ニュースな
2001年1月21日

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 ◆今週の記事

◆金さんお忍び中国行

 ホント、この人は分からない。昨年一気に「2000年の顔」の一人にのし上がってしまった観のある北朝鮮の金正日総書記だが、南北首脳会談後はほとんど姿を見せずなりを潜めている観があった。しかし先日から極秘のうちに突如中国を訪問していることが判明し、またまた注目を集めている。思えば南北首脳会談直前の昨年五月に中国を訪問してからやたらにこの人の露出度が上がって世界を驚かしたんだよなぁ。それを思い起こすと、今回の隠密行動(?)も何かの動きの予兆なのかも知れない。

 中国の東北部・遼寧省の遼陽駅を、北朝鮮からの特別列車が通過したという情報が流れたのは1月15日のこと。この時点で誰もが「金総書記が乗っているのでは?」と考えるのは無理もなかった。だって去年も金さんはまったく同じパターンで極秘のうちに中国入りしていたからだ。しかも「3月に北京を訪問するらしい」という噂は年明けから聞こえていて、北朝鮮関係者もそれを否定していなかった。「去年のパターンでソウル訪問の直前に北京に行くのでは」との憶測も流れていた。だから訪中自体には驚かなかったものの、結局不意をつかれた恰好になってしまった。ひょっとして金さんは世界のマスコミ・外交関係者の裏をかくのを個人的な趣味にしてるんじゃなかろうか(笑)。

 さらに裏をかく形になったのは、金総書記が北京に入ったかどうかを確認できないうちに、金さん、いきなり上海に姿を現したのだ。16日から韓国紙などが「金総書記、訪中確認」を報じた頃にはすでに上海滞在が確認されていて、「北京で中朝首脳会談か?」という予測もひっくり返してしまった。どうやらくだんの特別列車は北京に入ったものの荷物だけ降ろして本人は上海へ直行したらしい。とにかく上海を「見物」することが、今回の隠密行の主目的であったということだ。
 金総書記が上海見物で訪れたのは、上海のみならず中国経済発展の象徴とも言える「浦東地区」だった。ここは僕も行ったが、シンボリックなテレビ塔を初めとして高層ビル群が建ち並ぶ、東京都心を見慣れた者でも結構驚かされる名所である。ちなみに16世紀半ばに倭寇が闊歩したころはまだまだド田舎でしたけどね…あ、脱線したな(笑)。金正日総書記は1983年にも上海を訪れたことがあるのだそうだが、そのころはまだ「改革・開放」がようやく叫ばれ始めた頃。そのころからすればあまりの変貌ぶりに驚かされたことだろう。実際その後公表されたコメントによると「こんな短い期間でこれほど発展するとは」とか言っていたらしい。もちろん中国をヨイショしたところが大きいとは思うけど。

映画マニアの「お忍び」ですから…つってももはや日本人でも分からない人が多そうだな その後、上海のあちこちで「金さん目撃情報」が相次ぐ。やれ劇場に現れた、IT関連工場を視察した、証券取引所を見物していた、などなど。TV各局もまるで隠し撮りのように金さんの姿を追っかけていたものだ。NEC系合弁半導体工場なんかも視察したらしく、日本人技術者も金さんを目撃していたようだ。上海滞在は5日間の長きにわたり、今の上海の発展の功労者とも言える朱鎔基首相が同行しているとの情報も出た。
 しかし…不思議なことにこれだけバレバレにも関わらず、北朝鮮はおろか中国当局までが一向に「金正日訪中」を公式に認めようとはしなかった。結局この「訪中」は終始「お忍び」の形で続行され、中国政府が「金さん訪中」を公式に認めたのは金総書記が帰国した後の20日のことだった。どうやら北朝鮮側のたっての希望で「隠密」の形がとられたらしく、北朝鮮のよく分からん体質は相変わらずだな、と思わせるところもあった。

 この約5日間の訪問の最後に金正日総書記と江沢民・中国国家主席の会談が北京で行われていた(しかしこれがまたいつ行われたのかなかなか公表されなかったんだよな)。会談の内容は金さんが中国の「改革・開放」による経済発展を大絶賛。そして「都合の良い時期」での江主席の北朝鮮訪問を要請したという。もちろん江沢民さんはこれを快く承諾し、北朝鮮に久々に大物の訪問が実現する見込みになった(クリントンさんは結局行けなかったもんね)。また、あまり公表されてはいないが、ブッシュ新政権になるアメリカへの対応、韓国との和平と統一に向けた方針などあれこれ話し合ったものとみられている。まぁとにかく北朝鮮と中国との特別な関係を強調する形になったには違いないな。

 金正日総書記が上海を見物したというのは、やはり北朝鮮も「改革・開放」をやって外資を導入し、経済発展を狙おうということなんでしょうな。北朝鮮と中国じゃ外国からの見方はかなり違うだろうし、そう簡単にマネできるものではないとも思うけれど、国のトップがヒョイヒョイ外国に行って見聞を広めるってのは、たとえそれが形式的なものであろうと、やはり有益なことだとは思う。今年中に金さんはロシア訪問が予定され、そして注目のソウル訪問を果たせるかどうかが注目されている。今回の突然の訪中は、それへ向けての前向きなステップであれば良いな、と思うばかりだ。
 



◆コンゴの今後は?

 「コンゴ」という国についてはこういう事件でもないと調べる機会もないし、こんなベタなギャグをかますこともできやしない(笑)。その昔、我が家にあった古い世界地図にはアフリカの中部に「コンゴ」という国が記されていたが、その後中学・高校で使っていた世界地図には「ザイール」という国名がここに書かれていた。流れている大河も「コンゴ川」だったり「ザイール川」だったりして、地図オタクでもあった僕は当時から気にはなっていたのだ。
 さてこの国の歴史を調べてみると、以下のような流れになる。そもそもこの「コンゴ」と呼ばれる中央アフリカの広大な地域は19世紀の末、帝国主義華やかかりし頃にベルギーが植民地として獲得したものだ(ベルギーなんかまで植民地持ってたんだなぁ、と思わされるところ)。1885年から国王の私領として「コンゴ自由国」と呼ばれ、1908年に「ベルギー領コンゴ」となった。これがようやく独立を果たすのは「アフリカの年」とも呼ばれる1960年のことだが、その後も「旧宗主国」ということで関係は続いているようで、今回の騒動でもベルギー政府からの発表が妙に多かった。

 さて独立を果たしたものの、コンゴに待ち受けていたのはこういう国が得てして陥りがちな内戦と混乱だった。コンゴという国はなまじダイヤや銅など鉱産資源に恵まれていることもあって、余計に紛争の種が多く、独立した途端に「コンゴ動乱」と呼ばれる大混乱に突入してしまった。このコンゴ動乱はおなじみのツチ・フツといった部族間抗争があったところにベルギー、アメリカ、ソ連などが介入してきてグチャグチャな状態になり、独立の英雄で時の首相ルムンバは内戦の中で暗殺されてしまった。1965年にはアメリカの支援を受けた軍人モブツがクーデターを起こして政権を握って大統領に就任し、それからなんと30年以上に及ぶ独裁体制を敷くことになる。1971年に国名を「ザイール共和国」と改称したのもこの大統領だ。
 そのモブツ政権が崩壊したのは1997年。反モブツを旗印に結成された「コンゴ・ザイール解放民主勢力(ADFL)」が隣国のウガンダルワンダの協力をとりつけて首都キンシャサを制圧し、モブツ大統領の追放に成功。ADFLのカビラ議長が大統領に就任した。カビラ政権は国名を「コンゴ民主共和国」に改称している。それにしても「ザイール」と「コンゴ」ってどういう意味合いの言葉なのか興味があるところですな。
 しかしカビラ政権の成立によって、コンゴはなおいっそう混迷の度を深めてしまった。カビラ政権は独裁色を強め、ダイヤ採掘権などをめぐりそれまで協力関係にあったウガンダ・ルワンダと対立、とうとう98年にウガンダ・ルワンダ両国がコンゴ国内の反政府勢力を支援して侵攻し武力紛争が勃発。カビラ政権側にはジンバブエアンゴラといった国の軍隊が味方に付き、もうこう書いていても何がなにやらという混乱状態に陥ってしまった。99年にいったん和平が決まったのだが、結局誰も守らず(汗)、戦争が続いていたわけだ。

 で、ようやく現在の状況の話になる。1月16日、このカビラ大統領が撃たれ、死亡したという情報が世界を駆けめぐった。僕が見た限り、最初の公的な出どころはベルギー外相の口からだった。しかも撃った犯人は大統領自身のボディガードであるというのだ。その後数しばらく情報が錯綜したが、おおむね死亡説は外国政府が公表し(ウガンダとルワンダも異様に早く死亡情報をキャッチしていたという)、コンゴ政府が「大統領は生きている。ジンバブエで治療を行う」と発表するという形になっていた。撃った犯人がアンゴラ人であるという報道も流れ、また狙撃現場には解任されたばかりの軍最高幹部がそろっていたという話も出て、「クーデター?」との見方も広がった。
 コンゴ政府が公式にカビラ大統領の死を発表したのは18日。死亡時刻は18日午前10時で、亡くなったのはジンバブエへ送られる飛行機の中であったという。大統領の権限は、その前日の17日のうちに暫定的にカビラ大統領の息子・ジョセフ・カビラ氏に引き継がれていた。

 結局のところいまだに公式に確たる事実は発表されていないのだけれど、どうも16日午後にカビラ大統領は軍の幹部らを解任して口論となり、そのうちに軍人の誰かかボディガードに撃たれてしまったということであるらしい。その場で犯人も射殺されたとされているあたり、どうもあれこれ憶測を呼んでしまうところであるが…。
 



◆「貴族のスポーツ」禁止令
 
   最近イギリスからの「史点」ネタってあらかたブレア政権による旧習の打破関係の話が多いような気がする。まぁ久々の労働党政権だから無理もないとは言えるのだけど。「中世の遺物」ともいえる上院の大改革、名誉革命以来の改革(?)と言われる「人権法」の制定など、「古いイギリス」の改造にまつわる話が多いのは確かだ。そしてまた一つ、新たな話題が加わった。これがなかなか興味深い話なのだ。

 1月17日、イギリス下院は「キツネ狩り」の完全禁止を求める法案を賛成多数で可決した。この「キツネ狩り禁止令」、動物愛護法の一種には違いないが、単純に狩猟愛好家に対する規制ではない。この「キツネ狩り」というやつ、実はイギリスにおけ伝統的な貴族のスポーツなのである。日本でもその昔武士のたしなみとして「巻狩り」やら「鷹狩り」なんてのがあったが、あれと性格が似ているかも知れない。要するに野にいるキツネを猟犬に追い立てさせ、それを馬で追いかけて狩るわけだが、そもそも面積の広い土地がないとできませんよねぇ。
 話がかなり脱線するが、石ノ森章太郎の代表作「サイボーグ009」の異色編に「裸足のザンジバル」という短編があり、アフリカの植民地でイギリス貴族達がキツネの代わりに黒人の少年を走らせて「キツネ狩り」を楽しむという話が出てくる。そのおかげで(?)足の速くなった少年は独立後にマラソンのオリンピック選手になったというお話だった。ついでながらこのお話、サイボーグ達は全く関係ない回想話なんだよな。

 さて、ブレア政権はこの「キツネ狩り」を禁止する意向をかなり早くから表明していたらしい。たぶん動物愛護団体なんかの運動が背景にあるのだろうが、一方で「伝統」としてこれを守る運動も保守派を中心に根強いという。また「地方の雇用にも貢献している」との主張もあり、ブレア政権の閣僚内でも異論が出ているという。この日の下院の採決でもブレア首相本人は政党幹部との対談があるということで投票に参加しなかった。この法案自体、貴族達が議員の大半をつとめる上院で否決されることは確実視されており、5月に行われる総選挙をにらんで「先送り」にしようという気配も感じる。
 「キツネのように悪賢い首相は穴の中に逃げた」とひねりの利いた揶揄をした新聞もあったそうだが、イギリスではキツネってやっぱりオオカミ同様悪役まわりであるらしい。中国にも「虎の威を狩るキツネ」の故事成語があるな。日本ではお稲荷さんみたいに神様みたいに扱われてるところもあるが、一方でタヌキと並んで「化かし」をする動物でもあり、やはりタヌキよりは賢いイメージをもたれているような。なんかいろんな方向に話が飛んじゃってますな、このネタでは(^^; )。



◆気分はもう革命!?
 
 昨年のAPECに集まった各国首脳のうち、ペルーのフジモリさん、日本の首相と並んで「いつまで持つか」と注目(?)を集めていたのがフィリピンのエストラーダ大統領だった。なんとか年を越したと思ったらとうとう大統領の椅子を降りるハメになってしまった。しかも「ピープルパワー」による「革命」という形で引きずりおろされるという、かなりみっともない形で…。

 1月16日、数々の不正がささやかれるエストラーダ大統領に対する弾劾裁判において、書類開示をめぐる判断が陪審員役をつとめる上院議員らによる多数決で行われた。結果は大統領派が反対派を上まわり、「開示の必要なし」だった。この時点で弾劾裁判は「無罪確定」と言われ、検察役の下院議員が抗議して11人全員が辞任してしまった。このニュースを見て僕などは「おやおや、大逆転じゃないか」などと思ったものだ。エストラーダ大統領、絶体絶命のところから起死回生の大逆転…かと思われたのだ。
 しかし甘かった(大統領も僕も)。「無罪確定」の翌日、17日未明から首都マニラをはじめフィリピン全土の主要都市で、反エストラーダの抗議デモ、集会が開かれ怒濤のように人が集まり始めたのだ。かつて1986年に当時の独裁者マルコスを倒した「ピープルパワー」の発信地となったマニラのエドサ通りには何万という群衆が集まり、「大統領が辞任するまで集会をやめない」と気勢を上げた。前大統領であるラモス氏も「有罪か無罪かの判断は、弾劾裁判所から人々の手に移った」と演説。カトリック教会の指導者シン枢機卿も夕方にこのエドサ通りで抗議ミサを行った。この時点で十万人もの群衆がここに集まっていた。

 マニラが騒然とする中、エストラーダ大統領はそれでもなんとか政権を維持しようと躍起になっていた(近ごろ入信した噂の教団の教祖様にも相談していたらしい)。ハタから見ていても意外に政権への物凄い執着を見せていたのだが(一時本気で戒厳令でも布きかねない空気を感じた)、19日になって国軍のトップとも言えるレイエス参謀総長が辞表を提出して反大統領派の集会に合流してしまい、他の軍・警察の幹部もこれに同調する動きを見せたため、とうとう観念することとなった。パターンとしてはホントに1986年の「ピープルパワー革命」とよく似ていた。

 1986年2月、フィリピンは大統領選で揺れていた。20年にわたり独裁体制をしいてきたマルコス大統領に対し、コラソン=アキノ女史が対抗馬として出馬していた。アキノ候補の夫ペニグノ=アキノはマルコスにとって最大の政敵で、1983年に亡命先のアメリカからフィリピンに帰国した途端にマニラ空港で射殺されてしまっており(首謀者は見え見えとしか思えないが今なお真相は闇に葬られている)、この選挙はいわば「弔い合戦」という趣きもあった。
 選挙が始まってみると、各地でマルコス派による不正が続発(投票箱が消えたりいろいろしていた)、とうとう双方で「勝利宣言」を出す事態に。そしてついにフィリピン民衆が「ピープルパワー」を巻き起こし、マルコスは退陣どころか国外逃亡というハメに追い込まれたのだ。ただ、直接的に政権崩壊につながったのは今回と同様、国軍が大統領を見放して起こしたクーデターだった。軍隊に見放されたらどんな独裁者もオシマイである。エストラーダさんなんて国外へ逃亡しないだけ幸運なんじゃなかろうか(もちろん今のところは、だが)

 とまぁ、まさに絵に描いたように「民衆による革命」で世界中の注目を集めたフィリピンであるが、その後そう劇的な変化を遂げたわけでない。アキノ政権は結局さしたる成果も上げられずに終わったと言われてしまっているし、さんざん悪女の権化のように言われたマルコスの夫人イメルダさんもしっかり帰国して貧民層を中心にかなりの支持を集めたりしていた。だいたいエストラーダ大統領の誕生の時だって、こっちから見ていても「なんだかなぁ」と思うばかりだった。元映画スターという知名度と人気だけで大統領になっちゃったような印象をぬぐえず(エリートではないのは確かでタガログ語のスピーチは庶民ウケしてはいたらしい)、不正話がゾロゾロ出てきた時も、「やっぱり」と受け止める声が多かったような気がする。

 「第二のピープルパワー」と騒いでいるが、あんな感じで集まっている大群衆がエストラーダを大統領に選んだのも事実なんだよな。一時支持率80%まで行ったとか聞いていると、フィリピンの皆さんって「国民の意思」というよりは、かなり「ノリ」で大統領を支持したり革命を起こしちゃったりしているのではなかろうか…と感じてしまう。かなりネアカな政治意識だよなぁ、とは思う。
 跡を継いだのは副大統領から昇格したアロヨ大統領だが、この人は打って変わってと言うか、大変なエリートですね。しかも第五代大統領の娘さんとか。単なる偶然だが、アメリカ合衆国でもその翌日に大統領のお子さまが大統領に就任してたりしてました。
 


2001/1/22記

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