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2001年2月12日

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 ◆今週の記事

◆「イタリア王室」帰国論議
 
 ヨーロッパという地域はあれでまだまだ君主を戴く国が多い。西欧・北欧は昔からの王室がそのまま残っているわけだが、東欧では一時ほとんどが社会主義国だったこともあって一応国王を戴く国はほとんどない。しかし、その東欧の社会主義体制が崩壊する中で国外に追われている「旧王族」の動向にやはり注目が集まってしまうところがあるようだ。確かルーマニアとかセルビアの王室の子孫は今でも国内に入ってくることを禁じられていたりしたような。

 誰もが良く知っている国で、かつて王国だったことが意外に忘れ去られているのがイタリアだ。イタリアという国は歴史的にさまざまな王国やら自治都市やら教皇領やらが乱立していた国で、「統一」が行われたのはようやく19世紀の中頃のこと。統一の中心勢力となったのはイタリア半島の本土ではなく地中海に浮かぶ島国・サルディニア王国だった。サルディニアのビットリオ=エマヌエーレ2世という王様の時代に着々と統一事業を進めてゆき、1861年にほぼ現在の版図の「イタリア王国」が成立する(それでも「未回収のイタリア」が残り、第一次大戦に影響したというのは世界史教科書でおなじみ)
 以後イタリア王国はこの「サヴォイア王家」の国王を戴く立憲君主国として80年ばかりの歴史を刻んでいくが、あのファシスト・ムッソリーニの独裁を許してしまったことでこの王家の運命は暗転する。第二次大戦の戦況が不利となってくると、当時の国王ビットリオ=エマヌエーレ3世はムッソリーニを逮捕しかれを政権の座からおろし連合国に降伏する策謀に打って出た。この策謀はひとまず成功するが、ムッソリーニ自身の身柄はヒトラーの派遣した特殊部隊によって奪われてしまった(ソ連映画「ヨーロッパの解放」でこのあたりも詳細に映像化している)
 第二次大戦が終結すると国王ビットリオ=エマヌエーレ3世は「ムッソリーニに抵抗した」という主張をしたものの責任をとらされる形で退位し、1946年5月にウンベルト2世が入れ替わりに即位した。しかしその翌月、国民投票によってイタリアの王制は正式に廃止され、王室一家は国外追放の憂き目にあうことになった。1948年に制定された憲法の付則でウンベルト2世とその配偶者、さらに男性の子孫のイタリア入国が禁止されることとなる。この経緯をみていると、この国と同盟を結んで戦い、ボロボロに敗れたどっかの国の君主が戦後もそのまま長期にわたって在位していたというのは実に特殊な事例なのだなと思えてくる。

 さて、先日「読売新聞」のweb版を眺めていたら、このウンベルト2世の妻だったマリア=ジョゼさんが1月27日に死去したこと(94才だった)をキッカケに、イタリアでこの「王族入国禁止」条項の見直しを求める議論が起こっている、との記事が載っていた。マリアさんが亡くなったのはもちろんイタリアではなくスイスのジュネーブ。ウンベルト2世はすでに1983年に亡くなっており、遺体が歴代国王が眠るローマのパンテオンに納められているのだが、マリアさんの遺体も夫と共に葬るべき、との意見も強いらしい。またマリアさんが戦時中ナチスと組むことに反対していたとのエピソードもあるそうで、その記事による限り、イタリアのマスコミは概ね同情的に大きく扱っているようだ。

 ウンベルト2世とマリアさんの長男にビットリオ=エマヌエーレ氏がいる(世が世なら4世?)。この人のイタリア入国は憲法の規定により禁止されているわけだけど、アマート首相はこれの見直しに前向きであるらしい。ただし一つ条件がある。それは「旧王族が共和制尊重を公言すること」なんだそうな。今どき…ってな気もしなくはないがどこかでまだ「王制復活」を恐れているところがあるのかも知れない。
 イタリアのチャンピ大統領(つまり現イタリアの国家元首)がビットリオ=エマヌエーレ氏(長い)に母親の死去に対して弔意を送ったところ、ビットリオ=エマヌエーレ氏からの返信にチャンピ氏を「全イタリアの大統領」と呼ぶ文言があったことが注目されているらしい。つまり「共和制イタリアを認める」という意志表示だというのだ。ひょっとして今まで全く認めていなかったのか…。
 



◆あんたはいったい何者だ!?
 
 ちょうど一年前の「史点」(2000年1月30日付)に載っている話題に、フランスの元国営石油会社エルフ・アキテーヌ社が絡んだミッテラン大統領時代のフランス政界汚職疑惑のネタがある。発覚のキッカケはお隣ドイツのコール元首相をめぐる金銭スキャンダルだったが、そこからじわじわとフランスに疑惑は波及していった。その結果、ミッテラン前大統領の長男やデュマ元外相が逮捕されるなど、前政権および現政権に大きな影響を与えかねない事態になっているらしい。なんせこのエルフ社、「政界の貯金箱」などとあだ名されるいわくつきの企業だったようで…。

 このエルフ社の元幹部で、同社の絡んだ数々の疑惑の核心を握っているとみられるアルフレッド=シルバンなる人物が、2月2日に逮捕された。それもなぜかフィリピンのマニラで。しかも実に4年間にわたる国外逃亡の末の逮捕だった。彼はそのままドイツを経由してフランスに連行されたが、乗り継ぎ先のドイツ・フランクフルトでも「コール疑惑」関係で証言を求められて足止めを食っていた。時間が短いという理由で本人は証言を拒否したようだが…3日間ほど足止めを食ってようやくフランスに帰国したが、彼の証言をめぐってフランス政財界は戦々恐々とのこと。

 アサヒ・コムでこのシリバン容疑者の経歴についての詳しい説明が載っていた。いやはや、あまりに面白かったので「史点」ネタにしてしまった(笑)。かのアルセーヌ=ルパンもビックリかも知れない。
 シリバンは当年74才。ということは1926年頃の生まれと言うことか。第二次大戦中の17才の時に、ナチス・ドイツ占領下のフランスで反ナチスのレジスタンス活動に参加という華々しいデビューをしている。しかしその次に登場したのはなぜか1950年に始まった極東の朝鮮戦争で、彼は国連軍(つまり韓国側)の一員として従軍、負傷して日本で治療を受けている。しかし滞在中の1952年に仲間と共謀して東京の銀行を襲撃(!)、280万円を奪うという事件を起こした(当時の新聞とか調べてみたかったが時間がなかった)。二週間後にアメリカ憲兵隊に逮捕されフランス側に引き渡される。そして当時まだフランスの植民地だったベトナムのサイゴンで軍事裁判にかけられそこで二年間服役している。
 服役を終えて帰国した後は心を入れ替えて(?)勉学に励み、法学を修めて某大手企業に就職。その後当時国営だったエルフ社の社長と親しくなり、1989年に引き抜かれるようにエルフ社に総務担当として入社した。このへんもイロイロと胡散臭い匂いがしなくはないが、とにかくエルフ社に入社したシリバンはその特異な経歴を買われて(?)同社の政界工作に従事、そのままエルフ社のナンバー2にまでのし上がったという。

 とにかく読んでいて呆然としちゃうような経歴である。まぁこういう謎な人って不思議とどこにでもいるもののようで日本でもロッキード事件に登場した児玉誉士夫とか今も裁判中の許永中被告なんかがいるし、記憶に新しいペルーのモンテシノス国家情報局顧問なんかも挙げて良いと思う。超エリートの中に深々と食い込む闇の存在、とでも言いますかね。ひょっとすると国家の「必要悪」みたいなもんなのかな。
 4年前、つまり国外逃亡に出る以前に、シリバン容疑者は知人にこう漏らしていたという。
「政権を20回、ひっくり返す秘密を持っている」



◆中台間に密使暗躍?パート2
 
 いきなり「パート2」と書かれても分からない人もいそうなので補足を。
 昨年の7月に香港・台湾のマスコミが「李登輝前総統が長い間中国共産党と密使をやりとりしていた」ということを暴露して話題になり、僕も「史点」でとりあげたことがあるのだ。1991年、江沢民・共産党総書記から香港の儒学者を介して話が持ち込まれ、台湾側は李登輝総統の側近の一人でその儒学者の教え子である蘇志誠氏を香港へ送り込んだ。対する方も大物で江沢民の側近・曾慶紅らが交渉に当たっていた。この共産党と国民党の間の「密使会談」は数回にわたって行われ、台湾総統選で中国側がミサイルぶっ放したり、李登輝総統が「二国論」をブチ上げたりと台湾海峡に波風が目立つ最近まで密かに数十回にわたり続けられており、なんとこの窓口が閉鎖したのは陳水扁新総統が当選した昨年五月のことであったという。

 さて、近々台湾で一冊の「李登輝本」が出版される。タイトルは『愛憎李登輝』というストレートなもの。内容は李登輝総統のそばに長らくあった二人の人物、前監察院長の王作栄氏と歴史学者で立教大学教授から転身して李登輝政権の国家安全会議諮問委員をつとめた戴国キ[火軍]氏による対談だ。戴氏はつい先月に亡くなられ、陳水扁総統からも弔辞を贈られていた。この本は戴氏が亡くなる直前に行われた対談であるようだ。王氏・戴氏の二人とも李登輝政権に参画して側近と言っていい立場にありながら、その政権の末期には愛想を尽かして李登輝総統から離れていったという共通項がある。タイトルにもそんな二人の複雑な心情が現れているようだ。

 さて、本題はこの本の中で王作栄氏が暴露している新たな「中台密使」のことなのだ。
 1995年1月30日(旧暦だと大晦日になる)、江沢民は「台湾統一」に関する8ヶ条、いわゆる「江八条」を発表した。「中国は一つという原則のもと、両岸の敵対関係の終結交渉を行う」ことを主軸とした内容だった。これが出たとき、王氏は李登輝総統にこう進言したという(以下、僕の訳なのであくまで大意ね)
「中共(言うまでもなく中国共産党の略)の指導者はどれも田舎者ばかりだが、江沢民は違う。彼は上海グループで国際性もあり弾力性も持っている。彼がトップにいる限り台湾に対して強硬な手段を取らないだろうから、彼がトップにいる方が台湾のためだ。もしあなたが提案を受け入れず江を潰してしまったら、我々が中共と付き合っていくのがさらに困難になる。あなたは江と話し合うべきだ」
 これに対し、李登輝はこう答えたという。
「心配ない、心配ない、私には中共の状況がよく分かっている。喬石も私と連絡をとっているのだよ。中共内部の詳しい事情は喬石があるパイプを通じて私に教えてくれている。喬石は彼らが台湾を攻めるのを阻止することが出来ると言っていた」
 王氏はいぶかしく思ったものの、それ以上は聞くことはしなかったという。そして李登輝前総統は数ヶ月後に明白に「江八条」を拒否する姿勢を示し始めるのである。そしてそれ以後、「台湾独立」の姿勢を言動で明確にみせていくのだ。
 喬石というのは現在は引退しているが当時は政治局委員で、中国共産党第三位の序列に位置していた実力者だった。この人物と李登輝総統がパイプを持っていたというのはこの本で初めて暴露される話で(この対談でも王氏がそう言っている)、事実であるとすればこれまたビックリの話となる。昨年7月に「密使」だったことを明かした蘇志誠はこの王氏の暴露を「とんでもない話」と否定的だと言うが、王氏は対談の中で「李登輝が中共に持っていたパイプは確実に複数あったはず」と推測しており、どうやら信憑性はかなり高そうだ。
 この時期江沢民の権力はまだまだ脆弱で、この時期の李登輝の言動を見ていくと彼は江沢民の失脚が近いと見ていた節がある。そしてその観測の裏付けに喬石側からの情報があったとしたら…?とにかく李登輝さんという人は調べていくといろいろと不可解な話が出て来るんだよね。



◆「ノーベル迷惑賞受賞者」が…
 
 「ノーベル迷惑賞」は昨年10月に当「史点」欄が勝手に進呈したもの(笑)。受賞者はもちろんイスラエル右派政党「リクード」のシャロン党首だ(理由は「中東和平崩壊に貢献」で罰金900万クローナ)。それまで難航しながらもなんとか話がまとまりかけていたイスラエルとパレスチナの和平を、「聖地訪問強行」ですべてブチ壊した張本人がこの人である。それがとうとうイスラエルの首相の座におさまってしまった。

 当初、バラク前首相率いる労働党は首相公選での強敵はやはり元リクードの強硬派でネタニヤフ氏だとみていた。しかしネタニヤフ氏が出馬断念を表明したことで、バラクvsシャロンの組み合わせが決定、和平崩壊の元凶であるシャロンが相手ならば…という期待が一時出ていた。
 しかし、実際に選挙戦が進んでみると事態は明らかに「シャロン優勢」に傾いていった。シャロンが国民の多数の支持を集めた、と言うよりも「バラクが嫌われた」と言うべき情勢で、シャロン党首とはまさに「不倶戴天の仇」ともいえるパレスチナのアラファト議長もかなり早い段階で「シャロン政権成立」を予測し、とっととシャロン氏とのパイプ作りに懸命になっていた。というかバラクを和平交渉の相手としては見放したと言うことなんだろうな。この辺は現実的というかしたたかというか。
 気の毒なのはバラクさんのほうで、「こりゃーは勝ち目はない」と思った和平推進派内から「バラクおろし」の声も上がったぐらい。代わりにペレス元首相を引っぱり出す話も上がったが、バラクさんは1日の選挙集会であくまで自ら出馬して「玉砕」することを表明した。その一方で世論調査での大幅リードを決めて余裕シャキシャキのシャロン候補の陣営では、シャロン氏が「失言」をしないようにと公の場に極力出さないように配慮する程度だった(笑)。

ちょっと漫才風に で、2月6日の首相公選は圧倒的な得票差でシャロン候補が新イスラエル首相に選出されることとなった。予想通りバラク候補に倍ほどの差を付けての圧勝だったが、投票率はと言えば史上最低の60%。イスラエルでは選挙と言えばたいてい80%前後になるのが常で過去いかなる選挙でも70%を切ったことはないと言う。今回の選挙が中東和平の今後にかなりの影響を与えると誰もが分かっているにも関わらずこんな低い投票率になったというのは、いかにイスラエル国民がバラク政権の進めた中東和平に失望したかを示しているような気がする。多くのマスコミで言っていることだが、今回の選挙は「シャロン支持」というよりも「バラク不支持」の性格が強いものだということだ。「まぁやらせてみたら」という投げやりに近い気持ちがそこにあるような気もする。

 もちろん、イスラエル国民の少なくとも7割は和平を望んでいるのだ。シャロン新首相だって「私こそが和平を実現できる」とアピールしている。なにも「大戦争やろうぜ」と言っているわけではないのだ。パレスチナとの和平を進めてアラファト議長と共にノーベル平和賞を受賞し、無念にも自国民に暗殺されてしまったラビン首相だって、もともとは強硬派の軍人だった。その前例を考えると「ひょっとすると」という観測も無くはない。しかしあのシャロンさんに限ってそれはないだろうというのが大方の見方だ。あえて希望を言えば強硬派流のリーダーシップで話をまとめてしまう可能性がなきにしもあらずと言うところだが。しかし少なくともバラク政権よりは「譲歩」をしないことは確実だ。とくに最大の焦点のエルサレム帰属問題では絶対にあとへは引かないだろう。


2001/2/12記

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