ニュースな
2002年1月27日

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 ◆今週の記事

◆出口の見えないパレスチナ

 先週は小ネタが多いって事は平和だな、などと書いていたが、その直後からパレスチナとイスラエルの紛争がまたまたさらに泥沼化。ホントに「積んでは崩し」の繰り返しである。全くいい加減にせんかい。

 前回はこの話題についてとりあげなかった。自爆テロ→ 暗殺→ 報復テロ→ 報復空爆→ (振り出しに戻る)とお決まりのパターンが繰り広げられていたのであえてとりあげる気が起きなかっただけのことだ。ただ19日にパレスチナのラジオ放送局まで破壊したのにはもうブレーキが効かなくなっているなとの思いはした。そして21日にはついにイスラエル軍が戦車・装甲車100台を動員して1993年のオスロ合意以来初めてパレスチナの自治都市を完全占領(もちろん理由は「テロリストの摘発」である)するなんて事態も起こっていた。「オスロ合意」なんてほんとにどっかいっちゃったなぁ…

 1月22日、ヨルダン川西岸ナルブスで、パレスチナのイスラム原理主義組織「ハマス」の幹部ら4人が急襲したイスラエル軍により「暗殺」された。これに激怒した「ハマス」は同日「イスラエルとの一般住民を含めた全面戦争の開始」を表明、昨年12月に表明した「自爆テロ停止」宣言を撤回した(確か飛行機テロ直後にも一回停止宣言して結局守らなかったような気が)。その日の午後にエルサレムの中心街で「ハマス」構成員とみられる男が銃を乱射、イスラエル市民に多数の死傷者を出したうえ射殺された(一応他の団体も犯行声明をしているが)。怒りの感情は分からないではないのだが、一般住民を標的にする手法はたんなる「鬱憤晴らし」にしか過ぎず何の解決にもならないところが救いが無い。
 しかしこうした「ハマス」のテロ闘争に共感を寄せるパレスチナ市民が多いのもまた事実。イスラエル軍にさんざん虐げられてきたパレスチナ市民にしてみれば彼らのテロ活動はまさに正義の「聖戦」と見えるわけだ。またこの「ハマス」が宗教的な慈善活動なども行っていることも支持を集める大きな要素の一つだ。アラファト議長率いるパレスチナ自治政府はイスラエルとの和平を進めるためにも「ハマス」のような過激活動を押さえ込まなければならないわけだが、こうした「ハマス」を支持する市民たち5000人がこの同じ22日に「ハマス」活動家の釈放を求めてパレスチナ治安部隊と衝突する騒ぎとなり、住民をなだめるために自治政府はこの「ハマス」活動家の釈放を実行することになってしまった。これがまたイスラエル側の怒りを買うことになる。
 1月24日夜、パレスチナ自治区のガザ地区南部で、「ハマス」活動家の乗る車にイスラエル軍の武装ヘリがミサイルを打ち込み、一人を殺害した。この暗殺作戦に対し「ハマス」は当然ながら報復を宣言、翌25日にはテルアビブ市内で体に爆発物を巻きつけた男性がスクーターで歩道の通行人に突っ込み自爆、多くの負傷者を出している。これに対しイスラエル軍がガザ地区とヨルダン川西岸を戦闘機で空爆… まったくもって救いの無い状態である。

 そんななか、気になるニュースもあった。1月24日、イスラエルの隣国レバノンの首都ベイルートでレバノンの元閣僚エリー=ホベイカ氏が乗る乗用車が仕掛けられた爆弾で爆発、ホベイカ氏とボディガードの4人全員が死亡した。このホベイカ氏、もとキリスト教右派民兵組織の指揮官で、レバノン内戦(1975〜1990)ではイスラエル軍と協力してPLOと戦った過去もあるという。ホベイカ氏の暗殺直後、キプロスにある反シリア系組織が「ホベイカ氏は裏切り者だから暗殺した」という犯行声明を出しているが、レバノンの一部では「これはイスラエルによる暗殺ではないのか?」との見方が出ているという。
 だいぶ前に書いた話題だが、現在のイスラエル首相であるシャロン首相は国防相だった1982年にパレスチナ難民虐殺事件を起こしたとして「人道に対する罪」でベルギーの裁判所に訴えられている(ベルギーでは人道問題だと外国の話でも訴えが起こせるらしいのだ)。この事件には当時イスラエル軍と共同戦線を張っていたホベイカ氏の民兵組織も関与していたと言われ、ホベイカ氏はこの裁判で重要な証人と目されていたのだ。AFP通信によると死の二日前にホベイカ氏はベルギーの国会議員二人に「事件に関して新事実を証言する」と語っていたといい、そのことに関して脅迫を受けていることを示唆してもいたという。これがレバノン国内で「イスラエル謀殺説」が閣僚レベルでまで語られる根拠となっているわけだ。イスラエル首相府の報道官は「ばかげている」と一笑に付したそうだが。

 気になると言えばアメリカのブッシュ政権の動きも気になるところ。もともとイスラエル寄りであることをアラブ・イスラム諸国から非難されているアメリカだが、同時多発テロ以後の「対テロ戦争」を進める上でイスラム諸国を敵にまわすと何かと不利ということでイスラエル・パレスチナの双方になるべく顔が立つようにしていたところがある(それでもおおむねイスラエル寄りだったのだが)。しかし先週、パレスチナ自治政府が武器を大量に密購入していたことが判明してイスラエル側が態度を硬化させると、これに同調して「アラファト議長との関係を絶つ」ことを検討し始めたと言われている。ただこれやっちゃうとイスラム諸国との関係悪化は必至だろうなぁ… それともアフガニスタンは一段落したから「もういいや」と態度豹変をする気なのだろうか。いや、この政府はやりかねないぞ。「イラク空爆・フセイン打倒」もまた声高に叫ばれているそうだし。
 そういえばサウジアラビアが湾岸戦争以来駐留する米軍の撤退を非公式に求めているとの報道もあったっけ。正確なところは不明だが、この駐留がオサマ=ビン=ラディンの反米感情を募らせた一因とも言われてるんで、内心そんな気分かもしれない。しかし1月23日、アメリカ軍はサウジ駐留軍のアメリカ人女性将校たちが基地から外出する際に義務付けていた「アバーヤ(黒衣)」の着用を、「義務」から「強く促す」に緩和すると発表した。「アバーヤ着用」は女性の肌の露出を徹底して避けるサウジアラビアの習慣に配慮した措置だったのだが、女性将校の一人が先月「着用強制は合衆国憲法に違反する」として国防長官を相手に訴訟を起こしていた。これをなだめるための「緩和措置」であるようだが… サウジアラビア政府当局者は「事前になんの通告も無かった」として不満を表明しているという。やっぱ出てってもらったほうがいいんですかね。

 イスラエルとパレスチナの紛争はイスラエル建国の事情にまでさかのぼる根深いものだが、オスロ合意などそれなりに和平が進んでいたのにそれをブチ壊して今日の事態を招いた直接のキッカケは、ほかならぬシャロン首相(当時はまだ首相じゃなかったけど)がユダヤ教徒が言う「神殿の丘」・イスラム教徒が言う「ハラム・アッシャリーフ」という共通の聖地に強引に乗り込んで「挑発」したことだった。これがキッカケで泥沼の紛争が起きて以来、ユダヤ教徒がこの地に入ることはイスラエル政府により禁止されていた。しかし先日、イスラエル国内情報機関シンベントはユダヤ人によるこの地の訪問を許可すべきであるとの勧告を政府に提出した。事態悪化の張本人であるシャロン首相率いる極右政党リクードは「当然の権利」と賛同しているそうだが、ここでまたパレスチナ側を刺激するのはまずいと冷静に言っている政治家もいるようだ。しかしあのシャロン政権のことだからなぁ… 。
 この「神殿の丘」あるいは「ハラム・アッシャリーフ」には「嘆きの壁」と呼ばれる丘は、もともと古代ユダヤの神殿があったところで、それがローマ帝国によって破壊された跡地だ。この神殿の西側の石壁がユダヤ教徒にとっての聖地「嘆きの壁」だが、壁の遺構は南側にも存在する。この南側の壁が数年後にも崩落する危険があるとイスラエル文化財保護庁の担当者が訴えているという(元ネタは産経記事)この南側の壁は紀元前一世紀の拡張工事で建設されたものだが、2000年の歴史の中で破壊と修復を繰り返したため石の積み方にかなりの歪みが生じてしまっているのだそうだ。またこの担当者によればイスラム教徒たちが「丘」の内部に地下通路を作る工事をしており、双方にとっての聖地の破壊が進行することが懸念されるという。しかしシャロン首相の訪問以後の事態の泥沼化で遺跡保存活動どころでは無いらしいと嘆いていたそうで。

 いろいろ気が滅入ってくる事を書き連ねたが、こんなニュースもある。
 1月25日、イスラエル軍の予備役の士官クラス50名がイスラエルの新聞に手紙を公開投書し、「我々はパレスチナ人全体に対する圧迫、追放、破壊、封鎖、暗殺、侮辱行為などを遂行するために西岸とガザでの戦闘にかかわることをやめる」と宣言、軍務に就くことを拒否すると声明した。彼らはイスラエルの自治区占領や抑圧は「国家の安全保障とは無関係である」と指摘、シャロン政権と軍のやり方を厳しく批判している。夏ごろ徴兵拒否運動をするイスラエルの高校生の話題なんてのも書いたっけなぁ…
 


◆アフガニスタンのショーン=コネリー

 映画ファンなら誰でも思ったに違いない。いま世界の注目が集まる男、アフガニスタン暫定政権のカルザイ議長って中央アジア風に改造したショーン=コネリーだなとつくづく思う(そういや「インディ=ジョーンズ4」作るってね。コネリーお父さんは出るのだろうか)。もちろんその外見だけで議長に選ばれたわけじゃないんだろうが、そのカッコ良いルックスはアフガニスタン暫定政権の印象を相当良くしたに違いない。実際、このたび日本で行われた「アフガニスタン復興支援会議」、またの名をチャリティー24時間テレビ「愛はアフガンを救う」(もちろん僕の勝手な命名)では、まさに「主演男優」と言われる活躍ぶりを見せた。そのあまりの印象の強さとマスコミのもてはやしぶりにふと思う。あの元国王ザヒル=シャーさんはどうなっちゃったんでしょうか(笑)。役に立たないと見られたのか、すっかり忘れ去られてしまっています。とか思っていたら、つい先ほどザヒル=シャーさん、急遽帰国の意思を決めたという報道が流れていた。ひょっとして慌ててるんでしょうか。

 カルザイさんが主演男優だとするなら主演女優はもちろん会議の議長を務めた緒方貞子さんだろう。元国連難民高等弁務官として難民問題のエキスパートで、アフガニスタンにも何度も足を運び、「世界から忘れられた」この国の人々を救うべく活動してきた。それがテロや空爆といった不幸な事態があった結果というのは残念だが、この会議によってアフガニスタンへの国際的な支援をとりつけることに成功した。もちろんこれから前途多難なのも間違いないが、大きな一歩前進であるには違いない。実際、緒方さんにはノーベル平和賞の噂もチラホラしている。日本における数少ない本物の国際人といっていいだろう。それでいてちっとも偉そうじゃなく、基本は「普通の主婦」ってスタンスが感じられて好感の持てるところではある。
 緒方さんもまずまず「成功」ととらえているように、今度の会議では各国が競うようにアフガニスタンへの支援を申しで、総額で45億ドル以上にのぼる支援が実現することになった。同じく長い内戦を続けていたカンボジア復興のために集まった支援金を上回るそうだが、それでも十分かどうかは怪しいところであるらしい。しかしこうしてみるとテロがあったことが結果的に(あくまで結果的に)忘れ去られていたアフガニスタンって国に世界の注目を集め、支援を招き入れることになっちゃっているというのが皮肉というか何というか。

 ところでこの「復興支援会議」の舞台裏で思わぬすったもんだが起こった。アフガニスタン復興に深く携わっていた日本のNGO団体「ピース・ウィズ・ジャパン」「ジャパン・プラットホーム」の二つが、日本の外務省から復興支援会議に先駆けて行われるNGO会議への参加、および復興支援会議本体へのオブザーバー参加を拒否されていたことが会議直前の20日に明らかになったのだ。聞くところによると日本でこの復興会議を開くことになったのはこのNGOの力が大きかったとのことで、なぜそれが肝心の会議に参加を拒否されてしまったのか誰もが首をかしげるところ。両団体の統括責任者および代表を務める大西健丞(けんすけ)氏は記者会見でこの「拒否」の話は外務省から電話で伝えられ、その理由について大西氏が朝日新聞で政府批判ととれる発言をしていることに外務省に影響力のある自民党の鈴木宗男議員が激怒、謝罪しない限り会議への参加は認めるなと外務省に圧力をかけてきている、と説明されたという。大西氏は当然謝罪は拒否し、外務省は「政府に非協力的な団体は、政府主催の会議に参加させられない」として参加拒否に至ったというわけだ。外務省側はこの記事が原因の一つとは認めつつ、「記事だけでなく過去の言動全般から判断した。我々が敵役にされ、信頼が損なわれた」と説明している。
 さて、問題の記事と言うのはなんだったんだろう。朝日新聞1月18日付「ひと」欄だったというのだが、そこには「政府は掛け声ばかりで、それが目的化している」という言葉が確かにある。しかしこの程度で激怒し「政府を批判するやつが政府の会議に出るのはおかしい」と言ったという鈴木議員の神経はなんなんだ(だいたい今度の会議は「政府」だけのもんじゃないはずだが)。鈴木氏、なんと大西氏の携帯電話の番号を調べて直接怒鳴りつけたりまでしたという(週刊文春記事より)。しかもこんなおっちゃんの一言で泡を食って出席を拒否した外務省の役人も情けない限りである。しかし前から言われていたけど、鈴木宗男さんってホントに影響力あるんだねぇ。

 しかし事態はさらにややこしい展開を迎える。田中真紀子外相はこうした事態を20日夜にマスコミに知らされるまで全く知らず、驚いて野上義二外務次官を呼んで問題のNGOを参加させるよう強く促した。しかし野上次官は「政治家からの関与などがあって簡単ではない」と言い「参加させることは絶対に無理だ」と頑強に抵抗したという。「大臣」の存在価値ってこの人たちにとってはいったい何なのだろう… (呆然)。
 しかし21日午後、民主党の菅直人幹事長が田中外相に「参加を認めるべき」と要請した。これに対し田中外相は野上次官への強い不満を示し、菅幹事長は「大臣の言うことを聞かない次官はクビを切ることですよ」と言ったという。田中外相は「そういう形でご協力ください」と答え、小泉首相に会って協議を行った。この情勢および内外NGOの批判をみて「放置すれば大事になる」とみた外務省と官邸サイドは、突然手のひらを返して22日のオブザーバー参加については認めることを表明することになる(以上、毎日新聞が報じた騒動の裏側)。みっともないったらありゃしない展開である。その記者会見で野上次官は「いろんな過程で関係者に行き違いがあったり、誤解や意思疎通を欠いた点もある」とこの混乱の原因を説明しているが、まるで他人事のような言い草である。
 会議が無事終わった翌日の23日、この問題について国会でやりとりがあった。衆院予算委員会で菅幹事長の質問に田中外相が応じたが、その中で「鈴木宗男議員の要請で外務省が参加拒否を決めた」と述べ、それは野上次官との電話の中ではっきり言われていたと表明したのだ。これに当の鈴木議員がまた激怒。「私の名前が出るのは迷惑千番。外相はしばしばウソをつく」と言いながらも「政府を批判するものがなぜ政府の会議に出るのか」とまたトンチンカンな発言を行っている。
 しかしこの業界は不思議なもので、事態は田中外相に不利な展開になっていく。田中外相が「鈴木議員の名前を言った」とした野上次官が「言っていない」と言い出し、田中外相が予算委員会での発言に修正を求められるという事態になっていくのだ。福田官房長官も「田中外相が何か勘違いしているのだと思う」と発言、まさに「四面楚歌」の状態となっている。これにはさしもの田中外相も記者団を前に「真面目にやっているのに… 」と涙を浮かべる一幕もあった。気の早いマスコミは早くも「更迭か」と騒ぎ、なぜか田中外相に風当たりが強くなっている。
 昨年も何度か書いたことだが、この田中外相がからむ問題になると自民党も政府もマスコミも「また騒ぎを起こしやがって」と田中外相の資質を問う声ばかりが目立つようになる(その様は女性上司に頭が上がらず不満をくすぶらせている男性社員の気分を代弁しているかにみえる)。しかし事態の展開を良くみていくといっつも外務省の事務方が大臣無視して勝手に動いていることが原因としか思えんぞ。しかもまるで罠にはめようかというような幼稚な陰謀めいた茶番劇がいつも展開される。
 緒方さんのことで日本人が胸をはったと思うと、これだからなぁ… 。

 さてタイトルにもしたアフガニスタンのコネリーさんの話に戻ろう。
 復興支援会議で多大な「おみやげ」を手にしたカルザイ議長は、24日に中国を訪問し、江沢民国家主席と会談した。中国政府はこの会談後、アフガニスタンの復興を支援するために1億5000万ドルの援助を行う、と表明したのだが、これについては「やっぱり」などと僕は思うところがあった。
 東京で行われた会議では5億ドルを提供する日本をはじめEU、アメリカ、はてはイランまでも競うように多額の援助を申し出ていたのだが、中国は「物資支援及びたった100万ドルの現金しか出さない」とあらかじめ表明していたのだ。僕はこのニュースを見たとき「あれっ?」とまず思った。中国はアフガニスタンの隣国であり、その接しているウイグル自治区の独立運動との関わりもあるからここでアフガニスタンに冷たい態度をするはずがないと思っていたのだ。で、ふたを開けてみれば何のことは無い、東京の会議が終わったあと中国訪問したカルザイ議長に直接「おみやげ」を渡すことで大きな「恩」を売るという、いかにも中国っぽいおもてなし+顔つなぎをする作戦に出たのだった。巧妙といえば巧妙だけど、会議を主催した日本にしてみればあまり面白くないやり方なのも確か。一応「カルザイ議長との会談を受けて急遽決まったのだ」と弁解しているが、そんなわきゃないでしょうって。
 おみやげを頂いたカルザイ議長は中国の支援に感謝を表明し、予想通りウイグル独立運動のテロ活動をオサマ=ビン=ラディン一派とつながったものと認識する発言を行い、中国ともども断固テロと戦うという姿勢を示して両国関係の緊密化への期待感を表している。



◆次々見つかる「最古」

    重い話題が続いた後は気分を変えて発掘・発見ばなしでも。発掘ネタって不思議と集中するんですよね。

 奈良県は明日香村のキトラ古墳はその玄室の四方の壁に「玄武」「白虎」「朱雀」「青色」の四神がそろって描かれているのが確認されたことで話題を呼んだ古墳。去る1月21日、文化庁はこのうち四神の絵の下に「獣頭人身」の像が描かれていること、そしてそれがどうやら被葬者の十二支を現していると思われることなどを発表した。昨年12月中に内部を撮影し、その画像を分析しているうちに確認されたものだという。
 まず確認されたのは「青竜」の絵の下にあった像。「寅」(とら)と思しき顔をした獣頭人身像で(判然としないので「子」(ね)=ネズミとする意見もあったという)、武装した神将の衣装を身につけていて朱色の襟の部分がV字型にはっきり確認でき、腰のベルトに左手を添えたポーズをとっているという。この壁を調べると他にも朱色の線が確認でき、どうやら青竜の下に同様の獣頭人身像が三つ描かれていたらしいことが分かった。他の壁にもやはり朱色の線が残っていて、四神の下に三つずつ、この玄室の壁には合計12個の獣頭人身像が描かれていたらしいと結論された。子年か寅年かは断定できないが、恐らく被葬者が子年か寅年の生まれだった、と考えられるらしい。
 こうした獣頭人身像は、国内では聖武天皇の皇太子の墓(確か夭折した子だったような)の四隅にネズミが杖を持って立つ石像が置かれていた例があり、中国や朝鮮半島でも7世紀から8世紀を中心に同様の石像が作られていたことが確認されている。しかし壁画として見つかるケースはあまり無かったようで、これまでは中国の古墳に描かれた9世紀ごろのものが最古とされていた。キトラ古墳は7世紀末から8世紀初頭の古墳と見られているから、今回の発見は東アジアで現時点で確認される最古の「獣頭人身画像」だったということになる。改めてこの時代って大陸の文化の流入が濃厚にあったことがうかがえますねぇ。

 一方、長崎県は壱岐島では、「原の辻遺跡」の弥生時代後期の地層から「棹ばかり」(重さを量る天秤(てんびん)状のもの)に使われた「権(けん)」と呼ばれる計量用のおもりが発見された。この「権」は高さ4.3センチ、幅3.49センチの釣鐘状で、重さは約150グラム。小さい「おもり」だということは何か少量で貴重なもの(砂金やガラス質、薬品など)を量るのに使っていたものと思われる。また青銅中に含まれる鉛が中国華北地方のものだったことから中国製のものだと考えられるそうだ。これまで日本で見つかった計量用の「おもり」は7世紀中ごろのものが最古で、今回の発見はそれを一気に400年もさかのぼる記録更新となってしまう。
 弥生時代後期というといわゆる「魏志倭人伝」の時代。女王卑弥呼が治める邪馬台国までのルート上に「一支国」があるが、これは「壱岐」のことだと言われている(言われているも何も「対馬」同様字がほとんど同じなんだが)。この「原の辻遺跡」はその一支国の中心であったと考えられる場所で、遺跡を調査している長崎県教育委員会はここに国際的な交流を行う組織的な市場のようなものがあり、それを管理する監督官がいたのではないかと推測している。確かに前漢・後漢、その間にはさまる「新」の貨幣までもが対馬・壱岐から北九州にいたる地域から発見されているので、この時代においても今日の想像以上に海を越えた人や物資の交流が盛んだったことが予想されるところ。




◆北の国から

 あーあーあああああー、などとあくびをしながら北方の国々の短いネタを二つまとめて。

 読売新聞で見かけた話題だが、北欧はノルウェーとフィンランドの間で国境線の見直しを行った結果、これまでノルウェー領とされていた地域がフィンランド領になることが判明、ノルウェーがあっさりと領土割譲に同意したという。
 これまでノルウェーとフィンランドの国境線は国境地帯を流れる「イナリヨキ川」で区切られており、両国間では「国境はイナリヨキ川の最深部とする」という合意がなされていた。このたび25年ぶりに両国共同で測量作業を行ったところ、川の最深部がノルウェー側に移動していることが判明、そしてそれまでノルウェー領とされていた川の中央に位置していた30平米ほどの小さな島が、最深部移動によりフィンランド側に属することが明らかとなってしまったのだ。ノルウェーはいさぎよくこの島のフィンランドへの「割譲」を決め、間もなく行われる両国会議で決定されるとのこと。
 国境というのは山や川といった自然境界で区切ることが多いので、この手の「川中島」の帰属をめぐる国境紛争は結構多い。古くは朝鮮と中国の間に流れる鴨緑江の間の島をめぐる紛争があったし、中国とソ連の対立が激化した際にもダマンスキー島という島をめぐる武力衝突があった。ほら、あの武田信玄上杉謙信も川中島で… (え?それは違うだろって?)
 とにかく何かと揉めやすい国境問題でかくもあっさりと割譲がなされたことに、イギリスBBCのオスロ特派員は「世界中で国境紛争が頻発する中、ほっとさせられる出来事だ」と報じているそうな。確かに。

 毎日新聞にはロシアの「首都機能移転問題」の話題が載っていた。日本の東京にもある話だが、モスクワも一極集中が進みすぎて交通渋滞などの都市問題が起きており、遷都とはいかないまでも首都機能の一部を移転しようと言う計画があるとのこと。その移転先とは、「サンクトペテルブルグ」である。ああ、ロシアの歴史に思いを馳せちゃう都市である。
 ロシア帝国を強国に仕立て上げた君主といえば何と言ってもピョートル1世(大帝)の名が挙げられる(在位1682〜1725)。このハチャメチャな君主については最近「史劇的伝言板」で彼を主人公にしたアメリカのTVドラマともども話題にしていたのでここでは割愛するが、そのドラマでピョートルがスウェーデンから土地を奪い、そこに新たな町をつくると宣言する場面がある。「名前はペテルスブルグだ!」とピョートルが宣言、側近兼親友のメンシコフが「ご自身のお名前をつけられるとは」と驚くと(英語では全部「ピーター」で同じである)、ピョートルはメンシコフの胸をひじで打って「聖ペテロにちなんでだ、このバカ!」と笑う、というシーンだ。確かに「サンクトペテルブルグ」だから聖ペテロにちなんでいるわけだが、「ピョートル」がそもそもペテロにちなんでるんだからピョートルの名を意識してつけたと言っていいだろう。以後、モスクワも一つの中心都市としての地位を保つが、首都はほぼサンクトペテルブルグにあり続けることになる。
 ロシア革命(1917)が起こり、レーニン率いるボリシェビキ(のちの共産党)が政権を握ると、首都はモスクワへと移された。やがてロマノフ王朝時代を連想させる「ペテルブルグ」の名は革命の父レーニンの名を冠した「レニングラード」へと改称された。第二次大戦ではこの町はナチス・ドイツ軍の猛攻を受けたがこれに耐え抜き(一般市民に多数の餓死者を出したと言われる)、「英雄都市」の名も冠せられることになった。
 「スターリングラード」みたいにあっさりと改名されなかったこの町だが、1991年にソ連が崩壊するとさっそく忌まわしい記憶を取り去ろうとするかのように「レーニン」の名を捨て、「サンクトペテルブルグ」に逆戻り、ということになった。当時「じゃあピョートルは良いのかよ」「いや、これはあくまで聖ペテロにちなんでいる」というドラマで見たような(例のドラマはソ連崩壊以前の制作である)議論がロシア国内で実際に起こっていたのが面白かったな。
 そしてここへ来て「首都機能移転」ばなしである。そもそもプーチン大統領はこのサンクトペテルブルグの出身であり、プーチン政権内には同郷のものが多いという(なんだか中国政権の話みたいだな)。最近でもブレア首相やシュレーダー首相といった外国要人との首脳会談もこの町で開かれることが多く、大統領自身も遷都については否定しつつ「中央機関が首都以外にある国も多いぞ」とコメントするなど、どうやら前向きな方向であるらしい。この動きにモスクワ市長は「金のかかる首都移転よりも、今は市民生活の向上に力を入れるべきだ」と反発しているそうだが、なんかこれも日本の話とソックリですな。


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