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2001年10月22日

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 ◆今週の記事

◆今年のノーベル平和賞は…

 ちょうど一年前の記事をお読みになればお分かりのように、この時期は各ノーベル賞の受賞者が発表されるシーズン。昨年に続き化学賞を日本人研究者が受賞したことなども日本では大きな話題となっているが、毎年毎年その受賞が誰に、あるいはどの団体に与えられるのか、もっとも注目と議論を呼んでしまうのが「平和賞」だ。ダイナマイトを発明した負い目なのか平和を希求したノーベルの遺志に従って平和に貢献した人に贈られるこの「平和賞」、過去には佐藤栄作やらゴルバチョフやらアラファトラビンやらいろいろと受賞に批判があった人も多い。またアウンサン=スーチー女史やダライ=ラマなどある国や政府にとっては不愉快に感じられてしまうであろう人選もあった… などと昨年も書いたことを繰り返しているのもなんだかなぁ。
 その昨年には歴史的な南北首脳会談を実現させた韓国の金大中大統領が受賞している。おおむね本命視されていたこの人だが、実際に受賞してみると内外であれこれと批判も無いわけではなかった。ま、とかく議論を呼びやすい賞であるとはいえる。「今年は該当者無し」なんてのもあって良いと思うんだけどね。

 今年の「平和賞」が注目されたのは、やはり9月のテロ事件を受けて「戦争」が始まってしまったこの状況で、誰が「平和に貢献した」とみなされるのか、という点だった。僕もかなり注目していたのだが、蓋を開けてみてビックリ。「国際連合」及びそのトップであるコフィ=アッタ=アナン事務総長(あ、フルネームは初めて知った)に「平和賞」が贈られたのだ。
 「ビックリ」したのは事実だが、考えてみるとこれも予測可能な結果だったかもしれない。今年は「平和賞」創設からちょうど100周年という節目の年にあたっていたのだ。その記念すべき年に「国連」を選ぶのは妥当と言えば妥当な選択であったのだ。これならそう文句も出ないだろうし(笑)。
 なお、1901年に第一回ノーベル平和賞を受賞したのはスイス人のアンリ=デュナン。あの国際赤十字の創設者だ。クリミア戦争で敵味方を分かたずに兵士の看護活動を行ったナイチンゲールの行為に触発されて赤十字運動を起こしたと言うのは伝記本なんかでもおなじみの話。ついでながら「赤十字」はデュナンの故国スイスの国旗を赤白逆にしたもので、イスラム圏では「十字」ではなく月のマークを使っている。イスラエルの赤十字が公式旗を「赤ユダヤ星」にしたいと言っていたことがあったけど、あれはどうなったっけ?

 どんどん脱線してしまったので話を戻そう。国連の受賞理由はノーベル委員会によると「平和と安全保障のみならず、経済や社会、環境問題での挑戦に対する国際的な努力の最前線」としての評価だと言う。「世界の平和と協力を話し合いで達成する道は、国連を通じてしかありえない」とも宣言しているそうだ。これまでもユニセフや国連平和維持軍、国連難民高等弁務官事務所などの国連機関が受賞したことはあったが、今回は総体としての「国際連合」の存在意義を高く評価する形になった。
 アナン事務総長個人への授与については、国連のトップとして平和と安全保障にあたったこともさることながら、各地の人権擁護の向上にも力を注いだことが評価されていた。調べてみたら国連事務総長の平和賞受賞は第二代事務総長ダグ=ハマーショルド氏の前例があって、別に初めてのことではなかったのだが、前任者のガリさんがかなり力で押すタイプだったのと比べると「平和賞」に値するだけの働きはしているだろう。アメリカなんかは本音のところアナンさんをあまり好きではないらしいが、今のところ国連内でのアナン人気は結構高いらしい。なんだかんだ言ってるうちに続投が決まってたしね。
 ただ、今年の「平和賞」に該当するような何か目立ったことを国連や事務総長がやっていたかというと、少なくとも「目立つ」ことはやっていない。ノーベル委員会側も認めているが、テロ事件以後の情勢を考慮して「期待」をこめて国連への平和賞授与を決めたというあたりが真相だろう。また、この時期にいろいろ揉めそうな人・団体を選ぶのは避けたかったろうし(聞くところによるとなんと136もの候補が選考対象だったそうな)

 ところで、「史点」ネタにたびたび登場している(というか僕が勝手に引っ張ってきているのだが(笑))産経新聞名物コラム「産経抄」であるが、まぁまたまた凄いことを書いていた。国連の平和賞受賞について「消去法によって無難なところを選んだ」というあたりまでは同感で読んでいたのだが… 以下、引用。

(日本の一国平和主義への皮肉から続く)だが、そんな平和論はもうどこにも通用しなくなってきている。こちらは何もしなくともビルを破壊され、生物兵器を使われるかもしれないのだ。真に平和を守ろうとすればそれを脅かす者と戦って倒すしかない、というのが共通の認識となりつつあるのだ。
 だとすれば、今、もっとも平和賞にふさわしいのは、アフガンでテロ組織と命がけの戦いをしている米英の兵士たちではないか。ビル崩壊現場での救出作業で犠牲になった消防士や警察官ではないか、と思うのだが… 。むろん「著名」ではないし、異議もあるだろうけど。」


 … 消防士と警察官の犠牲者に関しては考慮しなくもないのだが、空爆で関係ない市民も「誤爆」している軍隊に「平和賞」あげようって、まぁ何と言うか… いやホント、前から気づいていたことだけど、ここって日本の「愛国主義」「民族主義」を鼓吹していると同時に卑屈なほどにアメリカべったりなんだなぁ、と改めて思っちゃったのでありました(えひめ丸沈没事件でも凄いことを先日の社説で書いてたしなぁ)



◆総理大臣って大変ですねぇ。

 このところニュースがアメリカで起きたテロ事件とそれに対する報復攻撃の関連ばなしばかりなので「史点」としては題材探しに困る情勢が続いている。そんなときは単独の記事としては扱いにくい小ネタをひとくくりにまとめて「抱き合わせ販売」するという作戦をとることがある。ってなわけで息子さんが某社発泡酒と同時デビューしてしまった小泉純一郎首相関連で抱合せ記事を書かせてもらおう。

 小泉内閣が掲げている最重要課題に「特殊法人改革」というやつがある。これについてクダクダ説明したくもないし正確な説明ができる自信も無いので、この件の詳細についてはこの特殊法人問題の言い出しっぺであり実際にこの改革に参加している猪瀬直樹氏の著作(ま、「日本国の研究」が基本でしょ)あたりを読んでもらったほうが良いと思う、と書いて僕は逃げる(笑)。この特殊法人の多くを廃止・民営化といった方向に見直せ、と小泉首相は関係する各省庁に指示を出したが、どの役所も事実上の「ゼロ解答」をよこしてくるという凄まじい「抵抗」を見せている。
 なかでも最も改革の必要が叫ばれている身近な特殊法人として「日本道路公団」の名前がしばしば取りざたされている。高速道路を整備・管理しているアレだ。高速道路を使用するには料金所を通過して高速料金を支払わねばならないが、あれ、もともとはいずれ建設費を回収したら無料化することになっていたはずなのだ。東名高速みたいに歴史も古く交通量も多い幹線高速道路はとっくの昔に無料化されていなければならないらしいのだが、無料になるどころか料金は値上げし続けている。なぜかといえば各地に新たな高速道路を次々と建設しているため、「高速道路」全体としてはいつまでたっても建設費を回収できず「赤字状態」が続いているからなのだ。というか、いつまでも料金をとり続けるために新たな高速道路を建設して「赤字状態」を維持してるんじゃないかと疑ってしまう状態だ。東京湾横断道路みたいにとても「回収」できるとは思えない無謀な道路建設があっちゃこっちゃで進められている。民間企業ならとっくの昔に倒産なのだが、なにせ建設費が国から出ているもんだから、道路公団は無責任に道路を作り続けている。
 むろん道路公団ばかりが悪いというわけでもない。道路建設には各地域の政治家たちの思惑も絡んでいる。むかしから鉄道、新幹線、高速道路は地盤にしている地域への利益誘導の道具として政治家たちに利用されてきた。万年与党の自民党の性格の一つにこうした「土建政治」の伝統があるが、無謀な道路建設があとを絶たない理由の一端がここにある。
 小泉首相は日本道路公団の民営化の方向を決定し、それにあたって不採算が確実視される高速道路の建設計画を凍結するよう指示を出している。そうでもしないととても民営化は出来ないという誠にごもっともな判断だ。しかしここに首相が党首をつとめているはずの自民党そのものが立ちはだかっている。
 10月9日、自民党は国土交通部会、道路調査会、住宅土地調査会の合同会議を行った。ここでの決議で道路公団の民営化そのものは容認する方向を示したが、現時点で整備計画が決定している高速道路(総計9342キロ!)の見直しは絶対に認めず、計画通り整備を進めることを決定した。それだけではない、まだ決定に至っていないものも含む予定路線全て(これだと総計11520キロ!)について「整備を着実に進めていく必要がある」と指摘、早い話が首相の「建設計画見直し」の指示を完全に蹴飛ばしたわけである。報道によると会議では「首相になったら、何でもできるという考えが間違いだ」と首相批判の声まであがっていたという。流行語になった感のある「抵抗勢力」って言葉がしみじみ実感できる話だ。

 その小泉首相、先日の中国訪問に続いて10月14日に韓国への「日帰り釈明訪問」を実施していた。中国では日中戦争の発火点となった「盧溝橋」を訪問していたが、韓国では「西大門独立公園」を訪問することになった。ここは日本の植民地支配時代に抗日運動家などが多数投獄された刑務所跡で、日本の植民地支配への抵抗の歴史を象徴する場所となっている。ここを訪問した日本首相は小泉さんが初めて。「盧溝橋訪問」を聞いたときにも思ったことだが、訪問先は両方の政府で「演出効果」をずいぶん考えた結果なんだろうな。
 この独立公園訪問時に、小泉首相は内外の記者団に対し「日本の植民地支配で韓国国民に対し、多大な損害と苦痛を与えたことに心から反省とおわびの気持ちをもって施設を見学した」と、「盧溝橋」の時とほぼ同文(さらに言えば「村山談話」以来の日本政府の公式文と同文)のコメントを発した。ただこのあとに「過去の歴史を踏まえながら、お互い反省しつつ2度と苦難の歴史を歩まないように協力していかなければならない」と述べたことがちょっと韓国で物議をかもした。そう、「お互い」と入ったところが韓国人の一部にカチンと来るところがあったのだ(日本ではほとんど誰も注目していなかったが)。当初用意されたコメント文には「且つ反省」となっていたところを「互い反省」と読み間違えた?なんて話も一部で報じられたんだけど、真相は「お互い」というのは「協力しつつ」にかかる副詞であったということらしい(後日、政府が正式にそう弁解していた)。まぁどっちにしても深く考えて言ったコメントではなさそう。このあと金大中大統領と首脳会談を行い、靖国参拝や歴史教科書問題について「説明」を行い(教科書が「国定」ではないことが韓国国民には十分理解されてないところがあるようなので、これはよく説明したほうがいい)、いちおう「手打ち」を済ました形だ。これもやっぱりテロ事件と軍事報復に関連してアメリカ政府に尻をひっぱたかれたところがあるのかな… ?
 しかし予想したことではあったのだが、韓国における日本首相の訪問に対する反応は中国におけるそれとは比べ物にならないぐらい激しいものがあった。もちろんああやって目に見える形で騒いでいるのは一部の人だとは思うのだが、その素地として韓国国民全体に日本に対する反感が強くあるのは事実(それも単純に「反感」ってわけでもなくかなり複雑な感情なのだが)。やはりこのあたりは直接支配を受けた国とそうでない国との差があるなと思うところもある。

「武器輸送」 さて、臨時国会は最大の議題が「テロ対策法案」になってしまった。ちなみに正式名称は「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法案」という。法律の正式名称って結構長いものが多いのだが、これほど長いのはさすがに異例らしい(しかし最高記録との話も聞かないので、もっと長いのがある?)。あくまで例のテロ事件にからむ事態に対する特別法ですよ、ということを法律の名称にダラダラと書いてしまったわけだ。で、その最大の眼目はといえば自衛隊をアメリカなど多国籍軍の後方支援に派遣するということにほかならない。どこまでが「後方」なのか、武器使用、武器輸送の是非などあれこれ議論はあるにはあったが(トマホークを発射する空母は「戦場」か否かという一昔前の漫才のような会話も国会でやってたな)、結局「時間が無い」とばかりに強行突破的に法案は衆議院を通過した。
 この過程の舞台裏で実に興味深い(俺ってつくづく野次馬根性なんだなぁ… と自覚する)政治ドラマが展開していた。小泉内閣としては、この重大な法案は最大野党である民主党からある程度の同意を取り付けた上で成立させようと考えていた。民主党が強く主張していたのは自衛隊の行動には国会の「事前承認」が必要というもので、与党側の「事後承認でよし」という姿勢と対立していた。しかし全面対決だったかというとそうでもなく、なんとか折り合いをつけようと双方で歩み寄りを見せていたのが実態だ。小泉首相が韓国から帰国した直後に行われた小泉首相と鳩山由紀夫党首の会談で、一応の合意が成立するのだろうと予想され、多くのマスコミもそう報じていた。しかし会談は(マスコミ的表現にすれば)急転直下決裂した。
後方支援 決裂の最大要因は、連立与党の一角を占める「公明党」の存在だった。公明党は連立与党内にあって自衛隊の派遣や軍事活動についてはむしろ慎重派であったはずだが、ここでは「事後承認」を強く主張して野党側に歩み寄る自民党の動きを激しく牽制する策に出たのだ。理由はこの法案での合意をキッカケに小泉内閣と民主党が協力関係を結び、将来的に新たな連立政権を作ってしまうのではないかという不安にかられたのだと言われている。そうなっては公明党は与党の座から転落する可能性も大だ。だからこそ彼らとしてはなんとしても「小泉・鳩山合意」を潰さねばならなかったのだ。
 つくづく自己保存能力だけは強烈に持っている団体である。さきごろの「13日の参拝日」でもまざまざと見せ付けられたが、こういう政党が与党内に強い影響力を持ってるのって健全じゃないですな。

 報じられているところによると、小泉首相が韓国へ行ってる留守の間にこうした流れが一気に作り上げられていたという。公明党だけでなく自民党の中でも「小泉はずし」でことを進めていった気配がある。
 小泉さん、そういえば就任当初「自民党の解党的出直し」とか言ってなかったっけか?



◆まだまだまだまだ続く余波

 テロ事件発生から一ヶ月。そしてついにアフガニスタンへの英米軍の「報復攻撃」が開始されてから一週間がたつ。タイトルこそ「余波」で通してきたけど、どこまでが余波なんだか本波(?)なんだか分からないところもある。事態はどんどん悪化してるんじゃないかとも思える。
 予想された事態だが、ユーゴ空爆と同様に空爆は誤爆を招き、無関係の市民が犠牲となっている。ま、そもそも非戦闘員にも犠牲を強いるのが「戦争」というものなので、いまさら「誤爆」もへったくれも無いような気がするが。一方でアメリカ本土では「炭疽菌」の感染者が次々と出る「生物テロ」騒動まで起きて不安が広がっている。これが例のテロ事件の犯人グループと直接的つながりがあるものなのか、はたまた便乗犯なのかは現時点では断定しきれないけど… 。
 ここではあくまで「余波」として事件の周辺の話を中心にまとめてみよう。

 10月10日、マレーシアの最大野党「全マレーシア・イスラム党」は「聖戦(ジハード)」に党員が参加することを認める、と表明した。現在の状況での「聖戦」とはもちろんタリバン政権やオサマ=ビン=ラディン氏がアメリカの攻撃に対してイスラム教徒に呼びかけているアレを指しているとしか思えない。じゃあ早速アメリカと戦いを始めるのかというとそういうことでもないらしく、「党員に聖戦参加を命じるものではなく、聖戦にはイスラム教徒のために祈ることまで含まれる」と同党の幹部は話しているという。祈るだけの聖戦なら大いに結構なんですがね。
 マレーシアと言えばこの国のマハティール首相も米英によるアフガン空爆を激しく非難している。もともとアメリカのグローバリズムに激しい敵意を燃やしていた人だからなぁ。そういえばつい先日、インドネシアのメガワティ大統領もそれまでの「報復支持」の態度を翻して「空爆反対」の姿勢を明確に打ち出した。国民の大多数を占めるイスラム教徒、中でもやや過激な人達がタリバンらに同朋意識を高めて「聖戦」を叫んでいることに配慮せざるをえなくなったというだろう。つい先日もインドネシアのある島の日本領事館がデモ隊に包囲されるなんてこともあったし。

 アフリカのナイジェリアでも騒ぎが起きた。以前からイスラム・キリスト両教徒の衝突が聞こえてくる国であったが、去る10月13日にアフガン空爆に抗議するイスラム教徒のデモが両教徒の衝突に発展、一日で200人以上の死者が出たと報じられている。もともと対立がくすぶっていたところへ火をつけたようなもんだなぁ… 今度のテロと空爆は。パレスティナでも同様の波及があるが、これは一番下の話題で。
 以前から衝突があって今度の事態の波及を受けているといえばインドとパキスタンが領有権を争うカシミール地方もこれにあたる。そもそもアフガニスタンの内戦もパキスタン・インドの代理戦争的な性格があったから、アフガニスタン問題の解決にはインドとパキスタンの関係修復が必要不可欠。そんなわけでアメリカのパウエル国務長官が両国を次々と訪問して話をまとめようとしていたが、その訪問の最中にカシミール地方でインド・パキスタン両軍の激しい戦闘が勃発していた。これも処理を誤ると大ごとになりかねない。なにせこの両国は「核保有国」ですからな。

 波及を現実に恐れ、なおかつこの状況を「利用」しようとする動きを見せたのが、中国。中国の西部、新疆ウイグル自治区は以前からイスラム教徒による分離独立運動がくすぶり続けており、このところ中央アジアのイスラム勢力と明らかに連絡・連動を見せていたため、中国政府はかなり神経質になっていたのだ。
 10月11日、中国外交部の孫玉璽副報道局長は記者会見で、新疆ウイグル自治区の独立運動である「東トルキスタン運動」を構成している各組織について、「反政府活動を行う国際テロ組織」と呼び、アメリカなどと協力してこれを封じ込める方針を明らかにした。「東トルキスタン」というのはトルコ系民族が住む中央アジア地域を「トルキスタン」と呼ぶとき、現在の中国領ウイグル自治区になっている地域をさす言葉だ。現在ここが中国領になっている由来は18世紀に清朝がここを征服し「新疆(新しい領土)」として組み入れたことにあるが、中国政府の公式のコメントで「東トルキスタン」の名前が出てくるというのはちょっと目を引くところ(それまでは反政府勢力ってひとくくりにしていたもの)。この運動を「アルカーイダ」同様の「国際テロ組織」と位置付けてこれの弾圧を図ることに国際的理解を得ようという腹があるわけだ。

 で、現在戦火まっさかりのアフガニスタンだが、いろいろと情報が錯綜している。情報が錯綜する原因はひとえにタリバン、アルカイダ、北部同盟、パキスタン、アメリカ… などなど諸勢力の思惑がそれぞれに複雑に絡み合い入り乱れているからにほかならない。
 この二週間の間に英米軍によるアフガン空爆、さらに特殊部隊による地上攻撃が開始され、普通に考えるとタリバン政権じたいの崩壊は時間の問題。焦点は「タリバン後」の政権の枠組みに移りつつある。20年以上前に母国を追い出された元国王・ザヒル=シャーを担ぎ出して各派の連立政権を作るという、カンボジア内戦終結のパターンを連想させる方向が固まりつつあるようだが、それを反タリバンの「北部同盟」を中心としたものだけでなく、タリバン穏健派も参加したものにしようとする動きがここに来て目立っている。そもそも「北部同盟」はアフガニスタンでは少数派の民族を中心としており、これが中央政権を握ってしまうのはかなりアンバランス。また北部同盟にはインドが、タリバン政権にはパキスタンが背後にあってパワーゲームをしているところがあり、タリバン抜きのアフガニスタン政権にはパキスタンが難色を示している。パキスタンにアフガン攻撃の協力をしてもらっているアメリカとしてもパキスタンに配慮してタリバン穏健派の新政権参画に前向きな姿勢を示してきている。「北部同盟」としてはあまり面白い事態ではないようで、首都カブール奪回を目指す積極攻撃をやや緩めたような印象がある(アメリカが止めさせているというのもあるもしれない)。そんな状況を見透かしてか、タリバンの指導者オマル師から「北部同盟」にアメリカに対する「ジハード(聖戦)」を呼びかけるという、ややこしい行動も見られる。

 この間にタリバンのムタワキル外相が亡命したとか元国王と接触したとかいう騒ぎがあったが、現時点では本人はアッサリ帰国し一連の報道を全否定している。ただあれこれと憶測を呼ぶ水面下の動きがあることは確かなのだろう。なんだかみんなで腹の探り合いをしているって印象ですな。




◆まるまる一世紀の人生

 張学良氏がついに亡くなった。「今も生きてる歴史上の人物」として「史点」でも何度かネタにさせていただいただけに個人的にも感慨深い。向こうは知ったこっちゃないだろうけど。
 張学良(以下、ホントに歴史上の人物になったということで敬称略)がこの世に生を受けたのはちょうど100年前の1901年。奇しくも今回トップのネタにしたノーベル平和賞の第一号が出た年でもある。このころの中国はまだ清王朝の支配が続いており、前年にはあの「義和団」が北京に突入、8ヶ国連合軍により鎮圧されている。この事件が満州をめぐる日露戦争(1904)へと流れていくことになる。張学良が生まれたのはこんな時代だったわけだ。ああ、もう書いているだけで世界史の授業ですねぇ。

 張学良の父親は馬賊出身の軍人・張作霖。辛亥革命による清朝滅亡とその後の混乱の中で、中国東北部を占める軍閥の一つにまでのし上がった乱世の下剋上武将の典型みたいな男である。その急速な成長の背景に満州支配を固めようとする日本の「関東軍」の支援があったのも事実。1927年には北京で「大元帥」を称するまでにいたったが、翌1928年に蒋介石率いる国民党の「北伐」を受け敗退。拠点の奉天へ列車でひきあげる途中、南満州鉄道とのクロス地点で列車が爆破され張作霖は死亡した。この爆殺事件は張作霖が蒋介石と和睦することを恐れた関東軍将校による謀略だった。
 関東軍は張作霖を消して一挙に満州に親日政権をつくろうと画策したが(この計画は後の「満州事変」で実行されることになる)、ここで張作霖の息子で当時27歳の青年だった張学良が歴史の表舞台に飛び出してくることになる。彼自身の語るところによると若いころの張学良はかなりグレていて遊び呆けていたらしく、アヘン中毒になっていた時期もある有様だった。あんなバカ息子の御曹司、と関東軍将校たちはタカをくくっていたが、父の変死を知った張学良は隠密かつ迅速に本拠地・奉天に帰還、動揺する軍閥をまとめて関東軍につけいる隙を与えなかった(このあたり、ご本人がインタビューで詳細に語っているところなので参照のこと。ほんとに「現代の三国志」の世界だ)。このとき関東軍は張学良が「父の仇」と軍事行動を起こすことを期待していた節があるが、結局張学良は挑発に乗らず、それどころか国民党の「青天白日旗」を掲げて日本に抵抗する立場を明確にしてしまった。

 3年後の1931年に「満州事変」が勃発(というより関東軍の謀略で引き起こされ)、ついに日本軍は全満州を制圧し傀儡国家「満州国」を建国する。「満州国」の元首として担ぎ出されたのは映画「ラストエンペラー」でもおなじみの愛新覚羅・溥儀だったが、日本軍部の「満州国」構想では一時担ぎ出す君主として張学良を考えていたこともあったようだ。後年NHKが行った張学良のインタビューを読むと、張学良は満州事変以前に日本公使館に身を寄せていた溥儀と顔をあわせ、わずかだが会話をかわしたことが明かされている。この辺もまさに歴史ドラマの世界だ。
 満州事変において張学良は蒋介石の命令でほとんど抵抗をせず、中国本土に入って蒋介石の部下として活動することになる。張学良と蒋介石は義兄弟のような関係にもなるのだが、その関係はちょっと余人には計り知れない複雑なものがあったようだ。張学良は蒋介石の命を受け、延安を拠点とする毛沢東率いる共産党の討伐に従事することになるのだが、1936年12月12日、中国現代史のターニングポイントともいえる「西安事件」を引き起こすのだ。
 このとき蒋介石は共産軍退治がなかなか進まないことに業を煮やし(実のところこの時点ですでに張学良らが共産党と話をつけていたわけだが)、張学良らにハッパをかけようと西安へと乗り込んできた。そこでいきなり部下であるはずの張学良と楊虎城が「反乱」を起こし、蒋介石を監禁してしまう。このとき蒋介石が張学良に「殺せ」と騒いだ、と本人がインタビューで語っていた。張学良は蒋介石、そして共産党の代表としてやってきた周恩来とを会談させ、国民党と共産党の内戦を停止し、日本に対抗するための「第二次国共合作」「抗日民族統一戦線」の結成を実現させる。このときどのような会談が行われたのかについてはいくつか謎があって中国現代史研究者の注目を集めているが、張学良はインタビューでもこの核心部分については決して話そうとはしなかった。
 決着がついたあとで蒋介石は飛行機で西安を離れたが、これに張学良らは同行した。空港に来ていた周恩来はひどく驚いていたという。これはあくまで張学良本人がインタビューで語っていることだが(ま、僕も少々うろ覚えだが)、張学良は義兄弟でもある蒋介石に対して責任を感じており、彼に殺されてもかまわないと考えたのだと言う。だが蒋介石の方も張学良を殺す気まではなかったらしく逮捕・監禁という措置をとった。一緒に事件を起こしやはり逮捕された楊虎城のほうは日本敗戦後再開された国共内戦のドサクサのなかで殺されてしまっている。

 そしてそのまま、張学良の消息はほとんど途絶えた。彼の歴史上の人物としての活動はこの「西安事件」で事実上終わってしまうのである。その後の日中戦争、国共内戦と国民党の台湾逃亡といった激動の歴史を、彼は蒋介石に監禁されたまま傍観していくことになった。彼が世間に姿を現すようになったのは蒋介石の息子の蒋経国総統が死んで台湾の民主化が進んだあとのことである。NHKのロングインタビューはこのときに行われ、世界的にも反響があったように記憶している。
 その後ハワイに移住。98、99歳と年を重ねても相変わらず壮健そうだったが、先年に長年連れ添った奥さんを亡くし(この人についてもいろいろドラマがあるのだが、泣く泣く省略)、後を追うような形でご本人が去る10月14日夜(現地時間)、ついに逝かれてしまった。
 その後天下を取る形になった中国共産党にとってはまさに「恩人」であったといえる(実際、中国の西安事件ものの映画ではやたらにカッコ良く描かれている)。当然彼に対する評価はムチャクチャ高く、ハワイに移住してからも「ぜひ故郷の中国へお帰りを」とラブコールを送っていた。昨年にはあのトウ小平の長男もハワイに赴き張学良に接触したりもしている。その裏には単なる「恩返し」だけではなく「中台統一」の仲介役をしてほしいという思惑もあったようだ(第三次国共合作!?)
 張学良の死去を受けて、現在の中国のトップである江沢民主席は弔電の中で西安事件における彼の歴史的貢献を讃え、「中華民族の千古の功臣と讃えるにふさわしい」と絶賛している。いやあ、「千古の功臣」とはさすが漢文の本場だな(笑)。弔電中に「晩年もなお両岸の平和統一の大業に心をかけられていた」という文もしっかり書かれていたりする。

 こうやってまとめてみても、まさに「生ける激動の現代史」というべき人だった。西安事件に関していくつか謎を残しているが、聞くところによるとアメリカ側の研究者による取材があって、どうも核心部分を明かしているとささやかれており、これが死後公開されるかもしれないとのこと。「歴史上の人物」として後世の史家に対する責任も果たしておいてほしいものだ、などと歴史をやってる人間としては思う。ともあれ、合掌。




◆右の頬を打たれたら…

 「右の頬を打たれたら、左の頬を打ち返せ」
 新約聖書の言葉をもじったこんなジョークがあるが(元ネタはマタイ伝5・39)、その聖書の故郷の地で行われている泥沼はまさにこのジョークを地で言っているような気がする。

 10月17日、イスラエルの首都エルサレムのホテルで、同国の観光相を務めるレハバム=ゼエビ氏(75)が何者かに3発の銃弾を受け死亡した。直後にパレスチナ過激派の「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」が犯行声明を出し、これが8月に行われたイスラエル軍による同組織のアブ=アリ=ムスタファ議長の暗殺(戦闘ヘリで事務所にミサイルを撃ち込んだ)に対する「報復」であるとぶち上げたのだ。そういえばイスラエル軍による数ある「暗殺作戦」のうちにそんな人がいたな、と思って確認したら9月14日の「史点」でたまたまこの人の名を書いていた。
 観光相暗殺を受けて、イスラエルのシャロン首相は「テロを全く抑止しなかったアラファトに全責任がある。我々はテロを終結させる戦いを行う」と、パレスチナ自治政府のアラファト議長を名指しで非難し、まるでアメリカのブッシュ大統領の演説みたいなことを言って(もちろん意図してやったことだろう)これまた「報復」を示唆している。
 皮肉なことに、今回暗殺されたゼエビ観光相は15日にすでに辞表を出しており、命日になってしまった、まさにこの日に正式にシャロン内閣を離脱する予定だった。狙ったほうもそれを知ったうえで事態の混乱を狙ってやったように見える。ゼエビ観光相はシャロン連立政権の中でも極右とされる政党「国民連盟」の政治家で、当然のごとくパレスチナ側に対して強硬な姿勢を見せ、軍による鎮圧を支持してきた人物だ。ところが昨今のアメリカでの同時多発テロ、それに続くアフガン攻撃といった情勢の中でアメリカがパレスチナ紛争を押さえ込もうと圧力をかけてきたため(口にこそ出さないが本音のところ「テロ根絶」にはパレスチナ問題解決が不可欠とは感じているわけだ)、シャロン政権はパレスチナ自治区の一部に駐留させていた軍隊を撤収することにした。これに猛反発したのが「国民連盟」で、同党のゼエビ観光相とリーバーマン国家基盤相が15日に辞表を提出、政権離脱を表明していたのだった。
 自分たちに対する強硬派が政権離脱するんだからほっときゃいいだろう、と思うところだが、パレスチナの過激派にとってはこういうのがいなくなることで中途半端に「和平」なんて方向に動き出してはたまらない、という思いがあるんだろう。本音は和平なんてとても望んでいるとは思えないシャロン首相にとっても「災い転じて福となす」(普通逆の意味に使うが)の事態だったようで、辞任するはずだった観光相の死を最大限に利用しているように感じられる。

 シャロン政権はただちに暗殺犯の引渡しとPFLPを始めとする過激派組織の非合法化をパレスチナ側に要求した。「要求に応じなければテロを支援しているとみなし相応の措置をとる」と、ホントにブッシュさんがタリバンに言ってるのとソックリな「最後通告」を出している。これに対しパレスチナ側は犯人の引渡しについては拒否、犯人の逮捕・裁判は自治政府側で行うと回答した。
 そして18日未明からイスラエル軍はパレスチナの完全自治区となっている二都市に戦車部隊などで侵攻、これを軍事封鎖した。さらに19日にはベツレヘムへ侵攻し、市の中心部まで占領してしまった。ベツレヘムといえばまさにキリストことイエスの生誕の地。当然ながらここにはキリスト教各派の教会が集まっており、キリスト教諸団体からイスラエル軍の行動に対する非難の声が上がっている。この数日間の戦闘で兵士だけでなく多くの市民に犠牲者が出ていることは言うまでも無い。
 その後事態の悪化を懸念するアメリカやEU諸国の圧力もあってイスラエル側もひとまず動きを緩め、パレスチナ側も暗殺に関わったと見られる数十人を逮捕、さらにPFLPの軍事部門を非合法化すると発表している。しかしこれまでも何度も話がまとまりそうでまとまらなかったしなぁ…

 ベツレヘムといえばCNNの報道によると、テロ事件後のアメリカでは聖書の売上が異常に伸びているという。戦争時や不景気なときに「癒し」を求めて聖書が売れるのは以前からある現象だそうだが、ニューヨークの老舗書店では湾岸戦争(1991)時の10〜20%増に対して、今回のテロ事件後は50%〜60%増にも伸びているという。
 なお、冒頭に掲げたジョークの元の文は「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」だ。念のため。


2001/10/22の記事

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