ニュースな
2001年8月12日

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 ◆今週の記事

◆「最後の大統領」死去
 
 「最後の大統領」と冠したが「サイゴンの大統領」でもあるんだよな、これが(笑)。
 8月7日、アメリカ・カリフォルニア州パサデナの病院ズオン=バン=ミン氏(85歳)が亡くなった。その死は世界的に報じられはしたものの、さして大きな扱いではなかったのも確か。しかしこの人も現代史の節目となる一場面を演じた「俳優」の一人だったと言えると思う。この人、何者かというと「南ヴェトナム」の最後の大統領となった人物なのだ。

 第二次大戦後のヴェトナム史は、大戦後の国際紛争史の縮図であり、そのまま世界史と重なり合う。ヴェトナムはご存知のとおりフランスの植民地とされ、第二次大戦末期には日本軍によって占領された。1945年8月に日本軍が降伏すると、ホー=チ=ミン率いるヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)が一斉に蜂起し、社会主義国「ヴェトナム民主共和国」建国を宣言した。これに元宗主国のフランスは黙っておらず「インドシナ戦争」(1946〜1954)が勃発、フランスはヴェトナム阮王朝最後の国王バオ=ダイを主席に南部に「ヴェトナム国」を樹立し、ヴェトナムが南北に分断されるきっかけとなった。この戦争は1954年5月の「ティエンビエンフーの戦い」でフランス軍が大敗したことで一応の決着がつきジュネーブ休戦協定が結ばれたが、今度は共産勢力の東南アジアでの拡大を恐れるアメリカがヴェトナムに介入することになった。
 1955年10月、アメリカの指示を受けたヴェトナム国首相ゴ=ディン=ディエムがジュネーブ休戦協定を破棄してバオ=ダイを追放し「ヴェトナム共和国」を樹立、自らその大統領の地位に就いた。ゴ=ディン=ディエムはヴェトナム貴族の出身でアメリカに亡命しており、しかもクリスチャンということもあってアメリカとしては何かと使いやすいと思ったから彼を大統領に「南ヴェトナム」を作って北のホー=チ=ミンと対抗させたのだ(同時期の朝鮮戦争における李承晩(イ=スンマン)のケースとまるっきり同じパターンである)。しかしアメリカにとって誤算だったのはこのゴ=ディン=ディエムがお世辞にも民主的とは言いがたい非情の独裁者であり、しかも一族ぐるみで汚職と悪政の限りをつくしてしまい、北ヴェトナム側を勢いづかせアメリカの立場を弱めてしまう結果になったことだった。
 ついに堪忍袋の緒が切れたアメリカは、自分で建てたゴ=ディン=ディエム政権を葬り去ることを決める。ここでこの記事の主人公・ズオン=バン=ミンが登場するわけだ。彼は南ヴェトナムにおいて軍人として頭角を現し、「ビッグ・ミン」の異名をとっていた。この軍人にアメリカはクーデターによる政権奪取をけしかけ、ゴ=ディン=ディエムを殺させる(1963年11月)。しかしズオン=バン=ミンもわずか二ヶ月でクーデターにより政権を奪われる。このあと1965年6月までに南ヴェトナムでは合計13回のクーデターが発生し、軍人たちによる目も当てられない権力闘争が続いた。この間にアメリカは「北爆」を開始、「ヴェトナム戦争」(1965〜1973)の火ぶたを切ることになる。

 いったん失脚したミンだったが、1971年に政界に復権し現職の大統領と対抗するほどの影響力を持った。しかし彼が大統領の地位に就いたのはアメリカがヴェトナムから撤兵した後の1975年4月、サイゴン陥落のわずか二日前のことだった。早い話が、サイゴン陥落を前に権力者がみんな逃げてしまい、「敗戦処理」の役回りをやらされることになったのだ。彼は北ヴェトナムに対する無条件降伏を告げるラジオ放送を行い(「玉音放送」ですね、まさに)、大統領官邸に突入してきたヴェトコンの兵士に「革命により政権は倒された」と告げられ身柄を拘束された。ここに南ヴェトナムは「滅亡」し、ヴェトナムは統一されたのだった。

 現代史の象徴的一場面を演じたズオン=バン=ミンはその後しばらく拘禁生活を送ることになったが、1983年にフランスへの出国が認められ、母国をあとにした。最近はカリフォルニア州に在住して余生を送っていたのだった。さる8月5日に自宅で車椅子の転倒事故を起こし、入院先でそのまま帰らぬ人となったのだった。



◆原爆投下は一発だけの予定だった?

 毎年8月になると日本人は先の戦争をめぐるあれこれの記憶にその身を浸さざるを得ない。6日に広島に原爆投下、9日に長崎に原爆投下、そして8月15日に敗戦(ポツダム宣言受諾は正確には8月14日夜なのだが、やはり日本人としては「玉音放送」の存在が大きいので)と、8月前半は敗戦過程の追体験を毎年やってるようなものだ。ちょうどお盆の時期と重なることもあって日本人の季節感に妙にマッチしているところもある。

 原爆投下については真珠湾攻撃の舞台裏うんぬん(毎年まぁあいも変わらず「陰謀説」が賑やかですな)と並んでいつまでも話題が絶えない。原子爆弾は当初ナチス・ドイツが研究を進めていたので、これに対抗するべくアメリカは亡命ユダヤ人科学者らを中心に原爆開発を進めた。いわゆる「マンハッタン計画」だ(余談だが、マイクロソフト社の日本企業に対抗した家庭用ゲーム機開発計画のコードネームがまさに「マンハッタン計画」だったそうで、悪い冗談はやめてほしいものである)。しかし完成を見ないうちにナチス・ドイツは降伏してしまい、標的は日本の都市へと変更されることとなった。これについては開発した科学者たちが反対する一方で、戦後の世界でソ連に対抗するべくアメリカ政府が「実験」気分で日本に投下したとよく言われている。これに対しアメリカの政府要人など(そのために一般国民も)が定番で口にするのは「原爆を投下することで降伏が早まり、結果的に多くの人命を救った」という論理だ。原爆の投下が日本降伏の決定的要因になったかどうかはまだ議論のあるところではあるのだが。

 さて、ここからニュースな話題。8月9日のジュネーブ発共同をもとにした毎日新聞記事によると、スイス連邦公文書館からスイス元大統領で第二次大戦直後には連邦政治局長としてスイス外交を主導したマックス=プチピエールの覚書が見つかったそうだ。内容は1946年9月にイギリスのチャーチル元首相と会談した際のことを1947年2月に記したものだという。
 注目されたのはチャーチルに対し当時のアメリカ大統領トルーマンが原爆投下について述べた発言だ。1945年7月、降伏後のドイツ・ポツダム宮殿でチャーチル、トルーマン、そしてスターリンという三巨頭がいわゆる「ポツダム会談」を行った。ここで日本に対し無条件降伏を呼びかける「ポツダム宣言」が発せられるわけだが、この会談でトルーマンはチャーチルに原爆を日本に投下する計画を打ち明けていた。しかし、今回見つかった覚書によればトルーマンは「日本に投下するのは一発だけ」と明言したと言い、結果的に二発落とされたことについてチャーチルは「予定されていたことと反対だった」と述べていたという。
 二発目の原爆投下場所が長崎になったのは天候による予定変更だったことは良く知られている。実際には北九州市、小倉に投下する予定だったのだが、当日その周辺の天候が悪く長崎に変更となったのだ。その天候のために何万人もの運命が変わってしまったわけだが、どうも今回の話によると、そもそも二発目の原爆投下自体が当初の予定とは異なっていた可能性が浮かんでくる。いつどの時点で二発の投下が決定されたのか興味のあるところだ。もちろん一発も落とさないのが一番良かったのは言うまでもないが。

 トルーマンは長崎への投下後、「さらに十万人も抹殺するのはあまりにも恐ろしい」として三発目以降の原爆投下を停止する命令を下していたという。トルーマンはフランクリン=ルーズヴェルト大統領の急死を受けて大戦末期に副大統領から昇格して就任した大統領だが、大統領になって初めて原爆開発の事実を知ったとも言われている。知らない間に生まれていた究極兵器の存在に正直なところ怯えていたのではないだろうか。彼が三発目以降を停止して以後、核兵器の実戦使用は朝鮮戦争、インドシナ戦争などで何度か取り沙汰されながらも、幸いにして実行には移されていない。

 2001年の8月9日の長崎原爆の日、平和祈念式典で読み上げられた「長崎平和宣言」では「超核大国のなかには、核軍縮の国際的約束ごとを一方的に破棄しようとする態度が見られる」という文言が加えられていた。名指しはしてないけど、まさかどこの国のことだか分かりますよねぇ、大統領。



◆払うか払わざるか、それが問題だ

 何の話かというと、あれだけ大ニュースになりながらほとんどの人が忘れてるような気がする「米中軍用機接触事故」の後日談だ。四月に起きた事件、しかも一部で「米中衝突か」などと大騒ぎした話なんだけど(しかも日本の一部には変な「期待」する人たちがいた)、結局両国政府とも大人の対応(ウヤムヤにするとも言う)をして話を丸く収めてしまったためか、すっかりこの事件に関する関心も冷めているようだ。最近ブッシュさんの訪中に先駆けて国務長官やら民主党議員やらが訪中して、この事件についてはあとくされなくかたづけることを中国側と確認しあっている状況だ。
 しかし、一つだけ揉めている懸案があるんですな。それは不時着したアメリカの偵察機とその乗員の「滞在費」および機体の解体・返還にかかった費用を中国側がアメリカに要求している件だ。外交駆け引きの面白さ、というかセコさがお互いに出ていて面白かったので採り上げさせてもらった。

 海南島に不時着した偵察機については、アメリカ側は「自力飛行による返還」を求めていたが、中国側はこれを拒否して結局解体した上で引き渡すことになった。これが7月はじめのことで、その直後中国政府はアメリカ側に偵察機の駐機費、偵察機乗員の11日分の生活費、引渡しにかかった諸費用などの支払いをアメリカ政府に要求した。その額、総額100万美元(← アメリカドル。中国ではこうかく)。日本円に換算して約1億2000万円というところである。
 実際にそんなに費用がかかったのかどうかは僕もよく分からないが、まぁかなりふっかけたものだろうとは感じる。怒ったのはアメリカ議会下院で、7月18日に「傲慢」「滑稽」との文言付きでいかなる支払いをも拒否する決議を採択した。しかしアメリカ政府自体は、8月9日に中国の要求額を「法外」とはしながらも、乗員の生活費など各種経費で「適切」と認めた額で支払いを行うことにした。その額、3万4000美元(420万円ぐらい)。中国側の要求の3.4%に過ぎなかった(計算がしやすいですね)。まぁ議会下院が「いっさい払うもんか」と言ったのに比べれば、あのブッシュ政権にしてえらく低姿勢という気もしなくはない。思い返せば事件発生時の対応もそうだったな。
 ちなみに支払いは小切手の郵送により行われるそうである。アメリカ政府から中国政府へ送られる額面420万円の小切手。うーん、これはこれで「滑稽」を感じるもので、ぜひ実物を見てみたいもんである。

 しかし、今度は中国が怒った(笑)。中国外務省は8月11日に新華社通信を通して「米側に不満と拒絶の意思を伝えた」と発表している。この調子だと次は中国側が要求額を半額ぐらいに下げてアメリカの様子をうかがうんじゃないかと(笑)。そしてアメリカ側がそれに応じて10万ドルぐらい支払うと言うとか。折り合いのついたところで商談成立、ってところになるのかな。古来、商談ってのはこういう風にやってたもんなのだ。「これは商談じゃないだろ」という声もあろうが、僕から見てるとそんなもん。

 なお、これと同時期に本物のデカい商談が米中間で成立していたようだ。8月初旬に「中国国家発展計画委員会」なるところが中国国内航空会社5社のボーイング社旅客機の発注を承認したことが、先日報道されている。発注されるのはボーイング737型機で合計36機。総額20億美元である(日本円換算は各自するように)。ホントはとっくの昔に決まっていた話らしいのだが、その米中軍用機衝突事故のあおりで承認が延びていただけのことであったらしい。政府間のセコい話に比べて、経済活動レベルは…



◆また「靖国」の季節です


 上のほうの文でも書いたが、8月の敗戦追体験の最後に8月15日の「敗戦の日」がある(「戦に負けて占領されて終戦なりと馬鹿と言う… ♪」と映画「まあだだよ」でやってましたな)。そして毎年のように話題になるのが政治家たちの「靖国神社参拝」だ。特に今年は中曽根康弘元首相以来の現職首相の参拝が世界的な注目を集めている。
 この文章を執筆している時点で、まだ小泉純一郎・日本国首相は態度を明確にしていない。「熟慮」の言葉をナントカの一つ覚えみたいに繰り返しているだけである。いま、8月13日に日付が変わったが、聞くところではこの日のうちには結論がでるらしい。だが、ハッキリ言ってもう決断をする時期はとっくに過ぎた。4月に首相になった時点で「靖国参拝」を明言してからあれやこれや言われたんだから、遅くとも7月中には態度をハッキリしておく必要があったと僕は思っている。8月に入り、残り日数が一桁に入ってからも「熟慮に熟慮」などと言っているのをみて、僕としてはかなり呆れた。この時点でまだ「熟慮」などと言っている場合、それは「何も考えていない」のと同義と取られても仕方が無い。それだけご本人は強烈に「行く」としか思っていなかったということになるが、行くなら行くと早く明確にすべきだった。

 かなり暴論と承知で思っていることを書かせてもらいたい。いっそのこと、小泉さん唐突に8月15日に靖国参拝を強行しちまったらいいんじゃなかろうか。「政治的靖国参拝」には思いっきり嫌悪感を持っている僕だが、仮に小泉さんが参拝を強行した場合の世界各国のリアクションを見てみたいという半ば野次馬根性的な好奇心も沸いている。それと、それをやっちゃった場合、おそらくそれが「首相による靖国参拝」の永久の打ち止めになる可能性も高い。あの中曽根首相の時ですら翌年からはとりやめたのだ。あの当時と今じゃ国際間の力関係がもっと日本に不利だ。
 とりあえず一番声高に反対の声を上げているのは韓国と中国だが、最悪の場合、韓国に関してはサッカーW杯日韓共催の立ち消えぐらい、中国に関しては首脳の相互訪問の途絶というところかな。ただし、これはあくまで直後に考えられる事態であって、十年、二十年の長いスパンで考えた場合、かなりの影響があると思う。民間レベルの経済交流は今さら止めようも無いからこれはいずれは修復されるだろうが(まさかいまどき「鎖国」もできんだろうし)、日本の政府、政治に対してはしばらく修復不能の影響が出るように思っている。どうもそういう長期的なことを考えている人が賛成派にしろ反対派にしろ政府や自民党内にあまり見受けられないような。ま、分かりやすいところで日本が悲願にしている国連常任理事国入りは当分無いですね。ま、それはそれで良いけど。しょせん国連にとっちゃ日本は「旧敵国」だと再認識されることになるかも。「アジアのリーダー」なんて冗談でしょ、ってなもんだろう。
 しばしば「騒いでいるのは中国と韓国だけ」などと言っている人も見かけるが、それはかなり甘い。現時点で東南アジアや欧米で靖国参拝に警戒する論調が出てきている。日本がなぜか頼りにしているアメリカだっていよいよになったら「靖国」には反対するだろう。日韓関係がこじれることはアメリカにとってはまさに「国益を損なう」事態だし、そもそも靖国に合祀されている「A級戦犯」の人たちだって、アメリカが裁いたようなもんだし。
 それと、長期的に見た場合に一番まずいのは中国関係だと、やはり思う。上のほうに書いたネタともからむが、この調子だと日中関係はますます米中関係より重要度を減じていくだろう。いや、もう現に中国外相だったかがそんなことを口にしていたな。

 小泉さんが執拗に靖国参拝にこだわる理由が、「軍国主義の復活」を狙っているのだなどとはこれっぽっちも思っていない。小泉さんが「靖国」にこだわる個人的な理由については分からないでもない。ただ小泉さんは不勉強、かつ国際的視野が無いなとだけは、この騒動を見ていてつくづく思った。「なんで批判されるのか分からない」とよく言っていたが、強がりかと思ったらホントに分かっていなかったようなのだ。各種の問題点について初めて知ったとしか思えない発言がいくつかあった。
 もうさんざん各種マスコミで「靖国問題」を解説しまくっているので、少なくとも何が問題にされているのかをここでいちいち説明する必要はないだろう。要するに外国が気にするのは「東京裁判により戦争指導者として処刑されたA級戦犯が合祀されている」ことであり、国内的に議論を呼ぶのは「首相が一宗教法人の神社に参拝するのは憲法が定める政教分離の原則に反する」という、この二点に問題はしぼられる。ちょこっとこの二点について「史点」流に思うところを書いておこう。

 A級戦犯が合祀されたのは意外にあとのことで、1978年。靖国神社というのはご存知のとおり戊辰戦争以来の戦死者(ただし天皇側で死んだ戦死者だけで戊辰戦争以後の「賊軍」の戦死者はダメである)を「神」として祀る特殊な神社だが、その神社に「戦死者」ではなくA級戦犯として処刑された東条英機らが「昭和殉難者」として合祀されたのはなぜだろうか。いちおう神社側の言い分は「東京裁判という無法な裁判の犠牲となった人たちで、国に殉じたといえる」というものだ。
 東京裁判というのが勝者が敗者を裁く性格の強い、「法的」にはやや問題のある裁判であったことはだいたい通説であると思う。特に名が挙がる東条英機に関しては個人的には同情すべき点を感じないでもない。太平洋戦争を始めた責任だけ問うて、そこにいたる満州事変以来の過程の責任をウヤムヤにしたという点でもこの裁判は欠陥があったのは確か(これはたぶんにアジアではなく欧米によって裁かれた裁判という性格があるからだ)
 だが、東条らを「国に殉じた」と判断して靖国に祀る、というのはどういう論理なんだろう、とふと思う。戦死者の遺族の中には「戦争を始めた東条さんと一緒にするのは勘弁してくれ」と拒否する人も一部ではあるがいたと聞いている。太平洋戦争開始直後の戦勝気分の中では東条英機は国民にえらい人気だったが、敗色が濃くなってくると人気を失っていったのも事実で、戦死者にしてみれば恨みこそすれ一緒に祀られることに疑問を感じる人もいそうなもんだが、死人に口無し、だしなぁ。
 ちょっと前に東京裁判における東条英機をテーマにした「プライド」という映画があった。あれに「なぜ東条が祀られているのか」を解くヒントを僕は感じた。あの映画自体は東条を絶賛し「大東亜戦争」の意義を唱える明白な右傾映画なのだが(おんなじような映画をその昔新東宝が良く作っていたというのを最近発売になるDVD群で知るようになった)、途中で面白いシーンがある。東京裁判の行方が昭和天皇に戦争責任を問いかねない情勢になったので、弁護士たちが東条に罪を一身に負うよう説得する場面があるのだ。映画の東条は絶叫して涙ながらに天皇をかばうために罪を背負うことを認め、以後「天皇の意思に背いて戦争を起こした」と証言するようになるのだ。
 これ、製作者は東条の身を捨てた行為を絶賛するつもりで作った「泣ける場面」なのであろうが、僕などは当時劇場で見ていて「あぶない、あぶない」などとつぶやいていた(笑)。だって東条がそれで「無実の罪」を背負ったとすると、本来誰に「罪」があったことになります?東条本人も裁判で「当時天皇の意思に背くことは出来なかった」と証言して弁護士たちを慌てさせた事実がある(例の映画、この辺がちとウヤムヤになっている)。なるほど、こう考えれば東条らが「天皇に殉じた」とは言えるだろう。最近かなり言われるようになったことだが、アメリカと日本の双方で天皇に責任が及ばないよう配慮して東条らを「いけにえ」にしたということなのだ。靖国神社が東条らを祀った意図は、まさにここにあると思える。1978年の段階で、誰がこの合祀を仕掛けたのか、興味のあるところ。
 なお、自民党は靖国参拝のネックとなる彼らA級戦犯を「分祀」しようと十何年も前から躍起になっているが、遺族、神社側は頑として応じていない。こういういきさつを考えると応じないのも無理はないと思える。僕もそんな姑息な手段は使わないでほしいもんだと思いますね。

 次に「靖国神社」という神社の性格について考えておく必要がある。小泉首相も言うように戦死者のことを忘れてはならないし、戦争を二度と起こさないという願いのもとに彼らを追悼するのは大切なことだ。だがやはり、「靖国」はそういう場所ではないと思う。少なくとも靖国参拝推進者にやたら右翼的かつ戦争礼賛者が多くいるうちはね。
 小泉さんの首相就任直後に書いたことがあるが、「慰霊」と「顕彰」は切り離し可能だ。靖国神社は戦死者を「慰霊」するのではなく「神」として祀ることで明らかに「顕彰」している場なのだ。小泉さんが不勉強だな、と思ったのは「日本では死んだらみな仏」などとA級戦犯合祀について説明しようとしたこと。仏教なら敵でも味方でも分け隔てなく弔うが(蒙古襲来の際のモンゴル兵も墓があるし、楠木正成は千早城の戦いの戦死者を敵味方ともに弔っている)、靖国神社が成立した背景にある明治以後の国家神道は、明らかに仏教のそれとは違った明確な死者の選別の傾向を持っている。しばしば日本人は仏教と神道をごっちゃにしていると言われるけど、近代以後の国家神道については一緒に論じられないと思う。
 靖国神社ってのは基本的に戦場で死んだ兵士たちを祀る神社だ。だがとくに第二次大戦においては兵士だけではなく非戦闘員の多くも「戦死者」となった。その人たちの慰霊の問題はどうなるのか。靖国にこだわっているだけでは「戦争を二度と起こしません」という祈りは捧げられないと思うのですがね。
 靖国神社は敗戦前までは陸軍・海軍両省が管轄したが、戦後はいち宗教法人として生き残った。裏返すとそうしないと生き残れなかった可能性があったわけで。そんな特定の宗教法人に国家が特別扱いをするのはやはり通用せんでしょう(小泉さん個人が行くのはご勝手にと言いたいが、首相となると存在そのものが公的だもんね)。与党内で強く参拝反対を表明しているのが、「政教一致」と非難される公明党であるところが皮肉といえば皮肉だが。
 どうしても戦死者を国家として弔いたいのなら無宗教の国立墓地を作れよとの声もかなり上がっているが、戦死者の霊を弔いたがるそっち方面の人たちはとにかく「靖国」に固執し続ける。それはやっぱり靖国が「顕彰」の施設だからとしか思えないんですけどね。

 やれやれ、あれこれ書いていたらダラダラと長くなってしまった。続きは一週間後、「結果」が出てからにしましょう。
 とりあえず、小泉さん。下手するとシャロン首相に続く「迷惑賞」の候補となりますのでよろしく。


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