ニュースな
2001年4月9日

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 ◆今週の記事

◆米中大衝突!
 
   なにやら物騒なタイトルだが、実際にぶつかったわけだし。などと言い訳しているとなんだかひと頃の「東スポ」みたいな見出しであるが。
   
 事件の発生はちょうど一週間前の4月1日のことだった。ホラならいいが、などと伝言板で書いていたものだが、残念ながら実際にアメリカ軍偵察機と中国軍戦闘機が空中で衝突し、中国軍機一機はそのまま墜落。アメリカ軍偵察機は中国の海南島に緊急着陸した。墜落した中国軍機のパイロットは行方不明で(パラシュートで脱出したのは目撃されたようだが…)一週間経った今なお見つからず、ほぼ絶望視されている。

 この一報を聞いたとき、僕の脳裏に浮かんだのはやはり一昨年のNATOによるユーゴ空爆の際にベオグラードの中国大使館を「誤爆」し(内心では今でも4割ほど「陰謀」の匂いを感じてるんだけど)三人の死者が出た、あの時の騒ぎだ。特に中国での学生などを中心にした反米運動は一時凄まじいものがあった。それがついでにアメリカおよび西欧、ついでに日本と言った「お仲間」に対する反感にまで広がっていたりしていたのだ。天安門事件以来、学生による民主化要求運動が押さえ込まれているため、そのエネルギーを「愛国」「反米(中国では「美」だけど)」といったスローガンを掲げた運動で発散していたような印象もあるが。あの時の再現が起こるのではないかと危惧したのだ。
 実のところ、僕が危惧したのはこうした中国国内での反米感情の盛り上がりと、それに呼応したアメリカでの反中感情の盛り上がりぐらいだった。「ぐらい」というには大きい問題だとは思うが、政府レベルでは誰もケンカを望んでいないのは明らかだと思えたのだ。だから国家間の本格的な緊張になるとはあまり思っていなかった。心配したのは双方の市民レベルの感情が政府を突き上げないかということだったのだ。

 さて、このアメリカ軍今年二度目の衝突事故(笑)だが、なにぶん軍事行動中のこととて詳細かつ正確なことは余り分からない。米中双方の当事者どうしは知ってるんだろうけど、どうやら真相が完全に明るみになることは無いような気がする。ともあれ、分かっているところからまとめてみると、こんな風になる。
 まず、アメリカ軍の電子偵察機EP3が中国領空ギリギリの公海上で偵察飛行を行っていた。このEP3というやつ、ずばり「空飛ぶスパイ」とでも言うべき存在らしく、高性能の情報収集能力で沿海の中国軍の実態を探っていたものらしい。目の前で堂々と盗聴活動やってるようなもんなのであるが、公海上ならばそれ自体をとがめ立てすることは出来ないようだ。しかしどうやらこのスパイ飛行機、中国側がスクランブル(緊急出動)を発する「防衛識別圏」の中、もしくはそのギリギリで活動していたようなのだ。聞くところによるとアメリカ偵察機ってあちこちの防衛識別圏に結構入り込んで偵察活動をしているのだそうだ。こういう飛行機に対してスクランブルをかけて追い払うこと自体はこれまたどこの国でも常識的に行うことだ。日本の自衛隊だって結構スクランブルをかけているそうだし。
 この米軍偵察機が何を探っていたのかについてはいろいろと説が出ている。台湾に向けたミサイル基地を調べていたとか、中国の最新鋭の駆逐艦の追跡をしていたとか、海南島付近の中国軍演習を調べていたとか、僕があたっただけでもいろんな話が出ていた。ま、偵察飛行なんて去年だけで30回もやっていたそうだから何を調べていてもあまり変わらないのだが。
 ともあれ、この偵察機に気が付いた中国軍は戦闘機F8二機を出動させ、追い払うことにした。戦闘機の方が運動性能は当然いいからアッという間に追いついて偵察機をすぐ後ろを追いかけて飛ぶような形になったようだ。この時にアメリカ軍機か中国軍機のどちらかが思わぬ動きをして、接触事故が起こったということになる。この辺については双方の言い分が食い違うが、ぶつかっちゃったのがどっちの過失にせよ、そもそもアメリカ軍が物騒なところで偵察飛行していたのが原因なんだよな。結局この事がその後のアメリカ側の意外なほどの低姿勢につながっているような気もする(仮に、立場が逆だった場合を想像してみるのも面白い。中国の偵察機がアメリカ本土ギリギリに飛んでいたら…)

 そう、意外なほどアメリカ政府は低姿勢だった。ブッシュ新政権になってからというもの、いろんな方面の外交政策で強硬姿勢を示していただけに、これは正直なところやや意外な印象を受けた。もちろんお互いにことを荒立てたいとは思っていなかっただろうが、その思いはWTOだのオリンピック招致だのといった悲願を今年に賭ける中国政府の方が強いだろうと思っていたのだ。新政権になって妙に元気な(空元気かも?)アメリカ政府としてはかなり強い姿勢を示すのでは、と思っていた。なにせ中国を「戦略的競争相手」と就任早々に呼んだ政権だ。
 もちろん当初はそういう空気もあった。衝突原因について米中がお互いに相手の責任を主張し、中国側の謝罪要求に対して拒絶の姿勢を明確にし、またブッシュ大統領自ら「偵察機はアメリカの領土と同じだ、勝手に踏み込むな!」という警告も発していた。口に出さない本音だが偵察機の中の機密情報が漏れることを最も懸念していたのは確実だ。その後、結局中国側が偵察機の内部調査をしたことがほぼ明らかになってからはこうした警告も聞かなくなってしまったが…あきらめたのか、それとも偵察機内で着陸前に機密の破壊に成功していたのか…。ともあれ、この辺から急速に事態収拾を図る動きが特にアメリカ側から出てくる。
 
 4月4日、アメリカのパウエル国務長官が、「中国機が無事に帰還せず、操縦士の命が失われたことを遺憾に思う。しかし、我々は前進し、この問題を終わりにせねばならない」と発言した(それにしてもアメリカ人ってのは行方不明者に対する諦めが結構早い)。「遺憾」という便利な政治用語は決してあいまいな日本の専売特許ではなく、世界中で使われる表現だ。英語だと「regret」ね。要するに「私の心が痛みました」という表現だ。相手に対して謝っているようにも見えるが、「別に私が悪くないのに困ったことになってしまった」という逃げのニュアンスをも含む。とりたいようにとってくださいという言葉ですな。
 まず僕はこの時点でアメリカがかなり柔軟な姿勢をみせたなと感じた。中国側にそれとなく柔軟姿勢のサインを送ったわけだ。さらに追い打ちをかけるように翌5日にはブッシュ大統領自らが同様の「遺憾」の意を表明した。やはり中国機のパイロット個人の行方不明に対する「遺憾」であり、ついでに追悼の意まで表していた。大統領自らこういうことを言うというのはブッシュ政権の事態収拾へ向けての「本気度」を示していると言えた。
 もちろんアメリカ側は「謝罪」は徹底して拒んでいる。しかし「遺憾」という言葉は言われた方にとっても便利な場合があり、中国のマスコミの報じ方は事実上これがブッシュ大統領自らによる「謝罪」ととれるようになっていた(ブッシュさんがうつむいた顔写真をわざわざ使っている!)。要するに、アメリカ側は中国政府に中国国民を納得させるための「素材」を提供したかっこうであるわけだ。そっちの国内で「謝罪」ととって結構、でもこちらの国民感情としては「遺憾」ということで、ってな姿勢で話をまとめたわけだ。これは高度に政治的な「談合」と言える。水面下で米中双方がかなり綿密な話し合いが出来ていたこと想像させる。ブッシュさん個人はともかくブッシュ政権の関係者って父ブッシュ政権時代の中国通が多かったりするから、そのへんのアドバイスがあったかもしれない。思いの外の巧みな外交処理をしていると言って良い。
 実はこの騒動の最中に、アメリカ連邦議会の議員達が訪中団を送ることになっていた。別にこの事態とは何の関係もなく、単なる視察団+ビジネス交渉団であったようだが、この事件の発生でアメリカ世論で中国に対する批判的な声が大きくなったため、結局取り止めとなっている。しかし取り止めが検討されていたころ、アメリカ国務省の方から「何事もなかったように訪中してくれ」という圧力があったことが報じられている。このあたりにもブッシュ政権が中国とどういう関係を持とうとしているか、さりげなく出ているような気もする。

 もちろんこう書いている時点でも事態はやや流動的な部分を残している。だがどうも責任関係はとりあえずぼかして共同声明の発表、アメリカ軍乗員の送還と続いて幕引きにする予定のようだ。中国軍部の中に強硬な意見もあるのは確かなようだが…。
 面白かったのは「謝罪」についての江沢民・中国主席のコメントだ。ちょうどこの騒動の最中、江沢民さんは南米各国を訪問中だったのだが(中国の長い歴史上まれにみる外遊「君主」だよな、この人は)、チリでこの事件の「謝罪」についてこう言っていた「通りでぶつかれば、ふつう『エクスキューズ・ミー』と言うものだ」と。ちなみに「エクスキューズ・ミー」の部分だけ英語だったそうな(余談だが、この人そのむかしリンカーンのゲティスバーグの演説を全部英語で暗記して演説したとか)。この発言、中国マスコミでは「エクスキューズ・ミー」の部分を「対不起」と訳していたそうで、いずれもかなり軽い感じの「すいません」程度の意味になる。つまり、中国政府としてはさしたる謝罪を要求するつもりはないってことなんですな。
 お互い、国内向けに面子が立つところで折り合おうとしている、というところとかな。中国も「国内世論」という奴に対してアメリカ並みに神経質にならざるを得ない時代になってきたということか。



◆「朱雀」発見!
 
 奈良県あたりの古墳だの遺跡だのはまだまだ新発見がありますねぇ。
 4月3日、奈良県明日香村のキトラ古墳の調査で、石槨(せっかく)内部の南面に四方をつかさどる「四神」の一つ「朱雀」(すざく)の絵が描かれていることが確認された、と調査団が公表した。3月中に小型デジタルカメラを盗掘坑(あるんだな、ここにも)から挿し入れて内部を撮影した結果判明したものだという。以前の調査でほかの三神「玄武」「白虎」「青竜」が描かれていることは確認されていたが、今回「朱雀」が確認されたことで、国内で初めて「四神勢揃い」が実現したことになる。僕はこのニュースで初めて知ったのだが、これまで日本国内の古墳でこの四つが全てちゃんと見つかったことは無かったんだそうな。あの高松塚古墳でも南側の漆喰が落ちていて朱雀を確認できなかったのだという。まぁ常識的に考えれば中国・朝鮮経由の文化思想から四神を描いているのは確実ではあったのだが。

 この朱雀、なかなかの躍動感あるデザインで、片足で地面を蹴って今にも飛び立とうというデザインに描かれていた。黒で縁取りし、水銀朱と思われる顔料で一部を赤く染められている。このデザインについては戦前の「満州」で調査された高句麗時代の「三室塚古墳」(キトラより300年ぐらい前と言われる)の朱雀の壁画によく似ているとの指摘も出ていた。どうやら高松塚などと同じく高句麗移民の壁画家(?)が製作にあたっていた可能性が高く、朱雀などについても決まった基本デザインをそのまま持ち込んでいたのかもしれない。
 さらに面白かったのが天井部分に描かれていた天体図だ。星座などの配置を天井に描いたものだが、確認されている現存最古の天体図となるとのこと。やはり中国・高句麗の影響が強いと言われているが、きっちり描くのが面倒だったのかそれとも別の事情でもあったのか、かなり星座が省略されているとの専門家の意見も出ていた。
 まああれこれと古代のロマンとばかりに話題の広がる発見なのであるが、やはり誰もが考えてしまうのが「被葬者は誰?」ということだろう。時期的なこと、その規模や内容などから天武天皇の皇子・皇女の誰かではないかとの意見が強いようだ。高松塚古墳でもそういう推理がされているのだが、「四神」を墓の中に描くことが許されたのは皇室だけという見方が強いからだ。もっともこの天武天皇、十数人も子供がいるんでどれだという断定はちと難しいらしい。

 さて、このキトラ古墳の発見に関して、思わぬ波紋が起こった。
 キトラ古墳の地元・奈良県明日香村の関義清村長が今回の「朱雀発見」の記者会見で「文化財産業を興したい」と発言したのだ。「明日香」といえば大昔は「首都」だったとはいえ、今は過疎になりかかりの山沿いの村である(僕も以前訪れたことがあるが、こんなに田舎なのかとちょっとショックを受けたものだ…大和朝廷ってえらくローカルな政権という印象をうけちまった)。村おこしに文化財を、ってのはよくあることなのだが、この村長の発言の裏には実は明日香村が進めているある計画が絡んでいる。
 今回、「朱雀」などの確認のために97枚の写真が撮られているのだが、明日香村はこの写真の「著作権」の所有を主張し、それらの写真が各メディアなどに使われる際に「転載料」を徴収しようと画策しているのだ。「著作権」ってああた、1200年も前の作品に…と思っちゃうところであるが、村も村で大変な経済事情を抱えているのは確かなようだ。文化財関係の予算がかなりの額に上る割に観光客は減少の一途で村の収入は苦しくなる一方。そこでひらめいたのが村にある数多くの「文化財」という名の財産の活用、というわけだ。しかしそこに「著作権」を持ちこまんでも、って思っちゃう所だが。これが認められたりすると全国の遺跡で同様の動きが出るかもしれないし。
 「もともとはウチのデザインなんだから著作権はこっちにある」とか中国から要求されるなんて事も無いとは言いきれない(笑)。
 



◆「史点の星」退陣表明
 
   「史点の星」…などと勝手に呼ばせてもらったが、誰のことかと言えば森喜朗首相その人である。いや、別に本人に特に愛着があるわけではないのだが(全くないわけでもないが)、少なくとも昨年一年間の「史点」で最も登場回数の多いキャラクターであったのは間違いない。昨年の年末に登場回数の集計を公表したが、2位(10回登場)の金大中クリントン両大統領を大きく引き離す14回登場というブッチ切りのトップに輝いてしまった。昨年から「史点」では思いついた時にイラストを掲載するようになったが、そのイラストでも登場回数はトップたった。っていうか絵にしやすいんだよな、このお方は。実際漫画家のみなさんにもネタ元として重宝されていたようである(笑)。まぁとにかく昨年の「史点」では押しも押されぬ大スターだったことは確かですな。
 そんなわけで「史点の星」と勝手に呼ばせてもらったわけだが、その「星」もついに墜ちるときが来た(誰です、とっくに墜ちてたってツッコミ入れてんのは)。何度も落っこちそうになりながら、しぶとく持ちこたえ、実際に落ちた時には意外なほど静かに、騒がれもせず落ちていったものだ。
 「森退陣」の方向自体は先日の「ゴルフ騒動」でほぼ確定していたわけだが、いっこうに本人から「退陣表明」も無く、それなのに次期首相候補の名前が次々と取り沙汰され、それでいて誰も「俺がやる」となかなか言い出さないと言う実に日本ムラ社会的な妙な状態がしばらく続いていた。しかしようやく4月6日になって森首相は「新たな体制の下で、政治に対する信頼の回復を図りつつ、山積する内外の諸課題に取り組む必要があると考え、退陣する決意を固めた」と閣議で正式に退陣表明を行った。ちょうど政権発足から丸一年が過ぎていた。最近の日本の政治史においてはじゅうぶん「中期政権」と呼べるぐらいの命脈を保ったわけだ。
 

 さて、ここでお約束の「森政権を振り返る」特集といきたい。もちろん「史点」ネタとしての回顧ですがね。

 2000年4月1日。小沢自由党を連立政権から斬り捨てた直後、小渕恵三首相が倒れた。そのまま人事不省となり、翌日に自民党の幹部五人(うち一名はすでに逮捕者である)が密会し、後継者を密かに決定していた。後継者の名は「森喜朗」。これが決定した後になって「小渕首相入院」がようやく国民に向けて公表されている。これが「密室生まれの政権」などと言われる原因になる。

 一ヶ月後の5月15日。「神道政治連盟国会議員懇談会」(これの会長も逮捕されちゃった人ですねぇ)の結成30周年祝賀会において日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞ、ということを国民にしっかりと承知していただくという思いで…」という、いわゆる「神の国発言」が飛び出し騒ぎとなる。以後、森首相は「失言」の数々を生み出し、そのたんびにマスコミに騒がれることとなる。
 6月、衆議院が解散され総選挙が行われたが、そんな中で森さんは「そういう政党(共産党)と、どうやって日本の安全を、日本の国体を守ることができるのだろうか」という「国体発言」をやらかした。さらに投票日直前になって「(無党派層は)寝ていて欲しい発言も飛び出す。しかしなんだかんだいわれながら自民党および公明・保守の連立与党議席はそこそこの数を保ち、ひところ退陣確実と言われた森首相はここでまず延命する事になる。

 選挙が済んでしばらくたった7月7日、森首相が番記者たちを呼んで20分間にわたり大演説を行った。要するに自分のことをことさら悪く書く(と、少なくとも本人が思う)番記者達に対し怒りをぶちまけて「オフレコだ。書いた社とは付き合わない」と宣告した。この時の「君らは(私を)ばかだと思っているかもしれない。ぼくはばかだとは思っていない」という発言には笑わせてもらったものだ。結局この時の「要請」は一部マスコミによって逐一報じられ(だって「君らは都合の良い所をつまみぐいする」って言われたもんな)、激怒した森首相は以後、マスコミの取材に対しだんまりを決め込むようになる。多少の変化はあるにはあったが、結局その後の新聞の首相発言欄にはいかなる質問にも「…」と沈黙マークばかりがおどるようになる。
 その7月下旬には九州・沖縄サミットが開催され、森首相はなんとか世界の首脳を相手にホスト役を務めおおせている。

 その後しばらくネタが無く「失言期待組」を嘆かせるが(笑)、10月に入って森さんはとうとうやらかしはじめる。ブレア英首相との会談で北朝鮮の拉致疑惑に関して「行方不明者ということでいいから、北京やパリやバンコクにいたという方法もあるのではないか」と北朝鮮に以前もちかけたことがあるとばらしてしまったのだ。いわゆる「第三国発言」である。その方法の是非はともかくポロッと人にしゃべるものではないと批判をくらったわけだ。そして直後に女房役とか影武者とか言われていた中川忠直官房長官に右翼との会合や愛人疑惑などが写真週刊誌で報じられあっけなく辞任に追い込まれてしまった。
 このドタバタのさなか、森首相が母校早稲田の試合の応援に行ってはしゃいでいる姿を見て「決起」に動きだしたのが加藤紘一氏だった。この「加藤の乱」は11月を通して政界および野次馬根性の強い国民の注目の的となったが、結局は「腰砕け」に終わり、ここでまた森政権は延命する事になる。「まさかの年越しか」とか言われていたんだよな、この頃は。
 森内閣は12月に改造して「第二次」をスタートさせる。これには橋本龍太郎、宮沢喜一、河野洋平といった「元自民党総裁」が三人も入って「本格重量級内閣」などと呼ばれたものだった。この内閣で省庁再編を実施し、森政権はついに21世紀への突入を果たす。

思い〜こんだら〜史点の道を〜♪ そして最後の「とどめ」となったのが(それまでに何度も「これまで」と言われたのだが)、2月に起きたハワイ沖の米原潜と日本の高校実習船の衝突事故だ。この事故が発生したときに森首相がたまたまゴルフをしていて、それはまだ良いとしてそこでしばらくプレイを続けたことが大問題とされたのだった。これでようやく森首相の退陣が既定路線となったのだが、後継者をめぐってあれこれと動きが続いた状態で…結局一ヶ月以上が過ぎてしまったのであった。こうしてなんだかんだと言われながら一年も持ちこたえて森首相は形としては円満に退陣ということになったわけだ。は〜、こうして書いてみるとなかなか波乱に富んだ政権には違いないですな。

 さて、焦点は次の自民党総裁、すなわち内閣総理大臣は誰なのか、ということになった。ひところやたらに「本命」と言われていたのが、昨年まで自民党幹事長を務め、「影の総理」とまで言われた実力者・野中広務氏だ。とくに公明党と保守党が連立維持のかなめとして「野中総理」にかなりのこだわりをみせた。しかし結局野中さんは「100%ない」「200%ない」「300%…」と否定の確率をドンドン上げていって(笑)、ついに出馬しなかった。そう言いつつ出るんじゃないかとの憶測も多かったが…いやぁひょっとすると「次」を狙ってるのかもしれませんね。なった途端に参院選で敗北でもしたらすぐ退陣だし。これが誰もがなかなか総裁候補に名乗りをあげない理由の一つではあるのだ。
 とすると、橋本派の会長で出馬が事実上固まった橋本龍太郎元首相は単なるお人好しなのか…?いまのところ対抗馬は「変人」小泉純一郎ぐらい(本人曰く「変人」とは「変革をする人」だそうな)という情勢なのでそのまま総裁選やったら「橋本首相再登板」が実現することになる。戦後だとこうした例は確か吉田茂ぐらいしかないはずで珍しいことなのだが…なにぶんにも橋本さんは参院選で敗れて辞任した過去があるだけに、なんとなくデジャブ(既視感)に襲われてしまうな。

 と、思っていたら読売新聞に面白い話が載っていた。
 自民党総裁選が予定されているのは4月24日。当初23日に決まったのだが、突然一日ずらされたのだ。なんでも「23日」と事前に(つまり森さんが退陣表明しないうちに)新聞に出てしまったことに森さんがヘソ曲げて一日ずらしたのだとかいう憶測が。
 で、この4月24日は「仏滅」なのだ。この「読売」記事はこれに関して不吉な事を書いている。過去、自民党の総裁選はなるべく大安に行われており、仏滅に総裁選を行ったのは二度しかないのだそうだ。その二度というのが、宮澤喜一総裁選出時と河野洋平総裁選出時なのだ。宮沢さんは結党以来初めて自民党が政権を失陥したときの総裁であり、河野さんは野党暮らしの時の自民党総裁で、総裁でありながら首相になれなかった現時点で唯一の人だ。確かにこの二度(連続しているが)いずれも仏滅選出だったというのは不吉なデータではある。

 さてさて、次の自民党総裁は誰なのか、そして新たな「史点の星」は誕生するのか−−−−。
 


2001/4/9記

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