ニュースな
2001年3月25日

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ


 ◆今週の記事

◆人類の歴史は謎だらけ
 
 人類の歴史、といっても文字史料なんてあるわけのない大昔の話である。一年を通しても何度か浮上してくる「人類の起源」に関する話題だ。
 現在ほぼ「通説」と言って良い「人類起源」に関する見解は、世界中にいる人類の共通の祖先はアフリカ東部に発生し、そこから全世界へ散らばっていったとするものだ。もちろん依然として世界各地での多元発生説を唱えている人もいるが、すでにそれはごく少数派の声になりつつある。ただアフリカ起源説にしてもアウストラロピテクス、原人、ネアンデルタール人そして現世人類といった各段階の「人類」がどのような過程で進化し散らばっていったのかについては判然としないところが多い。流れとしては今あげた各段階の「人類」が一本道で直接進化していったとは考えられておらず(例えば北京原人が現代中国人の直接の先祖ではないということ)、さまざまに枝分かれして進化して行き、それらが順繰りに全世界に散らばっていった、そしてたまたま現在の人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が全世界に拡大して定着し地球の生物史上異常な発展をとげてしまったのだという見方が強い。しかしこのシナリオもまだまだ不透明なところを残している。

 さて、その人類の起源の地とされるアフリカ東部のケニアから、人類起源問題に関する面白い発見報告がなされた。ケニア国立博物館の研究グループが、1998年から99年にかけて300万〜350万年前の地層の中から30個以上の猿人の化石を発掘したのだが、かなり保存状態が良く頭一つ分を再現することができたのだ。それは同時期に生息していたアウストラロピテクスと明確に異なる特徴を持っていたので、同博物館はこれをアウストラロピテクスとは別の属とし「ケニアントロプス・プラティオプス」(平たい顔のケニア人)と命名した。
 「平たい顔」という名前にも現れているが、この猿人、アウストラロピテクスのような口を前に突き出したような特徴がない。つまりサルより現代人に近いお顔をしてらっしゃるということになる。また臼歯が小さいことから、アウストラロピテクスより柔らかいものを食べる雑食性であったとみられている。この辺も現代人に近いと言えば言える。

 この発見は人類起源問題にまた重大な一石を投じることになる。アウストラロピテクスの段階で現代人により近い形質を持つ猿人が存在していたということは、人類進化の過程が下手すると大きく二系統存在した可能性を含むより複雑なものであったことを示唆するからだ。博物館のミーブ=リーキー博士は「人類への進化の過程が、単純な1本の線ではなく、これまで考えられていたよりも複雑だった可能性を物語っている」とコメントしているそうな。また、この博士の見解によれば、アウストラロピテクスとケニアントロプス・プラティオプスは同じ地域に生息している猿人同士だったが、食べ物が異なっていたので争うことなく共存していたのではないかとのことで、これもまた面白いところ。

 歴史に謎は多々あるが、我々人類もどういう道のりでここまで来たのか、まだまだよく分からないわけですなぁ。



◆中国国民党の正念場
 
 中国国民党が台湾つまり「中華民国」の政権の座から滑り落ちてちょうど一年が過ぎた。実に歴史的なことだったんですよね、これって。
 そんな中国国民党が3月24日、党首である国民党主席を選出する党員選挙を実施した。実はコレ、中国国民党始まって以来の試みなのだ。これまで国民党の主席と言えばそのまま「中華民国総統」だったわけだが、全党員に直接選挙なんてやったことはなく、なんとなく党内の人脈関係で決まってきたところがある(ま、我が国の自民党も似たようなもんだが)蒋介石、そしてその息子蒋経国、そして彼から後継者に指名された李登輝、と国民党主席の座は引き継がれてきた。そして現在の連戦主席へとつながる。しかしこの連戦氏、昨年の台湾総統選でまさかの惨敗に終わり、国共内戦後の国民党主席にして台湾総統でない最初の人物になってしまったのであった。ま、国民党内で分裂を起こしたのが原因であると言えるけど。ともあれ政権失陥を初めて経験した国民党は心機一転を図るべく主席の直接選挙という試みをやってみたというわけだ。
 国民党党員で投票権のある人は総数93万人以上。選挙を実施したところ、投票率は57.9%だった。そして選出されたのは連戦・現主席であった。なんと97.1%という圧倒的な得票率での選出だった。
 …なーんてね、実は連戦さんしか立候補してないんですわ(笑)。してみるとこの投票結果はあんまり自慢できないもんなんじゃなかろうか。それでも連戦さん、「直接選挙は、党が現代化された民主的な政党になる重要な過程だ」この選挙の意義を強調している。裏返せばそれまでの国民党って…

 政権の座から陥落したとは言え、国民党は今なお台湾議会で過半数の議席を持つ多数派政党だ。その一方で昨年の総統選で連戦さんがまさかの第三位に甘んじてしまったように、全体の中での支持率は確実に落ちてきている。世論調査の政党支持率でも民進党(現在の陳水扁総統の党)、親民党(国民党から分離した宋楚瑜さんの党)に継ぐ第三位の支持率(10%程度とか)に落ちてきてしまっている。今年年末に行われる議会選挙次第ではその勢力をそうとう縮小させられてしまうかもしれない、という危機感があるはずだ。
 国民党内も一枚岩では全くない。宋楚瑜さんみたいに離党していったグループもいるが、その流れを汲むグループがまだ党内にいる。そして前総統である李登輝さんに近いグループの存在もある。要するに国民党内における台湾出身者、それも台湾独立志向の強いグループだ。
 李登輝前総統がその政権の後期に「二国論」などをブチ上げて「台湾独立」志向を強めていき、大陸中国政府と対立を深めたのは記憶に新しい。しかし国民党ってのはそもそも共産党との内戦に敗れて大陸から逃れてきた勢力であり、その多数はやはりもともとの台湾出身ではない「外省人」が多い。だから党としては「台湾独立」なんてことは本来考えないはずなのだ。
 台湾出身者である李登輝さんがそんな党の主席にまでなったのにはいろいろと複雑な経緯があるが、一つには蒋介石の息子・蒋経国が台湾出身者を党首に据えることで「台湾の政権」としての生き残りを図ろうと考えた(つまり「大陸反攻」なんて考えなくなった)ことが挙げられる。実は蒋経国が「彼なら台湾独立などは考えまい」と考えて選んだという、今から聞くとちょっとビックリな話もある。
 現在の国民党主席の連戦さんは完全な「外省人」だ。彼は党主席になると要職に外省人を多く配置し、前任者がぶちあげた「二国論」は棚上げした。李登輝グループにしてみれば憤懣やるかたないところのようで、これまた分離して新党を作るんじゃないかという空気もある。

 ところでそんな空気を反映してか、李登輝前総統はこの日の主席選出選挙にとうとう投票しなかった。なんでも日本人の友人達とゴルフを楽しんでいたそうな。



◆トルコの明日はどっちだ?
 
 トルコ、と単純に行った場合、現在のトルコ共和国を指す。本来彼らの先祖は中央アジアの遊牧民族で、今も中央アジアに遠い親戚がいたりするわけだが、オスマン=トルコ帝国がいわゆる「小アジア」を拠点に栄えた歴史的経緯もあっていま単純に「トルコ」と言った場合この地域を指すことになる。
 もちろんオスマン=トルコは最盛期には中東全域からバルカン半島までを版図に収める広大な帝国だった。これが崩壊した後、小アジア地域限定のトルコ民族による国民国家として現在の「トルコ共和国」を成立させた英雄がケマル=アタチュルクだ。この英雄について詳しくは本サイトの「しりとり人物館」のケマルの回を参照ね。全然更新してないけど(^^; )。
 このケマルが現在のトルコの方向をほぼ確定したと言っていいわけだが、その方向の一つが「西欧型近代国家化」だ。トルコはアラビア文字を捨ててアルファベットを採用し、イスラム教との政教分離を実現し、軍事的にはNATOに加盟して西側同盟の一角を担ってきた。そして昨今の国家的目標はEU(ヨーロッパ連合)に加盟することである。実現すればEU初のイスラム教国となるわけだが、トルコ側が熱烈なラブコールを送る割に西欧諸国から「いじめ」にあっている印象を受けるのも事実。もっともEUとしてもトルコの加盟はほぼ既定路線と言われている。

 いま「いじめ」とか書いたが、EU諸国としてはもちろん「あんたはイスラム国だから」なんて仲間外れは表向きにはしていない。心情的にどこかにそれが見え隠れすることは否定できないけど。ともかくEUはトルコに対して「仲間に入りたければ人権問題や民主化を我々並みにしなさい」と要求している。トルコはケマル以来、いや実はオスマン=トルコ末期から西欧化の努力を進めていたのだが、やはり西欧諸国から見れば「まだまだ」と言われてしまう状況はある。トルコは西欧諸国にグチャグチャ言われることに不満を持ちながらもやはりEUに入ろうとあれこれ努力していると言うところだ(先日とりあげた「アルメニア人虐殺」を巡る騒動にもこの辺の確執が背景に浮かんでいた)
 その「努力」の一つを先日トルコ政府は示した。3月19日に「死刑制度廃止」の方針を含めた諸改革案を発表したのだ。なんでもEU加盟国は死刑廃止が事実上の義務づけなんだそうだ。この改革案では死刑制度の五年以内の廃止、思想信条・表現の自由の拡大、人権教育や刑務所の環境改善などが方針として明記されている。ま、その一つ一つは大変結構なことだと思いつつ、西欧の言いなりという気もして非西欧人としてはやや複雑な気分も感じ無くはない(笑)。しかしEU側が強く求めているいくつかの事項については今回手は付けられなかった。

 その一つが、クルド人問題だ。クルド人というのはトルコ、イラク、シリア、アルメニアなどの国境にまたがる山岳地帯に住んでいる民族で、根強い独立運動の歴史がある。トルコにおいても独立要求のテロをしばしば起こし、かなり深い民族対立の種を残している。トルコ政府のこのクルド人に対する扱いが人権上問題があるとEU諸国が盛んに改善を要求していたのだ。例えばクルド語による教育・放送などを認めるとかいったものだ(かなり違う要素を含むがなんとなく日本の在日韓国・朝鮮人の話に似ていなくもない)。このクルド人問題についてはトルコ側も改善の姿勢は見せてはいるのだがそう簡単には聞き入れられないものでもあるらしい。
 改革案が発表された直後の3月21日、春の祭りに集まっていたクルド人の若者ら約50人がトルコ警察によって逮捕されるという事件が報じられた。クルド人たちの春の祭りっていうのがどういうものなのか良くは分からなかったのだが、とにかくこの祭りの時に独立運動の気運が盛り上がる事が多く、トルコ政府は警戒していたのだ。なんでも政府主導で公式の祝賀行事を行い、その代わりクルド人地域での無許可の集会は禁止されていたらしい。しかしトルコ南東部のある町で行われた祭りに集まっていたクルド人の若者達が、クルド武装勢力「クルド労働党」のオジャラン党首(ただいま収監中…確か一度死刑判決が出ていたような)への支持を叫びはじめたため、警察が彼らをしょっぴいてしまったという。他にも各地で衝突時件が起きていたようだ。

 EU側が要求し、トルコが容易に受け入れないものに軍隊の問題がある。トルコという国は軍がかなり政治に介入しやすい制度になっている国なのだ。これは一つには「建国の父」であるケマル=アタチュルクが軍人であり、軍主導で改革を進めてきた歴史によるところが大きいようだ。軍の政治介入、というと一般的に保守的・非民主的というイメージがあるが、この国ではケマルの意向もあってか軍隊がむしろ西欧化・近代化を促進してきた経緯があり(例えば保守的イスラム主義者と仲が悪いのは軍隊だったりするらしい)そう単純な図式のものではない。

 ところで、今週はホントにトルコがらみの話題が集中していた。
 3月22日、サビハ=ギョクチェンさんという有名なトルコ人女性が亡くなったのだ。88歳だった。この人、実はそのケマル=アタチュルクの養女だった人なのだ。「しりとり」のケマルの回にも書いたことだが、ケマルの結婚歴はすぐに離婚した一度きりで(愛人はかなりいたらしいが)、実子が一人もおらず、その代わり戦災孤児などを引き取って男一人、女六人の養子を育てていた。
 この人の死亡記事で初めて知ったのだが、このケマルの養女はトルコ史上初の女性飛行士でもあったのだ。ケマルは「イスラム諸国が衰退したのは女性を家に閉じこめたからだ」として当時としては西欧よりも進んだ男女同権、女性の社会進出を推進したのだが、そんな父の意向もあってパイロットの道に進んだんだろうな。今年1月に開業したイスタンブール第二空港はズバリ「サビハ=ギョクチェン空港」と名付けられているそうな。ちなみに第一空港の方は当然「ケマル=アタチュルク空港」です。
 



◆あの国でも仏像破壊が!
 
 先日タリバーンがバーミヤンの大仏を爆破した映像は世界中に配信されたが、「なんともはや、もったいないなぁ」などと半端な仏教徒(?)の僕などは思っていたものだ。その後聞くところによるとインドのあるヒンズー団体が破壊された石仏と瓜二つのものを建造しようと計画し、破壊された石仏の破片を使いたいと申し出ているとか、仏教国で知られるスリランカでも破片を求める運動が起きているとか、はたまたタリバーンが「破壊が遅れて申し訳ありませんでした」と神に謝る儀式をするため牛100頭を生け贄にささげてこれまたヒンズー教徒の反発を買っているとか、まぁいろんな余波が及んでいた。

 そんな中、今朝、読売新聞のサイトで関連するようなしないような、面白い話題が紹介されていた。東南アジアの熱烈仏教国として知られるカンボジアでその昔大規模な「仏像破壊」が行われていた事実を、上智大学の調査団が確認したという話題だ。
 場所はあの有名なアンコール・ワット遺跡群の中のバンティアイ・クデイ遺跡。その参道付近の深さ2mの穴の中から103体もの仏像がゾロゾロ出てきたのだ(まったくの脱線だけど…僕の近所の貝塚を発掘したら縄文人の白骨が101体分もゾロゾロ出てきたのを思い出しちゃったな)。もちろんそんなところに入っていた103体だから30pの小さいものからせいぜい最大で1.2m程度の仏像ばかりなのだけれど。注目はその仏像の多くが首を切られ、無造作に穴に投げ込まれていたという点だ(ちなみに僕の近所にも首が欠けた「首切り地蔵」というものがある。また脱線でした)

 調査を指揮している上智大学の石澤良昭教授は「廃仏の動かぬ証拠。かなり大がかりな反仏教運動が展開されたに違いない。ジャヤバルマン7世が死去した1219年以降、カンボジア全土で展開したとされる仏教弾圧の仮説を実証出来た」と述べているという。僕はこの記事で初めて知ったのだが、あのカンボジアでも大規模な廃仏活動が行われた歴史があったのだ。
 このジャヤバルマン7世という王様だが、12世紀の末から1219年まで君臨した王様だ。敬虔というか熱烈な仏教徒であったそうで、この地方一帯に多くの寺院や僧院を建立したという。しかしその一方で国内にいるヒンズー教徒を徹底的に弾圧したりもしたそうだ。
 この王様から少し前にあのアンコール=ワットが建設されている。前回書いたことだが、朱印船時代の日本人が「祇園精舎」と思って巡礼したりした寺院だが、あれはもともとはヒンズー教の寺院だ。どっちにしてもインド文化には違いないんだけど、やっぱり違うんですよね。だからこの時点ではまだまだこの地方はヒンズー教徒の方が優勢か仏教と拮抗するぐらいであったように思える。ジャヤバルマン7世はそんな中で仏教化を強硬に推進したわけだ。
 こういう王様が死んでしまうと一気に揺れかえしが来る。石澤教授も言っているようにジャヤバルマン7世の死後、カンボジア全土で仏像破壊など仏教に対する弾圧活動が展開されたのだった。この「廃仏」運動の痕跡はこれまでもいくつかの仏像や仏画の浮き彫りに傷が付けられていることなどから確認されてはいたが、実際に破壊された仏像の発見例は一つしかなかった(それも地下12mという場所から発見されたそうだが)。今回大量に破壊仏像が発見されたことで、この「廃仏運動」の事実がほぼ確認されたということになるそうだ。

 発見の発表がこの時期になされたのは単なる偶然だけど、読売がこのネタをバーミヤンの件と絡めて載せたのは確か(文章のしめくくりにそう書いていたもんな)。ずいぶん違う話のようでいてどこか通ずるところがある話ではある。まぁ人に当たるよりはモノに当たった方がマシという考え方もあるんだけど(^^;)。


2001/3/25記

<<<前回の記事
次回の記事>>>

  「ニュースな史点」リストへ