ニュースな
2000年12月12日

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 ◆今週の記事

◆「ソ連国歌」復活!
 
 「国歌問題」というと、日本では「君が代」の賛否をめぐる議論をすぐに連想するところだが、日本以外でもいくつかの国で国歌に対する議論がある。例えばフランスではフランス革命時代に作られた「ラマルセイエーズ」が国歌とされているが、革命戦争時代の空気を色濃く出した好戦的内容のためこれを変えようという意見があったりする。
 で、けっこう大きく報じられているようにロシアでも国歌問題がまた急浮上してきた。というか「議論」よりも「復活」を急いじゃったような気がするんだが。12月4日、ロシアのプーチン大統領が現在の国歌に代えて「ソ連時代の国歌」を復活させることを決定し、国歌制定法案を議会に送ったのだ。議会が与野党の賛成多数でこれを採決するのは確実だという。もっとも「復活」するのはメロディーだけですけどね。歌詞は今後考えるそうで。

 かつてのソビエト連邦の国歌が制定されたのは第二次世界大戦の最中、つまりあのスターリンによる独裁の時代だった。作曲者はアレクサンドル=アレクサンドロフ。初めに制定された国歌には歌詞がついており(ちなみに歌詞を書いたのはセルゲイ=ミハルコフ。映画監督ニキータ=ミハルコフのお父さんだそうで)、それこそスターリンを絶賛しまくる内容だった。スターリンが死んだあとフルシチョフによる「スターリン批判」が行われるようになるとさすがに歌詞は使われなくなったが曲そのものの使用は続けられた。僕もオリンピックなどで聞いてけっこう耳に残っている世代である。

 で、ソ連崩壊とともに成立したエリツィン政権によって、当然の流れというべきか1993年に「ソ連国歌」は正式に放棄されることとなった。代わりに国歌とされたのがロシアの国民的作曲家グリンカによる「愛国歌」だったのだが、歌詞はつけられず「間に合わせ」という観が否めなかった。そこへ揺り返し現象で議会で勢力を巻き返してきた旧共産党勢力が「ソ連国歌の復活」を強く主張するようになってきていたわけだ。
 もちろん代えた張本人のエリツィン前大統領がそれを進んでやるわけがない。そのエリツィンさんが数々のドタバタ劇の末後継者に選んだのがプーチンさんであるが、この人はチェチェン紛争で国民の人気を集めただけあって、とにかく「強い大統領」「強いロシア」をアピールしたがる傾向がある(自分で戦闘機や潜水艦に乗り込むのが趣味ですもんね。だいたい元KGBだし)。そしてソ連崩壊によって自信喪失のロシア国民にとっては「強いロシア」とはやはり「ソビエト連邦」だったようでソ連時代への回帰現象がそこはかとなく出てきているのは事実(その前のロシア帝国への願望もかなり感じますけどね)。国民の空気を敏感に読みとる能力はあるらしいプーチン大統領、そんな風潮を汲み取って今回の決定となったんだろうな。プーチン大統領自身の理由説明によると「国民の大多数が旧ソ連国歌のメロディーを愛好しているから」とのことだ。

 もちろん一部の民主派野党勢力からの「スターリン時代に回帰する気か」という強い反対意見もある。これに対しプーチン大統領が「父母の時代が無意味だったという意見には承服できない」とやり返したというから面白い。いえねぇ、なんかどっかで聞き覚えのある論法でして。国歌をどうこうしようと、ある時代や世代が無意味になるなんてことは無いと思うんですけどね。

 ところで、やはり激怒したのがエリツィン前大統領だ。エリツィンさん、「ソ連時代の国歌は共産党大会を連想させる。私は断固反対する。大統領が大衆迎合的であってはならない」とかなり強くプーチンさんを批判したそうなのだ。「大衆迎合的」ってのはよく言ったもんだという気もするが、あんただって人のことは(笑)。もちろんプーチン大統領はこの前任者が「ソ連国歌復活」に強く反対していることは承知だったが「一市民の意見としては聞いておくが、自分の見解に何ら影響を与えない」とコメントしているそうな。ついでながらロシア軍の軍旗もソ連時代の「赤旗」が正式に復活するとのこと。



◆森内閣どうやら年越し
 
   …なんだろうな。現時点で週刊現代が森さんとヤクザが一緒に写った写真なんか出して物議を醸しているが、あの程度のことで辞任するようなタマではないだろう。あの程度の写真なんて政治家はみんな結構気軽に撮らせちゃうようだし、だいたい自民党という政党自体がヤクザだの右翼だの闇社会との繋がりが以前から深い政党なんだから。森さん個人だけの問題じゃないでしょうね。

 とにかく「加藤の乱」も鎮圧され、当初その加藤紘一さんが「森にはやらせない」と叫んでいた内閣改造を無事に終え、森改造内閣は成立した。組閣に当たっては自民党の恒例行事として派閥間の駆け引きがアレコレとあったが(今回は特に江藤・亀井派と橋本派が激烈だったようで)、成立してみると宮沢喜一蔵相・河野洋平外相の留任組に加えて橋本龍太郎さんまでが行革担当相として入閣してしまい、自民党総裁経験者が三名もおり、うち二名は元首相という大変な重量級内閣となってしまった。元首相を二名も含んだ内閣は第二次伊藤博文内閣、そして敗戦直後の東久邇宮内閣ぐらいだというからこれは結構歴史的事件なのだ。また橋本さんは最大派閥のトップでもあり、そういう人が直々に入閣というのはかなり珍しいことと言えるだろう(だいたい日本の政治は「元老」的存在が閣外から動かすパターンが多いですからな)。この「橋本入閣」については二通りの見方が出ていて、一つは「森政権安泰」というストレートなもの、もう一つは「いや、アクの強いのが入った分不安定度が高まった」というちょいとひねった見方とがある。どちらとも言えそうな感じですけどね。森さんがまたなんかやったらそのまんま「橋本内閣」になっちゃってたりして(笑)。いや、マジでそういう噂もあるんだよね。

 今回の組閣で留任組に加わったのが連立を組む保守党の扇千景さん。もともと建設大臣だったが、このたびは建設・運輸など4つのポストを一度に兼ねることになった。これは来年から中央省庁が統合され建設省と運輸省、国土開発庁などを合体させた「国土交通省」なるものが登場するためで、扇さんがその初代になるわけなのだ。
 で、組閣の陰で面白かったのが扇さんが党首をつとめる保守党内の動きだった。扇さんの留任が決まり、来年の参院選を控えていると言うことで保守党の野田毅幹事長などを中心に「扇さんには党首をおりてもらおう」という話が進んでいたのだ。一時それが確実な情報として報道されていたぐらいなのだが、なんと党首である扇サン本人になんの相談もなかったそうで、扇さんが激怒(そりゃそうだ)。結局党首交代の話は立ち消えになったのだが、このあたり保守党内のドロドロを図らずも示してしまったように思われる。そもそも自由党から分離したとき「野田新党」とか言われてたもんね。そーいえば議場で水まいたチョンマゲおじさんもこの党だったっけな。

 また、組閣直後に変なところで注目を集めたのが初入閣となった笹川尭国務大臣(科学技術政策担当)。「いじめは絶対になくならない」という発言を会見でしたことで問題にされたわけだが、まぁそのこと自体にあまり異論はない。ただ変なのは、この人が「いじめ」と認識するものの中に「競争」が含まれているらしいと言う点だ。「競争」に勝てば「いじめ」が無くなる、とか言っていたのだが、それに絡めて国連の分担金の話を持ち出した辺りに、この人の本音と知識の程度が見えるように思えた。「日本はうんと負担しているのに、ちょっとしか負担していないインドが国連事務総長のイスを獲得している。なぜか」と河野外相に聞いたんだ、これも「いじめ」と解釈できなくもない、なんてことをわざわざ釈明会見で披露して恥の上塗りをしてしまったのである。インド人が事務総長のイスを獲得した事実など無いし、それに事務総長の座というのはむしろ大国に回さないよう配慮しているところがある。分担金の負担額はそれぞれの国の経済事情に基づいて割り当てているもので事務総長のイスなんかには全く関係はない。インドなんか引き合いに出すよりちっとも分担金を払わないくせに大きな顔をしているアメリカに文句を言うべきでしたね。

 さきほど省庁統合の話を書いたが、来年からは聞き慣れないお役所の名前を聞かされることになりそうだ。環境庁が環境省に格上げになったり、郵政・自治・総務を兼ねた「総務省」なるものも登場する。中でも歴史的に大きい変更は「大蔵省」が「財務省」に変身することだろう。大蔵省って律令時代からの名称ですからねぇ、思えばこれも大変なことなんですな。「蔵相」って妙な名前が日本だけで存在していたわけだけど(外国の財務担当が集まる会議を「蔵相会議」とか言ってたけど、よく考えると変だった)、これからは「財相」と呼ぶことになるのかな。「大蔵」亡き後、律令の生き残りは「宮内庁」だけになるわけで…。

 ところで、組閣も済んだ12月7日のこと。ちょっと面白い話をみつけた。6月の総選挙で落選した自民党の元代議士たちでつくる「党再生と復帰を期する会」が自民党の古賀幹事長に要望書を渡したのだ。そのトップに「党名を変更して「21世紀の政権政党」であることを明確に」という提案があったというからブッたまげた。「党名を変更しろ」って話は共産党関係にはよく出てくるが、まさか自民党内から出てくるとは(笑)。都市部や若年層に「自民党」が受けなくなってきている事への危機感なんだろうけど、名前だけ変えたってねぇ。
 ちなみに二番目の提案は「自自公連立で冷却化した創価学会以外の宗教団体との関係改善を」というもの。なんか選挙に勝てる方法を表面的に考えてるだけみたいですな。



◆600万年前のご先祖様
 
 最近「史点」に発掘・発見ネタが多いような…?
 先日の「捏造」騒動は原人の時代、せいぜい数十万年前の話だったが、今回の「発見」はなんと600万年前の話(それでも恐竜時代なんかはその10倍ぐらい前なんだよなぁ)。ひょっとすると最古の人類のご先祖様のお骨ではないかという骨が出てきたのだ。

 場所はアフリカはケニア。ケニアとフランスの合同調査団が4日に発表したところによると、ケニア北西部のバリンゴ地方で、少なくとも5体からのものと見られるあご・上下の歯・腕・脚・指の骨の化石が発見されたのだという。なんでそれらが600万年前のものだと断言できるのかというと、もちろんそこは地層の分析調査。発掘したチームとは別のイギリス・アメリカの調査隊による分析であり、同じ地層から出てきた動物化石の分析からも「600万年前」という判断は確かなものだという。まさか「捏造」は御免こうむりたいですしねぇ。
 脚の骨の状態から「二足歩行をしていた」と推測される一方で、腕や指の骨の状態からは木登りを得意としていたことも想像されると言う。まさに猿と人の共通の先祖と言っていい特徴をもっているわけだ。面白いことに、一部の脚の骨には「肉食動物に噛まれた?」と思われる傷まであるんだそうで、600万年前の壮絶な一場面に想像力を働かせたくなりますね。そういう場面から木に登って楽をした連中が猿となり、木から降りて危険に立ち向かった連中が人間になり、猿たちは恥ずかしくて顔が赤くなった…ってギャグ漫画をむかし読んだことがありました(途中まで本気にしました?)
 ケニアではこの猿人を発見年にちなんで「ミレニアム・アンセスター」と呼ぶことにしたそうで。「二千年のご先祖さん」というところですかね。2000年なんて600万年の前では屁のようなもんですな(笑)。

 これまで「最古」と言われていた猿人は1994年にエチオピアで発見されたラミダス猿人。これが440万年前と推測されているので今回の発見は一気に150万年以上さかのぼることになる。それでいて、ラミダス原人よりも今回の「ミレニアム・アンセスター」の方がより現世人類に近い特徴を持つといわれ、人類史を解く大きなカギを握っている可能性もある。

 さて、以上のように全人類のご先祖はすべてアフリカから出てきたというのは今日ではほぼ定説となっている。ただ「いつ」アフリカを出たかについてが問題で、「原人段階でアフリカを出て、それ以後は各地で現世人類まで進化した」とする説と「原人、旧人、現世人類がそれぞれ順番にアフリカに出現して次々に”出アフリカ”をして世界に散らばった」とする説がある。最近の研究では後者がかなり優勢なのだが、例の「秩父原人の発見」はこれに一石を投じる可能性もあったのだ。まぁかなり怪しくなってきてしまいましたが。
 おりしも科学雑誌「ネイチャー」の12月7日発行号にスウェーデンとドイツの遺伝学研究グループによる現世人間の起源に関する研究成果が載せられた。この研究グループは世界中のさまざまな民族53人からミトコンドリアDNAを取り出し、その違いを比較していつごろ共通の祖先から枝分かれしたかを分析していったのだそうだ。その結果、現世人類はおよそ17万1500年前(誤差はプラスマイナス5000年)にアフリカに出現し、「出アフリカ」をしたのが5万2000年前だと結論を出した。つまり先ほど挙げた二つの説のうちやはり後者の「トコロテン式」(笑)を裏付ける結果となったわけだ。念の為この研究グループはX染色体についても調査を行ったがやはり同じ結果が得られたとしている。

 「人類」の出現が600万年前。「現世人類」の出現が17万年前。そしてそれが世界中に散らばっていったのがせいぜい5万年前。こんなこと聞いていると、世界の人類みんなホントに近い親戚ってことが実感されますね。まぁ親戚同士仲が良いとは限りませんが。



◆「元祖サンタ」ゆかりの聖堂
 
 クリスマスにはちょっと早いが、サンタクロースのルーツにまつわる発見話がマスコミをにぎわせていた。
 12月8日、トルコのゲミレル島にある6世紀のキリスト教聖堂跡を調査していた「リキア地方ビザンティン遺跡調査団」(団長は浅野和生・愛知教育大助教授で日本人中心の調査団)は、この聖堂が「サンタクロースのルーツ」になった聖ニコラスに捧げられた聖堂であることが確認されたと発表した。以前から中世の航海書に「聖ニコラスの聖堂」の記録があり、それがこの聖堂ではないかとは言われていたそうで、この島の聖堂がそれではないかと1995年から調査を進めていたのだそうな。

 確認の根拠となったのは、聖堂の床に書かれていた文章。中世のギリシャ語で、マケドニア出身の金細工師が自分の家族の魂の救済を願ってこの聖堂をモザイクで飾った、という内容が書かれていたという。で、その金細工師の息子の名前が「ニコラス」だったというのだ。団長の浅野教授はこの文章から金細工師が自分の息子の名前の由来となった聖人に奉献をしたものと考え、従ってこの聖堂が聖ニコラスに捧げられたものに違いないと判断したわけだ。一緒に発見されたモザイク画も保存状態が良く、「美術史上、きわめて貴重な発見」と調査団は言っている。

 それにしても。僕も以前に聞いたことがあったのだが、あのサンタクロースのルーツになった人ってイメージとまるで違って地中海の方の人なんですよね。4世紀と6世紀のそれぞれに同一の名前を持つ「ニコラス」さんがいて、それがいつの間にやらゴッチャになって「聖ニコラス」となっていったものらしい。それがキリスト教が北方へ伝わるに従ってゲルマン系の風習と結びついて「クリスマスに贈り物をしてくれるお爺さん」のイメージに出来上がっていったものが「サンタ」の原型と言われる。
 「サンタクロース」の名前は本来オランダ語で「シント・クラウス」とこの爺さんを呼んでいたのが、オランダ系カルヴァン派の人々がアメリカに渡ったことで英語的に訛り、ようやく「サンタクローズ」の名前が登場することになったのだそうで。今や世界的に定着した「サンタクロース」ってののイメージは多分にアメリカから発信されて世界に広がったものと考えるべきであるらしい。

 日本に来たらいきなり「サンタ」にされてしまったのは日本人の外来語省略体質の面白いところでもありますね。


2000/12/12記

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