ニュースな
2001年1月14日

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 ◆今週の記事

◆半世紀たって遺憾の意
 
 「『歴史』になるには50年はかかるよ」
   とは、以前から何度か書いていることだが、我が歴史学の恩師の一人のお言葉。実際、第二次世界大戦がらみの暴露話や反省・謝罪話がやたらに多くなってきたのも大体5年前ぐらいからだった。もちろん「50年」というのが一つの節目であるから、ということもあるだろうが、50年も経つとその事件に関わった人間の多くがこの世を去っており、「過去の出来事」として扱いやすいという要素も多いだろう。

 「朝鮮戦争」は1950年に勃発した。まさに半世紀前の出来事であり、第二次世界大戦後に起こった最も激しい戦争の一つだ。朝鮮民主主義人民共和国(あーいつもながら長い)大韓民国という、半島の正統政権を称する政府同士の内戦という性格もあるが、やはり当時一つのピークになっていた「東西冷戦」が「冷たい」ではなく実際に火を噴いちゃった戦争という性格の方が大きい。西側の親分であるアメリカは「国連軍」として戦争に直接介入し(率いるはもちろんマッカーサーだった)、一方のソ連は直接ではないものの物資や戦闘機(パイロット付き)で北朝鮮を支援した。国連軍=アメリカ軍が一気に北上して朝鮮半島を制圧しそうになると、まだ成立したばかりだった中華人民共和国も義勇軍を派遣して介入、結局38度線付近まで押し戻して現在に至る休戦状態となるわけだ。昨年に南北首脳会談が行われて半世紀の対立の歴史に一つの節目を設けたのはご存じの通り。

 さて、一昨年の「史点」(1999年10月10日付)でも取り上げた話題なのだが、朝鮮戦争勃発直後の1950年7月、韓国の忠清北道の老斤里(ノグンリ)付近で米兵による韓国人虐殺事件が起こっていた。避難民の中に北朝鮮兵が混じっているのではと疑った米兵が数百人の市民を銃撃、爆撃で虐殺してしまったという事件で、その後細々と生存者などによってこの事件は韓国内で語られていた。この事件にようやく光が当たったのは1999年のことで、アメリカの国防総省は当初書類調査などでウヤムヤにしようとしたが、AP通信がこの事件を大きく取り上げ、元米兵の証言なども出てきたため、アメリカも事件の存在を認めざるを得なくなったのだ。1999年秋に「調査する」ということになり、「その調査には一年はかかる」ということだった。そしてその結論が正月明けに出されることとなったわけだ。

 2001年1月11日。アメリカ国防総省は「米韓相互理解の声明」なる文書を発表した(「米韓」って書いたけど韓国なら「韓美」だな)。この中でアメリカ側は事件の事実を認め、これが北朝鮮兵の偽装難民が紛れ込んでいると誤認した「戦闘経験の浅いアメリカ部隊」の砲火により「特定できない人数の市民」が死傷したと言う表現でこれを明記した。しかしこの「虐殺」が「上層部の命令である証拠は一切無い。組織的な市民殺傷ではない」と結論付けている。そして国防総省はこの事件を「悲劇的な戦争の付随事象」と呼び、現場に朝鮮戦争の犠牲となった全ての市民の追悼碑を建てると共に韓国人向けの奨学金などを設立するとの意志を示した。
 この声明を受けて任期も残りわずかのクリントン大統領は「老斤里事件で失われた市民の犠牲を深く遺憾に思う」と政治家定番の「遺憾の意」を表明した。「自由のために米韓の兵士は力を合わせて戦った。両国の強い同盟関係が、50年前の両国の犠牲のあかしだ」とも言ったそうな(以上の訳文は概ね「朝日新聞」のものを参照)

 …というわけで、謝罪も補償も一切無し。韓国人、とくに事件の遺族や生存者などには「ふざけんな」という内容であろう。アメリカ側は「不特定」と言っている被害者の人数であるが、韓国側では被害者の申告を元に「死者177・不明20・負傷51の計」248人という数字を出しているのだが、アメリカ側はこの数字を頑として認めず、両者併記という形が取られた。また組織的な「虐殺」かどうかの判断もかなり曖昧にされ、一部で出ていた「偽装兵対策として避難民を爆撃する命令があった」という話も「証拠無し」で片づけられることとなった。「虐殺」を目撃していた生存者は「あれが組織的でないわけがない!」と激怒しているという。
 韓国政府の担当者は「アメリカとの関係の重要性を認識し、国民には十分な理解を願いたい」などとかなり露骨な言い訳をしていた。アメリカがブッシュ政権に移行すると交渉が難しくなりそうだという判断もあり(分かるような気もする)、はなはだ不満ながらクリントン政権のうちに「事実認定」だけでも勝ち取っておこうと妥協したようである。アメリカ側は「これ以上の調査はやらない」としているが、今後も尾を引きそうですな、これは。

 なお、この声明が出たのを同じ日に、朝鮮戦争を戦った米中両国の元軍人が北京で交流を行っていた。アメリカ側は朝鮮戦争時の行方不明者の問題解決のためにやってきたのだが、なんとなく半世紀たっての「戦友」(敵同士ですけど)の交流と言った趣になったらしい。翌日に中国マスコミが「朝鮮戦争に参加したことを済まないと思っているのか。戦場体験から悪夢にうなされることはないのか」とかなり意地悪な質問をしたところ、元米兵の一人ジャック=カーネイ氏は「民主主義とわれわれの助けを必要とする国を守るため戦った。もう一度戦うかと言われれば、イエス。もう一度戦う」と述べたという。「彼らにしても同じだろう」と元中国兵についても付け加えるのを忘れなかったが。
 



◆「統一通貨」ばなし
 
 前回からわずか三日で更新しようということになると、当然ながらネタが少ない(笑)。凄いときには二、三日で四つに絞りきれないほど集まったりもするのだけれど…そんなわけで新聞記事でみかけてちょっと個人的に興味を持ったネタで一つ書いてみたい。

 新年の一月一日をもって、中米の国エルサルバドル(この記事書く直前に大地震が起こっちゃったそうだが)「通貨統合法」なる法律を施行した。これは自国の通貨「コロン」とともにアメリカの「ドル」も同様の通貨として使用できるようにする法律。商店などでは商品価格にドルとコロンの二つの表記をしなければならなくなり、当然買い手はドルでもコロンでも支払いができるようになる。1ドル=8.75コロンという相場で銀行預金なども全額がドルに変換されることとなった。
 なんでまたこんな政策が採られたのかと言えば、この国、国内総生産(GDP)の1割以上がアメリカに出稼ぎに行っている同国人の「家族送金」で占められており、アメリカドルが以前からかなり流通していたのだそうだ。自国の通貨を持っていても政情・経済事情などの不安定さからしばしばコロンの対ドル相場が下落してしまう恐れがあるわけで、だったらいっそのことアメリカドルを通貨にしちまえ、という発想らしい。実際、エルサルバドルの政府や中央銀行もコロンの存続を意図している様子はなく、数ヶ月の内に国内がドル使用に統一されると読んでいるようだ。エルサルバドルの駐米大使のセリフによると「ドル化は通貨危機に対する究極の防御策」なのだそうな。俺とお前はツーカーの仲だ、コロンでもただでは起きません、ってな所でしょうか(笑)。
 昨年には南米のエクアドルでも「アメリカドル化」が実行に移され、ほぼこれを達成している。他にもアルゼンチンなど「いっそのことドルにしてしまえ」という意見の出ている国は多いという。もちろん通貨の「主権」を他国に売り渡してしまうことに問題はなくもないのだが、相手がアメリカみたいな安定した大国であれば、ヘッジファンドの攻撃による通貨危機回避だけでなく、インフレ抑制などメリットも大きい。勝手に自国の通貨に「相乗り」された形のアメリカは「ご勝手にどうぞ。ただし面倒も見ないぞ」という趣旨のことを表明している。しかし中南米諸国には「アメリカも中南米のドル使用国に配慮した金融政策をせざるをえなくなるだろう」という読みもあるそうな。

 通貨危機と言えば先年の東南アジア・東アジアのそれが話題となった。そのころからポツポツと…というかだんだん声が大きくなってきた観のあるのが「東・東南アジア統一通貨」の構想だ。日本の「円」がそれの軸となるかどうかは日本経済の状態しだいというところだが、「円」にこだわらず新たな統一通貨を、ってな話はEU(ヨーロッパ連合)における「ユーロ」の存在を意識してよく言われるようになってきている。「ユーロ」が成功するかどうか、アジア諸国はじっと見ているというところかな。
 この手の話が出てくると、僕などはどうしても自分の専門分野である倭寇、そして16世紀以前の東アジアの通貨事情に思いを馳せてしまう。考えてみれば、11世紀ごろから16世紀まで日本は一貫して中国の「輸入銭」を通貨として使ってたんだよな。もちろん今日の通貨とは在り方がかなり違う部分もあるのだが、明の「永楽通宝」なんて東アジア全域から東南アジアまで流通していた。「東・東南アジア統一通貨」なんてとっくの昔に実現していたところもあるわけだ。その後は「大航海時代」の波に乗ってきたヨーロッパ人と日本人が大量の「銀」をこの地域に持ち込んでこれが「通貨」の役割を果たしていくことになる。ま、この辺は我がサイトの「海賊」コーナーでも見て下さい。

 ところで、現在日本では「円」、中国では「元」、韓国では「ウォン」という貨幣単位が使われているが、これっていずれも香港ドルが漢字では「円」と表記していたのが由来であるらしい。「ウォン」については未確認だけど、「元」ってのが「円」との発音の近似から来ているのは事実。そう考えると実はみんな根っこが同じ通貨であるとも言えるのですね。



◆ストーンヘンジは20世紀の建築物?
 
   イギリスの本島・グレートブリテン島の南部に「ストーンヘンジ」という有名な遺跡がある。巨大な石を組み合わせた構造物が円形に並んでおり、その名前は知らなくても誰もが一度は見たことがあると思う世界的名所だ。5000年から3000年前の先史時代の遺跡とされ、石の配置に夏至の日の日の出の位置を示す線があると言われ、これを根拠に「古代人の天文台では」とする研究者もいる。中にはUFOうんぬんと関連づけたがる向きもありますが…(笑)。この謎の遺跡を見物するために年間百万人もの観光客が世界中から押し寄せてくるとのこと。

 さて、今月に入ってイギリスの新聞にイングランド西部大学の研究生ブライアン=エドワーズによるストーンヘンジ関係の暴露記事が載った。彼が公表したのは20世紀初頭に撮られた写真だった。そこには当時の技術者たちがストーンヘンジの巨岩をクレーンや足場を組んで組み立てている場面が写っていたのだ。実はストーンヘンジは現在見られる姿のままで数千年にわたって存在していたわけではなく、20世紀初頭の1901年、つまりちょうど百年前、「ヴィクトリア朝時代」に今あるような形に「復元」されたものだったのだ。
 このエドワーズ氏の話によると、「ストーンヘンジ」は長いこと草原の中に石が散乱している状態で、いくつかの石がポツポツと立っている程度のものだったのだそうだ。「復元」作業は1901年に最初に行われ、クレーンで岩を組み上げてコンクリートでそれを補強し「保存」を可能とした。その後1919年、1958年、1959年、1964年と四回にわたって復元作業が実施されたという。これだけ作業を繰り返しているって事は当然ながら関係者は知っていたわけだよね。

ヴィクトリア朝といえばこのお二人 問題とされているのはこの「復元」を行ったという事実がガイドブックなどに一切書かれていないこと。観光客などは当然数千年前からあのまんまの姿だったのだと思うはずで、今回の暴露を機に、ガイドブックなども書き直しというか「復元があったんです」ということを付け加えることになるそうだ。
 「復元」そのものは決して悪いことではない。日本にある三内丸山だの吉野ヶ里だの、みんな「復元」して観光地にしてますからね(全国にあるお城も大半はそうだ)。しかし気になるのはその「復元」がどれほど正確であるのかという点。なにしろストーンヘンジの最初の「復元」が行われたのは百年も前のことだし、しかも復元前の状態が石がゴロゴロ転がっているようなものだったとすると、本当にあんな円状の構造になっていたかどうかすら分かったものではない。だいたいあの巨石をどうやって組み上げたんだという謎もあったわけだが、20世紀初めにクレーンで組み上げたのだとすれば変な意味でアッサリ解決してしまうことになる(笑)。もちろん、先史時代にああいう巨石構造物を作ること自体は不可能ではないだろうし、「ストーンヘンジ」が重要な遺跡であることに変わりはないのだろうけど、下手すると「夏至の日の日の出の方向」の話なんかかなり怪しくなってきてしまうかも。



◆世界最古の人類DNA抽出?

 このコーナーでも何度か人類発祥ネタを取り上げてきているが、それに一石を投じかねない最新作(?)が登場。

 1月9日、オーストラリア国立大学の人類学者アラン=ソーン教授らの研究チームが、オーストラリアで発見された6万年前の男性の遺骨からそのDNAを採取することに成功した、と発表した。もちろん人間のDNAとしては世界最古のものとなる(人間以外の状況は知らないが)。これまで人類として世界最古のDNAが抽出されたのは4万5000年前のネアンデルタール人のものだったそうで。

 この6万年前に死亡したと推定される男性は、1974年というかなり以前にオーストラリアのニューサウスウェールズ州のマンゴー遺跡でソーン教授自らが発掘したもので、「マンゴー人」と名付けられている。それから約四半世紀を経てDNAを取り出すことに成功したというわけだ。
 で、このDNAを調べたところ大問題が判明した。この「マンゴー人」のDNAは、アフリカで発見された現世人類のDNAと明らかに異なっているというのだ。どこがどのくらい違うのか記事からは分からないのだが、とにかくソーン教授は「この男性の祖先はアフリカではなく、アジアのどこかで進化した可能性がある」と指摘している。そしてこの発見は「現代人の『アフリカ起源説』を覆す可能性もある」とまで述べたのだ。

 前にも何度か書いている話であるが、人類の発生と地球全体への拡散については大きく二つの説がある。最初の直立歩行の「猿人」がアフリカに出現したという点では違いはないのだが、その後の原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人(現世人類)にいたる過程で見解が分かれる。一つの考え方では原人あたりで世界各地に拡散し(北京原人、ジャワ原人など)、その後それらがそれぞれの地域で進化を遂げて現代人になったとする。つまり東アジアの人々は北京原人、オーストラリア原住民などはジャワ原人の子孫と考えるわけだ。もう一方の考え方は原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人はいずれもアフリカから発生して順番に「出アフリカ」を行って世界中に散らばったとする考え方だ。最近では現代人のDNA調査などから後者の方が有力と見なされている。一ヶ月前の「史点」でも紹介したが、現世人類の「出現」は17万年前で、「出アフリカ」をしたのが5万2000年前とする研究もつい最近発表されている。
 
 今回の発見が確かなものだとすると、この「アフリカから順番に発生」説を覆しかねないところがあるのは確か。今後あれこれ議論を呼びそうで、楽しみなところ。
 


2001/1/15記

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