇ…



◆そういえばこんな人が
 
 別に共通テーマで選んだわけではないのだが、こちらも「亡命」に関するお話。
 
 今年の歴史的ニュースとして、やはりトップ項目候補の一つに挙げられるであろう話題が「朝鮮半島南北首脳会談」だ。朝鮮戦争以来半世紀を経て南北のトップが握手をし、と同時にこれまで謎のベールに包まれていた北朝鮮の金正日総書記が大体的に表舞台に姿を現し、結果的に一方の主役である金大中大統領がノーベル平和賞を受賞、とまぁ今年の世界ニュースは何やらコリアンブームという趣きがあった。
 
 そんな騒ぎの中で。僕もどうも頭に引っかかっていた人物がいる。3年前に北朝鮮からある大物が亡命していたことをご記憶の方も多いだろう。ファン=ジャンヨプ(黄長[火華]。以下面倒なので黄氏)元朝鮮労働党書記である。当時の北朝鮮政府内で序列26位と言われ、しかも北朝鮮が掲げる独自の社会主義思想「主体(チュチェ)思想」の実際の構築者であるとまで言われる中心的理論家だった。この人が来日し、その足で訪れた北京で突然韓国大使館に駆け込み、そのまま亡命しちゃった時はもう大騒ぎだったものだ。北朝鮮からの亡命話はこれといって珍しいものではなかったが、なんといっても過去最高位、政府首脳と言っても良い人物である。北朝鮮側は「裏切り者はどこへでも行け」と声明を出しただけでそのまま放って置く姿勢を示し、黄氏はフィリピンでしばらくほとぼりをさました後に韓国へと入った。その後黄氏は各マスコミのインタビューに応じ(TVで見たけどペラペラの日本語なんだよね…そういえば初期の「史点」ネタにもしたような)、あるいは著作を出版して約1年前までは大活躍だったものだ。今だって書店に行けばすぐに彼の著作を見つけることが出来る。もっとも以前TVで見た内容と比べて著しく過激な内容の著作があって、どこまでホントに本人が書いているのか疑問を感じる本もあるけどね。

 そんな黄氏だが、今年4月に電撃的に「南北首脳会談」実現が発表されたあと、すっかり動静を聞かなくなってしまった。歴史的な南北首脳会談で大騒ぎしている最中にも彼のコメントは少なくとも日本のマスコミではいっさい流れていなかったように思う。そしたら、ここに来てついに我慢ならずに黄さん、声明を発表したのである。
 いわく「私は韓国当局によって言論の自由などが制限されている」という声明だったのだ。あんまり姿を見せないから、そんなこっちゃないかと噂はされていたんですけどね。なんでも先日の11月16日に韓国の国家情報院から「政治家・マスコミとの接触や講演・出版などの活動を禁止する」と言われてついにブチ切れたようなのだ。国家情報院はこうした指示を出したことは認めつつ、「北朝鮮からの報復を避けるためにお奨めした」と表現している。この件で野党側が国家情報院長の辞任を要求する騒ぎにもなっているそうな。こうした「亡命者差別」は黄氏に限らず結構あるようで、「自由を求めて命がけで亡命したのに、今度はこっちで自由を奪われるとは」と言った反発が亡命者達からは発せられているという。まぁ韓国だって十数年前までは自由にモノが言えない空気があった国なんですがね(全くの余談であるが、「ブラックジャック」の一話「パク船長」って韓国がモデルの話ですからね。北朝鮮と思ってる人もいそうなので一言)

 この件に敏感に反応したのが、黄氏亡命時に大統領だった金永三前大統領だ。ただいまなぜか日本で入院中なのだそうだが、かねて金大中大統領の対北政策を批判し、ノーベル平和賞受賞にも激怒したお方。黄氏の声明に呼応して金大中大統領を「ウソつき」呼ばわりし、黄氏には「いつでも自宅に訪ねてきて欲しい」と伝えたそうである。



◆刑務所内謎の大量死
 
 ちょっと気になった記事だったので採り上げてみた。元ネタは読売新聞の記事である。
 世界中あちこちやってる「史点」でもアフリカネタを扱うことはどうしても少なくなる。元ネタにしている各種マスコミがあまりとりあげていないからということもあるのだが、日本に住んでる人間としてはアフリカの諸国の事情というのはどうしても縁遠くてピンと来ないものだ。そのため時々不思議な記事を見かけて「へぇ〜」などと言いつつちょっぴり勉強になったりする。

 アフリカ南部にモザンビークという国がある。僕もつい先程世界地図を開いて位置を確認したぐらいで、まったくこの国に関する知識はない。この国で誠に奇々怪々な事件が起こったのである。
 モザンビークの北部モンテプエズにある刑務所で、拘置されている未決の囚人83人が11月21日の夜のうちにいっぺんに死んでしまったのである。政府の発表によるとうち一人だけは自然死で残りの82人の死因が不明であるという。もっとも不明ながらも「死因は暴力によるものではなく、刑務所内の過密状態による窒息・食中毒・水不足が考えられる」とモクンビ首相が述べており、南アフリカの研究者も含む特別調査団をつくって原因調査に当たらせるという。
 ここまででもかなり不可解な話なのだが、これに同国の政治対立が絡んできて話はややこしくなる。この国にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)という二つの大政党がある。その勇ましい名前から察するに植民地状態からの独立運動を展開していた当時以来の組織なのであろうが(ちなみに旧宗主国はポルトガルである)、1975年にモザンビークが独立した後、歴史のパターンよろしくこの両者は内戦状態に突入した(隣国の旧ローデシアとか南アフリカの影響もあった)。両者の和平が成立したのはなんと1992年のこと。しかしその後も総選挙ではたびたびトラブルを起こしていたという。

 昨年の12月に総選挙が行われ、「FRELIMO」が議会の過半数を制して与党となったのだが、今月に入ってから「RENAMO」側が「選挙に不正があった」として大抗議運動を展開していたという。その際に衝突で41人もの死者が出て、大量のRENAMO支持者が刑務所にぶち込まれていたのだった。そう、そして今度の謎の大量死はまさにこうした状況下で刑務所がRENAMO支持者で満杯になっているところに発生したのだ。
 もちろん真相は現時点では不明であるが、RENAMO側にしてみれば「FRELIMOによる虐殺」を想像するのは無理もないところ。RENAMOの党首はハッキリと「この事件はFRELIMOの仕業」と断言。当然ながらFRELIMO側は否定しているが、双方の対立は下手すると内戦再開になりかねない危険な要素を含んでいる。

 こんなの見てると、フロリダ州のドタバタはえらく平和な話なんだとよく分かりますねぇ。
 



◆「紫香楽宮」発掘
 
   「紫香楽宮」で「しがらきのみや」と読む。現在の滋賀県信楽(これも「しがらき」である)町で、奈良時代、742年に聖武天皇が気分転換(藤原広嗣の乱があった)でフラッと旅に出てそのまま山城国に遷都、恭仁(くに)京を作った際に、離宮を置いちゃったとされていたところだ。この時期の聖武天皇は縁起担ぎでもあったのかやたらと居場所を移しており、恭仁京をやっと作ったと思ったら744年に難波に都を移し、その後すぐに紫香楽宮に入ってしまう。そしてそんな時期にこの紫香楽で大仏建立の詔を出し、実際にこの地に大仏建設が進められたと言われている。しかし745年に聖武天皇が平城京に戻ったため、この地は放棄されて大仏建設も平城京で再開されることになる。一歩間違えば「奈良の大仏」じゃなくて「信楽の大仏」になるところだったのである。

 まぁそんな次第で、この紫香楽宮に一時的にせよ日本の「首都」があったことになる。しかしなにぶんほんの一時期のことであるし、フラフラと落ち着きのない情勢下でのことであるから、本格的な遺跡などはないんじゃないかと言われていたようだ。しかし11月22日に発掘にあたっている信楽町と滋賀県の教育委員会が発表したところによると、同町の「宮町遺跡」で全長95メートル、幅12メートルもある大規模な建物の跡が発見され、そこから1q南の地点にある「新宮神社遺跡」からは約9メートルの橋の跡が発見された。
 大規模な建物は天皇が国政を行う「朝堂院」の一部ではないかと考えられ、橋の方は都の中央大通り(例の碁盤目状の都市図を思い起こされたい)である「朱雀路」に架かっていたものではないかと推測されている。

 で、この発見が何を意味するのかというと、これまで一時的に聖武天皇が居住していた「田舎の離宮」程度のものとも考えられていた「紫香楽宮」が、存外大がかりな都市計画に基づいた「首都」であった可能性が強くなってきたということなのだ。最近のこうした古代の建築物などが存外バカに出来ない規模や技術を持っていたことが明らかになるケースが多いが(出雲大社の件などもそうだ)、「都市計画」という部分でも一時的な都でさえもけっこうしっかりとやっていたということになるらしい。

 それにしても、例の事件以後、発掘現場を見る目がつい厳しくなっちゃうよなぁ…。


2000/11/26記

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