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2001年10月31日

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 ◆今週の記事

◆最大の国と最小の国

 「最大の国」ってのは定義が難しい。経済力・軍事力・影響力なら問答無用でアメリカ合衆国、面積ならロシア連邦だが、こと人口となるととりあえず12億人もの人口を抱える(それも公式数字であって実際にはもう1億いるんじゃないかと噂される)中華人民共和国の右に出る国は無い。一方で「最小の国」とくれば人口・面積ともにバチカン市の名前が真っ先にあがるだろう。イタリア・ローマ市内の、日本風に言えば「お寺の境内」みたいな領域を有する「国家」である。総面積0.44平方km、総人口約1000人という極端なミニ国家だ。しかしローマ法王を奉じ世界中に信者がいるカトリックの総本山であるこの「国」の影響力は下手すると中国以上のものがあるともいえる。

 ここ数年、この両国、中国とバチカンの間で動きが目立つ。これまで基本的には無神論の社会主義を掲げる中華人民共和国をバチカンは認めようとせず、台湾の「中華民国」との国交を維持してきた(ちなみにかの蒋介石、先日亡くなった張学良もクリスチャンだった)。しかしここに来てバチカンは明らかに中華人民共和国の方への「乗り換え」を模索している。それこそ「巨大な市場」でございますから(笑)。現時点での中国国内のカトリック信者は500万人を数えると言われている。
 世界的に影響力のあるバチカンと国交を結ぶことは中国側にとっても好都合な話なのだが、そこは中国、国内の宗教団体については共産党政府のコントロール下に置こうという基本姿勢がある。バチカンと国交を結ぶのは結構だけど、国内のカトリック団体をバチカンが「支配」するような形になってはかなわない、というわけだ。それと当然ながら中国と国交を結ぶのであれば「台湾との断交」が必須条件だよ、としている。
 2000年の初頭に中国の公認カトリック団体「天主教愛国会」が国内の新司教の任命を一方的に行ってバチカンが不快感を示した。その年の秋にはバチカンが「義和団事件」の犠牲となったカトリック信者を「聖人」に列して中国側が不快感を示した。とまぁ昨年にはこんな対立劇が見られたわけだが、双方ともに関係を結ぼうとしているからこそこうした対立劇が起こるのだともいえる。この間も水面下で国交樹立へ向けての駆け引きが続いていたというのが実態のようだ。

 10月24日、ローマではイエズス会宣教師マテオ=リッチによるカトリックの中国布教開始400周年を記念するシンポジウムが開かれていた。400年ジャストというと1601年に始まったと言うことだが、もちろん中国へのカトリック布教開始はそれより半世紀はさかのぼれる。中国におけるカトリック布教の元祖は日本と同様イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルで、彼は中国布教にとりかかった直後の1552年に上川島で死去した。その後も彼の後継者による布教活動が続いているが、マテオ=リッチは首都・北京で布教活動を行えたところが大きい。
 このマテオ=リッチの凄いところは徹底して中国文化を理解しようと務め、中国語・漢文を駆使し、中国文化人と儒教論議を戦わせるほどの人物であったという点だ。同時に中国初の世界地図「坤與万国全図」を作成するなどヨーロッパ経由の知識を中国に伝える役割もになった。最近この「万国全図」の実物大コピーを見る機会に恵まれたが、そこに書かれた解説漢文の末尾に「欧羅巴人・利馬竇」と書かれているのを見たときは感動したものだ。あ、「利馬竇」ってのは「マテオ=リッチ」の中国名ね。
 さて、このシンポジウムにローマ法王ヨハネ=パウロ2世からのメッセージが寄せられた。この中で法王は中国との国交樹立の早期実現への期待を表明したのだが、ここで注目されたのは「カトリック教会が中国において過去に過ちを犯さなかったわけではない」というくだりがあったことだ。なにやら回りくどい言い方をしているが、カトリック教会が過去に中国への帝国主義的侵略に手を貸したこともあったと暗に認め、謝罪するものであると一般には受け止められている。
 さらに翌日、バチカンの教育省副長官のヨゼフ=ピタウ大司教(元上智大学学長だったりもする方)も法王の声明を受ける形で記者団に「法王は明日にも中国との国交を受け入れる準備をしている。北京との関係正常化のため、すべての問題について話し合う意向だ」と述べ、国交回復のあかつきには法王自ら中国を訪問するとの意向があることを明かした。懸案になっている司教任命問題についても中国側の要求に対応する用意があるとしている。

 もちろん中国側はこの一連の発言を歓迎しているが、「台湾との断交」「国内団体への不干渉」の原則は堅持する、としっかり釘をさしている。
 


◆ある和菓子の裁判

 タイトル見ただけで何の話題かお分かりになった人も多いでしょうね。そう、和菓子「ういろう」の名称使用をめぐって争われていた裁判に決着がついたのである。なお、僕は和菓子はたいてい好きなのだが、「ういろう」はやや苦手であることをまず告白しておく(笑)。

 この裁判は小田原の「外郎(ういろう)家」24代目当主が経営する菓子会社「ういろう」が、名古屋の菓子会社「青柳ういろう」に「ういろう」の名称使用を認めた特許庁の審決の取り消しを求めて起こしたもの。と、こう書くとえらく回りくどい話だが、要するに『「ういろう」の名称は我が外郎家の作る菓子の固有名詞で、他人が「ういろう」の名を勝手に名乗るのは認めない!』という訴えなのだ。「ういろう」なんてごく普通の一般名詞かと僕は思っていたのだが、この裁判の話題を聞いてから調べてみたら、この「ういろう」なる菓子の名前、現在の状態にいたるまでにずいぶん歴史的な経緯のあることが浮かび上がってきたのだった。ただし、異説もやたら多くどれが真実なのか見定めがつかない状態なのだが。

 いろんな話を総合すると「外郎」の由来は元明交替期(14世紀半ば)に日本に亡命してきた中国人「陳なにがし」が元で礼部の「員外郎」の職にあったことにあるようだ(名前は「陳宗敬」とも「陳延祐」とも)。この「外郎」さんが作ったのが「ういろう」のルーツであるようだが、それは菓子ではなく「透頂香(とうちんこう)」という喉の痰を鎮め口中を爽やかにする効果のある薬品だった。この陳さんの子孫が「外郎家」を名乗り移住した先の小田原で「外郎」なる薬品をずっと売ってきた、ということであるようだ。
 江戸時代になって歌舞伎役者・市川団十郎が薬の「外郎」を服して健康を回復し、そのお礼として「外郎売(ういろううり)」なる芝居を創作している。曽我兄弟の仇討ちばなしからの創作で、曽我五郎が小田原の外郎売に化けて長い長い口上を見事にしてのけるお話だそうな(さすがに見たことは無い。なんか「勧進帳」みたいな感じもするな)。この口上は今なお俳優やアナウンサーの発声訓練に使われるという有名なものだそうで… ともあれ、この芝居で言う「ういろう」とは薬品のことなのだ。
 これがいつから菓子の名前になったのか、またなぜそうなったのかについてはそれこそ諸説紛々で… 小田原の外郎家が薬と菓子を一緒に売っていた、はたまた薬の「ういろう」に似た菓子だったので「ういろう」と名づけた、さらには最初に薬の「ういろう」が作られた際に口直しに添えられた菓子だった… などなどざっと調べただけでこれだけ出てくる。少なくとも十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を書いたころには薬と菓子の両方があったのは確かなようで、「うゐらうを 餅かとうまくだまされて こは薬ぢゃと苦い顔する」なんて歌が小田原のくだりで出てくるそうな。
 「ういろう」と言えば名古屋名物、と誰もが連想するところだが、「元祖」を主張する小田原、西の小京都・山口、さらには九州宮崎なんかでも名物になっているのですな。今回調べてみて始めて知った。諸説紛々状態なのもこれが一因なのかもしれない。

 さて、問題の裁判は「元祖」を主張する小田原の外郎家が名古屋のういろうメーカーを訴えたもの。外郎家の主張するところでは「ういろう」は外郎家が作る菓子の「特定の固有名詞」であり、他人が使用するのは商標侵害である、というわけだ。そういえば「ロールプレイングゲーム」ってのはどっかの会社が商標登録して独占してるから、みんな「RPG」って言うようになったんだよなぁ、あんなもんかいな、などと連想してしまう話である。
 で、裁判のほうはというと一審、二審ともに外郎家の主張じたいは部分的に認められつつも事実上の却下という判決になっていた。どちらの判決も「ういろう」という菓子の名が600年前から続く外郎家の歴史に由来するものであるという点についてはほぼ外郎家側の主張を認めている(これはこれで議論を呼びそうな気がするが… )。しかし「もとは外郎家の作る菓子を示す固有名詞だったが、特定の出どころを示す固有名詞が時代とともに商品の種類を表示するようになることは決してまれではなく、『ういろう』も次第に菓子の一種を意味する普通名詞になった。1991年の登録出願時にはすでに普通名詞になっていた」という判断で、外郎家以外が「ういろう」を販売することは自由であるとして外郎家の要求を退けたのだ。外郎家は二度の敗北にも納得せず、とうとう裁判は最高裁まで持ち込まれた。

 去る10月25日、最高裁第一小法廷で下された判決もほぼ一審・二審と同様の内容だった。ここに「ういろう」が一般名詞であることが法的に確定されたのであったとさ。めでたし、めでたし?



◆これだから与党はやめられない

 僕は副業(?)として社会科の授業など中学生に教えることがあるが、中学三年の「公民」では選挙制度についてはかなりしつっこく説明をしなければならない。現在の日本の選挙制度、なかでも衆議院の選挙制度は「小選挙区・比例代表並立制」という名前からしてややこしいもので、小選挙区制と比例代表制の違い、その長所短所についてはテストの問題でも良く出されるところで(こういう複雑怪奇なものは問題にしやすいのだ)、生徒に理解させるために教える側はあれやこれやと工夫を凝らさねばならない。今年から本来政党に投票する比例代表選挙に個人名が書ける「非拘束名簿方式」なんてものが導入されたため、選挙制度はさらにややこしいものになってきている。もうこれ以上いじらないでくれぇと受験産業の現場の都合(笑)からも叫んでしまうところなのだが、連立与党はまたぞろ選挙制度をいじくり始めている。

 「小選挙区制」とは全国を細かい選挙区に分けて、その選挙区で最高得票した一人だけを当選とするやり方だ。勝ち負けが明白で、二大政党状態においては政権交代を起こしやすく、選挙もクリーンになる、などと言われる。大政党に有利なため自民党は以前からこの方式を導入しようとしてきた歴史があるが、妙なことにこの制度導入を実現したのは非自民政権の細川護熙政権だった。当時は自民党政治の腐敗ぶりに国民の批判が強く、それは細川政権の異常なまでの高支持率につながっていた(今やその支持率を抜く政権があるわけですが)。その勢いをかって、政治がクリーンになるとの宣伝文句のもとに小選挙区制が導入されることになり、当時マスコミはこぞってこれを支持していた。ことにTVが凄かったな。この制度導入に反対して成立を一時阻止した社会党議員が「戦犯」呼ばわりされたりしていたものだ。
 で、その後気がついたら自民党はしっかりと政権に復帰していた。小選挙区制はもともと自民党みたいな大政党にとっては好都合な制度であったわけで、その他の小政党は「新進党」、それがぶっ壊れて「民主党」へと烏合の衆状態で集まっていくことになる。そんな中でいったんは新進党に入ったもののその崩壊後自民党に接近していったのが「公明党」だった。小渕恵三政権時に公明党はついに自民党と連立を組んで政権に参画、森政権、小泉政権と続いて党から大臣を入閣させ、先の小泉首相の靖国参拝の前倒し、先週書いた自衛隊派遣問題での自民・民主の談合つぶしなど、強い影響力を見せ付けている。

 周知の事実だが、公明党は日蓮正宗系の宗教団体・創価学会を支持母体とするかなり特殊な政党だ。政党としての規模はそれほどでかいとはいえないが、その支持母体が異様に結束力が強く集票力のある宗教団体であることから選挙ではムチャクチャ強いところがある。しかし一選挙区で一人しか当選できない小選挙区制のもとではさすがに多くの議席を確保するのは無理。頼みは政党名で票が集められる比例代表枠だがこれもまた限界がある。そんなわけで公明党は政権参画した当初から、かつての中選挙区制、つまり当選者が2人〜3人出るような選挙制度の復活を熱望していたのだ。小選挙区制導入時の時には賛成していたくせに… などと思ってしまうところ。
 この公明党の「おねだり」に応じなければならないというのが現在の自民党の辛いところ。公明党にせっつかれる形で今度の臨時国会の中で中選挙区制を実現する方向で話が進められていく。いったん「政令指定都市」に中選挙区制を導入するということで話がまとまったが、露骨に公明党に配慮した内容に自民党内から反発の声が上がり、行政区をあれこれ細工して十数か所の「二人区」を作ることを自民党が提案。すると今度はこれに公明党が反発した。公明党としては二人区では自党から当選者が確実に出る保証が無く、なんとしても「三人区」を作ってもらいたいわけだ。公明党は「テロ対策法案」とセットで進められているPKO協力法の改正案を「人質」にとり、「三人区を導入しないとPKO協力法改正に協力しないぞ」とかなり露骨な脅しにかかった。公明党の冬柴鉄三幹事長などはある東大教授の書いた『有権者の肖像』なる論文のコピーを自民・保守両党の幹部にばらまいていたが、その内容は昨年の衆院選で自民党の議員がどれほど公明票(=創価学会票)に救われていたかを分析したものだった。要するに「選挙で我々を敵に回すと大変なことになるぞ」と脅迫したわけである。

 政党が「党利党略」を振り回すのを全面的に否定するつもりは僕もない。というか政党政治とはつまるところ党利党略のせめぎあいで運営されていくほかないわけだし。ただし、政党とは本来なんらかの共通の政治構想を持つ者の集まりであるはずで、その政治構想上の戦略から党利党略が行われるはずなのである(ま、そう一枚岩でない政党が多いのも日本政界の現実だが)。毎度のことながら公明党には一貫した政治構想・理念と言うものが感じられない(だいたい党の名に掲げている「公明」ってのも、その昔使われた今で言う「クリーン選挙」を意味する「公明選挙」という標語をそのまま借用したものに過ぎない)。あえて言えば自党そして支持母体の自己保存・増殖本能だけが一貫してあるかな。この一点に関してはいまいちまとまりのない他の政党よりは強烈にあることは確かだ。
 昔の勢いが無くなってきたからといって、こんな政党と連立を組んだのが自民党の不覚だったと思うのだが、さすがに今度の公明党の態度には自民党内に不満が沸き起こった(選挙のこととなるとようやく必死になる、って皮肉も言える)。以前から公明党に批判的だった勢力はもちろん、関係の無い法案を人質にとったやり方には各マスコミなども批判を強めた。小泉首相も公明党の意向を汲んだ選挙改革に批判的な発言をし、公明党は一気に守勢に回ることになってしまった。

 結局、この文章を書いている10月31日の時点で、選挙改革問題は「一年先送り」という結論が与党三党で決まったようだ。一年後、政権与党がどうなっていることやら、全く予測がつかない。ひょっとすると年末に向けて何か大きな動きがあるかも…



◆まだまだまだまだまだ続く余波

 最近ヤケクソになってきていて、この「まだ」がどこまで伸びるか見てやろうじゃないかと決意した(笑)。テロ関連ネタが完全に尽きたときにこのタイトルを止めるつもりだが、なんだか当分先の話のような… この一週間でますますその思いを強くしている。
 この一週間ちょっとの間に明白になってきたのが、「どうやらアメリカの思惑通り事態が進行していないらしい」ということである。タリバン政権を倒すこと自体は簡単だろうと思っていた僕だが(アルカーイダ撲滅の方がずっと難しいという意味で)、どうもそれすらも一筋縄ではいかない情勢だ。

 アフガニスタン情勢でこの間にあった大きな事件と言えば、アフガニスタンに潜入してタリバン分裂工作を進めていた元ムジャヒディン(ソ連と戦ったイスラム戦士)の司令官だったアブドゥル=ハク氏がタリバンによって逮捕され即刻処刑されてしまったことだ。このところアメリカおよびパキスタンの政権はタリバンの分裂工作をしきりに仕掛けている様子がうかがえたが、このハク氏処刑でその工作がほとんど水泡に帰したと言ってもいいようである。
 ハク氏はタリバンと同じパシュトゥン人で、ソ連のアフガン侵攻に抵抗する有力なリーダーとして欧米でも良く知られた存在だった(英語が堪能だったかららしいが)。90年代にアフガンを離れてアラブ首長国連邦に移り住んで事業家となっていたが、昨今の情勢の中でその人脈と政治力を買われて「タリバン後」のアフガニスタン政権づくりのためにパキスタンからアフガニスタンへと潜入していたのだった。
 この潜入工作にアメリカの機関、はっきり言えばCIAが関わっていたのはまず間違いないようだ(ラムズフェルド国防長官が暗に認めている)。しかし天下のCIAにしては大チョンボだったと言えるのではないだろうか。どうやら潜入直後にハク氏の動きはタリバン側に筒抜けになっており、2日間かけて巧妙に彼とその一行を包囲してしまっていた。ハク氏が気づいて衛星電話でアメリカ軍に助けを求め、アメリカ軍が爆撃を行って包囲を解こうとしたが失敗し、捕らえられたハク氏とその側近らは「国家反逆罪」「スパイ罪」の名のもとにただちに銃殺されてしまった。なんだか安手のスパイ映画みたいな展開である。
 アメリカやパキスタンとしては「タリバン後」の政権が「北部同盟」だけで作られるのは困るという思惑がある。国民の多数を占めるパシュトゥン人、それが多いタリバンの一部が政権に混ざる形になるといいな、と考えていたわけで、今回のハク氏処刑はかなりの痛手であるはずだ。パキスタンのムシャラフ大統領が「大した影響は無い」とか発言していたが、わざわざそう言うところにショックの大きさが出ているようにも勘繰られる。
 ちょっと気になるのだがCIAはどこまでこの計画に本気で関わっていたのだろうか。実はハク氏自身はソ連のアフガン侵攻以来のアメリカ、特にCIAのやり方に不信感を持っていたフシがあるのだ。彼の処刑後にアメリカの「カーネギー平和財団」がハク氏と同財団の専門家が10月11日にパキスタン国内で行った会見の内容を公表した。その中でハク氏はアメリカが目論んだものと同様のアフガン新政権構想を語っているのだが、その中でこんなくだりがあった。「アフガン人たちは今、アラブ過激派のせいで苦しんでいるが、彼らを1980年代に連れてきて、武器や拠点を与えたのがだれだったかは、われわれすべてが知っている。米国と米中央情報局(CIA)である」(産経新聞記事の訳文から引用)… この発言から察するとハク氏はアメリカなどの依頼で動きつつもアフガン人として独自の行動をとろうとしていたんじゃないかと思えるのだが…

 この大チョンボの他にも、どうやらアメリカの軍事行動がうまくいってないんじゃないかと匂わせる報道が続いている。
 先日、アメリカ国防総省がタリバンの軍事基地をレンジャー部隊が襲撃する映像を公開し、「完璧な成功」と宣伝していたが、どうもこの時おこなわれた「地上戦」、実は失敗していたのではないかとの疑惑がイギリスのインディペンデント紙(26日付)で報じられた。その報道によると、アメリカ軍は国内向け宣伝という意図から比較的手薄そうな拠点を選んでそこを襲撃したが、予想外のタリバン軍の反撃にあい慌てて退却したのだと言う。この一件は米英軍幹部に衝撃を与え、本格的地上戦に踏み切るのをとりあえず見送って空爆を続行するとの方針を決めたとも言う。もちろんこの手の話はどこまで真実かは判然としない。
 チョンボと言えば「誤爆」も相変わらず続いている。先日などは味方である北部同盟の支配地域の村を「誤爆」。アフガニスタンから逃れてくる難民も口々にアメリカ軍が無関係の市民を殺傷している実態を恐怖をもって語っている。だいたい誤爆の「実績」はユーゴ空爆時に証明済み。今さら驚くほどでもないのだが。ここに来てアメリカ国防省高官も「戦争で市民に犠牲が出るのは当たり前だ」みたいな発言をしていたな(正確な表現は忘れたが)。だったら初めから「タリバンのみを攻撃する」みたいなお題目を唱えなきゃいいだろうに… ま、いつの時代も戦争やる側はそういうことを言ってるもんです。

 アフガニスタンから「被害」の映像などが流れてくることに業を煮やしてか、「情報戦」の名のもとに「報道規制」ともいえる動きが見られる。読売新聞で見た話だが、アメリカ国防総省の高官が内外のメディアを集めて「情報戦」についての説明会見を行った。「アメリカ軍は情報戦でタリバンにどう対抗するのか」との記者の質問に、その高官は「このような会見を開くことですよ」と即座に答えたという。この回答に記者たちの間にシラーッとした空気が流れたのに気づいた高官は慌てて「ジョークだ」と言ったそうだが、本音が出てしまっているな気もするな。この会見でこの高官は「タリバンがいかに映像を駆使して心理戦を行っているか」を説明しまくって記者たちに注意を呼びかけたそうだが、こと「誤爆」に関する情報はアメリカ軍から出るものの方が不透明かつ不正確なので、記者たちの中には「どっちが情報操作をしてるんだ」という疑問の声も上がっているという。
 僕などが特に首をかしげたのが、先日アメリカ軍が空からばらまいた食糧について「タリバンがこの食糧に毒を盛って反米意識を煽ろうとしている」との報道だった。調べてみたらこの「警告」を発したのも上記の「ジョーク」を発した某高官なのだそうな。それを知ったとき、よっぽどアメリカ軍はうまくいってないんだなと確信したものだ。
 テロ事件以後のアフガニスタンからの報道で一躍世界的に有名になったのが「中東のCNN」ことカタールの衛星TV局「アルジャジーラ」だ。このところ聞こえてくる話によれば、この放送局が「タリバン寄り」だとして圧力をかけようとする動きがあるとのこと。この放送のアラブ世界における影響力にはアメリカ政府も一目置かざるを得ないようで、ブッシュ政権高官やイギリスのブレア首相などが続々と出演した時期もあったが、空爆が続く中で放送内容に規制を求める圧力が強まっているようだ。気になることに、アメリカの本家CNNまでが「タリバン寄りの報道を流すな」と記者たちに圧力をかけているとの話もある。

 
報道の話といえば、こんな展開もあった。ワシントン・ポスト紙のボブ=ウッドワード記者が
「炭疽菌事件はアルカーイダの仕業ではなくアメリカ国内の過激派による犯行との味方が強い」との記事を掲載したのだ。捜査機関筋から聞き出した情報が元になっているが、炭疽菌とビン=ラディン一派とのつながりが見つからないこと、民主党の院内総務やメディアに送りつけるやり口がイスラム過激派らしくないこと、実際過去に極右組織の絡んだ炭疽菌事件が存在したことなど、それなりに強い根拠を持っている。ちなみにウッドワード記者はニクソン大統領の「ウォーターゲート事件」を暴いたことで有名な記者で、映画「大統領の陰謀」でロバート=レッドフォードに演じられている名物記者。歴代大統領のスキャンダル問題を扱った「権力の失墜」って大作もあったな。
 こうした報道の一方で炭疽菌をイラクに結び付けようとする情報も多い。あれほどの炭疽菌を作れるのはアメリカ、ロシア、イラクしかないとのことで「有力候補」には違いないのだが、どうもアメリカの中にイラク攻撃をしたくてしょうがない勢力がいるようで、そのリークに感じちゃうんだけどな。
 
 そうそう、こんな話題もCNNで報じられていた。アメリカ版「歴史教科書問題」である。
 テロ事件が起こったちょうどそのころ、アメリカの教科書会社各社は来年度から使う教科書の編集作業の最終段階を迎えていた。この「歴史的大事件」を歴史教科書に載せないわけにはいかないだろ、という判断で各社は現代史関係の記述を大幅に見直すことになったという。なにせアメリカの教科書は5年単位で改訂なのだそうで、いま書いておかないと五年間この大事件が記述されていないことになるから、だという。日本の歴史教科書はそんなに慌ててないような気もするけど。
 教科書では今回のテロ事件自体の記述もさることながら、中東・中央アジア情勢の詳述、歴史上におけるテロ事件に関する記述などが追加されることになるという。困っているのはオサマ=ビン=ラディン氏についてどう書くかという問題だそうで、ある教科書は「まだ犯人とは断定できない」として明記を避け、ある教科書では「アメリカ軍が軍事行動の標的としている」という記述で扱うことにしているそうで。しかしその記事である歴史学者もコメントしていたが、この事件の歴史的意義が五年後にどうなっているかはわかりませんよ。
 
 今回の「余波」の最後は少しは前向きな話題でしめくくろう。
 10月23日、北アイルランドのカトリック系武装組織「IRA(アイルランド義勇軍)」が突如、「武装解除を開始した」との声明を発表した。北アイルランド和平はこのところ三歩進んで二歩退がる、といった状態を続けていて、特に武装解除にIRAの一部がなかなか応じないことが和平進展のネックになっていたのだ。ところがここに来て突然の武装解除宣言。「例をみない動きだが、和平プロセスの崩壊を防ぎ、我々の純粋な意図を伝えるのが目的だ」と彼らは決断の理由を説明しているが、どうも世界的な「反テロ」の勢いに「いっしょくたにテロリスト扱いされてはかなわん」という判断があったようだ。ブレア首相は大喜びで歓迎コメントを興奮してしゃべっていたが、このままうまくいくのかどうか疑問視している人も多い。
 その翌日の24日、ロシア政府は紛争が続いているチェチェン共和国のイスラム武装勢力が初めて「和平交渉」を申し込んできていることを公表した。チェチェン紛争についてはこれまで欧米諸国はロシア側に批判的だったが、テロ事件発生で一気にロシア側を支持する姿勢にまわってしまった(チェチェン武装勢力も「テロリスト」であるというわけだ)。立場の無くなった武装勢力は生き残りを図るため「和平」に応じる姿勢を見せたということであるらしい。これもまたうまくいくかははなはだ疑問視されているが。


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