ニュースな
2001年7月23日

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 ◆今週の記事

◆皇帝は死んでも浮かばれない?

 ちょっと前のネタから入ろう。
 読売新聞web版でみかけた記事によれば、去る7月9日、モスクワ・ヤロスラブリ駅を一両の記念列車が極東のウラジオストックへ向けて出発した。何の記念列車かと言えばズバリ「シベリア鉄道開通100周年」を記念する特別列車だったのだ。
 「シベリア鉄道」とは言うまでもなく広大なロシア国土(ユーラシア大陸北側のほとんど)をほぼ完全に横断する世界最長の鉄道で、モスクワからウラジオストックまで、全長9300q。ロシア帝国、ソビエト連邦、そして今のロシア連邦に至るまでロシアを貫く大動脈として機能し続けている。もっともソ連崩壊以来の経済状況やら国家の補助金の停止などで設備不良も進み、全盛期の輸送料の半分にまで落ち込んでいるそうだが。
 この「シベリア鉄道」が建設されたのは帝国主義まっさかりの1891年のこと。当時のロシア帝国はシベリアからさらに極東方面へとその勢力拡大を目指しており、シベリアに横断鉄道を建設することはその戦略上も非常に重要なものだった。工事にはフランスの資本が導入されロシア定番の流刑囚による強制労働も加わって急ピッチで進められ、一応の完成を見たのがちょうど100年前の1901年のことだったのだ。その3年後、日露戦争が勃発し、シベリア鉄道はそこでさっそく物資・兵員の輸送で重要な役割を果たすことになった。

 1901年にこの鉄道の「開通」を宣言し、その直後の日露戦争を戦ったロシア帝国皇帝がニコライ2世。そう、ロシア帝国最後の皇帝である。ニコライ2世一家はロシア革命直後の1918年に反革命勢力に担ぎ出されることを恐れた革命勢力によって殺害されたが、彼らの「遺骨」が確認されたというニュースが、数年前に確かにあった。1993年にロシア政府の依頼を受けた研究者達が「母方から遺伝する「ミトコンドリアDNA」を調べて(ニコライ2世のお婆さんはイギリスのヴィクトリア女王で、現英王室とつながるため比較が出来た)、この遺骨が「98.5%の確率で本物」と認定したのだ。ニコライ2世はその後聖人にも列せられ、遺骨はロシア正教会の聖堂に安置されることとなった。
 ところが、ここに来てこの「本物判定」に強い疑問を呈する研究が公表された。さきほどの計算からすると「1.5%」の確率の話のはずなのだが、なかなかに説得力がある話なのだ。しかもこの研究を行ったのは日本の科学者たちである。
 朝日新聞の記事によると、この研究を行ったのは北里大学大学院医療系研究科(法医学)の長井辰男教授と岡崎登志夫助教授らのグループ。この人達が使ったサンプルはニコライ2世の衣服に残っていた汗の染み、ニコライの弟ゲオルギー大公の毛髪・爪・下あご等の骨(1994年に発掘されていた)、そしてニコライ2世の甥にあたるチホン=クリコフスキー=ロマノフ氏の血液(チホン氏は自分達に冷たくしたロシアには協力したくないと言っていたそうな)
 これらのサンプルのミトコンドリアDNAを採取し、比較したところ、基本的な部分の塩基配列は全て一致し、ニコライ、ゲオルギー、チホン氏が同族であることは確認された。じゃあなんでこれが反証になるのかというと、この塩基配列が1993年の研究の結果発表されたものと5ヶ所も食い違っていたというのだ。たった5ヶ所と思っちゃうところだが、この記事によると塩基配列の変異は3000〜4000年に一つしか起きないというものだそうで、5ヶ所も違っていたらそれは確実に別人である、とのことだ。つまり、先に「本物」と認定された「お骨」がニコライのものではなかったということになる。
 …じゃあどこの「馬の骨」なんだ(汗)。どうもニコライ一家ってのは皇女アナスタシアの一件もあるし、何かと話題を提供してくれるものだ。

 「史点」やってると何度か覚えがあるのだが、なぜか同じ歴史人物に関わるニュースが短期に集中することがある。上記のネタに「へ〜」などと言っていたら、ニコライ2世に関する話題がもう一つ報じられていた。
 ニコライ2世の愛人だった有名バレリーナ、マチルダ=クシェシンスカヤという女性がいる(とか書いているが、僕もこのニュースで初めて存在を知った)。ニコライの皇太子時代に親密となり、ニコライの結婚後は皇室の一員である大公と相次いで結婚するなど「社交界の華」を絵に描いたような女性だったそうで。当時の首都・ペテルブルグの中心地に広大な邸宅を与えられたが、1917年にロシア革命が起こり亡命を余儀なくされた。面白いことに彼女の邸宅は一時期レーニンらボリシェヴィキの党本部にされたこともあり、現在は政治史博物館となってしまっているとのこと。
 このたびこのクシェシンスカヤの遠縁の子孫にあたるコンスタンチン=セベナルド連邦下院議員(33)が西欧に住む亡命ロシア人たちを前にして「クシェシンスカヤの邸宅には実はロマノフ王朝の秘宝である宝石や貴金属が隠されている。隠し場所は暗号になっており、現在その暗号を解読中だ」と暴露したのだそうな。この情報を受けてロシア政府も宝探しに乗り出そうとするなど騒ぎになっているとのこと。

 なんだか「怪盗ルパン」シリーズを連想させる話だよな〜。そういやルパンもロシア人伯爵に化けたりしてるし(当時のロシア貴族はフランス語生活していたので変装が楽だった)、ロシア人女性と結婚してるし(シリーズ中、珍しく複数の話に登場するヒロインがロシア女性なのだ)、アルセーヌ=ルパンは妙にロシアと縁が深い。最近、フランスで30年前に製作されたルパンTVシリーズがDVD化されたもんで、ちょっと浮かれて脱線して書いてます(笑)。すいません。
 それにしても、最後のネタはどうも胡散臭さがつきまといますな。



◆王たちの帰還
 
 ロシア皇帝の話に続いては東欧王室のお話。
 ちょうど4週間前に書いた話題でブルガリアの元国王シメオン2世率いる政党が、ブルガリア議会の第一党となってしまったというのがあった。さすがに過半数にはあと一議席及ばなかったものの、にわか仕立ての政党としては圧倒的勝利。「国王」は本音は国家元首である大統領の座に執着を見せていたようだが、結局首相指名を受けることにしたそうだ。本物の「元首」にはなれなかったものの、とりあえず権力者の地位には復帰した形だ。半世紀ぶりにして王政復古、ってちょっと違うか。しかし本人はまんざらでもないご様子に見えるのだが…。
 お隣のルーマニアでもかつて国を追われた元国王ミハイ1世が政治活動を行わないことを条件に帰国、さきごろ政権をとりかえしたイリエスク大統領と「和解の晩餐」を行い、かつての宮殿など王室資産を返還してもらっていた。ほんらい王を追い払った共産党の党首であるイリエスク大統領だが、こちらの場合も「国王」の人気を政権運営に利用しようという意図がチラホラと見える。
 
 そして、「東欧国王ブーム」は何かと話題の多いユーゴスラヴィアにまで飛び火した。ユーゴスラヴィア王室のアレクサンダル=カラジョルジエビッチ氏(56)が7月17日(ご当人の誕生日だったそうである)に帰国し、かつての王宮で生活を始めたことがユーゴのマスコミから報じられていた。彼が住み始めた旧王宮もやはりルーマニアのケースと同じでユーゴ政府がその使用をつい先日許可し、事実上の「返還」を実現していたのだった。カラジョルジエビッチ氏(舌噛みそうだな)「この宮殿に戻ってきてくつろぐことができて感無量だ」と感想を述べたという。
 ところで、「ユーゴ王室」というものにピンと来ない人も多いのでは無かろうか。僕もこのニュースに接して確認のために改めて調べてみたぐらいで、記憶は今ひとつだった。だいたいユーゴスラヴィアってのが近代に入ってから南スラブ族をまとめて作っちゃった「にわか仕立てのモザイク国家」という印象があり(だから凄まじい民族紛争を起こして崩壊したわけで)、その「王室」なんてものがあったなんてどうもしっくりこないわけだ。しかしごく短期間ではあるものの「ユーゴスラヴィア王国」ってやつが存在していた時期があるのだ。

 1918年に第一次世界大戦が終結し、この地域を支配していたオーストリア=ハンガリー帝国は敗戦国となり帝国は滅亡した。このオーストリアから独立する形で1918年12月にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国という、やたら長ったらしい名前の新王国が成立した。要するにセルビア、クロアチア、スロヴェニアの連合王国という形で、国王にはセルビア国王が就くこととなった(このあたりからすでにセルビア中心主義と各民族自治主義が対立を起こしている)。1929年に国王自らがクーデターを起こし、国王による独裁制が敷かれ、ここで初めて「ユーゴスラヴィア王国」なるものが成立することになった。
 やがて第二次世界大戦を迎えると、ナチス・ドイツの手がこの地方にも伸びてきて、ユーゴスラヴィアは動乱の嵐に見舞われることとなる。ユーゴ国王ペータル2世はナチスの東欧進出を受けてこれと協力しようという姿勢もみせたが、1941年3月に軍や民衆が蜂起して国王を追い、反ファシズム政権を樹立。これに対しドイツ・イタリア軍が例によって電撃的にユーゴに侵入、一気に全バルカン半島を制圧することとなった。これに対してユーゴ共産党などのパルチザン闘争が展開され、その指導者だったティトーが戦後「ユーゴスラヴィア連邦」を築き、独特の社会主義路線を進むこととなる。

 で、1941年に国を追われたペータル2世はロンドンに亡命し、「亡命政府」なるものを作ったりしていた。しかし共産党が政権をとった戦後のユーゴは当然ながら王政廃止を宣言し、ペータル2世は帰国できぬまま1970年に死去した。今回帰国を果たしたアレクサンダル氏はこのペータル2世の長男なのである。父の死後も公式には「皇太子」を名乗っているとかいないとか。
 アレクサンダル氏は東欧の社会主義政権崩壊が相次いだ直後の1991年に一度帰国を果たしている。それ以来、「国王」としての自負からなのかどうか分からないが、ユーゴの政治に関して積極的に発言し、今や「塀の中の人」となったミロシェビッチ前大統領についても厳しい批判を行っていたという。ミロシェビッチが去ったユーゴについに乗り込んだこの「国王」も、どうやら政治的活動(単に担がれるということもあり得る)を開始しそうな匂いがしますな。
 



◆大統領が二人いる!?
 
 日本時間で午後7時のことだから、僕がこの文を書いているつい一時間前のことだ。インドネシアのワヒド大統領の罷免が国の最高機関・国民協議会で決議され、メガワティ副大統領が大統領に昇格することが決まった(賛成591反対0の満場一致。その瞬間、「アッラーフ・アクバル!」って例の声が議場に響いてたなぁ)。他の三つの記事を珍しく日曜日中に書きあげたものの、この動向を待つという口実で更新をサボっていた甲斐があったというものだ。日々これ口実(笑)。
 確か二ヶ月ぐらい前から「ワヒド弾劾」ネタは「史点」で何度も採り上げようとしていた。しかしその都度見送りにしていたのは、やはり動向が不透明だったからだ。ようやくひとまずの「決着」をつい先程みたようなのでこうして記事を書いているわけだが、依然として不透明な部分があることは否めない。

 ワヒドさんが大統領に選出されたのは1999年10月のこと。もちろん当時の「史点」でも採り上げている。なんか「とりあげている」とか書くと政権の産婆さんになったみたいな妙な気分になるものだ(笑)。そうやって「とりあげた」政権でその終焉も「史点」で扱うのは森喜朗さんに続いて二人目だったかな、確か。
 当時のインドネシアは30年以上にわたるスハルト独裁が崩壊し、同国初の民主的手続きによる大統領選出が行われた。インドネシア建国の父・スカルノの娘であり最大野党「闘争民主党」を率いるメガワティさんが「本命」と見なされていたが、フタを開けてみたら373票対313票という割と差を付けてイスラム団体指導者であるワヒドさんが勝利してしまった。てっきりメガワティさんが大統領になるもんだと思いこんで騒いでいた市民達が激怒して一時暴動を起こしたりもしたが、彼女が副大統領に選出されたことでひとまず怒りを収めた。当時の「史点」を読み返してみたら「将来的には「禅譲」になるんじゃないかとにらんでいる」などと僕は書いていた。うーん、禅譲じゃなくて合法的にブンどった形になっているような…まぁ中国史でも「禅譲」なんて実際はそんなもんだが。

 イスラム団体のリーダーということもあって、当初ワヒド大統領に危なっかしさを感じていた僕だが、その後の経緯ではそう批判的でもなくなっていた。少なくとも言動に関する限り、強硬策でなく話し合いで臨む姿勢を強くしていることは割と評価していたのだが、インドネシアという国家全体の行き詰まりを食い止めることは出来なかったようだ。そうこうしているうちに政権基盤の脆弱さと大統領周辺さらには大統領自身の不明確な資金流用疑惑なども出てきて議会との対立を深め、とうとう「罷免」という事態に陥ってしまったわけだ。ふりかえってみれば「本命」の手に大統領の座が戻ったとも言えるわけだが、現在の状況を見る限り、メガワティさんになったからといってインドネシアの状況が劇的に好転するとは正直言って思えない。

 ワヒド前(?)大統領の方は国民協議会の決定に先立ち、「文民非常事態宣言」を発動し、国民協議会の大統領罷免のための特別総会そのものの正統性を失わせようとしているが、国軍も警察も、はたまた最高裁判所もワヒドさんを見放している状態なので、必死の抵抗も無駄だと言われている。ただしメガワティさんと同様、ワヒドさんにも熱狂的支持者の市民が多数存在しており、ワヒドさんはその力をあてにして大統領府に居座って抵抗を続ける可能性もあると言われている。…なんだかつい先日のフィリピンのケースと瓜二つのような。
 ただ憲法には大統領の解任に関する規定が無いのも事実で、ワヒド罷免、メガワティ昇格の法的正統性に疑問がついてまわるところもある。下手すると「正統」を主張する二人の大統領が存在する状態で新政権が見切り発車する可能性もある。これに呼応して各地の分離独立運動が活発化する可能性もあり…ってなんだか日本の南北朝時代みたいになってきちゃったな。
 ここまで来ると、ワヒドさんも早いうちに身をひくのが賢明だと思うんだけどな。



◆贋作主要国首脳会議・ジェノバ編
 
   …とある長靴状の半島の付け根の港町に八カ国の首脳が集まりましたとさ。

伊「どうも、遠いところをわざわざようこそ。今回は私を含めて新顔がいくつかみえますな」
仏「だいたいいつも二カ国ほど、来るたんびに顔が変わる国があるからな。政治状況が良く似てるってのはホントらしい」
日「そりゃもうかつての同盟国同士でございますから。でもこの中で一番国民の支持率が高いのはダントツで私ですぞ」
英「前回の「顔」とは打って変わって…でしょ。私も高支持率もらってるけど、おたくの国民はなんとも極端ですなぁ」
米「私も新顔なんですけどね。何も分からないふつつか者ですが、よろしく」
独「あんたが言うと謙遜にも冗談にもなってないぞ。「独」の略称は近ごろおたくの国の方が似合ってるような」
日「じゃあ私が「米」の略称もらおうかなぁ…米百俵は将来のために使おう!」
米「その米にはウチの国のを使って下さいな。おまけで防衛ミサイルも一つお付けしましょう」
露「いや、アメリカさんには「露骨」の「露」の字を献上した方がいいんじゃないか。ミサイル防衛といい京都議定書と言い…」
米「あと小型武器規制に生物兵器禁止条約の議定書でも「独走」してますよ、はい」
独「勝手に一人で自己満足に浸ってるんじゃないの」
加「ああ…2008年五輪は北京に持ってかれちゃったなぁ…」
独「勝手に一人で感慨に耽ってるんじゃないの」
伊「去年もそうだったけどあんたんとこは今ひとつネタがないのね」
加「念の為言っておくけど、この中で一番場数踏んでるの私なんだけどな。しかも来年の開催国だよ。」
露「それにしても外はこれから革命かってぐらいの騒々しさですな。デモ隊がソ連国旗掲げてたのにはビビッたよ」
伊「警備がもう大変で…とうとうサミット初の死者まで出しちゃったし。「伊」の一番ってやつですか」
仏「我々がちゃんと話し合うことで「仏」も浮かばれるでしょう」
露「デモ暴動の「露」と消えた…」
英「反グローバルの「英」霊として祭られちゃうかも」
日「痛みに耐えてよく頑張った!感動したっ!」
加「いい加減にしない加!」

 …この会談はフィクションであり、実在の人物・国家とは、例え連想するものがあっても一切関係ありません。
 それにしてもイタリアの首相も言っていたようですが、ここまで手間のかかるサミットを毎年開く必要があるのかという議論は強く叫ばれそうですな。大騒ぎで開いた割にアッという間に終わるし政治宣言は各国の主張のすりあわせみたいなもんだし。首脳達が直接会うことの大切さもあるとは思うけど、だったら国連でやれよと言う意見もあるだろう。


2001/7/23の記事

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