ニュースな
2001年3月21日

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 ◆今週の記事(二週合併号)

◆波紋を呼ぶ破門
 
 先週は「史点」執筆の中心となる土日に風邪をひいてしまったためお休みさせていただきました。そんなわけで今週は二週ぶんの合併号。いつもより豪華(?)に行ってみたいと思います。ハイ。

 トップを切るのはロシアからの話題であります。
 レフ=トルストイ、といえばロシアが生んだ、問答無用の世界的大小説家である。「文豪」って形容詞を頭に載せることに異論がまず出ない小説家の一人だろう。誰しもその小説を読んだことはなくても名前ぐらいは聞いたことがあるに違いない。そういうお前はどうなんだ、と言われそうなので白状しておくが、トルストイの作品は一作だけは全編通して読んだことがある。ちょっと自慢だけどあの大長編『戦争と平和』である。大学在学時にふと「世界的名作ってやつにもちったぁ目を通しておこうじゃねぇか」とマイナー好みの私が突然思い立ち、大学の図書館から借りて通学電車の中で読破しちまったのである(当時往復四時間かかっていた)。確か一ヶ月かそこらかかったな。
 この「戦争と平和」であるが、少し読み進んで読み方にコツがあることに気が付いた。逐一読んでは絶対に読破できない。適当に飛ばし飛ばし読むことが極意なのだ。そんなんでストーリーが把握できるのかというと実はだいたいできるのだ。読んだことのある方は分かると思うんだけど、ストーリー自体はそれほど込み入った話ではない。登場人物何百人とか言われるが、主要人物10人以下をおさえておけば展開は読みとれる。『三国志演義』なんかの方がよっぽど筋が複雑でおさえなければならない人物も多いと思うぞ。『戦争と平和』はハッキリ言えば「くどい」のだ。メインはつまるところ三人の男女がくっついたり離れたりって話で(なんつう乱暴なまとめかただ)、彼らが絡んでくる山場さえおさえておき、ヒマそうなところは適当に目だけ通してページをめくっていくのが「正しい読み方」だと思う。いっぺん筋を理解してからあれこれと細かいところを読み返すという形が理想的だ。確か黒澤明監督だったと思うのだが、『戦争と平和』について「読むたびに発見がある」とか言っていて、裏返せば一度でそんなに読み込めない小説という真理を突いていたような気もする。
 小説がかったるい人はソ連製作の完全映画化版を観よう。7時間以上あるんだ、これが(爆)。わたしゃこれもしっかり某劇場での通し上映(!)で観たことがあります。弁当持ち込み。第二部は寝てました(笑)。

 枕が長くなった。まぁいつものことか(^^; )。本文より長い枕ってなんだんだ。
 この文豪トルストイであるが、なんとロシア正教会から破門をくらっていたのである。ちょうど今から百年前の1901年のこと。この時期のトルストイはと言えばすでにロシアはおろか世界的にも大作家としての名声が確立していた頃だ。そういえばNHKの「映像の世紀」でもトルストイの訪問に熱狂するロシアの群衆の映像が出てきましたっけね。まぁそんな大作家だったからこそ「効果」を狙って破門したんだろうけど。徹底したヒューマニストであるトルストイはしばしば作品中で教会権力を批判していたのだが、とくに晩年の代表作ともいえる『復活』という作品での教会批判が「冒涜」と正教会側から断定されたのだった。それにしてもこんな時代になっても「破門」ってやつがあったんですね。

 トルストイの死後、ロシアはまもなく第一次大戦、そしてロシア革命が起こり社会主義国家・ソビエト連邦が成立した。ソ連時代は科学的社会主義の立場からも宗教はその力を封じ込められていたが、そのソ連が崩壊した今、ロシア正教会は着実にその権威を増しつつある。最近ロシアからのニュースでたびたびこのロシア正教会の指導者・アレクセイ2世総主教の名にお目にかかるのもそうした権威増大の背景があるんでしょうな。
 このアレクセイ総主教が3月4日に「トルストイの破門は取り消さない」ことを明言して話題を呼んでいる。トルストイの子孫でトルストイ博物館の館長をしているウラジミール=トルストイさんが「破門など帝政時代の抑圧的環境の産物」としてロシア正教会に破門の取り消しを訴えていたのだが、正教会側はあまり粋のあるはからいをする気が無かったようだ。いちおう総主教は「トルストイの作家としての偉大さ」を認めてはいるのだが、やはり彼が教会を批判している、あるいは拒否していることは確かで「一部の作品は反キリスト的である」との見解をしめしている。しかし「破門」していることも無いだろうに、とは思われますけどね。まぁ「破門取り消し」となると誤りを認めたってことになるから「権威」としては耐え難いことではあるだろう。「ガリレイ裁判」にローマ法王庁が謝罪したのはつい最近のことだったし。

◆補足◆
この文の中で「アレクセイ2世総主教」という言葉が出てきますが、これについてロシア史専攻の方からご指摘を受けました。聖職者の名前は俗人と少しだけ異なるものを使うもののようで、正しくは「アレクシー2世」と呼ぶのだそうです。



◆民族紛争の種は尽きまじ(その1)

 二週ぶんの記事ストックを眺めていると、いくつか民族紛争ネタが揃ってしまっていた。この手のネタはハッキリ言って書いていて頭が痛くなるばかりなのだが…現代世界が抱えている難問として避けて通れないところでありますね。以下、他の息抜きネタに挟み込みながら書いていこう。

 まずインドネシアはカリマンタン島の事態から。
 カリマンタン島というのは「ボルネオ島」という別名もある。東南アジアでもかなり目立つ大きな島だが、その島を国境線が通って大きく二分している。東南部はインドネシア、北西部はマレーシアおよび小さくブルネイの領土となっている。なんとも中途半端な国土分割という印象を受けるが、そもそもこの国境線はイギリスとオランダが自分達の植民地としてこの島の中のお互いの縄張りをこういう風に決めたことに由来する。独立後、オランダ領部分はインドネシア、イギリス領部分はマレーシアに編入されていったものに過ぎない。どちらの国も実に「人工的」な作られ方をした領土であると言える。
  もともとこの島に先に住み着いていたのは「ダヤック人」と呼ばれる人々だった。そこへ後からジャワ系、マレー系、さらには華人系といったさまざまな人種がこの島へと移住してきて、この島の民族構成を複雑にしていった。とくにインドネシア側では前政権であるスハルト時代に人口密集地のマドゥラ島の「マドゥラ人」を国家の政策として組織的にカリマンタン島へ移住させていった。その結果、島の中心都市であるサンビト市では人口の約3割をマドゥラ人が占めるようになった。彼らマドゥラ人は金鉱採掘や森林伐採でダヤック人たちの居住地を圧迫し、地方行政の幹部などに登用されることも多く、先住民であるダヤック人たちの間には本能的な「よそ者」に対する嫌悪感からだけではないマドゥラ人ひいてはジャワ人に対する反感・不満が高まってきていたという。
 そして先月、サンビト市を中心にダヤック人たちがマドゥラ人を集団で襲撃し始めるという事態が報じられ始めた。犠牲者の人数は未だに判然としないが、どうやら少なくとも千の単位にはなっているようだ。マドゥラ人達は島からの避難を開始し、あるいは逆襲してダヤック人の村を焼き討ちしている者もいると言われ、今なお事態の収拾はついていない。
 
 ソ連崩壊のケースとインドネシアの昨今の情勢はよく似ている。どちらもかなり人工的に寄せ集めて作られた国家であり、多くの民族をその中に内包している。そしてこれまでは独裁的な政権による軍事力を背景にした強権でこうした民族・人種間の対立は押さえ込まれていたのだが、その独裁的な政権が変わって強権を以前ほど振りかざさなくなってくると、それまで押さえ込まれていた不満や憎悪がマグマのように一気に噴出してくることになる。インドネシアはスハルト政権崩壊後、東ティモール、アチェー、イリアンジャヤとあっちこっちで独立運動や宗教・民族間紛争の火の手があがってしまい、政権も不安定なままだ。そこへ今度はカリマンタン島の紛争である。

 後で報じられたことだが、ダヤック人たちによるマドゥラ人襲撃は実は昨年の12月には始まっていた。この時点で数百人の犠牲者が出ていたにも関わらず地元警察はこの事実を極力報道しないよう地元マスコミに要求していた。これが報じられることで民族紛争がかえって激化することを恐れたのだという。その気持ちはある程度わからなくはないが(言われたマスコミも承知したところを見ると)、何もしないで放って置いたというのはいくらなんでもまずかった。報じないだけじゃなくて犯人を逮捕するとかいった対策を全くとらなかったというのだ。結果的にこれが2月の事態を回避できないものにしたとも言われている。
 ところでダヤック人はなんでこの時期になって「マドゥラ人狩り」という直接的な行動に出たのだろうか?いろいろと言われているようだがワヒド大統領がインドネシアの各地域の自治権を拡大しようとしていて、それが彼らには「先住民を優遇する」という風に「誤解」されたのでは、という見方が出ている。そしてそれを機に「じゃあマドゥラ人どもを追い出してしまえ」と過激な方向にあおってしまった者がいたということらしい。こういうのって火がついてしまうと一気に燃え広がってしまうものだからな〜。

 ところでこの紛争はそれでなくても不安定なワヒド政権をジワジワと揺さぶりつつある。この紛争の時期にワヒド大統領がメッカ巡礼を兼ねた外国訪問に出かけていたことが問題とされたのだ。ワヒドさんは帰国に際してカリマンタン島に直行したが、「何を今さら」といった声が大きいようだ。あまつさえこのメッカ巡礼で大統領に同行した随員(大統領個人の友人が多いという)の旅費が足りなくなったとか言って後から追加支出をしていた事が問題とされる始末。ワヒド大統領を辞任させて副大統領であるメガワティさんを昇格させようという動きも急速に拡大しつつあるという。

 …ワヒドさんもそろそろ限界かもしれないなあ。



◆富士山噴火の歴史

 日本のシンボルとして「富士山」を挙げる人は多いだろう。単に標高が日本一というだけでなくその形の美しさに誰もが魅了されてしまうところだろう。以前海外旅行から帰国したとき、雲海の中にひょっこりと顔を出している富士山を見て「ああ、帰ってきたなぁ」などと素直に感動したものだ。僕は茨城県南部に住む人間だが、たまに冬の空気が澄んでいるときなどに意外なほどクッキリと浮かぶ富士山の姿を目撃することがある。そんな時に見える富士山ってのもやはり圧倒的な存在感があるもので、思わず「でけー!」と声を上げてしまうぐらいだ。そういえば地元の小学、中学、高校の校歌にもいつもほぼ確実に見える「筑波山」だけでなく「富士山」が読み込まれていることが多かったっけ。
 
 そんな美しい形を持つ富士山であるが、脇の辺りにちょっとしたヘッコミがありやや美の完全度を下げてしまっている。富士山が最後に噴火した、江戸時代は宝永年間の西暦1707年の噴火の際に出来たものだ。山頂の火口からではなく少し横から火を噴いちゃったわけで。この時の為政者は「犬公方」こと徳川綱吉ってなぐらいですから結構古い話。まぁ火山にしてみりゃついこのあいだの話なんだろうけど。

 かぐや姫のお話で知られる『竹取物語』のラストには富士山が煙を上げている由来が語られている。つまり平安時代の富士山はいつも火口から噴煙を上げていたのである。文献資料による富士山噴火の最古の記録は奈良時代も末の西暦781年。それから800年、801年と平安初期に大きな噴火を集中的に起こしている。そして864年に起こった噴火の結果、あの「自殺の名所」青木ヶ原樹海が形成されている。そのあと937、999、1032、1083といった具合に平安時代にはかなりの噴火を起こしている。その後しばらく鳴りを潜めていたが江戸時代にいきなり横っ面から噴火したわけだ。とりあえず史料的に確認できる富士山噴火はこの9回が全てだ。最近も火山性地震があるとか報告されているしいつまた噴火するか分からない山ではあるんだよな。また変なところから火を噴いてこれ以上形を崩さないでほしいものだ。

 ところでこの話題、どのあたりが「ニュース」なのかというと、去る3月9日に「日本洞窟学会」の「火山洞窟学部」が過去の富士山の噴火についての調査報告が行ったのだ。どういう調査かというと、過去の9回の噴火の噴火地点は正確にはどこだったのか、さらに溶岩などによる周辺の被害はどのようなものであったのかという事を調べたのだそうだ。なんでも「噴火した」ということは記録から分かるものの、どこでどういう風に噴火したのかという正確な情報はほとんど判明していなかったのだそうだ。調査方法は富士山周辺から採取した木炭片から炭素の同位元素測定を行って年代を特定し、それを『甲斐国誌』などの地元の古文書の記述と照らし合わせるというもの。まさに科学的アプローチとと文献史料からのアプローチの「合作」というべきやり方ですな。
 同学会の火山洞窟学部は過去9回の噴火についてかなり詳しい「噴火情報」を発表している。ここでいちいち公開することはやめておくが、富士山の噴火と言っても結構バリエーションがあるんだなと感じさせられる内容だった(もちろんどこまで正確と言えるか疑問が無くもないけど)。こうした研究が将来(すぐかも知れないしずっと先かも知れないが)の富士山噴火の際に役立つ事が期待される。



◆民族紛争の種は尽きまじ(その2)
 
   民族紛争ネタの第二弾。カリマンタン島の話題に続いてはその一部を領土としているマレーシアの話題だ。元ネタは読売新聞のサイトでみかけた。
 マレーシアという国だが、これがまたかなり人工的というか人種・民族を寄せ集めたような国家なのだ。だいたい国土も大きく海をまたいでいるといいうやや妙な形だし。人種構成は約6割をマレー系、約3割を華人系が占める(この華人だが、恐らく宋代ぐらいから移住が進んでおり、あの倭寇とも密接な関係を持っていた歴史がある)。残りをイギリス統治時代にやってきたインド系の人々が占めているそうだ。
 東南アジアの国々ではおなじみのように華人(華僑)系の住民に経済力のある人達が多い。マレーシアもご多分に漏れず、華人系の人達がこの国の経済の中枢を担っていると言っても過言ではないらしい。もともとの経済力に加えて高い教育を受けているケースが多いもんだから、マレー系国民の持っている会社の経営を代行したりしていることも多いそうだ。
 しかし少数派(と呼ぶには多いが)である上に中国文化を根強く保持し、どこか「よそ者」的なイメージでとらえられる華人たちが力を持つことに対して、マレー人達が不満を持つようになるのも自然なことではあった。イギリスから独立した後にもこの民族間の対立意識は根深く続いており、1969年に多くの死傷者を出す大規模な民族衝突も起きている。この衝突の教訓から民族間の格差を少なくするべく、経済・教育などの面で不利なマレー人に入試や就職、株式所有などで様々な優遇策がとられるようになった。この優遇策、見方を変えれば「マレー人特権」とも言えるが、もともと不利な立場にいる「先住民」ということを考慮して「ブミプトラ(土地の子)政策」と名付けられているそうである。やや脱線するが、華人の故郷である今の中国では国内の少数民族に対して似たような優遇政策がとられていることがある。

 このマレー人優遇政策はその後マレーシア国民にとって触れてはいけない問題とされ、議論を許されないまま30年以上にわたって継続されてきた。しかし確かにマレー人と華人との格差はかなりのものがあるのだろうが、華人にしてみればこの「優遇策」はマレー人の「特権」に他ならず、99年あたりから華人団体が強くこの政策の廃止を訴え始めていた。しかしマレー人側から当然の如く嵐のような反発が起こり、廃止要求の撤回を余儀なくされてしまっていた。それが今年の1月のことであったという。
 一方のマレー人側だが、こちらはやや事態が複雑。たびたびお名前の出るマハティール首相が率いるマレー人与党「統一マレー国民組織」内でこのマレー人優遇政策の強化を訴える非主流派勢力が台頭してきて華人批判の姿勢を示しているのだ。マハティールさんとしてはひとまず現状維持で国内の各民族を穏健にまとめあげたいところだろうから、党内のこういう活動は頭の痛いところだろう。こうした動きが出てくる背景にはマレー人の支持が与党から最大野党である「全マレーシアイスラム党」に傾いてきているという政治事情もあるようだ。そうなってきた一因はマハティール首相のかなり強引なやり方にあるのも確かなんだけど。とにかくマレー人側も必ずしも一枚岩とは言えない情勢があるわけだ。

 また、どうやら対立構造はマレー人対華人というだけではないようで、元ネタの記事によると3月8日から11日にかけてマレー人とインド系住民の間の衝突事件が発生し、69年以来の死傷者が出る騒ぎになったそうだ。
 …ふう、いつもながらこの手の話は書いていて気が重くなってきますねぇ。下にあともう一つあります。



◆ある「戦犯」達の場合

 関係あるような無いような繋がりの細い話題をまとめてみました。「戦犯」というより「売国奴」扱いされる人々というべきかな…
 
 フランスは第二次大戦期に一時ナチス・ドイツに占領されていた。北半分はドイツ軍が直轄し、南半部はドイツの傀儡政権である「ヴィシー政府」によって統治されていた。この「ヴィシー政府」の首班とされたのが第一次大戦で活躍し国民的英雄とされたペタンだった。このため彼は戦後「売国奴」としての汚名を着ることになる。この手の人って近代史には良く出てきますよね。
 で、この時期のフランス南部ジロンド県で総務局長を務めるモーリス=パポンという地方官僚がいた。彼はその役職にいた1942年から1944年にかけてユダヤ人1500人以上をナチスの強制収容所に送り込むという仕事をしていた。戦後だたちに罰せられた…のではないところが問題をかえって大きくした。彼は戦後そのまま順調に出世してゆき(有能な官僚だったのは確かなんだろうね)、パリの警視総監、さらには予算担当相として入閣まで果たしている。彼のナチス協力者としての過去が暴かれたのはようやく80年代に入ってからだったのだ(そういえばこの手のケースもいくつか耳にしますね)。そしてそれからまた時間が経過した1998年に彼に対する禁固十年の有罪判決が出されることになり(ことナチス関係については「時効」というものは存在しない)、彼はいったんスイスに逃亡したが結局逮捕されてしまった。そのままパリのサンテ刑務所に入り今も服役している。現在おんとし90歳(!)。

 さすがに高齢での服役と言うことで人権団体などの批判もあり「人道的措置」として釈放を求める運動も起きており、パポン被告本人も「高齢での収監は欧州人権規約に反する」として欧州人権裁判所に請願を送っている。ユダヤ人団体の大半はやはり彼を許すまじという姿勢だが、パリのユダヤ教会堂の指導者が「これ以上彼を苦しめることに意味はない」と発言したりもしているという。
 3月7日付でフランスのマスコミが報じたところによると、フランス政府は欧州人権裁判所に対し「刑務所での生活は耐え難いほど苦痛なものではない」としてこれが人権上問題はないとする意見書を送っているそうだ。サンテ刑務所と言えばかのアルセーヌ=ルパンも収監された(ちなみに2度。2度とも脱獄してますけど)有名な刑務所だが、十年ぐらい前にみたTV番組の取材ではなんだかずいぶん快適そうな囚人達の生活ぶりが印象的だった。あの印象からすると確かにそう苦痛ではなさそうだけど…

 第二次大戦期の話から一気についこの前の印象もある湾岸戦争関係の話題になる。
 3月13日、クウェートの高等裁判所はアラア=フセイン元陸軍中尉(41)に対し「反逆罪」により終身刑の判決を下した。実は彼は一審では死刑判決を受けており、今回の判決は「死一等を免じた」というわけだ。
 この人何をしたかというと、あのサダム=フセイン大統領の命を受けたイラク軍がクウェートを軍事占領した際、「クウェート暫定政府」の首相に担ぎ上げられた人物なのだ。どういう経緯でこの地位に担ぎ上げられたかは分からないが、こういう場面では必ずこういう役割を演じる人が登場するものだ。
 ご存じの通りこのイラクのクウェート侵攻・占領を受けてアメリカを主力とする多国籍軍がイラクに攻め入り「湾岸戦争」に発展する。戦争はクウェートの解放ののち割とあっさり終結したが(相変わらずくすぶってはいるけど)、この「暫定首相」のアラア氏はひとまずイラクに逃げ込んだ。そして昨年の1月にクウェートにひょっこりと、というかノコノコと帰国していたのである。もちろん彼は「私はイラク軍の捕虜になり半ば強制的に首相にさせられたのだ」と主張している。「半ば」とか言ってるしだいたいそんなあたりが真相のように思われるのだが、とりあえず極刑は避けた辺り、彼に対する同情的な空気もあるのかもしれない。



◆民族紛争の種は尽きまじ(その3)

 頭が痛くなるシリーズ第三弾。民族紛争の本場・バルカン半島からの話題である。さすが本場だけにややこしさは倍増している(苦笑)。

 ユーゴスラヴィア崩壊の過程をまたここでダラダラつづるのはそれこそ頭が痛くなるので省略する。とにかく直接的に繋がってくるのは一昨年のNATOによるユーゴ空爆に至った「コソボ紛争」だ。コソボはユーゴスラヴィア連邦の中心国であるセルビア内の自治州で、アルバニア系の住民が多かった。このため一部のアルバニア系住民によるセルビアからの分離独立運動が盛んとなり、「コソボ解放軍」と名乗る武装勢力も登場し蠢動し始めた。これに対しセルビア民族主義を掲げるミロシェビッチ大統領(当時)はこれらの運動の徹底鎮圧を命じ、これがまた民族紛争を激化させていった。NATO諸国はミロシェビッチ大統領を「ヒトラーの再来」とばかりに目の敵にしてコソボ側を支援、セルビアに空爆の嵐を見舞ったわけである。結局セルビア側が音を上げる形になり、ミロシェビッチ政権も昨年秋には事実上の革命により倒され、コシュトニツァ新大統領に取って代わられた。
 ところがこの辺りから「コソボ解放軍」にとってはかなり雲行きが怪しくなってきたのだ。ミロシェビッチが倒れた途端にNATO諸国はセルビア寄りに傾いてしまい、「コソボ独立」なんてのは混乱を招くだけだと敬遠するようになってきた。コソボの住民も選挙などでコソボ解放軍系の政党にあまり支持を寄せず、平和と安定を求めるようになっていった。コソボ解放軍はもともとテロリスト集団扱いされていた過去もあるが、いったんヒーローに祭り上げられたと思ったら途端にまた厄介者扱いに戻されてしまった恰好になってしまったのだ。焦った彼らはしきりにセルビア軍やNATO軍に襲撃や挑発行為を行い、コソボ周辺の事態を混乱に持ち込もうとしている。
 「コソボ解放軍」の活動はコソボ周辺に設定された「安全地帯」を利用して展開されていた。これはNATOがコソボ州境からセルビア側に5q範囲で設定したものでコソボにユーゴ軍やセルビア治安部隊が入ってくるのを防ぐという狙いがあった。ところがこの「安全地帯」を利用して「コソボ解放軍」が暴れるもんだから、NATOは頭に来てしまった。そしてとうとう3月8日にNATOはユーゴ軍がこの「安全地帯」に展開することを認め、ユーゴ軍をいわば「盾」にして「コソボ解放軍」の活動を封じ込めることにした。ここまで来るとまるっきり立場の逆転である。

 この動きと連動するように、コソボの隣のマケドニアにも紛争の火の粉が飛んでいった。マケドニアと言えばあのアレクサンドロス大王の故郷として知られるが、その後この地域には南スラブ族(彼らの国だから「ユーゴスラヴィア」なんですがね)が移住してきて現在のマケドニア国民を形成している。しかしこの国もこの地域のご多分に漏れずスラブ系の「マケドニア人」が6割、そしてアルバニア系の住民が残りの3割程度を占めるという民族構成になっている。アルバニア系住民はセルビアにおけるコソボと同様に、隣国アルバニアと接する北西部に集中的に済んでいる。
 マケドニアはユーゴスラヴィア連邦に属していたが1991年に独立。マケドニア系とアルバニア系の軋轢は当然ながらあったが、政権を両民族系の政党で連立して組んだり少数派であるアルバニア系住民の権利を拡大するといった方策をとって何とか民族対立を封じ込めてきていた。そこへコソボ紛争が飛び火してきたのである。

 先月下旬ごろからコソボと接するマケドニア西部国境付近に「祖国解放軍」とか名乗るアルバニア系武装勢力が出現、アルバニア系住民の権利拡大を主張してアルバニア系住民の多いマケドニア西部各地で暴れ回り始めたのだ。この武装勢力の正体は判然としない部分も多いが、状況から考えると「コソボ解放軍」とかなり関わりのある連中と見るのが妥当だ。マケドニア政府は彼らを「テロリスト」と呼び、軍隊を出動してこれの完全鎮圧に乗り出している。しかしもともとアルバニア系住民の独立志向が強い地域であるだけに一歩間違えればコソボ並みの泥沼民族紛争に陥る危険を有している。こう書いている間にも西部地域の中心都市テトボ周辺で激戦が展開されており、状況は全く予断を許さない。

 あー、頭いたい。次いこう、次。



◆たまには面白いこというじゃないの

 気が滅入る話題が続いたので、最後は口直しのあっさり味の話題で締めくくろう。この手のネタにしては珍しく我らが日本が「主役」である。

 国際連合安全保障理事会といえば、世界中のあらゆる紛争に関して必ず首を突っ込む、じゃなくて本来は紛争の解決をはかる機関で、国連のキモというべき存在だ。社会科の授業みたいになってしまうが、安全保障理事会は国連加盟国のうちから選ばれた15カ国の「理事国」で構成され、うちアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国のいわゆる「五大国」が「常任理事国」として理事国の席が確保されている。この五カ国だが、要するに第二次大戦の「勝ち組」で(中国なんかある時期まで台湾の国民党政府=中華民国がこの座を占めていた)、この一国が反対したら決議がなされないという「拒否権」と呼ばれる強力な権限を認められている。この権限が設定された背景にはいろいろと事情があったろうし有効な部分もあったことは否定しないが、かつての冷戦まっさかりの頃などは特にロシアの前身であるソ連とアメリカが拒否権を乱発して私物化している観は否めなかった。冷戦が終結した後もやや使い方に変化はあるものの、拒否権はやはり強力な「特権」として五大国により振りかざされている。どんな小国だろうと大国と平等に扱われる国連の基本精神からいくと疑問が出てくるのは当然と言えば言える。

 「国際連合」ってのがそもそも第二次大戦の「連合国」の延長線上にあり、日独伊の三国が「旧敵国」扱いであるのは良く知られている。しかし戦後しばらくたって経済力で「大国」となってきたドイツと日本は、しきりに「常任理事国入り」を狙うようになってきた。この二国に関しては支持もそれなりにあって(日本は民族的得意芸の「根回し」攻勢を展開している)現実味もあるのだが、イタリアが「なんでオレには話がないんだ」とスネているなんて話も聞く(笑)。ともあれ安全保障理事会の改革というのはかなり以前から議論されているところなのだ。
 改革の目玉はやはり常任理事国枠の拡大、そしてその常任理事国に与えられている拒否権の存廃問題だ。日本とドイツは「自分達も入れて」ってなぐらいの感覚だったが、「どうせ常任枠を拡大するんならインドとかブラジルとか地域を代表する大国も入れるべき」といったよりいっそうの拡大を求める声も大きい。そして拒否権については日本やドイツなど常任理事国入り出来そうな立場からは言い出さないものの、まず常任理事国入り出来ない国々からは廃止を求める声が大きい。もちろん五大国は既得特権を手放すわけはなく、廃止に反対している。

 このネタを書くためにネットで過去記事を調べたのだが、1999年7月にアナン国連事務総長がこんな発言をしている。「たとえば現行の安保理の構成で、9カ国が拒否権に反対すれば、拒否権を打ち負かすことができるようにするといった、アメリカ議会にもあるような制度を導入するといった案も検討している」というものだ。アメリカ議会うんぬんというのは大統領の「拒否権」を議会の反対多数でひっくり返す制度の話だ。なるほど、拒否権を廃止せずその効力を弱めるという意味ではなかなかの名案だと思う。

 で、ようやく本題だ(やれやれ)
 3月13日、安全保障理事会の改革作業部会が拒否権についての本格的な議論を開始した。この席上、日本の佐藤行雄国連大使が、常任理事国入りを目指す国の代表としては実に興味深い声明を行っている。「拒否権の行使は最大限に制限されることが不可欠」と拒否権に強い制限を加えることに賛同の意を表したのだ。そしてその上で「国連憲章改正を必要としない形で制限を加える方法を提唱する」と明言したのだ。さすがは解釈改憲のお国柄、などと思っちゃうところもあるが(笑)、国連憲章改正となれば五大国の強い反対は必至だろうし、拒否権問題を解決するためにはかなり現実的なやり方であるとも言える。声明の内容の全文を見てないので判然としないところもあるのだが、おそらく先に挙げたアナン事務総長の発言に出てくる案にかなり近いものを想定しているのではないだろうか。
 常任理事国入りを目指している立場からの声明とあって、その実際の影響力は不明ながらなかなかに面白い意見表明であると言えるのではないだろうか。僕は個人的には日本の常任理事国入りにムキになる人達というのがどうも好きになれなくて、現行の状態での常任理事国入りには賛成したくない気分だったのだが、安保理の前向きな改革に積極的に関わっていくという姿勢ならば結構イケるんじゃないかと思ったのでありました。


2001/3/21記

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