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2002年1月13日

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 ◆今週の記事

◆年越し皇室関連ネタ

 あらためて明けましておめでとうございます。前回のアレは更新こそ新年の元旦でしたけど、ほとんど年末に書いていたものでしたから、今年の「史点」の始動は今回から本格的にということになります。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年末はムチャクチャなスケジュールだったので、「史点ネタ」としてキープしつつなかなか記事がかけなかったネタがいくつかある。そのうちやはり書いておきたいと強く思ったのが日本の天皇ご本人の発言の件だ。
 12月23日はご存知天皇誕生日。この日は東条英機以下、太平洋戦争のA級戦犯たちが処刑された日でもあったりするのだが、それが意図してのものだったのかどうかは分からない(単純にクリスマス前にやったという見方もある。また、意図したとしてもどういう意図かについても見方は分かれる)。先代の昭和天皇の誕生日は4月29日というゴールデンウィークの一角を担ってしまったために生き残ったが(明治天皇誕生日も憲法公布日に姿を変えて生き残っている)、この天皇誕生日は冬休み開始日をややこしくする一因になっていたりもするので祝日として残るかどうかは微妙だな。
 … ええと、脱線してしまった(汗)。この天皇誕生日を前にして、天皇さんは恒例の記者団との会見に臨んだ。こうした会見と言うのは事前に記者たちが質問事項を提出し、宮内庁側で回答を用意するという形で行われるので、毎年だいたい大した話は出てこない退屈な内容になる。天皇自身の意見も多少は反映されるのだろうけど、憲法で定められた「象徴」の立場として個人的な意見は慎まなければならないということもある。

 ところが、今年の会見の内容には、僕でも「おっ」と思わせる一節があった。その部分をマスコミ各社のサイトで掲示されていた会見内容全文から引用しよう。

 (質問者)
 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年、日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ、両国の市民レベルの交流も活発化していますが、歴史的地理的にも近い国である韓国に対し、陛下が持っておられる関心、思いなどをお聞かせ下さい。
 (天皇)
 日本と韓国の人々との間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人がいます。こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧(ぶねい)王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このときに日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られております。しかし、残念なことに韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを私どもは忘れてはならないと思います。


 質問じたいは来る2002年最大の話題であるサッカーW杯に関連して日韓関係のコメントを求めるもので、あまりにも予想どおりの質問である。これに対する天皇の回答も前半に関しては全く予想通りの当り障りの無い内容だ。
 ただ、後半の天皇の祖先に関して「韓国とのゆかり」に触れた部分は、天皇自身の発言としてはかなり注目される。いや、本音のところ僕などは前段同様どうってことではない内容だと思ってるんですよ。だけどこの件について以前、作家の豊田有恒さんが著作の中で軽く触れたところ一部から猛烈な攻撃が来たという話があるのだ。「だって『続日本紀』って朝廷公式の歴史書に書いてあるんだぜ」と反論しても全く聞く耳を持たれなかった、とかいうことをお書きになっていたように記憶している。日本という国はこと天皇がからむ話になると冷静さを欠く手合いが多いのは確かで、こんな程度の話を書いただけでグワッと噛み付かれてしまうこともあるのだ。「万世一系の天皇陛下に朝鮮人の血が入っているなどとは何事か!」ってなわけですな。そこには朝鮮半島の人々に対する伝統的な蔑視観があることも忘れてはいけない。
 そういう事前知識があったもので、この話が天皇自身の発言の中に紛れ込んでいたことに「おっ」と思ったわけだ。そしてこれは明らかに日本向けのものではなく(だいたい日本のマスコミで直後に反応したのはごくごく一部だ)、韓国の人々に向けたメッセージ性の強いものであることにも気づかされた。かなり政治性の強い発言が天皇の口から出た、ということでもある。
 この部分を発言に紛れ込ませることを思いついたのは誰なのか、かなり興味のあるところだ。もちろん天皇自身である可能性も否定はしないけど、会見前に絶対に打ち合わせがあるはずで、日本政府の意図がそこに働いているのは明白だ。その意図とは「天皇訪韓」がとりあえず先延ばしになることの「埋め合わせ」ということなのだと思える。

 かつて日本が植民地にしていた朝鮮半島を天皇がいつ訪問するのか、これが日韓間の長年の懸案となっている。たかが一個人が隣国を訪問するってだけのことなんだけど、そこは一国の象徴でありかつての絶対不可侵君主(もちろん現天皇個人がそうだというわけではないが、「天皇」って存在は歴代を全部合体させた集合生命体みたいなところがある)。かつて天皇の沖縄訪問でも言われたことだが、それが一つの「区切り」の儀式とみなされ重みを置かれる。首相が訪問するのとは全然意味が異なるのだ。そんなわけで基本的に韓国側が天皇訪韓を要請し、日本側が「時期尚早」と抵抗しているという状態が続いている。もちろん「基本的」であって韓国側に訪問に反発する人、日本側で訪問を推進する人もいるのは事実。それぞれ「天皇訪問」を「謝罪訪問」ととらえるか「帳消し訪問」ととらえるかで違ってくる。
 ワールドカップの日韓共催を機会に天皇の韓国訪問が行われるのではないかとの観測は多かったし、昨年の終わり近くにも韓国側が開会式に天皇を正式に招待の意向、と報じられたこともあった。しかし昨年は例の歴史教科書問題(ま、結局ほとんど採用されず大事に至らなかったわけだけど)やら靖国参拝問題(ギリギリのところで前倒ししたのでこれまた大事には至らなかったわけだけど)やらがあって政治レベルではあまり両国関係は良好とはいいがたく、そんな中で天皇訪韓は実行できない、というのが日本側の態度だ。だからその埋め合わせとして、いわば「ご機嫌取り」として今回の「ゆかり」発言が出たのだと思えるのだ。

 この「ご機嫌取り」、結果から言えば少なくとも韓国側マスコミは日本側の思惑にまんまと乗ってしまった。単純(笑)だなぁ、などと思ってしまうところではある。ほとんどの韓国紙が一面写真入りでこの発言を報じ、しかもまたかなり好意的に報じたところが多かったようだ。「事前に用意された文書にはみえないから、天皇自身の意思による発言だ」「歴史書に書かれながら日本ではタブーとされてきた百済との血縁について天皇自身が言及した。日本では衝撃を受ける人も多いだろう」ってな感じの書き方が多かったようで(全部は確認してないが2、3紙をあたったところそんな感じ)、なんというか「へん、ざまぁみやがれ日本人!」ってなノリを感じましたな。それはまさにコンプレックスの裏返しとしか思えないのだが。だいたい桓武天皇の母親が百済・武寧王の子孫だっていったって、武寧王は6世紀始め頃の人。その子孫がいつ日本に来たかが問題になるが、在日3世以上と考えるのが自然だろう。そこまで来ると「そりゃもう日本人だよ」と僕などは思う。「天皇のルーツが韓国に… 」というフレーズも飛び交うようだが、男系でルーツを考える昔にあっては少なくともこの一件でルーツをうんぬんするのも妙な話だと思う(まして韓国の方がそうした男系の考え方をするはずなのだが)。また日本国民の大半はいまさらこの程度のことで「衝撃」を受けるとも思えない。「日本人には衝撃」ってくだりは多分に日本嫌い韓国人の願望を現しているんだろう。日本マスコミの大半が直後には無視した(週刊誌レベルでほとぼりの冷めた年明けに取り上げた程度)のを見ているとマスコミ界に「タブー」は多少あるようには感じるけどね。
 それにしても韓国の新聞の日本語版を参考に読んでいて改めて思うのだが、天皇を徹底して「日王」って表現するのはやっぱ気になりますね。漢字文化圏ならではの問題だが、やはり「皇」って表現を執拗に避けるのは少々見苦しいと僕は感じる。昔の日本の歴史本で中国の皇帝を執拗に「王」と書いたこともあるからまさに「似たもの同士」なんだけどね(これ、戦後でも一部に残ってたんだよな)
 それと、やはり韓国の新聞「中央日報」のサッカーの中田英寿選手を取材した記事を読んでいて、またこの「なんでもかんでも韓国に結び付けようとする姿勢」が顔を出していてちょいとヤになりましたね。その場にいた「ヨーロッパの記者」が天皇の「ゆかり発言」を引き合いにして「あなたが韓国系との話があるが… 」と切り出し、中田側がそれをやんわりとかわす、といった内容だったが、記事書いてる側の日本に対するかなり屈折した感情をそこはかとなく感じるものだった。ホントにそうかどうかは別としてあまり建設的ではないと思うよ、ああいう姿勢は。

 「ゆかり発言」と前後して皇室がらみで別の話題ものぼっていた。
 宮内庁が「大正天皇実録」を今年度末までに公開する、というニュースだった。昭和ではない、いまごろ大正なのだ。僕などは「まだ公開してなかったんかい!」と驚いちゃったものだ。「明治天皇実録」は『明治天皇紀』として公刊され、最近それを基本史料に書かれたドナルド=キーンさんの明治天皇の伝記が話題になったりしているが、大正の実録がまだ公開されていないとは知らなかった。
 「実録」とは歴代の天皇に関わる日常の事件や行動を日々記録したもの。もともとは中国の制度で僕も明の歴代皇帝の「実録」や朝鮮王朝の「実録」のお世話になっている。日本では確か徳川氏が似たようなことをやっていた記憶があるが、皇室では明治以後のことなんじゃないかと思う。前にも書いたことがあるが、明治日本って妙に中国王朝、とくに明王朝初期とやってることが似てるんだよな(「明」の「治」なんじゃないかと冗談で言ってる時もある)。先日国立博物館の特別展で展示されていた純漢文・中国史書スタイルの『大日本編年史』(明治政府が国家事業の日本通史として刊行しようとしたが結局公刊されなかった。しかしその事業は東大史料編纂所の仕事として受け継がれている)を見たときも同じことを考えたものだ。ええと、それは本題じゃないよな。
 大正天皇なんて15年ぐらいしか期間が無いのだから編纂なんてとっくに終わってるんじゃないか、と思ったら確かにとっくに終わっていたのだった。今回宮内庁が明らかにしたところによれば1937年(昭和12年)に97冊の形で完成しているのだという。しかし… なんとその存在じたいを「公表」したのは2001年の年末になってのことだった。存在しているのは明白だってのになぜか宮内庁は内容の公表を拒み続けていたのだそうだ。そんなもん編纂しておいて存在も含めて公表しないって、いったい誰が読むために作っているんだか… ?とかく宮内庁と言うところも謎に満ちあふれたお役所である。
 今回の決定は朝日新聞記者が情報公開法に基づいて「実録」の資料公開を求めたのを受けて開かれた情報公開審査会によるもの。宮内庁側は「実録を所有している宮内庁書陵部は情報公開法の対象外」であることをたてに公開を拒絶、審査会もこれを認めたが、書陵部の利用規則に基づいて今年度末までに調査を終えた分について公開することになった。先述の『大正実録』の完成年代・規模などもこの審査会で初めて明らかにされたというから驚く。
 当然ながら『昭和天皇実録』もただいま作成中だそうである。昭和が終わった翌年の1990年から21ヵ年計画で進められているそうで(ふえ〜)、これについては利用している基礎資料の一覧の8割が開示される見込みだと言う。今まで存在すら知られていない資料もあるのではないかと期待されるとのことだが、内容まで公開するとは言ってないようだ。『実録』の作成理由は「天皇の事跡を後世に伝えるため」であるそうだが、後世よりもうちょっと現在の研究者のことも考えて欲しいところなのだが… 。



◆年明け早々人騒がせ


 前回のでも書いたことだが、昨年末の国内的大事件と言えば「不審船騒動」だ。侵入、追跡、銃撃戦、そして「自沈」(?)という結末。とにかくキナ臭さがプンプンする、日本中にかなりの緊張感を漂わせた事件だった。現時点ではしばしば「北朝鮮のものと思われる不審船」という表現で報道されているが、この国が関わってくるとみんな「と思われる」って表現が多用されてしまうようだ(笑)。不審船の乗組員の一人でも捕まっていれば明白なことが言えた可能性が高いけど、だからこそ「自沈」したんじゃないかと思える。その後海上を捜索したところ北朝鮮製「と思われる」高級タバコや高級菓子類が見つかり、この船に乗っていた人間はかなり高ランク、あるいは高ランクの人間とつながりのある人間であった可能性が指摘されている。僕などはどうも北朝鮮の軍部内に麻薬・覚醒剤取引を「副業」に金儲けしている(あるいは上納金にしている)軍人連中が少なからずいるんじゃないかと感じていて(実際、年明けにそれとつながる「と思われる」中国人船長の乗る船が九州で覚醒剤密輸で摘発されている)、彼らが仕立てる船が「不審船」という形で日本近海をウロチョロしているのだとみている。「工作」ったってピンとこないもんな、実のところ。もっとも常識的に理解できないことをする国なのも事実なんだけど。

 とか言っていたら、年明けの1月7日。仕事に出かける途中の僕の視界に「北朝鮮工作員・江の島に上陸」との夕刊紙の見だし(記憶は不正確だが)が飛び込んできた。「おいおい」と思って携帯電話からネットニュースを確認してみると(新聞を買おうとは思わなかったわけで… まぁいつも大袈裟な見出しをつける新聞だったから)確かに一般紙でも同様の報道がなされている。目撃者の通報によれば、「江の島で夫婦で天体観測をしていたら、海面に黒い筒状の物体が浮かび上がり、そこからウェットスーツに身を包んだ5、6人の男が出てきて岸まで泳ぎ着き、崖を上っていった。日本語ではない話し声がした」とのこと。この情報には僕も「ほへ〜」と驚いてしまった(掲示板でも書いたことだが、ホントにこんな感じだった)。ただ余りにもスパイものでおなじみの上陸描写、外国語を平気で話す無神経ぶりに多少の不自然さを感じたのも事実だ。内心「東京湾まで来て覚醒剤密輸してることもないだろ」と思ったので「なんかの見間違いじゃないのか?」と思ったりもした。以前大河ドラマ「北条時宗」のロケに使用するために青森県から福岡県に航行していた中世スタイルの船が「不審船」と通報されたなんてこともあったし、昨年末の不審船騒ぎの直後にも関係ない漁船が不審船と間違われたこともある。「上陸」ってのも地元のダイバーかなんかじゃ… などと思ったりもした。そんなわけで仕事帰りに「作り話だった」との報道に接したときは「後知恵」とは思いつつ「あ、やっぱり」と感じたのだった。
 この人騒がせな通報者だが、当初の証言が地理的にやたら詳細だったために海上保安庁第三管区でもこれを信じちゃったものらしい。また年末の一件が海上保安庁職員たちの頭にあったのも確かなようだ。「上陸していった」という崖がとんでもなく急なところで「無理だろう」とは職員も感じたそうだが、やはり「もしかすると」という思いから捜査を進めてることになったという。しかし次第に証言に矛盾点が出てくるし、海上保安庁や報道のヘリが飛び交う大騒ぎの模様を見て通報者の男性がオドオドし始めたことなどから、「ウソなんじゃないか」と追及したところ、この男性が白状することになったという。ウソの通報をした動機について「妻と天体観測に出て口論になり、むしゃくしゃして… 」と自供していたが、これもウソであることが後で判明。「筒状の物体」が浮上してくるという描写は「昔読んだ戦争小説から思いついた」と当初自供していて僕などは「やっぱり!」と思ったものだが、これについても「映画で見たシーン」と変更したりしているそうで(ま、どっちでも大差はないが)

 この嘘つき男の被害がさらに大きくなったのは、たまたまこのとき北朝鮮籍の貨物船が東京湾に入港し、この江の島近海にいたというホントに神様の悪戯みたいな偶然があったことにもある。海上保安庁は一時この船が「工作員」の母船と見て停船と立ち入り検査を要求。しかしこの船はこれを拒否して船橋港に入港し、ここで職員が船に乗り込んだりダイバーが船底を調べるなど検査を行った。しかし不審なものは一切出ず、結果的に平謝りの結末となった。海上保安庁の上司である扇千景国土交通大臣が吠えてましたねぇ。確かに国際問題になりかねなかったもんな。この新手の「捏造騒動」はあちらの国でもさんざん利用されそうだな。つくづくこの嘘つき男は多大な迷惑をかけたものである。
 迷惑、といえば週刊誌もタイミングの悪いことになったものも多かった。年越し休刊のため年明けに「不審船事件」を大きく取り上げ多ところが多かったのだが、その締め切り間際にこの「情報」が飛び込んできたものだから急遽その記事に「江の島上陸」を書き加えている。見事にこれを事実として書いてしまったのが週刊新潮、ギリギリで「虚報」と書き加えなんとか記事をごまかした(しかし記事の趣旨はそうした工作員上陸を警戒する内容のままになっている)のが週刊文春だった。文春の広告の「上陸の全深層」って不思議な見出しもギリギリの努力が忍ばれますな。
 扇大臣も言っていたが、「軽犯罪法違反で書類送検」では済まない大迷惑である。しかし何しろ前例のないことなので、これに刑法上の重罰を与えることは無理なようだ。とりあえず海上保安庁の出費など多額の損害賠償請求はする意向だそうだが、当の嘘つき男性は反省は示しつつも「金はない」と取材に答えているそうな。



◆100年前の国勢調査

 イギリス政府がこのたび1901年3月に実施された国勢調査の結果をインターネットで公開したそうで。もともと国勢調査の結果は実施後100年で公開することになっていたらしいのだが、ちょうど100年後の今がインターネットなんて便利なものが普及していた時代だったもんで面白いことになってしまった。
 この国勢調査は1901年のイングランド、ウェールズに在住していた3250万人に対して行われたもの。彼らの氏名・住所・職業・家族構成などが一覧できるとのこと。「わしの先祖を探してみるべぇ」(英語で)思ったイギリスの人達が一斉にこのウェブサイトにアクセスし、このサーバーがパンクする事態になっちゃったという。またこの国勢調査にたまたま載ってしまった有名人を探す人も多いとのこと。

 1901年といえば当たり前だが20世紀最初の年。まだ世界大戦はおろか日露戦争も起こっていない時代。フィクションの世界だとシャーロック=ホームズとかアルセーヌ=ルパンが活躍している時期ですな。ちなみにルパンとホームズが直接対決した「金髪の美女」の事件はだいたい1901年ごろの事件と考えられている。もちろんベーカー街221Bって住所は実在しないはずですので探しても無駄です(笑)。もちろん作者のコナン=ドイルを発見することは出来るだろう。ヨーロッパにとってはいわゆる「古き良き時代」、ヨーロッパ以外にとっては「帝国主義」が猛威を振るう侵略されまくりの時代である。
 こんな時代のイギリスだから当時の有名人がワラワラと登場している。元祖SF作家のH=G=ウェルズ(当時35歳ぐらい。すでに「タイムマシン」「透明人間」などの代表作を発表している)、赤十字活動のルーツにもなった元祖看護婦さんナイチンゲール(当時81歳ぐらい)、たまたまこの時期ロンドンに在住していた印象派の画家モネ(当時61歳ぐらい)など当時すでに有名人だった人達はもちろん、後に大物になったが当時は無名だった人達もいる。のちに喜劇映画の王様になるチャーリー=チャップリン(まだ12歳ごろ)はサリー州の住民として載っており、職業は「ミュージックホールの芸人」となっている。まだ貧しい孤児芸人だったチャップリン、当時はホームズものの舞台劇で少年ビリーを演じてたりする。日本人では当時ロンドンに留学していた夏目漱石(本名・金之助)がフロッデン通りの下宿に住む「K,Natsume」という34歳の日本人として載っているとのこと。当時の漱石はロンドンの生活に疲れてノイローゼ状態になっており、やがて日本への帰国を命ぜられることになる。

 1901年となると今からだいたい100年前。ご存命の方もわずかながらいらっしゃる。有名人では以前「史点」にも登場した現女王の母・エリザベス皇太后(1900年8月生まれ)が掲載されているとのこと。当時はまだ1歳にもなっていませんね。この年は60年以上に及ぶ在位期間、そしてそれがそのままイギリスの絶頂期となっているヴィクトリア女王が亡くなった年でもある。そういや漱石もこの女王の葬儀の列を目撃してるんだっけな。
 イギリス政府は今後も1891年のもの、さらに1841年のものもネット公開していく意向とのこと。1841年てえとアヘン戦争なんかやってるころですねぇ… 。いやぁ、こちらはどんな人が載っているのやら。



◆年が明けてもまだまだまだ

 年も改まったことだしいい加減「まだまだ… 」シリーズを続けるのが鬱陶しくなったのでひとまず「まだまだ」の数を増やし続けるのはやめにした。ここ一ヶ月半ぐらい「史点」の更新が途絶えがちだったが、不思議なものでこの間これといって大きな動きが無かったのも事実。そのまんま事態は年越しとなってしまったのだが、ひょっとして「史点」更新ペースが回復したらまた何か事態の急変でもあったりするんだろうか。

 年も明けた1月5日、アメリカはフロリダ州の高層ビルに小型飛行機が激突、操縦していた高校生が即死するという事件があった。当初、「飛行機がビルに激突」ということで誰もが「テロ?」とまた連想したわけだが(先日のNYでの飛行機墜落でも同様だったな)、乗っていたのが高校生と言うことで「事故」ということで誰もが一安心(?)した。しかしその高校生が飛行機の中に「遺書」と思しきメモを残していたことからかなり過激な「自殺」だったのではないかと考えられるようになった。さらにそのメモの中にウサマ=ビン=ラディンに共感・支持したととれる内容があったことから、アメリカに限らず世界の人々をますます困惑させることになってしまった。
 捜査している警察当局の会見では「この高校生は友人がほとんどなく、一人でいることが多かった。悩みを抱えた若者だ。ビンラーディンに同情していたようだ」との趣旨の発表がなされた。なんとなくそれっぽい感じのする少年像が提示されたのだが、これに対し少年の家族、少年が通っていた学校の教師などが猛反発、「明るい性格の人気者で、強烈な愛国心を唱えていた」との全く異なる少年像が提示されたのだった。前者はいかにもそれっぽいが、後者も僕にはこれはこれでなんとなくリアリティを感じるところがあった。愛国心にせよ何にせよ、なにかを強烈に唱える人ってのは思い込みがやたらに激しいか、物凄く何かに悩んでいるかどっちかなんじゃないかと思う。一部の報道では少年の祖母がシリア出身とかで(人種的なことは分からない)、テロ事件についてのクラス討論で生徒たちがアラブ人攻撃で盛り上がったのを教師がたしなめたとき、「ありがとう。僕の血にもアラブ人の血が入っているかもしれないんだ」と教師に打ち明けたという話も出ていた。もちろんこれだってどこまでホントのことかは分からない。ただテロ事件とその後の戦争が一少年の精神になにほどかの影を落としていることは確かなのだろう。

 この事件に先立つ1月4日、アフガニスタン東部カルデスの近郊でアメリカ特殊部隊がアルカーイダと思われる武装勢力の銃撃を受け、特殊部隊隊員1人が死亡した。いっしょにいたCIA職員も負傷したという。なんとこれが敵との戦闘中に文字通り「戦死」したアメリカ兵の第一号。これまでにも死者は出ていたような気がするが、いずれも事故や誤爆、はたまた捕虜の暴動に巻き込まれたCIA職員がいたという程度と公式にはされている。
 この「戦死第一号」が出たことでアメリカのブッシュ大統領は翌日カリフォルニア州で行われた対話集会で「正義の戦いのために命を捧げた」と「名誉の戦死」を讃えている。時代の古今も洋の東西を問わず行われる戦死者の美化ですな。別に僕はその戦死者の尊厳を汚す気は毛頭無いが、「正義」の名のもとに死に追いやられたという点ではビルに突っ込んだテロリストも巻き込まれた乗客も、アフガン空爆で殺されたアルカーイダやタリバンの兵士、誤爆で殺された一般市民も僕には同じとしか見えない。前から思ってるんだけど、アフガニスタンで何人死のうが大して騒がれないのに(イスラム圏マスコミではさすがに違うらしいが)、アメリカ兵が「負傷」というだけでも大きなニュースになっちゃうってのには強い疑問を感じちゃうんですけどね。
 年末に「タイム」誌が「空爆によるアフガニスタン民間人の死亡者数はテロ事件の犠牲者数を上回る」というある大学教授が集計した数字を掲載したが、そこでは12月6日の時点でアフガニスタン民間人の死者を「3767人」としていたという。しかしこれはあくまで報道に基づく数値であるため僕などはもっと多い可能性を感じている。この「タイム」の記事も「信憑性には疑問が残る」と付け加えているそうだが、これはむしろ「アメリカ愛国者」からの攻撃を恐れての予防壁のように感じられる。以前新聞記事で読んだのだが、実際マスコミでもアフガン情勢を伝える際にはかなり神経質になっているそうで、アフガニスタンの被害の模様を伝える際には必ずNYの犠牲者に関する情報も一緒に流したりしてバランスをとろうとしていたそうだ。
 あまり報じられないが、ぼちぼち冷静さを取り戻してきているのか、このブッシュ大統領の対話集会の会場外では「ブッシュはテロリスト」「戦争でなく正義を」などと書かれたプラカードを掲げたデモ隊が抗議を繰り広げていたという。この対話集会でブッシュ大統領はブッシュ政権の経済政策批判を意識して「私の目の黒いうちは増税はしない」とか言ったりもしたそうだが、それ以上は経済話には突っ込まず「愛国心」の高揚につとめていたとのこと。
 「大統領は戦いに おんみずからは いでまさぬ」by与謝野晶子(← もちろんウソ)
 「愛国心は悪党の最後の隠れ家である」byサミュエル=ジョンソン(← これはホント)

 それにしても一方の主役(?)オサマ=ビン=ラディン氏、そしてタリバンの最高指導者オマル師であるが、年が明けてもつかまっていないばかりか、その消息すらも全く分からない状況である。確か昨年末に「ここ2、3日中にも身柄拘束」って報道がお二人ともに出たような記憶があるのだが(その影響で「史点」ネタがずれちゃったりもした)、結局消息不明になっちゃうんだよね。ビン=ラディン氏についてはひょっとするとあのトラボラ攻撃で死亡したんじゃないかという気もするのだが、オマル師がいつまでたっても拘束されないってのはかなり不思議な現象。それだけ密かな味方が多いってことなんだろうか。
 以前から理解に苦しむ宣伝戦をやってくれるアメリカ軍であるが、またしてもやってくれた。ビン=ラディン氏がアゴヒゲを剃り、背広にネクタイ姿で歩いている写真(もちろん合成)を載せたビラで、「人殺しで臆病者のオサマ・ビンラディンは君たちを見捨てた!」とのコピーが入っているそうな。こんなビラをまくことを考えた責任者、出てきなさい(爆)。ついこないだ首に賞金かけたビラまいて全く効果なかったのに何考えてるんだろう。食料ばらまきに関しても思ったことだが、アメリカ国防総省のお偉方ってほんとに「情報戦」ってのを理解しているつもりなんだろうか?
 現時点でもいまだ生死不明のビン=ラディン氏だが(そういえばベルギーでモロッコ系の人が「ビン=ラディンだ!」と通報されちゃったそうですね。ご本人の「神は自らに似せて人間をお作りになった」とのコメントには感動しました)、ああいう人だから生きていたらまたビデオ映像でも出すんじゃないかなぁ。

 このテロ事件の余波ともいえるインド・パキスタン情勢、イスラエル・パレスティナ情勢はとりあえず小康状態といったところ。もちろん小康ったって最悪の全面衝突が避けられているってだけの話で、武力衝突は後をたたず、事態は楽観を許してくれない。話がまとまりそうになるとブチ壊すやつが出てくるというパターンを何度も繰り返しているもので。
 加古隆さんの名曲「パリは燃えているか」(「映像の20世紀」のサントラCDより)を聞きながらこんなこと書いていると「人間ってほんとしょーもねーな」などとつぶやいてしまう正月明けなのでありました。


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