その後、儒教はそれなりに流行り廃りはあるものの、一貫して中国思想のメインとなっていった。それは中国周辺の各地に中国文化とセットになって「輸出」され、それぞれの地域において「伝統」として染みついていくことになる。「儒教国家」といえばよく朝鮮半島が引き合いに出されるが、どうあがいたって日本も濃厚かつかなり根深い影響を受けていることは否定できない。儒教の新潮流として宋代に朱子学、明代に陽明学が起こり、それがやはり日本にも導入されてあれこれと影響を与えているのも良く知られている(もっともかなり日本的に「翻案」してることも否定できないけどね)。また、中国本土だけでなく東南アジアなどに広がった華人社会においても彼らのアイデンティティーの軸としてやはり儒教が濃厚にあるという話しも聞く。
ところでそんな儒教に対して、中国本土が一度だけ強烈に否定的見解を示した時期がある。そう、1970年代に吹き荒れた「文化大革命」の時のことだ。この文化大革命の無茶苦茶さは今でも語りぐさであるが、とにかく「古いものはなんでも否定しろ」という空気があった。その流れで孔子や儒教に対する激しい攻撃が行われたわけだが、実はそんな理由ばかりではなかった。
文化大革命とはいったん失脚した毛沢東が、権力を引き継いで市場経済導入の改革を行おうとした劉少奇・トウ小平らから権力を奪い返すために起こした運動と言われる。これがひとまず実現すると毛沢東は林彪を自らの後継者に指名する。すると毛沢東の妻・江青をはじめとするいわゆる「四人組」が今度は林彪を追い落とす作戦に出て、その結果林彪はクーデターを起こそうとして失敗し、飛行機事故で死ぬことになる。そして「四人組」が次に仕掛けたのは「批林批孔」なる運動だった。林彪を批判し、孔子を批判するという運動があの紅衛兵を利用して行われた。ここでなんで孔子が出てくるのか。
このあたり実に中国的な謎解きをしなければならない。教科書でも定番で説明される通り孔子は古代の「周」の制度を理想とした。この事を頭に浮かべるとクイズが解けてくる。当時「四人組」が最大の敵とみなしていたのが、中国において毛沢東に次ぐ地位を占めていた政治家・周恩来である。孔子を批判することは暗に「周」恩来を批判することだったのだ。しかしまぁこんな回りくどい連想をさせるあたりが中国政治である(笑)。
周恩来が死に、毛沢東が死に、「四人組」が失脚して文革の狂乱が収まると、少なくとも狂気じみた孔子批判・儒教批判はおさまっていった。その後のトウ小平による改革・開放の流れの中で「孔子」はゆっくりと復権してきていた。そしてついに「孔子大学」なんて作ろうという話まで出てきたわけである。冒頭に書いたようそこには「儒学は中国民族の伝統」という意識が強く感じられる。「中国民族」ってフレーズも最近とくに乱発されているように感じられるところで、中国独自のアイデンティティー強化の流れの中で、「やはり儒教だ」ということになっちゃっているようだ。
さて、そもそもこの「花岡事件」とはなんなのか。僕も何度か耳にはしていた事件であるが(だいたい商売道具の日本史用語集にも載っていた)、そう詳細を知っていたわけではない。今回のこの判決のおかげで(?)ネット上にもかなりの情報が出回っていろいろと調べることが出来た。この辺りもインターネット時代のありがたさというものだ。
「花岡事件」とは1945年6月30日に、秋田県大館市の花岡鉱山(工事を請け負っていたのが当時の「鹿島組」だった)で働かされていた中国人労働者たちが、虐待と過酷な労働に耐えかねて蜂起した事件をいう。蜂起した中国人労働者たちは日本人の監督4人、中国人の食糧係1人を殺害して逃走、鉱山から4q離れた山中に逃げ込んで抵抗した。結局警防隊や在郷軍人らに包囲されて7月1日には全員連れ戻されてしまったのだが、このあとの激しい拷問や暴力によって約80名が3日間のうちに死亡。敗戦後の9月に裁判所の判決が出て「首謀者」たち11名には無期懲役などの懲役が課されたが、その後も強制労働が続けられてその間に150人ほどが死亡したという(GHQが彼らを解放にやってきたのは10月になってからだった)。また事件の蜂起以前に137名の中国人の死亡者が出ていたとされており、合計すると418人ほどの中国人がこの花岡で死亡したわけだ。花岡鉱山に連れてこられた中国人労働者は986人であったというから約4割がこの地で命を落としたことになる。
さて、太平洋戦争も末期というこんな時期に、秋田県の山奥の鉱山になんで中国人が1000人近くも来ていたのだろうか。太平洋戦争が長期化してくると日本の男性の多くが兵隊にとられて戦地に送り込まれたため、日本は深刻な労働者不足に陥っていた。そこで1942年の末に日本政府は閣議で中国人労働者を試験的に受け入れることを決定。そしてその試験の成績が「良好」であったため、1944年2月に本格的な中国人労働者の移入を促進することが決定されたのだ。
いま「受け入れ」とか「移入」とか書いたが、1944年以降のそれは明らかに強制連行の性格を含む「人狩り」と化していた。実際にこうした人狩りを実行したのは当時日本が傀儡として中国に作らせていた汪兆銘政権やその他の親日組織だが、もちろん日本からノルマを課す形での要請があってのことだ。こうした「行政供出」という名の強制連行によって3万〜4万人の中国人が日本に連れてこられ、鉱山や港湾などで働かされていたわけだ。「花岡事件」はそうした状況の中で起こった悲劇である。「史点」でも採り上げたが、去る9月に亡くなった劉連仁さんのようにやはり強制連行されて北海道で働かされ、耐えかねて脱走して14年後に発見されるという事件もあった。同様のことは朝鮮人に対しても行われていたが、やはり脱走などの話に事欠かないところをみると、かなり過酷な労働状況が全国的に見られたと思うしかない。
今回の「和解」は「花岡事件」の当事者として企業が訴えられたケースだ。結局「和解」という形で決着をつけ鹿島が一応の責任をとった形であるわけだが、この和解条項の文中においては鹿島側の「我が社に法的責任はない」との主張も盛り込まれている。この手の戦時中の事件についての企業相手の訴訟が最近相次いで起こされていて、今後それらへの影響が予想されそうだ。
蜂起に至った理由が、果たして当時の鹿島組のやり方だけにあるかどうかは議論のあるところだろう。僕などはそもそも「強制連行」で連れてきた日本政府の方針自体に原因があるような気がするのだが。企業を相手に裁判をするってのは見方を変えれば「国」を相手にするとまず門前払いになる可能性が高いので、矛先をより現実的に対応してくれそうな方向に変えたのだともとれる。
つくづくこの手の話をみていると思うのだが、日本って無理な戦争してたよなぁ。その無理がたたってこんな戦場以外での悲劇を引き起こしてしまっているわけで。
アチェーでもこのところ目が離せない動きが続いているのだが、今回はイリアンジャヤに注目してみたい。
12月1日、イリアンジャヤ州の州都ジャヤプラをはじめ各地で独立派「パプア評議会」主催の住民集会が行われた。今年6月に「西パプア住民代表会議」というのが開かれていて、そこで出された声明において「12月1日までに独立を達成する」という目標が掲げられており、12月1日はかなり緊張が高まると予想される日であったのだ。
ワヒド大統領率いるインドネシア政府は、アチェーに対してもそうだったが、とりあえず「話し合いによる解決」に強い望みを託していた。はなから力で押さえ込んでうまくいかないことは東ティモールでいやというほど知ったろうし、国際的な聞こえも悪くなる。だから僕の見る限りではかなり粘り強く話し合いをしようとしていたように思える。しかし残念ながらそれでなかなか解決の糸口が見えてこないのも事実。ここに来てワヒド政権も「自治権の拡大」を持ち出しつつ、「独立」にはかなり強い態度で拒否する姿勢を示してきている。
この12月1日の大規模な集会についてもワヒド政権はこれが「独立集会」に繋がらないようかなり警戒していた。11月29日にその「パプア評議会」の議長テイス=エルアイ氏を「国家転覆容疑」で逮捕したのもそのあらわれだ。その一方で集会の主催者たちと事前に協議し、「宗教・文化行事」としての集会にとどまらせ、「独立宣言」など政治的発言は行わないこと、その代わり「独立旗」を1日の間だけ掲げることを認める、と約束を結びあった。とりあえずこの事前の合意に基づいて12月1日は大きな混乱もなく無事に済んでいた。
ところが翌2日になってイリアンジャヤ州のメラウケという町で、住民が再び「独立旗」を掲揚しようとして政府の治安部隊とトラブルになってしまった。この衝突で治安部隊が住民8人を射殺するというとんでもない事態になってしまい、いまこうやって書いている間にもイリアンジャヤは一触即発の情勢である。
ソ連の崩壊過程に比べるとまだまだ破滅的なものではないとも言えるけど…こういうのってなかなか穏便には事が運ばないもんです、悲しいことに。
石川県能都町の真脇(まわき)遺跡で縄文中期(約4500年前)の地層から「板敷き土壙(どこう)墓」とおぼしき墓が3基発見されたと11月30日に調査団などが発表した。見つかった土壙墓は4基なのだが、このうち三つに、土に掘った穴の上に板が敷かれており、「板敷き土壙墓」なんじゃないかと見られているわけだ。本当にそうだと確定すると板敷き土壙墓としては同時代では世界的に例がない発見になるという。
…いかん、なんか「世界的」って言葉が出てくるとつい「ホントか」と見てしまうクセが…(汗)。
今回の報道で僕は初めて知ったのだが、この真脇遺跡って縄文時代の遺跡としては超有名なところだったようだ。1981年に発見され、その後の発掘調査で大量の土器やイルカなどの骨、トーテムポールのような彫刻柱や直径1Mもの巨大な木製柱の環状列などが発見されているという。98年の調査では小石を敷き詰めた道路(?)の跡や人型のペンダント(?)まで見つかっている。この遺跡、縄文前期から晩期まで4000年にわたって人が住んでいたんだそうで、そんなことを聞くと何が出てきてもおかしくないような気はしてくる。実際「縄文文化の宝庫」とまで言われ「国史跡」にも指定されている。そこに来てこれですからね。それにしてもついついイヤな連想がわくようになってきちゃってるなぁ。あれ以来。
ところでこの板敷きの墓であるが、調査団の団長は「墓が計画的に配置され普通の墓より大きい」「板敷きにしたうえ漆で塗られた副葬品を添えられている」との理由から「シャーマンなど死後も精神的支えになる人物の墓ではないか。階層社会の芽生えがあったことを示している」との推理を示している。これまでの考え方だと縄文時代というのは狩猟採集経済であり階層・階級は無かったとする見方が一般的なのだが、「そうでもないんじゃない」という主張が出てきてはいる。今回の発見をそこに結びつける意見が新聞にも別の学者のコメントとして載っていたが、シャーマンぐらいで「階層社会」って言っちゃっていいんだろうかって気もしますね。
一般に階層社会が発生したのは農業が本格的に開始された弥生時代とされている。その弥生時代の農業に関しても発見があった。
こちらは前日の29日に発表が行われている。場所は九州・宮崎県都城市の坂本A遺跡だ。ここで南九州でもっとも古い水田の跡が発見されたのだ。どのくらい古いかというと今から2200年前の紀元前3世紀で弥生時代前期の後半にあたる。
「なんだ、そんなに古くないじゃん」という関東的ツッコミが入りそうであるが、これまでは南九州での水田耕作は弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ)から始まったとされていて、これでも1世紀さかのぼることになるのだ。しかも下の方にさらに古いあぜ道があるともされ、さらに遡る可能性も挙げられている。一緒に縄文晩期の土器が出てるってのも「過渡期」を象徴していて面白いところだ。