ニュースな
2001年1月29日

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 ◆今週の記事

◆経済で領土奪回!?
 
 チラリと新聞で見かけた記事だし、まだまだ未確定の要素が多い話なのであるが、話半分としても面白かったので。
 
 イギリスの日曜新聞「サンデーテレグラフ」が1月21日付で報じたところによると、ロシアドイツに負っている債務の一部を帳消しにする代わりに、ロシアの飛び地であるカリーニングラードでの経済運営や再開発などでドイツが主導権を握るという案が持ち上がっているという。1月6日にドイツのシュレーダー首相がモスクワを訪問してロシアのプーチン大統領と会談した際に浮上した話だとドイツ政府筋から聞き出したんだそうな。この件についてシュレーダー首相はEU議長国であるスウェーデンに仲介役を引き受けてもらい、4月に行われる独露首脳会談でもこの問題を話し合うのだという。

 この話、信用度についてはイマイチという気もしなくはないが、話としては確かに面白い。このカリーニングラードという土地、もともとドイツ人が多く居住していた地域であり、いろいろと歴史的な経緯もあって現在ロシアの飛び地になっているという地域なのだ。
 カリーニングラードというのはどこか、世界地図を調べてみて欲しい。ドイツからはるか東、ポーランドよりさらに東に位置している。現在はポーランドとリトアニアに挟まれているためロシアの「飛び地」となっていることが分かるが、ドイツにとっても相当な「飛び地」となっている。こんなところが旧ドイツ領だったというのもちょっと驚くが、歴史地図などで調べてみるとドイツって現在よりかなり東まで領土を持つ国だったことがわかるはず。とにかくこの辺りの領土関係は20世紀に入ってからかなり変動があるのだ。
 もともと「カリーニングラード」という町は、「ケーネヒスブルグ」というドイツ名で、13世紀にドイツ騎士団によって建設された。その後世界史の授業でもおなじみの「ハンザ同盟」にも属し、プロイセン王国東部の中心都市として近代に至った。この町の出身者で最も有名なのはなんといっても哲学者のカントだろう。この人、この町で生まれこの町の大学で教鞭をとり、一生この町から出ることがなかった。しかも実に規則正しいというか変化が絶無な日常生活を送っており、彼が毎日時間どおりに散歩に出歩くのを町の人々は時計代わりにしていたという伝説まである(笑)。ちなみに一度だけその散歩を怠って町の人々をパニックに陥れたが、それはその日カントがルソーの著書「エミール」に没頭していたからだった、なんてのはちょっとした歴史の裏話。

 この町がドイツの手を離れたのは第二次世界大戦が終わったあと。ドイツ降伏後のベルリン会議でこの町とその周辺がソビエト連邦の領土と定められ、やがて町の名前も当時のソ連の形式上の国家元首だったカリーニンにちなんで改名させられた。そしてそこに住んでいた数百万ともいわれるドイツ人住民はほとんど国外へ追放されてしまった。ソ連崩壊ののちレニングラード、スターリングラードも消滅した今、この名前だけは残っていたというのも不思議な気もする。ま、とにかくそんな歴史のある町なのだ。
 今度の話はこのカリーニングラードが経済的に行き詰まっており(それはロシア・東欧全般に言えることだが)、そこへもともとの持ち主であったドイツが手を貸して上げましょうと言う形ではある。このスクープ(?)を報じた「サンデーテレグラフ」はこれが「経済的領有」であり、「事実上の返還」だと表現しているという。まぁそんなことを「強いロシア」のプーチンさんがスンナリ飲むとも思えないけど、経済的な面としてはメリットもあり、おもしろいとは思うかも知れない。

 こんな調子で日本の「北方領土」も「経済的領有」できるのでは?などとチラと日本人誰もが思うところではあるだろう。ま、「領有」みたいな形はともかくとして共同開発とかそういう話は無くもないですよね。
 



◆昨日の友は今日の敵
 
  先日、産経新聞のサイトを覗いたら「モンテネグロ共和国 EU、独立阻止強める」という記事が載せられていた。「ああ、やっぱりそうなるのか」と思いつつネタにさせていただいた。

 「モンテネグロ共和国」とはユーゴスラヴィア連邦を構成する一国。約半世紀統一を保ったユーゴスラヴィア連邦も冷戦構造崩壊後に民族紛争が激化してまさに「バルカンの火薬庫」を再現、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナといった構成国が分離・独立してゆき、現在連邦に残っているのは中心国であるセルビアとこのモンテネグロだけという有様になった。そしてそのセルビアの中でもコソボ自治州で分離独立騒動が起こって一昨年のNATOによるセルビア空爆につながっていったのは記憶に新しい。
 ユーゴスラヴィア連邦に依然とどまっているモンテネグロであるが、当然ながらここにも分離・独立の動きはあった。現在のモンテネグロ大統領であるジュガノビッチ大統領は、コソボ紛争の際は反ミロシェビッチの態度を示し、ひいてはモンテネグロのユーゴ連邦離脱の動きを見せたため、NATO諸国やEU(ヨーロッパ連合)から強い支持を受けることになった。EU諸国はユーゴ(=セルビア)に対してミロシェビッチ政権の続く限り経済制裁を加えていたが、モンテネグロについては「味方」扱いし制裁の対象から外していたこともある。

 昨年10月にミロシェビッチ政権はついに崩壊した。キッカケは大統領選だったわけだが、この時のEU・NATO諸国の露骨な選挙干渉(直接手を出したワケじゃないけど、ミロシェビッチが勝ったら何をするか分からない空気はあった)が気になる、ってなことはその時の「史点」でも書いていた。結局「革命」という形でコシュトニツァ新大統領の登板となり、EU諸国は「民主主義の勝利」とばかりに大喜びし手のひらを返すように制裁解除・友好回復と対セルビア姿勢を転換していくのである。

 で、元ネタの報道によると、モンテネグロでは総選挙を前倒しで行うことが決まり、ジュガノビッチ大統領ら独立派が勝利を収めた場合、独立の是非を決める住民投票が行われる公算が強いようだ。これに対しEU外相理事会は1月22日に声明を発表、「ユーゴ連邦とモンテネグロの対話により新たな自治関係を憲法で定めるべき」「対話交渉や民主的正当性を脅かすような一方的な行動を避けることが必要」などといった表現で、事実上モンテネグロの連邦からの一方的な独立を認めないという姿勢を示した。モンテネグロ独立派にとってみれば、まさに「昨日の友は今日の敵」。EUはモンテネグロが独立しようがしまいが知ったことではなく、バルカン半島の安定を最優先に求めているわけだ。そのためにはミロシェビッチよりはマシ(とEUが考える)なコシュトニツァ政権のセルビアに味方しておいた方が良いという判断なのだろう。聞くところによるとモンテネグロって60万人ぐらいの小国らしいしねぇ…。大の虫を生かすために小の虫をなんとやら。

 同じパターンは一昨年の空爆の原因となったセルビアのコソボ自治州でも起こっている。そもそもこの地域はアルバニア系住民が多く住む地域で、セルビアから分離独立運動が激しくなったためにセルビアがこれを鎮圧、その過程で「人権侵害」が行われているということでNATOの空爆になったわけだが、空爆が終わり、ミロシェビッチ政権が崩壊したいま、どうもEU・NATO諸国はここを独立させようという気はもはや無いとしか思えない。焦ったアルバニア系独立派(コソボ解放軍)がテロをやらかしたりしているらしいが…先日やっていたNHKの番組によると、彼らに言わせればコシュトニツァだって相当な民族主義者で(コソボでのアルバニア系住民弾圧に参加していたという)ちっとも「民主主義の星」なんかではないのだそうな。



◆コピーされたB29
 
 軍事関係とか航空関係に詳しい人なんかは、別段目新しい話ではないのだろうけど、26日付の「アサヒ・コム」でみつけたネタ。

 アメリカ・スミソニアン博物館の調査によると、ソビエト連邦が47年から50年代にかけて使用していた長距離爆撃機「Tu4」が、アメリカの長距離爆撃機で、太平洋戦争時の日本本土空襲でおなじみの「B29」をそっくりコピーしたものであることが確認されたという。というか、だいたい性能も外見もソックリなので以前から「コピー」とは言われていたのだが、その開発にいたる詳しい経緯が判明したというのだ。同博物館のコメントによると、大戦終結直後にソ連がどうやってあんな当時の最新鋭長距離爆撃機を製造できたのか「旧ソ連軍の謎の一つ」だとされていたのだそうな。

 同博物館の調査結果はこうだ。1944年に日本を爆撃したB29のうち3機が、エンジン故障を起こしてしまい、そのままソ連の極東地域に不時着しすることになった。当時はソ連はアメリカと味方同士の関係(対ドイツということでは)であったわけで、これ自体は別に不思議でも何でもない。当時のソ連の独裁者としておなじみのスターリンはこの機の乗組員は無事帰国させたが、機体は没収し、そのまま解体して徹底的に調べ上げ、完全にそのコピーを作らせたのだという。要するに先ほど言っていた「謎」の答は簡単で、単に現物を入手してそれをマネしただけってことなのだ。記事によると、あまりに完璧にマネをしたため、B29の初期型にあったエンジン部分の欠陥までそっくり同じで、しばしばエンジンから火を噴いたのだそうな。

 …とまぁ、これだけで「史点」ネタになるわけなんだけど、ちょいとひっかかるところもあった。そもそもこんな話、今ごろ調査してやっと判明するたぐいの話なのだろうか?ソ連にB29が一機没収されただけで当時でもかなりの問題になるような気がするし、その事実が今日まで知られていないってのも考えにくいところだ。というわけで、さっそくネット検索の旅(笑)に出かけた。
 つくづくネット時代の凄さを実感させられた。ちょこっと調べただけで「Tu4」関連でかなりの情報が見つかるのだ。あるところでは北京郊外で野外展示されているという「Tu4」の写真が出ていた(なるほど、B29によく似てる)。またある英文サイトではかなり詳しい解説が載っており、1944年に合計4機(7月、8月、11月とバラバラに)がソ連領内に降り立ち、乗員だけ帰国させて機体は没収したとちゃんと書かれていた。そして1946年の段階でベルリンの新聞が「ソ連でB29のコピーを作っている」という記事を載せていたのだという(ソ連に連行されたドイツ科学者からの情報だろうとコメントが載っていた)
 やっぱりずいぶん前から話が出てたんじゃないか。しかもどうも僕が見つけたこの英文も1997年ごろに書かれたものであるらしい。だとするとこのアサヒ・コムの記事はいったい何なんだという気も。ひょっとしてスミソニアン博物館が調査不足なだけなのか。



◆「虐殺決議」で大騒ぎ
 
 歴史の話をするとき、虐殺話というのは最も触れたくないものであるが、悲しいことに歴史上何度もそういう事態は起こっている。近代になってくると民族やら国家やらの意識が濃厚になってくることもあって「民族浄化」とも言われる組織的な大虐殺が繰り返し起こっている。できれば触れたくは無い話なんだけど、やはり歴史ネタとして触れざるを得まい。

 1月18日、フランス議会下院は「1915年のアルメニア人虐殺をフランスは公に認める」という、たった一条の条文が書かれた決議を採択した。これに対しトルコ共和国が国を挙げて激昂。トルコ政府は駐フランス大使を召還し、購入の決まっていたフランス企業製の軍事衛星や戦車の契約を白紙に戻すという経済制裁まで実行に移す構えだ。民間からも「フランス製品非買運動」が起こり、まるで開戦直前のような騒ぎだそうな。
 「アルメニア人虐殺」というのはまさにトルコにとって重大な「歴史のタブー」なのだ(ま、僕も今回調べるまで良く知らなかったんですけどね)。1915年といえば第一次世界大戦のさなか。当時トルコは「オスマン=トルコ帝国」の末期で1908年の革命により若手軍人による「統一と進歩委員会」が政権を握っていた。そのリーダーはエンヴェル=パシャ(このへんの話は「しりとり」のケマルの回を参照して下さい)。そしてこの政権はドイツとの結びつきを強め、第一次世界大戦ではドイツ側で参戦することとなった。
 当時、アルメニア民族はオスマン=トルコ帝国を構成する多くの民族の一つだった。しかもキリスト教徒(アルメニア正教)が大多数だったこともあって、隣国であるロシアから独立を促す策動もあって、大戦勃発を機にトルコと戦うロシアに呼応して独立を一気に実現しようという動きが起こったのだ。もちろんトルコ帝国に忠実なアルメニア人もいたらしく(イスラム教徒も少なからずいた)、事情はそう単純でもないらしいのだが。
 1915年4月。オスマン=トルコ軍はアルメニア地方に進軍し、この時にアルメニア人に対する大虐殺が始まったとされる。アルメニア人たちの主張に拠れば4月24日付でオスマン=トルコ政府がアルメニア人男子(キリスト教徒のみ)に対する組織的虐殺を命じる指令を発したとされる。この結果、翌年にかけて何十万というアルメニア人が帝国内の各地で虐殺され、あるいは追放され、土地を捨てて亡命する者も膨大な数に上った。

 こうして多くの亡命アルメニア人がヨーロッパやアメリカのキリスト教国に亡命した結果、これら各国でアルメニア人達は政治的に各国政府に働きかけ、トルコを非難する決議を採択するよう運動を続けている。今回のフランス下院の決議もその運動の成果だ。しかし、フランスのこの決議も「虐殺はあった」と認めただけでトルコの名指し非難は避けている。それだけこれはデリケートな問題なのだ。
 一方のトルコは頑として「虐殺は事実に反する」と否定し続けている。確かに多くのアルメニア人が殺されり逃亡中に死亡したりしたが、それはアルメニアの「裏切り」から始まった「内戦」の結果であり、トルコ人だって大勢死んでいる、また「組織的な虐殺」の指令などは出ていない、というのがトルコ側の主張だ。トルコ側のアルメニア問題に関する日本語による大反論が日本のトルコ大使館の公式サイトで読めるので、一読をお薦めする(その主張がどこまで正しいかは各自の判断です)。とにかくトルコにとってこの問題がいかに神経に障る問題であるかはよく分かる。
 現在、アルメニア側が主張する虐殺の犠牲者数は最大で160万人(!)。しかしこの問題を扱った歴史家トインビーは犠牲者数を「60万人」と推計しており、当初アルメニア側もこの数字を主張していた。トルコ大使館サイトの文章を読む限りトルコもこの数字は否定しないようだ。しかし次第に犠牲者数は増加していき、現在のこの数字にいたっているとのこと。トルコ側は戦前のオスマン帝国内のアルメニア人人口は130万人しかいないはずで、この数字は全くの虚偽だと主張している。なんかこの辺の話は「南京虐殺」の論争と似てくるような…

 歴史事実の検証はさておき、トルコがこの問題に神経をとがらすのは現実の政治上の問題も絡んでいる。トルコは以前からEUへの加盟を目的として改革を進めてきているが、その過程で何度となくEU諸国から「口出し」「邪魔」をされてきたという思いが強い。そこで出てくるのが「やっぱりイスラム国だから仲間外れにするのか」という感情だろう。そしてアルメニア人虐殺が欧米で大きく取り上げられている背景に(あえて意地悪いことを言えば)「アルメニア人はキリスト教徒だから」という同情論があることは否めないだろう。そんなこんなで、こうした歴史決議はトルコにとっては「EU加盟阻止の嫌がらせ」にしか見えないのかも知れない。いや、実際そうかもしれないのだが。
 また、アルメニアに関しては現在トルコの隣に「アルメニア共和国」が存在しており(かつてソ連邦に属していたが、現在は独立国)、これとの領土問題・賠償問題が起こるんじゃないかと警戒しているふしもありますね。

 おりしもイギリスで「ホロコーストの犠牲者を追悼する式典」がつい先日開催された。アウシュビッツ収容所解放の日を記念して、「人種差別反対」を掲げてブレア政権が企画したイベントだが、「ホロコーストはナチスによるものだけではない」との主張が出たとかで、カンボジア・ルワンダ・ボスニアといった世界各地の虐殺犠牲者も一緒に追悼することになった。これにアルメニアが入っておらず(トルコに配慮したのは明らかだろう)、やはりイギリスのアルメニア系住民が抗議活動をしたという。その一方で本来メインに扱われるはずだったユダヤ人たちも不満を感じているなどという話もあり、かえって面倒なことになっちゃったみたいだ。
 
 この手の話は世界中どこにでも、歴史上いつでもある話であると言える。歴史の検証は大切なことで、何十年経とうと大いに事実を究明するべきだとは思うのだが、それがある特定の国や勢力の機関による「決議」などとやってしまうと現実の政治問題が絡んできて非常にややこしいことになるんですよね。こういうの専門の国際機関をつくるとかそういうことは出来ないモンですかね。
 


2001/1/29記

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