ニュースな
2001年7月2日

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 ◆今週の記事

◆ミロシェビッチ突然の引き渡し
 
 先週の「ペルーのラスプーチン」ことモンテシノス元情報局顧問の逮捕に刺激されたわけではあるまいが、今度は「ユーゴのヒトラー」こと(?)ミロシェビッチ前大統領の身柄が、突然オランダ・ハーグの国際戦犯法廷に送り届けられた。ミロシェビッチ前大統領はこの国際戦犯法廷からコソボ紛争におけるアルバニア系住民虐殺など「人道に対する罪」(どっかで聞いたような)によって起訴されていたのである。この引き渡し問題については今年4月1日の逮捕以来、ユーゴ国内ですったもんだしていたのであるが、いきなり意表を突いての引き渡し劇となってしまった。

 思い起こせばミロシェビッチ前大統領と「史点」の縁は深い(いや、あっちは知らんだろうが)。「史点」を初めて間もなくNATOによるユーゴ空爆があり(1999年3月〜6月)、翌年上半期にはユーゴで謎の暗殺事件が多発(東欧なもんで殺された人の名前がみんな「○○ビッチ」だったっけ)、秋には大統領選をきっかけに「革命」が起こってミロシェビッチ政権が打倒され、今年4月あたまにとうとう逮捕拘束という展開で、トータルで見ると最多登場人物ではないのかという気もする。いや、別に彼個人に対して愛着はこれっぽっちもありませんが。
 4月あたまにユーゴ政府によって逮捕されたときの罪状は「職権乱用・不正蓄財」だった。この逮捕の背後にNATO諸国、特にアメリカの露骨な圧力があり、「3月末までに逮捕してくれれば経済援助をしてあげよう」というエサまでちらつかせてたのが目についた。結局ミロシェビッチ側の抵抗もあって3月以内の逮捕は果たせなかったが4月1日に身柄拘束。しかし彼を「戦犯」として国際戦犯法廷に引き渡すことについては、ユーゴというよりはセルビア国内でも異論が多かった。ミロシェビッチ政権を批判し、これを革命という形で倒したコシュトニツァ大統領にしても同じだった。確かにミロシェビッチは排他的な民族主義をあおった独裁者でもあったが、これをNATO側の主張するままの「極悪人」論理で一方的に裁かせてしまっていいのか、経済援助というカネと引き替えに一国としての「主権」を引き渡してしまって良いのか、という疑問は当然わいてくるところだろう。

 そんなわけで4月の逮捕以来「引き渡すか否か」の激しい議論がユーゴ連邦政府内で続いていたわけだが、6月28日夜、唐突にミロシェビッチ前大統領の身柄はハーグへと送り届けられた。実行したのはセルビア共和国のジンジッチ首相だった。ここで一応補足しておくと、現在の「ユーゴスラヴィア連邦」はセルビア共和国とモンテネグロ共和国で構成され、ユーゴ連邦の大統領(これがコシュトニツァ氏)が形式的に頂点にいて、構成国のセルビアとモンテネグロにもそれぞれ大統領と首相がいるというややこしい構造になっている。そして実質的に政権運営を行うのは中心国であるセルビアの首相(これがジンジッチ氏)であるというわけなのだ。だからこそこの人のほぼ独断でミロシェビッチ引き渡しが決行されたのだ。
 6月28日に大慌てで実行された「ミロシェビッチ引き渡し」、これまた4月の逮捕と同様に露骨に「カネとの引き替え」だった。翌29日にブリュッセルで開催される「対ユーゴ支援国会議」なるものが控えており、そこで決定されるユーゴ復興のための経済援助の取引条件がズバリ「ミロシェビッチ引き渡し」だったのだ。露骨なことにミロシェビッチ引き渡しを受けた声明でブッシュ米大統領は「ユーゴを悲劇的な過去から明るい未来へ導こうとする新指導部の努力の表れ」(毎日新聞訳記事より)としてこれを歓迎し、ただちに「民主化と経済改革を続けるユーゴの人々を支援する用意がある」として「対ユーゴ支援国会議」で推定1億ドルの経済援助を行うことを表明している。他のNATO諸国もほぼ同様の反応だ。ミロシェビッチ一人の扱いで経済援助の有無をコロコロ決めちゃうってのも…。直接的に爆撃してユーゴ国民を苦しめたのって誰だったっけ?何というか大国のエゴばかりが感じられてしまうところですな。

 驚くべき(?)ことに、ユーゴ大統領コシュトニツァ氏はこの日に「ミロシェビッチ引き渡し」が行われることも全く知らず、実行された後で知って激怒しセルビア共和国政府を非難している。またユーゴ連邦政府連立与党のモンテネグロ共和国社会人民党(長い)もミロシェビッチ引き渡しを非難して連立離脱を表明、それでなくても連邦政府解体の危機が続いていたところへ今度の一件だから、かえってユーゴ国内の混迷が深まる恐れすら出てきている。



◆嵐が嵐を呼ぶマケドニア
 
   上のネタとセットにしちゃってもいいような話なのだが…このところ続いているマケドニア情勢。
 「マケドニア」といえばアレクサンドロス大王、と世界史習った人は誰もが連想するところだろう。ただし現在の「マケドニア人」というのは、アレクサンドロスの時代からはるかに時代を下った6世紀以降にロシア平原から東南欧各地に大移動していったスラブ系民族の一つで、たまたまかつてのマケドニアの地に入ってしまって「マケドニア人」になっちゃったものでアレクサンドロスとは直接的な繋がりはない。以前は同じ南スラブ族の連合国家である「ユーゴスラヴィア連邦」に属する一国だったが、ユーゴ内戦の過程で独立、最近台湾と中国でこの国との国交を巡る駆け引きをやっていたなんて話題も先日書いた。

 このマケドニアにはアルバニア系住民も多数住んでおり、ここに隣国セルビア・コソボ自治州のアルバニア系武装組織の流れを汲む武装組織が入り込んできて、マケドニアにいるアルバニア系住民の権利拡大(と言っているが究極は大アルバニア国家の建設にあるみたいだが…)を要求して暴れ、これを政府軍が鎮圧しようとして、結局マケドニアにまで内戦の火の手が上がることになっちゃったというのはこのところ何度か触れているところ。
 アルバニア系武装組織と戦闘状態に入ってはいるものの、マケドニア政府自体はアルバニア系住民に気を使っている。政府もアルバニア系政党との連立政権を組んだし、「ゲリラはゲリラ、住民は住民」と分けて解決を図ろうとしていたように思える。そしてその背後にはNATO、そしてEUといった欧米勢力の思惑があった。もちろん彼らにとっての目標とはこのバルカン半島の民族憎悪を沈静化させこの地域を安定化することなのだろうけど、その親切心(?)が逆に憎悪をあおっている場合も少なくない。このマケドニアのケースもその空気がある。

 きっかけは首都からわずか10qという地点のアラチノボ村にアルバニア系武装勢力が乱入したことだった。これを政府軍が攻撃、激しい戦闘となったが、EUとNATOが介入して停戦を呼びかけ、武装勢力側は安全な撤退を保証する事を条件に停戦を受け入れ、マケドニア政府もこれに応じた。かくして6月25日、「武装勢力ご一行様」はバスに乗り込んでEU・NATOの車両による護衛付きで武装勢力の拠点まで送り届けられることとなった。
 しかしこれと前後してマケドニア西部で武装勢力と政府軍の戦闘が発生、マケドニア人警官1名が射殺されるという事態となった。これに多くのマケドニア人たちが激昂した。政府はあんな暴力集団との停戦に合意し、バスでご丁寧に送り届けたりしてるのか、というわけである。
 25日夜に首都スコピエではマケドニア市民5000によるデモが行われ、政府、そしてEUへの非難を口々に叫んだ。トライコフスキ大統領を「裏切り者」と呼び、停戦を要請したソラナ・EU外交上級代表の写真を焼き、ついには「アルバニア系に死を」と叫ぶシュプレヒコールまで上がったという。そしてデモ隊は国会議事堂に乱入、国会内にいた大統領や政治家達は裏口から脱出して難を避けねばならないありさまだった。乱入したデモ隊には警官や予備役兵など兵士も含まれていたらしく、議事堂のバルコニーで自動小銃を空に乱射して騒いだという。騒動は26日までに収まったものの…
 あーあ、マケドニアってわりと民族間がうまくいっている印象があったのだが、ここも民族間憎悪がブチ上げられてしまったようだ。こういうのって言っているのが少数でも過激意見ってのは多数を圧倒しがちだからね。



◆どう呼ばれようがわしゃ知ンらん
 
 親鸞(しんらん)、といえばなかなか漢字で書けない日本史重要人物の筆頭(笑)。二文字目は「いと、いう、いと、とり」などと言いながら覚えねばならない。この坊さんは言うまでもなく、日本仏教史上やたらに賑やかな鎌倉時代におこった宗派の一つ「浄土真宗」の開祖である。師匠は「浄土宗」を開いた法然であり、浄土真宗も基本的に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えよ、とする点は引き継いでいる。ただし親鸞はより一歩、ともすれば過激とも言うべき思想に到達している。「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」(善人でさえ救済される、まして悪人が救済されないことがあろうか)という、一読しただけでは首を傾げてしまう逆説的理論をとなえたのは有名だ。この人、正式に妻帯し、肉も魚も食うなどユニークな言動の多い人で、僕は宗教的なところより一個の人間として魅了されるところがありますね。そして親鸞の直接の子孫たちが教祖として教団を経営していったというのもこの宗派のユニークなところだ。

 さて、この親鸞の開いた「浄土真宗」(本来は「真宗」であるらしく、「浄土真宗」と正式に公認されたのは明治5年のことだそうな)はその後「一向宗」などと呼ばれて、特に室町時代に一代の傑物・8世蓮如が出て本願寺を再興した辺りから戦国時代にかけて民衆を中心にする全国的な教団をなし、全国統一を推し進める織田信長など多くの戦国大名を苦しめるほどの大きな力を有していた。戦国もののシミュレーションゲームなどでも加賀に一向宗王国が築かれていて、やたらに強い設定になっていることも多い(苦労するんだ、これの相手が)。信長と激戦した11世顕如が亡くなると、息子の教如が継いだが、豊臣秀吉によって弟の准如に譲らされた。関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取ると教如は家康と結びつき、この兄弟争いから本願寺は東西に分裂。東本願寺が「大谷派」、西本願寺が「本願寺派」と呼ばれ、この二つで真宗の勢力をほぼ二分する。あとはその他の小宗派がポツポツとあるという状況だ。
 
 さて先日朝日新聞を見ていたら、この東本願寺の「真宗大谷派」が、このたび親鸞に対して明治政府が与えた称号「見真大師」を今後使用を見合わせることにした、という記事が載っていた。へえ、先祖代々真宗とは縁のない僕などはそんな称号があることすら知らなかったが(ちなみに我が先祖の代々の墓は曹洞宗の寺にある)、明治9年(1876)に東西本願寺などが政府に働きかけ、この「見真大師」の称号が浄土真宗各派に与えられていたのだそうだ。詳しくは知らないのだが、浄土真宗では親鸞の肖像画(御影)が信仰の対象となるのだそうで、そこにこの「見真大師」の称号が書かれていたらしい。それをなんで急に「見合わせる」と言い出したのだろう?

 これは現在の真宗大谷派が、過去の日本の侵略戦争に荷担した教団の責任を積極的に認め、国家権力と迎合してしまった教団の歴史を反省する姿勢を強めているからなのだそうだ。どうも明治政府に限らず、歴代朝廷から与えられた「大師」号のたぐいは一律に使用を見合わせる方針でもあるらしい。開祖・親鸞はその朝廷に弾圧された経歴を持っており、そもそも大師号をもらうこと自体が開祖の意志に反するとの意見もあるそうだ。

 今後、大谷派は御影に「宗祖聖人」「親鸞聖人」の称号だけを使用する方針だとのこと。なんのことはない、もともとの名前に戻っただけじゃん、などと思ってしまうところでもあるが。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、有り難い、有り難い(笑)。
 



◆「国民の軍隊」の終焉
 
   あのおフランスがとうとう徴兵制を廃止することを正式に発表した。去る6月27日のことである。
 もちろん急に決まったことではない。1996年にシラク大統領が冷戦後の体制に応じた変化を受けて、国軍の徴兵制から志願兵制への段階的移行を決定しており、今回の発表はそれを1年前倒しすると言ったに過ぎない。2002年からフランス国軍は正式に完全志願兵制となることが決まった。元ネタのCNN日本語版サイトの記事によると、徴兵そのものは来年2月まで縮小しつつ行われるが(徴兵される人の基準がよく分からないが)、それ以後は徴兵制度自体が停止され、2002年の内に徴兵された兵士もみな除隊させられるのだそうだ。
 その記事でも書いていたことだが、現行のフランス徴兵制度自体は1905年(第一次大戦寸前ですな)以来のものだが、フランスにおける「国民皆兵」の徴兵制が始まったのは、あのフランス革命にまでさかのぼれる。そしてこれが世界史上で最初の近代徴兵制のルーツとなっているのだ。

 フランスに限ったことではなく、「国民たる者、みな兵士」みたいな制度的な徴兵なんてものは長い歴史上ほとんど存在しなかった(だいたい「国民」って概念自体が近代の産物だが)。特にヨーロッパでは兵士なんてのは食い詰めた人間か一稼ぎしようと言った連中が集まった「傭兵集団」という形が多かった。日本だって「足軽」なんてのはかなりそのノリがある。フランスでは絶対王政時代に国王が「常備軍」を持つようになっているが、一般国民は兵隊になるなんてことは無かったようだ。

 それが1789年にフランス革命が勃発。その過程をいちいちここで書くのは避けるが、このフランス革命の波及を恐れた周辺各国が一斉にフランスへ攻め込み、革命を潰しにかかった(まぁ正確にはその先手を打って革命政府が宣戦するんだけど)。これを迎え撃ったフランスの軍隊は指揮官に貴族階級が多かったこともあってやる気がなく、一時連戦連敗という状況に陥った。この状況に「革命の危機」ひいては「祖国の危機」を感じた民衆がフランス各地で「義勇兵」として立ち上がり、高い士気でプロの軍人に指揮された周辺国軍を打ち破っていく。有名なのがプロイセン軍を破った「ヴァルミーの戦い」(1792)で、これを目撃したゲーテ「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と名セリフを残した。これら義勇軍のうちマルセイユからきた連中が歌っていたのが、その物騒な歌詞で議論もあるフランス国家「ラ・マルセイエーズ」だ…などと、商売道具の「山川の世界史用語集」見ながら書かせてもらってます、ハイ(笑)。

 ともあれ、こうした民衆から湧き起こった義勇軍の活躍が「国民国家」の「民衆の軍隊」という意識を養成した。そしてジャコバン派政権による革命の急進化の中で、革命を防衛するための「民衆の軍隊」の制度化が始まる。かくして1793年3月10日、史上初の国民国家による徴兵制が実施に移されることになったが、その日はやくもこれに反対する大農民反乱が起こったりもしている。考えてみるとキッカケになった義勇兵はあくまで志願制なんだよなぁ。
 まぁ紆余曲折はあるのだが、徴兵制というシステムはこうして始まり、いつの間にか「国家として当たり前にあるもの」と勘違いされるようになっていったのだ。今やヨーロッパも多くの国が徴兵制廃止、あるいは廃止の方向で動いている。

 さて、ちょっと連想で思い出した話題にわざと(笑)ずらそう。
 昨年、首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」から「小中学校では2週間、高校では一ヶ月の奉仕活動を義務づけ、将来的には満18歳の全国民に一年間の奉仕活動を義務づける」という提案が出ていたのを覚えておられるだろうか。昨年9月の「史点」で書いた話題だが、特にこの後半部分、「満18歳に一年間の奉仕活動義務」という部分に「徴兵制」を感じた人は多かったはず。実際そうした非難が各方面から上がっていた(日本ペンクラブでも「徴兵制の実施を考えていると思わざるを得ない」と声明していた)。この「国民会議」とやらの出す提案には他にも「バーチャルリアリティーは悪であると徹底して教える」とか「団地などにも床の間を作らせる」といった理解不能な意見が多く載っていてなかなか笑えたのだが、一番の衝撃度があったのはこの「奉仕活動義務」だろう。「奉仕を義務づける」という時点で何か勘違いしているような気もするのだが、そういえばフランスの徴兵制もそんなところから始まったんだよな。
 この提案、当時の首相の不人気も手伝ってクソミソに言われたところもあったが、トップが小泉さんに変わったらみなさんすっかり忘れてしまったらしく、その間に今国会でこの提案の前半部分については部分的だが現実に法律になったことにあまり気づいていないようだ。
 今国会で「学校教育法」が改正され、「学校教育におけるボランティア活動等社会奉仕体験活動、自然体験活動等の体験活動の促進」が明記された。もちろん義務ではなく勧めるといったたぐいのものだが、実際に書いてしまえば「義務」になってくるのはよくある現象。「奉仕活動」だと反対意見が多いので「ボランティア活動等社会奉仕体験活動・自然体験活動」とあれこれとりまぜた表現にしてぼかすことで国会を通過してしまった(つまり過半数の議員が賛成したってことだからね)。「社会教育法」にも同様の文言が付加されている。
 学校にこもるばかりでなく「社会体験」が重要な教育の一環だよ、というのは僕も賛同する。しかし「奉仕活動」は文字としてはしっかり残っており、なんといってもこの改正法案自体があの「国民会議」の提案によるものだということに、僕は背筋が少々寒くなる。ウカウカしてると例の「18歳に1年間」も義務づけられかねんぞ〜とは言っておこう。杞憂であることを祈る。


2001/7/2記

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